マハリシの教えを学ぶ友への手紙(36)

 

 

『超越瞑想と悟り』の翻訳について

 

 

『超越瞑想と悟り』は、一人の訳者と四人の監訳者によって仕上げられたことになっています。実情を知らない読者は、四人もの人間が監訳を担当しているのだから、入念な監訳がおこなわれたのではないか、丁寧に翻訳されているのではないか、と想像するかもしれません。しかし、この監訳と呼ばれているものには、ほとんど中身がありません。なぜか私も監訳者の一人として名前が挙がっているのですが、少なくとも私は監訳と呼べるような作業はしていません。出版準備の仕事を担当していた人から翻訳原稿のコピーを渡され、修正すべきところがあれば修正してほしいと依頼されたのですが、与えられた時間は一週間ほどしかありませんでした。通常業務の他にも幾つか急ぎの仕事をかかえており時間的余裕はとてもなかったので、訳文にざっと目を通し、気になったところを指摘するという程度のことしかできませんでした。

 

他の「監訳者」たちも状況は同様であったと思われます。本当に監訳という仕事が為されていたのなら、相当な時間がかかったでしょうから、出版は相当遅れていたはずです。翻訳が正確かどうかを確認するためには、すべての訳文と原文を照合しなくてはなりません。そのような作業には相当の時間を要します。また、監訳者が訳文を修正すべきだと考える場合には、訳者や他の監訳者と議論したうえで結論を得なくてはなりません。一人の監訳者が独断的に変更を加えたりすれば、その変更自体が間違っているかもしれないからです。教えを正確に伝えるためには、翻訳の作業は慎重に進めるべきであり、原文の理解について疑問がある部分については、複数の人間による議論を経るのが安全です。しかし、『超越瞑想と悟り』の「監訳」においては、そのような議論はおこなわれませんでした。少なくとも私は、訳文の変更について、訳者や他の監訳者と議論したことはありません。聞いた話によると、訳者自身も訳稿の変更については事前に知らされなかったそうです。訳者も、出版された書籍を見てはじめて、かなりの変更が加えられたのを知ったそうです。どのような経緯で最終稿が決定されたのかは分かりませんが、「監訳」と呼ばれている作業では、議論を経ることなく下訳に変更が加えられていったようです。

 

このように、『超越瞑想と悟り』は、適切な監訳がおこなわれることなく仕上げられたものです。本当に監訳という仕事が為されていたのであれば、翻訳はもっと正確になっていたはずです。しかし、『超越瞑想と悟り』の翻訳は正確さを欠いており、相当数の誤訳が含まれています。細部に注意が行き届いておらず、雑な翻訳になっています。『超越瞑想と悟り』の訳文自体が、適切な監訳がおこなわれなかったことを物語っています。にもかかわらず、四人もの人間の名前が「監訳者」として掲載されているのです。これが、教えを管理するはずの組織による「監訳」の実態です。翻訳という仕事を甘く見ていないかぎり、こんな中身のない作業を「監訳」と呼ぶことはできないでしょう。

 

さらに言えば、このような不正確な翻訳によってマハリシの教えが紹介され続けているのは、おそらく、教えを紹介する立場にある人々が教えを真剣に学んでいないからです。教えを紹介する人々が本当に教えを真剣に学んでいれば、既存の翻訳には多くの問題が含まれているという事実が自ずと明らかになり、翻訳を改めなくてはならないという気運が高まるはずです。真剣に教えを学ぶ者なら、自分の学んでいる教えが不正確に伝えられたものであってもかまわないとは思わないでしょうし、他の人に教えを伝える場合にも、教えを正確に伝えたいと願うはずだからです。しかし、不思議なことですが、日本のTM教師たちは翻訳の問題にはあまり関心がないようです。重大な誤訳が含まれているにもかかわらず、『超越瞑想入門』や『超越瞑想と悟り』などの既存の翻訳を、そのまま引用し続けています。そうして、マハリシの言葉でないものを、マハリシの言葉だと称して紹介し続けています。過去に作成された翻訳が誤訳を含んでいるのは仕方のないことかもしれませんが、あらためてマハリシの言葉を紹介しようとするのなら、そのつど翻訳が正確かどうかを確認し、必要に応じて翻訳し直すこともできるはずです。誤訳された言葉はマハリシの言葉ではありません。マハリシ自身が求めているように、TM教師はマハリシの拡声器としての役割を果たすべきであって、誤訳を生み出した訳者の拡声器として機能するべきではありません。日本のTM教師たちは、過去30年間、この点についてほとんど考えてこなかったようです。

 

マハリシは、教えを伝える者に対して、教えを純粋に保つことを要求しています。教えを伝える者は、教えを正確に伝えなくてはなりません。英語で教えを学ぶ者は、マハリシが語った言葉をその通りに伝えれば、マハリシの言葉を正確に伝えたことになります。しかし、翻訳をとおして教えを紹介しようとする場合、伝えられるのは翻訳された言葉であって、マハリシが語った通りの言葉ではありません。もし、翻訳に誤りが含まれていたならば、翻訳された言葉をその通りに伝えることは、マハリシの言葉を歪曲して伝えることを意味します。教えの純粋性を破壊することを意味します。ですから、たとえ英語が理解できない人であっても、翻訳をとおして教えを紹介する以上、翻訳の問題に関心を持つべきです。自分は翻訳の仕事とは関係がない、翻訳は自分の責任ではない、といって開き直るならば、それは教えの紹介者としての責任を放棄したも同然です。

 

さて、誤訳の多くは、語学力の不足からではなく、訳者が教えの言葉に注意深く耳を傾けないことから生じます。教えの言葉にじっくりと耳を傾けず、すぐに自分の解釈に飛びつき、それが原文の意味だと信じ込むことから誤訳が生まれます。教えの言葉への関心の欠如こそが、誤訳の根本的な原因なのです。本当は教えに関心がなく、教えの言葉を、適当に聞き、適当に解釈し、適当に伝えるだけで満足する者が、教えの言葉を正しく理解できないのは当然です。しかし、これは翻訳にかぎった話ではなく、教えを学ぶ者すべてに当てはまることです。教えを学ぶためには、教えの言葉に関心がなくてはなりません。教えが何を語っているのかに関心がなくてはなりません。教えの言葉に関心のない者が、どうして教えを学ぶことができるでしょうか。原文で学ぶのか翻訳をとおして学ぶのかにかかわらず、教えを学ぶためには、教えの言葉に耳を傾け、それについて熟考する必要があります。しかし、残念ながら『超越瞑想入門』や『超越瞑想と悟り』の翻訳には多くの問題があるので、日本語訳だけを頼りにしてマハリシの教えを深く掘り下げて学ぶことは極めて困難です。

 

教えの翻訳が必ずしも信頼できるものではない、ということを理解した人がその先どうするのかは、各人が自分で考えるべきことです。英語が分かる人は、原文に当たり、原文で教えを学ぼうとするかもしれません。英語がまったく理解できない人は、日本語訳を読んで感じた疑問について、英語が分かる人に尋ね、原文の意味を確かめようとするかもしれません。そうして、誤訳の覆いを取り除くことができれば、教えの真意に少しは近づくことができるかもしれません。あるいは、英語が苦手だと言う人でも、本当にマハリシの教えを学びたいのであれば、自ら英語を勉強することもできるはずです。マハリシの教えをテキストにして勉強を続ければ、数年のうちにはマハリシの教えを原文で理解できるようになるでしょう。英語が分かる人の助けを借りることができれば、さらに上達は早くなるでしょう。一生をかけて解脱をめざすことに比べれば、マハリシの教えを英語で読解できるようになることの方が、よほど簡単かもしれません。解脱は努力によって達成できるものではありませんが、英語の読解力は努力すれば身につけることができるからです。

 

ただ、言うまでもないことですが、マハリシの言葉を原文で読めるようになったとしても、それだけで正しい理解が得られるわけではありません。英語が読めるようになることと、教えを正しく理解することは、まったく別です。英語が読めるはずの翻訳者たちが多くの誤訳を生み出していることからも分かるように、英語が読めるからといってマハリシの言葉を正しく理解できるとはかぎりません。教えを学ぶ私たちは、他の人による解釈(翻訳)だけでなく、自分自身による解釈(翻訳)も信用してはならないのです。自分の解釈の正しさを信じる者は、自分の解釈の誤りに気づきません。自分が教えを正しく理解していると信じる者は、自分が教えを誤解しているという事実に気づきません。信じる精神は鋭敏さを失います。信念に縛られ、身動きがとれなくなります。それでも、人は何かを信じようとします。信じることは、精神にとって楽なことだからです。もう探究しなくてもよいからです。安住の地で安らぐことができるからです。しかし、それは、鈍い精神の怠慢以外のなにものでもありません。

 

マハリシの教えを学ぶ人のなかには、翻訳された教えの言葉がマハリシの言葉そのものであると思い込んでいる人もいるようです。日本語訳の教えがマハリシの教えであると信じている人もいるようです。しかし、よく言われるように、翻訳には誤訳がつきものであり、何度改訳を繰り返したとしても、教えの翻訳を完璧にすることはできないでしょう。こんなことを言うと、翻訳された教えに誤りがあるとは思いもしなかった人は、自分が信じていたもの、拠り所にしていたものが否定されたと感じ、落ち着きを失うかもしれません。なかには、ならば早く正しい翻訳を作ってほしい、安心して読める翻訳を作ってほしい、と言う人もいるかもしれません。しかし、そのような発想は危険ではないでしょうか。安心して身を任せられる何かを探し求め、それを獲得するということは、救いを求める精神が自ら作った罠に自らを陥れるようなものだからです。

 

何かを信じ、それを絶対的な権威として仰ぐことによって、精神は安定を得られたと感じるかもしれません。しかし、そんな安定は全くの幻想です。教えは、安心を求める精神の逃げ場ではありません。安心して依存することができる絶対的な教えを探し求めても、そんな拠り所は、この世のどこにも存在しないのです。

 

 

Jai Guru Dev

 

 

© Chihiro Kobayakawa 2006

 

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