マハリシの教えを学ぶ友への手紙(35)
協力について
インド人夫婦のTM教師が日本の或るセンターで指導をしていた時、こんなことがありました。
インド人のTM教師たちは菜食のインド料理しか食べないので、食事はインド・レストランで食べるか、配達してもらうか、キッチンが使用できる場合には自分たちで作って食べるかします。そのセンターでは指導会場と宿泊場所が同じ建物のなかにあり、キッチンを使用することができたので、彼らは自分たちで料理をして食事をしていました。そんな或る日、昼食が終わって午後の指導が始まった時、そのセンターを担当する日本人の女性TM教師が、インド人の男性教師から呼び出されました。食器や鍋を洗って欲しいと言うのです。このセンターでは何度もインド人教師を招いた経験があるのですが、家事の手伝いを求められたのは初めてのことでした。
頼まれた教師は言われたとおりにしたのですが、驚いたことに、インド人の男性教師は、洗い物をする様子を横で見ながら、とりとめもない雑談をしかけてきたそうです。つまり、何か他の仕事があって後片づけができないというわけではなく、ただ自分がしたくなかっただけなのです。男性の受講希望者はいなかったので、男性教師は暇を持て余していたそうです。にもかかわらず、自分で昼食の後片づけをするのではなく、受講者の応対に当たらなくてはならない日本人教師を呼び出し、自分(あるいは奥さん)の代わりに洗って欲しいと頼んできたのです。おそらく、この男性教師は、普段から家事は奥さんに任せ切りなのでしょう。担当した日本人教師の話では、奥さんは少しいらついていたと言いますから、奥さんは公私ともに自分だけ負担が大きいのに嫌気がさしていたのかもしれません。それで、食事の後片づけのことで、ご主人と言い争ったのかもしれません。奥さんがご主人に後片づけを頼んでおいたのかどうかは分かりませんが、いずれにしても、ご主人は自分たちの食事の後片づけを自分でするのではなく、日本人の女性教師に押しつけたのです。
他のインド人教師たちの振る舞いを見るかぎり、身のまわりの面倒を誰かに見てもらえるという特権が彼らに与えられているわけではなさそうです。インドにおける風習がどうなっているのかは知りませんが、このインド人の男性教師は、家事は女性がやるものだと決めつけているのかもしれません。夫婦がまったく同じ仕事をしているにもかかわらず、妻だけが家事を負担するというのは、どう考えても筋が通らないと思うのですが、それは夫婦のあいだの問題であり、夫婦のあいだで話し合うべきことです。しかし、家庭の事情がどうであれ、家庭の外の人間にまで当然のように家事をさせるのは行き過ぎです。自分の身のまわりの事を人にさせて平気でいる者は、人を便利な道具のようにしか思っていないのではないでしょうか。夫(あるいは妻)が、その時々の事情にかかわらず、つねに相手に家事を負担させるのも、相手を道具のように利用しているからではないでしょうか。
こんな話もあります。TTC(TM教師養成コース)を修了したばかりの新人女性教師が、と或るセンターに配属されました。赴任して間もなく、彼女は、センター長の男性教師から、料理作りを担当してほしいと頼まれたそうです。そのセンターには彼女の他に二人の男性教師がいました。二人の男性教師はセンターに住み込み、女性教師は自宅からの通いでした。センター長は、きちんとした食事をとるのが重要だからと言って彼女を説得したそうです。もちろん、健康的な食事をとるのは重要です。しかし、だからと言って、料理を作るのは新人の女性教師の仕事だとは言えません。逆に、新人のTM教師の場合は、教えの仕事に早く慣れるためにも、教師として指導する仕事が優先されるべきであり、新人教師が教えの仕事に専念できるような環境を整えてあげるのも先輩教師としての務めです。しかし、その新人の女性教師は、教師としてではなく、料理を作るスタッフとして機能することを命じられたのです。そのことが理由かどうかは分かりませんが、残念ながら、この新人教師は間もなく教師の仕事を辞めたそうです。
TM運動の目的がどれほど崇高であったとしても、運動にかかわっている者がする仕事のすべてが崇高だとはかぎりません。個々人の活動のすべてが運動の目的に合致しているとはかぎりません。自分は偉大な目的のために働いていると信じる者は、自分のしていること、しようとしていることを、偉大な目的と関連づけて正当化します。そして、運動の関係者なら自分の仕事に協力すべきだと考えます。偉大な目的を共有する者ならば、運動に貢献している自分の要求に応じるのが当然だと考えます。協力を拒否する者は、運動を否定する者であるか、協調性を欠く人物である、などと決めつけます。しかし、本当に運動に貢献している人であれば、こんな自分勝手な考えは持たないでしょう。そもそも、TM運動は協力者が一人もいないところから始まったのであり、たとえ協力してくれる人が誰もいなかったとしても、これは自分の責任なのだから自分一人ででも取り組まねばならない、そう思う人々によって推進されているのではないでしょうか。自分の事さえ自分で責任を持たない者が、どうして世界の面倒を見ることができるでしょうか。平和な世界とは、人々が正しく協力し合って生きる世界であるはずです。それは、誰かが他の誰かを巧妙に利用する世界ではないはずです。ならば、自分の仕事を他の人に押しつける者は、運動に貢献しているどころか、逆に運動を弱くしているのではないでしょうか。
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人が生きてゆくためには、しなければならない事がたくさんあります。人生は無数の仕事によって構成されています。生きるということは、その時その時にしなくてはならない仕事を、一つ一つこなしてゆくことです。料理を作ることも、食べることも、食事の後片づけをすることも、部屋の掃除をすることも、体を適度に動かすことも、眠ることも、すべてが生きるために必要な仕事です。もしも人が完全に単独で生きるということがあったなら、生きるために必要な仕事はすべて、その人自身がしなくてはなりません。しかし、実際には、人が単独で生きることは不可能であり、人々はさまざまな形で協力し合って生きています。生きるということは、人々と共に生きるということですから、仕事を一緒にする場合もあれば、仕事を分担する場合もあります。そして、仕事を分担することに慣れてしまうと、人は、自分の分担している仕事だけが自分の仕事である、と勘違いするようになります。これは自分の仕事だが、それは自分の仕事ではない、と言って自分の仕事を限定し始めます。そして、自分の仕事にだけ専念するようになり、他の仕事は大して重要ではなく、それは他の誰かがすべき仕事だと考えるようになります。
たとえば、生活費を得るために働く夫は、自分の仕事が最も重要な仕事であり、家事は自分の仕事ではなく妻の仕事だと考えるかもしれません。そのような考えが徹底されると、いま自分が分担している仕事の他には自分がすべき仕事はない、私は他の仕事はすべきではない、という考えに至ります。そんな夫にとっては、たとえ休日であっても家事は自分の仕事ではないでしょうし、極端な場合には、妻の体調が悪い時でさえ、家事は自分の仕事ではないと考えるかもしれません。このように徹底された分担意識は、夫が退職し、夫にとっての最も重要な仕事がなくなった後でさえ続くかもしれません。インド人の男性教師が、教師としての仕事がなく暇を持て余している時でさえ、妻に代わって食事の後片づけをしようとしなかったのは、これは自分の仕事ではないという信念があったからでしょう。新人の女性教師に先輩の教師が料理作りを命じたのは、TM教師としての活動に比べて料理を作る仕事は重要ではなく、私の仕事は料理を作ることではない、雑用は新人の教師にやらせておけばよい、そう考えたからでしょう。
確かに、人々が協力し合って生きてゆく社会においては、生きてゆくために必要な仕事のすべてを自分自身でする必要はないかもしれません。他の誰かが自分に代わってしてくれる仕事もたくさんあるでしょう。しかし、生きるために必要な事はすべて、本来は自分ですべき仕事です。たまたま他の誰かが自分の代わりに何かをしてくれることがあったとしても、それが元々は自分の仕事であったということを忘れるべきではありません。誰かが自分に代わって仕事をしてくれたとしても、それは自分の仕事であり、自分の仕事でなくなったわけではないのです。自分の仕事は自分でしなくてはなりません。それは、他の誰の責任でもなく、自分自身の責任です。
仕事をどのように分担するにしても、自分の責任を忘れた者は、他の人と正しい協力関係を築くことはできません。自分の責任を理解せず、自分の責任を放棄し、自分の仕事を他の人に押しつける者は、人を利己的に動かそうとします。権力などの力があれば、それも可能かもしれませんが、そんなことができたとしても、それは双方にとって善いことではありません。上位の者が下位の者に命令し動かすのは簡単かもしれません。しかし、それは支配と服従による関係でしかありません。支配する者は、相手を意のままに動かす力によって相手を動かそうとします。服従する者は、相手に逆らうことによって生じる不利な結果を恐れて、相手の要求に従います。いずれも、利己的な動機にもとづく行為であって、自分の責任についての理解にもとづく自然な行為ではありません。
力による支配のない対等な人間関係においても、相手の要求が不当だと思いながらも我慢して協力する、というのはよくある話です。しかし、事を荒立てたくない、調和を乱したくない、という理由で不当な要求に応じるのなら、それは決して調和的な行為ではありません。心の内には、相手に対する不満や怒りがあるはずですから、表面的な調和を取り繕うことができたとしても、両者の関係の深いレベルには不和があります。相手の要求に不満をいだきながら、その要求に応じて協力するということは、相手との関係に不和を生み出すことでもあるのです。表面的な対立を回避しようとして、内的なレベルに対立が生み出されるのです。二人の関係の外的なレベルに対立が現れていなくとも、内的なレベルに対立があるのなら、二人の関係は調和的ではありません。あるのは偽りの調和だけです。協力は必ずしも調和的であるとはかぎりません。調和を破壊する協力というものもあるのです。
また、嫌々ながら不当な要求に応じるならば、相手との関係に不和が生じるだけでなく、自分自身の心の内にも対立が生じます。「本当は、したくない」という思いと「でも、しなくてはならない」という思いとの葛藤が生じます。そのような協力は、心からしたいと思って始まる行為でも、自分の責任だと理解しているが故に自然に始まる行為でもありません。そのような仕事をするためには、人は自分自身と闘わなくてはなりません。不当な要求をした相手と闘うかわりに、自分自身と闘わねばなりません。つまり、相手の不当な要求を我慢して受け入れるということは、自分自身のなかに闘いを生むことでもあるのです。それは、自己の平和を破壊する行為であり、ひいては相手との関係における平和をも破壊する行為です。
ですから、自分の責任を果たさず不当な協力を求める者だけでなく、そんな不当な要求に我慢して応じる者もまた、自分が何をしているのかを省みるべきです。協力という美名のもとに不和を生み出しているという事実に気づくべきです。そして、もし、誰かが不当な協力を求めているのであれば、相手のためにも、自分自身のためにも、二人の関係のためにも、不当な要求に応じて問題を覆い隠すのではなく、正しく協力し合うために、自分たちの責任について話し合うべきです。それを怠り、相手の我が儘を許すということは、相手を見限るということであり、相手との調和的な協力関係を築くのを諦めたということを意味します。こんな相手とは調和的な関係を築くことはできない、と結論づけることを意味します。それでは、いつまでも関係は改善されないでしょうし、その関係は悩みの種であり続けるでしょう。
身近な人々と調和的な関係を築くことができない者が、どうして世界の人々との調和的な関係を築くことができるでしょうか。家庭や職場などで生活を共にする人々と平和な関係を築くことができない者が、どうして世界の人々との平和な関係を築くことができるでしょうか。私たちは、是非とも、共に生きる人々との調和的な関係を築かねばなりません。身近な人々との関係をとおして、正しく協力することを学ばねばなりません。それは、他の誰の責任でもなく、私たち自身の責任なのですから。
Jai Guru Dev
© Chihiro Kobayakawa 2006