鎌倉幕府の衰亡(1)ー5
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蒙古軍の侵攻路は以下であったという。
まず十九日、先遣隊が博多湾の西・今津から上陸した。この方面の主要道路は、主船寺-生ノ松原-姪浜-祖原(麁原)-鳥飼・赤坂方面-雑餉隈-水城-太宰府である。先遣部隊の役割は、上陸が比較的容易な今津方面において拠点を確保すると同時に、陽動作戦も兼ねていた。
翌二十日、この方面には高麗軍も加わった。彼らは博多湾の西寄り・百道原から上陸して祖原-鳥飼方面へ向かった。
同日、別働隊が博多湾のやや東寄り・箱崎方面より上陸した。この方面の主要道路は、箱崎から宇美へ南下し大野城を迂回して太宰府に至る道である。
そして、蒙古軍主力が博多中心部の真北・息の浜から上陸した。この方面の主要道路は、雑餉隈から水城、太宰府へ至る道で、この道が最短距離となる。
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元軍の兵力配置(非戦闘員含まず)は以下であると推測される。
蒙古軍の侵攻に対して最も効果的な迎撃方法は、水際にて上陸途上の敵を討つことである。しかし、この戦法をとるためには、「敵の上陸地が限定されていること」「海岸一帯に充分な兵力の配置が可能であること」という条件が不可欠である。しかるに蒙古軍が上陸した時点における日本軍の兵力は、壱岐対馬の急報を受けて集まった異国警固番役の御家人と地元武士団からなる五千騎にすぎない。不十分な兵力を海岸に配置すれば、防衛線は極めて薄いものとなる。
日本軍はこのような自殺的な行動をとらなかった。主力を博多正面に集中して太宰府への最短距離を死守しつつ、各地から集まってくる援軍を待ち、これらを収容した後に決戦するという戦略をとった。
『八幡大菩薩愚童訓・筑紫本』の独自記事に
とあり、水城方面において糧抹が蓄積され、防備が強化されていたことが記されている。日本軍は、水城を決戦場と想定していたのであろう。
日本軍の兵力配置は以下のとおりであると推測される。
祖原鳥飼方面および箱崎方面の防備は薄いものとなり、この方面においては日本軍は極めて圧迫された。しかし、博多正面である息の浜方面においては蒙古軍主力を支えきった。もし、日本軍が陽動作戦に惑わされて鳥飼方面に主力を移していた場合、後に上陸してくる主力に対応出来ず、状況は大変危ういものとなっていたであろう。
御覧の通り、蒙古軍は皆、交通の要所を狙って上陸している。このことをかんがみるに、蒙古軍は侵攻路について情報収集を行なっていたものと思われる。高麗からの情報や、趙良弼の事前調査が役に立ったものであろう。
この後に蒙古から派遣されてきた使者が次々に斬られることになるのだが、おそらくはここに原因があるものと思われる。
三方より敵を受けた日本軍は、各地で苦戦を強いられた。
大きな要因は兵力の不足であろうが、他にもよく言われるのが「戦術の相違」「装備の差」である。
その様子を『八幡大菩薩愚童訓』(筑紫本)に沿って述べていく。とはいえ、これらの書に誇張が含まれていることも付記しておく。
『八幡大菩薩愚童訓』『八幡愚童記』は、文永の役に於ける日本軍の数を「十万二千余騎」などと誇張して記す。
対馬からの急報が大宰府に届いたのは十八日である。
わずか数日のうちに、十万もの大軍が集結すると言うことはあり得ない。
「武士の戦闘は一騎討ち」という固定観念は、いまだ根強い。関連書には、「日本の武士は名乗りをあげ、蒙古に一騎打ちを挑んだ」と書いてあるはずである。
この種の論は、一部において正しい。しかしまた、一部において誤っている。
『八幡大菩薩愚童訓』は一騎打ちをしようとした武士について触れているが、同時に武士団による集団戦もきちんと書いている。
戦法や主力武器は軍事機密にあたり、なかなか文献に恵まれないだろう。
この種の論争は、半永久的に続くのではないか。
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既に述べたように、我が国では、律令制以来、軍団制・健児制・選士制など、集団戦を想定した軍組織が形成されていた。
無論、武士団もまたこれらの影響を受けている。
福田豊彦氏が指摘しているように、『将門記』には騎兵と歩兵による集団戦が登場する。騎兵を「従類」といい、主従関係が緊密な少数精鋭である。歩兵は「伴類」と記され、数は多いが忠誠度は薄い。文中では、それぞれについて「騎」「人」と、単位を分けて表記している。
加えて、同書には「鉦(銅鑼)」が登場する。鉦は軍勢の指揮具であり、軍防令によって私家に置くことが禁じられていた。山鹿素行『武家事記』では、軍の進退の指示に使用された様々な「金」が紹介されており、鉦はその総称であるとする。
「源扶らは陣を張って将門を待ち伏せていた。その陣容を遠望すると、将軍の居場所を示す大きな旗が高く峙つ山の神に相対するほど立派にそびえ、旗は風に勢いよく靡き、鉦は盛んに打ち鳴らされている。」(『将門記』真福寺本)
「平将門の軍勢は度重なる合戦に疲れ、武器も兵力も不足している。敵はこれを見て、白刃を煌めかせ、楯を垣根のように並べ、激しい勢いで攻めかかってきた。将門は、白兵戦となる前に、まず歩兵を前面に出して、接近してくる敵に一斉射撃を加えた。敵は次々と矢に中り、死傷した人馬は八十余人にのぼった。」(同上)
また、一騎打ちの代表ともされている源平合戦においてすら、
「東国の武士は、人夫ですらも弓箭に関与しているのだ。平氏はきっと敗れるだろう。彼らを避けて源氏に味方しよう」
(『愚管抄』巻五。後白河院のお言葉を藤原範季が引用して)
という有り様であった。高橋昌明氏は、「人夫までも動員し、大量の矢をもって戦場を制圧したのが源氏の勝因である」と指摘している。
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各軍記物語には、戦の初期段階として「楯突戦」が記されている。これは、対峙した両軍が、突き並べた楯(手に持つものではない。人の背より高い、巨大なものである)で身を守りながら遠矢を射掛けあうもので、矢による集団戦である。
「遠矢」とはいうものの、両軍の距離は五十~七十メートル程度で、走れば十秒もかからないほどの至近距離である。(『平家物語』延慶本、倶利伽羅峠の合戦など)。これは、矢の有効射程距離による制約であるか、または楯の向こうにいる敵を射るために山なりに打ち上げたものであろう。十分に弓を引き絞るため、兜を脱ぐこともある。
矢による狙撃を行いながら接近していき(急所や鎧の空き間を狙う)、敵を圧倒しながら接近戦に移行していく、と考えればよい。従って、騎馬を使用するのは、逃げていく敵の追撃が主となる(『三河物語』大阪夏の陣の部分)。その接近戦にしても、一騎打ちとは限らない。「轡を並べて駆け入る」「敵を中に取り籠める」という表現がある。
元寇当時の日本において接近戦の比重がさほど高くないことは、『蒙古襲来絵詞』に描かれている武装を見れば分かる。南北朝時代・戦国時代とは異なり、小具足(諸籠手・脛当・膝鎧など鎧兜で保護できない部分の防具)が発達していないからだ。南北朝時代においても、主力武器は依然として弓箭であった。鈴木眞哉氏が(1333-1387)の軍忠状百八十点(のべ五百七十四人分)の戦傷を調査したところ矢疵が86.4%,切疵9.2%,石疵/礫疵2.8%,鑓疵/突疵1.4%という結果だった(『謎解き日本合戦史』講談社)。
こんな具合だったから、形勢は楯突戦においてほとんど決定してしまい、絵に描いたような一騎打ちはなかなか発生しなかったらしい(『平家物語』延慶本第二末。小壺坂合戦における和田義盛の言葉)。
『蒙古襲来絵詞』(後世の加筆部分を除く)を見ると、よく分かる。三井資長は、名乗りもあげず馬上から射掛けて敵を追い散らし、逃げる者には容赦なく矢を浴びせて射殺している。白石通泰以下百騎もまた同様で、旗持ちを先頭に、各人が弓をつがえて蒙古に射掛けている。
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だが、困ったことに、この「楯突戦」は、軍記物語には簡単にしか記されていない。「矢戦をする」という表現がそれである。一方で、一騎打ちの場面は詳細に描かれている。手柄を得るには、敵の首を持ち帰らねばならないからだ。
思うに、軍記物語における合戦の描写というのは、プロ野球ニュースと同じである。得点シーン(一騎打ちによる分捕り)はきっちりと描き、そこに至る経緯(楯突戦)は簡単にしか描かれない。
映画や大河ドラマにおいても同様だ。大型馬に乗った騎馬武者が密集して土埃をあげながら接近戦を演じたほうが、迫力が出る。楯突戦などを忠実に描写していたら、視聴者は延々と続く矢の射掛けあいに退屈し、チャンネルを変えるだろう(映画館なら居眠り)。
一騎打ちが戦闘の華であったことに間違いない。しかし、それが合戦においてどの程度の比重を占めていたかは別問題である。
以下、軍記物から関連部分を引用する。
「(本文欠)…裏等野本…(本文欠)…扶等陣ヲ張リ、将門ヲ相待ツ。遙カニ彼ノ軍ノ体ヲ見ルニ、所謂トウクツ(注:漢字表記不可)ノ神ニ向ヒテ旗をヲ靡カセ鉦ヲ打ツ。ココニ将門、罷メント欲フニ能ハズ、進マント凝ルニ由ナシ。然レドモ身ヲ励マシ勧メ拠り、刃ヲ交ヘテ合戦ス」
(『将門記』真福寺本。読み下しは東洋文庫版に従う。野本合戦。「扶」、すなわち源扶が、旗を翻し鉦を打ち慣らし戦の準備を整えて、平将門を待ち伏せしていたのである。)「将門ハ度々ノ敵ニ挫カレ、兵ノ具已ニ乏シ。人勢厚カラズ。敵之ヲ見テ、垣ノ如ク楯ヲ築キ、切ルガ如クニ攻メ向フ。将門ハ、未ダ至ラザルニ、先ヅ歩兵ヲ寄セテ、略ボ合戦セシム。且ツ射取ル人馬八十余人ナリ」(『将門記』)
「(源平両軍の)両陣の間、僅に五六段を隔て、各々楯を突き向かへたり」
(『平家物語』延慶本第三末。倶利伽羅峠の合戦)「武士(六波羅探題)は要害をこしらえて、射手を面に立て、馬武者を後ろに並べたれば、敵のひるむところをみて、駆け出で駆け出で追っ立つる」(『太平記』天正本第八巻)
和田義盛「楯突戦は度々したれども、馳組戦はこれこそ初なれ。如何様にあふべきぞ」
(『平家物語』延慶本第二末。小壺坂合戦)「合戦の時は、皆々馬より追い下ろして、馬をば後ろ備えより遙かに遠くやるものとは知らずして、何時も馬に乗りてあらんと計云も、はかなきことなり。」
(『三河物語』大阪夏の陣の部分。 合戦の時は先ず馬から降りて戦う。戦の間中、ずっと馬に乗っているのは馬鹿げたことだ。)
『八幡愚童記』正応本には、以下のようにある。
小集団の寄せ集まりであり、大将もなく、統制を欠いたようである。
(蒙古の)兵船ともははるか沖の方なる鷹島へこそハこきよせにけれ、此時大軍を以ておしよせりとおもへとも、皆三十五十のよりあつまりにて、これといふ大将もなく、たか指揮すといふ人もあらさりけれは、強きやうにておの々々文永の手こりに恐れたれハ、いきおひうすし
十一月二十日、蒙古は船より降りて馬に乗り、旗を揚げて日本軍に攻めかかった。
これを見た少弐入道覚恵の孫(名は記さず)が、矢合せの為に鏑矢を射たところ、蒙古はどっと笑い、太鼓を打ち銅鑼を鳴らし鬨の声をあげた。この大音響に、日本の馬は驚き暴れた。
続いて、筑紫本は「蒙古ガ弓ハ短ト云共錠ニ毒ヲ塗タレハ少モ当者ハ毒気ニ負テ死ニケリ」という。そういえば、刀伊の矢もまた短かった。両軍は日本でいう「楯突戦」に移行し、遠矢を射掛け合う。
先駆けの功を狙ってか、武士の中で馬を駆って斬り込む者が出てくる。ところが「鉾長刀ヲ以テ物具之明間ヲ指テ一面ニ立並ビテ寄スル者有ハ中ヲ引退テ両方ノ端ヲ廻シ合テ取篭テコロシケレ」。つまり、蒙古兵はわざと退いて斬り込んだ武士を懐に取り込み、左右から包囲し、鎧の隙間から鉾や長刀を刺して殺したという。
更に「蒙古は元来牛馬を食する者であったから、射倒した馬を食べた」と筑紫本は記す。(「人間を食った」とは書いていない。他本ではどうだろう)
さて、「楯突戦」によって蒙古軍の隊列が突き崩されると、そこを狙って騎馬武者が突出する。首を取り、手柄にするためである。殊に一番首は大手柄であった(基本的に、早い者勝ちの世界である)。
が、例によって目論見は外れる。蒙古軍の指揮官は高所に陣取り、軍の進退を太鼓で指示した。そして、逃げるときには鐵包を飛ばした(防御用武器なのだ)。武士達は、たちまち「耳鳴テ亡然トシテ東西ヲ不弁有ケル」様となる。蒙古軍は素早く態勢を立て直し、取り囲まれた武士は、「日本之軍之様ニ相互ニ名乗合テ高名不覚ハ一人ツツノ勝負ト思処ニ合戦ハ大勢一度ニ寄合テ」生け捕りにされたり殺されたりした。
結果、「懸出ル程ノ者漏テ返ルハ無カリケリ」という有様であった。
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このように、一騎駆けを行う武士がいる一方で、大武士団は集団戦を行った。同書に曰く、
「菊池次郎思切テ百騎バカリヲ二手ニ分ケ押寄テ散々懸ケ散ラシ上ニナリ下ニナリ押シ重ネテ勝負ヲス」
という。軍勢を両翼に分け、敵を押し包むように戦ったのである。
蒙古軍との戦は、いささか勝手が違うものであった。しかしそれは、旧来言われてきたように、「一騎打ち」と「集団戦法」によるものではない。
蒙古軍には首を取って手柄とする習慣がなかったこと、その戦いがある程度組織的であったということだろう。
一方、武士の戦い方は様々であった。多数の配下を持つ武士団は、集団戦を行った。小武士団には、大武士団に属する者もいたし、単独行動を取る者もいた。後述の竹崎季長のように討ち死に覚悟で一騎駆けを行い、先駆けや分捕りなどの功名を狙ったのである。無論、討ち死に自体も手柄となった。
集団戦を可能なものとするため、武士も太鼓による指示を行った。陣太鼓の使用は『前九年合戦絵詞』(国立歴史民俗博物館本)に記されている。
絵巻の前半部分、源頼義の陣中にて、男が据え付け式の大太鼓を敲いている様子が描かれている。防矢のための楯が並べ終わり、味方も参陣しているので、いよいよ合戦に臨むという場面である。太鼓の敲き方には約束が定められ、合図太鼓・早太鼓・押太鼓・懸かり太鼓等があった。
安部貞任の軍でも太鼓は使用されている(重陽の節句に貞任が将軍の館を襲う場面)。こちらは担い太鼓といい、二人がかりで駕籠を担ぐように運ぶ、可搬式の陣太鼓である。
『前九年合戦絵詞』は十三世紀後半の作と推定されるが、原型は鎌倉初期(『吾妻鏡』承元四年十一月二十三日条にある『奥州十二年合戦絵』のこと)に存在した。なお、楽器による指示は律令軍制時代から行われていたことで(前述の『将門記』の部分)、鎌倉時代後半になってから普及したというわけではない。
改めて、装備の差について述べておこう。
元軍は短弓・長弓を併用した。現存している蒙古弓は半月状であるが、『蒙古襲来絵詞』には和弓に似た弓も描かれている。対する日本軍は長弓を用いたが、速射を重んじたことは蒙古と同じであった。
『八幡大菩薩愚童訓』筑紫本では「蒙古の弓は、弓勢は弱いが毒が塗ってある」とのみ記し、射程距離に関する記述はない。
射程距離「蒙古の弓は二町=200メートル飛んだ」の根拠とされる記事は、古写本には無く、後世の写本である群書類従本に存在する。
前出の記事を再掲するが、
群書類従本「蒙古の矢は。二町はかりいる間に」
文明本、正応本「蒙古の矢は。二時はかりいる間に」。
おそらくは、群書類従本の写し間違いであろう。
もし、敵方の弓の射程距離が味方の倍以上もあったら、古写本(筑紫本・文明本・正応本)においても「蒙古の弓は二町飛んだ」と必ず書くはずである。
てつはう(『八幡大菩薩愚童訓・筑紫本』では「鐵包」)についても述べておく。十八世紀、清の陳元竜が編纂するところの「格致鏡原」には、この「てつはう」らしき記述がある。
『西安城ニ旧鉄砲ヲ貯ウ、震天雷ト云フ。状腕(椀)ヲ合セタル如ク、頂ニ一孔アリ、僅カニ指ヲ容ル。軍中久シク用イズ、此レ金人首都(原文の用字を変換出来ない。同義の字を記す)ヲ守ルモノナリ。史ニ載スルトコロ、鉄缶ニ薬ヲ盛リ火ヲ以テ之ニ点ジ、砲挙ガリ火発ス。其声(爆音)雷ノ如ク、百里外ニ聞ユ、焼ク所半畝以上ヲ囲ム、火点着スレバ鉄甲皆透ル』
これによると、震天雷というのは、蒙古が金を攻めたとき、金軍が首都・南京(後世にいう南京にあらず)に守城武器として設置していた物であるらしい。従って、上に挙げた震天雷は、歩兵が携行する大きさのものではなく、元寇において用いられたものより大型である。この場合においては、爆発効果範囲を三百平方メートル(円ならば半径十メートル)程度とする。他書によれば、元寇において用いられた「てつはう」の大きさは十二センチ程度、重量は二キロ弱、投擲距離は四十~六十メートル、殺傷効果範囲は五十平方メートル(円ならば半径四メートル…)だという。当時の黒色火薬は後世のものと異なって爆発力が弱く、その機能は爆音や閃光によって敵を威嚇することであった。
宋代の文献に類似のものとして「火毬」という武器が見える(『武経総要』一〇四五年成立。元寇より二百年も前の本だ)。調合法は、
『材料は晋州硫黄十四両、寓黄七両、焔硝二斤半、麻茄一両、乾漆一両、砒黄一両、定粉一両、竹茄一両、黄丹一両、黄蝋半両、清油一分、桐油半両、松脂十四両、濃油一分である。晋州硫黄、寓黄、焔硝と同じく搗き(つき)、硫黄をふるいにかけて黄丹定粉と合わせて研し、また乾漆を搗いて粉末とし、また麻茄竹茄を少しく炒って砕末となし、黄蝋 、清油、桐油、松脂、濃油を加えて熱して膏となし、前葉末に入れ、これをかき混ぜ、紙五重につつんで衣となし、麻を以って縛定する。砲を以って放つ。』宋代の一両は三十七.三グラムであり、一斤は六百グラム弱である。原材料の総重量は重さにして約三キロか。火薬は粉ではなくて膏状である。
「『砲を以って放つ』というから、大砲を撃ったのか」と早合点してはいけない。現代では、「砲」というと「大砲」や「鉄砲」を指すが、元来は「投石機」の意味である。
今すぐ社会科資料集を開き、『蒙古襲来絵詞』の「てつはうが爆発している場面」を参照されたい。大砲の類は描かれていないことは即座に確認出来よう。発射手段には決定的な説が無く、「投擲用の綱を用いて投げた」「いや、棒を用いたのだ」ともいう。なるほど、例の場面では、それらしき棒を持つ兵の姿が描かれている。先に鐵包をひっかけ、ブンブン振り回して投げたのであろうか。
てつはうの殺傷力は防御用武器の域を出ることはなかった。但し、爆発音による威嚇効果は大であった。
(注記)平成十三年十月十九日、長崎県鷹島町沖で、元の軍船と思しき船が発見された。「てつはう」は、直径十四センチの球形で陶器製。陶器の厚さは一.五センチ。上部に火薬を入れるための直径四センチの穴がある。
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西部の前線は麁原(祖原)から赤坂まで退いた。
『八幡大菩薩愚童訓』筑紫本にいう、
蒙古ヒタ破ニ責入テ今津早良百路原赤坂及乱入ケリ
異国之者合戦何事カ可有ト平安之敵トアナツリ思テ妻子眷属ヲ隠置ニ不及シテ有シカハ
家々ニ乱入テ数千之妻子共ヲ取ニケリ
家族を避難させていなかったため、蒙古高麗連合軍が彼らを拉致したと云うことである。
日本側は、防備を十分にしていなかったことが分かる。三別抄の乱によって元寇が遅延しようとも、その影響は無かったのである。
この方面には、高麗軍も参加していた。『高麗史節要』に、以下のような記述がある。
侍中金方慶等還師、忽敦以所俘童男女二百人献王及公主。
帰国した後、捕虜を高麗王に献上したという。
筑紫本の記述に、関連があるかもしれない。
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正面においては、息の浜から博多方面にまで戦線が後退した(このとき、櫛田神社や奉行所が焼け落ちたともいう。息の浜にあった大内氏の館は無事ではなかっただろう。しかし、如何せん被害に関する具体的な記述を欠く)。
東部戦線も圧迫され、この際に筥崎(はこざき)宮が炎上した。戦場に取り残された庶民は、蒙古軍・高麗軍に財産を略奪され、妻子を強奪された。博多は朱に染まった。それは炎の朱だけではなかった。 血の朱でもあり、血涙の朱でもあった。
やがて、西部および正面の戦線は膠着した。少弐景資の命を受けた後続部隊が、鳥飼赤坂方面にも続々と到着したのである。竹崎季長が先駆けしたのは、このときのことであった。
竹崎季長は、兵衛尉という官位を持つ。烏帽子親は長門国守護代・三井季哉であった。
竹崎氏は、(藤原氏を称している)菊池氏の一族とも、(宇治氏を称する)阿蘇大宮司の一族ともいう。有力な一族に属しており、必ずしも貧乏御家人ではない。但し、領地についていざこざがあり、訴訟が続いていた。自ら「無足」と述べているが、本当に「領土がない」なら、部下をつれて出陣するどころではあるまい。「所領安堵されていない」という程度の意味だったのではないか。
主従は、僅か五騎という小勢であった(この他に従者もいたであろうが、絵巻では省略されている)。一門の江田秀家と兜を交換して合戦参加の証拠とし、恩賞を請求する際には互いが証人となることを約した。
さて、「少弐景資以下日本軍は、息の浜に集結していた」と季長は云う。そこへ、蒙古軍が赤坂へ陣を布いたという知らせが届いた。が、景資は「赤坂は馬に乗っての戦いに適さないので、ここで蒙古軍を待ち受けよ」と通達した。
(筆者注:しかし、予定が狂った。赤坂方面に続いて、息の浜に蒙古軍主力が上陸したからである。景資の部隊は、これと戦うことになる。おそらく、赤坂方面の蒙古軍と挟撃されることを恐れ、西部戦線にも増援を発したであろう。)
江田秀家以下一門はこれに従ったが、季長は違った。肥後国の先駆けする旨を景資に申し出たのである。励ましの言葉を得た季長は、赤坂へと向かった。一門の軍勢から離脱し、単独行動をとったのである。
赤坂方面の蒙古軍は、菊池武房に打ち破られて、二手に分かれて麁原・別府の塚原にあった。このうち塚原の方の部隊は小勢であったので、季長は鳥飼潟でこれを捕捉して追撃したものの、干潟は馬を馳せるには適さず、とり逃してしまう。季長は麁原に向かい、蒙古の大軍に向かった。
季長は臆しなかった。「証人になってくれる味方が来るのを待ちましょう」と制止する部下を振り切り、「弓箭の道、先をもて賞とす。ただ駆けよ」と士気を奮い起こし、蒙古軍に戦いを挑んだのである。
一騎駆けを行う際には、味方の多勢が続いていることを確認するのが通例であったから、この行動は暴挙というよりほかはない。
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季長は、いきなり突撃をかけたわけではあるまい。まず、射程距離にまで近づき、蒙古に向かって「敵の急所を狙い矢継ぎ早に」射掛けながら、馬を小走りさせて接近したのであろう。近寄る敵に対しては内兜を狙い、背を向ける敵に対しては追物射に射る。竹崎主従は、なるべく密集して矢を放つ。大勢の相手に対し、名乗りをあげてバラバラに突っ込むなどという馬鹿なことはしない。
「全力疾走」でなく「小走り」であるというのは、弘安の役において季長が歩兵(従者)を連れていることによる。合戦中においても、騎兵は、歩兵でも随行出来る程度の速度を保っていたということである。
さて、季長主従は敵を追い散らし、幾つかの敵を討ち取った。しかし、敵は多勢であり、主従は猛烈な反撃を受けた。季長主従は手傷を負ってしまう。
そこへ、白石通泰以下百騎が加勢に駆けつけた。白石勢は魚鱗の陣形を組んで蒙古軍に近づき、射程距離に入るや、集中射撃と進退を繰り返し、弓による波状攻撃を仕掛けた。蒙古軍はこの攻撃によって撤退し、竹崎季長主従は難を逃れることが出来た。
通泰が用いた戦法を「魚鱗駆け」という。この鎌倉武士特有の集団戦法は、『蒙古襲来絵詞』にも描かれている。
撤退の理由について。
「威力偵察だった」という場合、「どの程度を威力偵察とするか」「弘安の役まで七年の空白があり、これは石築地の構築に十分な年数を与えた」という問題を生ずる。
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少なくとも、以下のことは言える。
・蒙古高麗連合軍は、二三万の兵力をもって太宰府への到達を目指していたようである(『元高麗紀事』耽羅至元九年十一月十五日条)
・忻都は、現有戦力での戦闘続行を断念した(『高麗史』金方慶伝)
さて、当時の赤坂は台地であった。高所に陣取った武士は、蒙古軍へ矢を撃ち下ろすこととなり、その威力を増すことが出来た。武士達は残兵を励まし、楯を並べて弓矢を射掛け、矢衾を作って戦況を支えた。両軍とも主力武器は弓矢である以上、戦闘のほとんどが「楯突戦」に費やされた。これにより、蒙古軍は矢の不足という事態を招くことになる。
そして日没になると、武士達は「水城に拠って防戦しよう」とささやき合い、さっさと逃げ支度をした。
終日に及ぶ日本軍の防戦、そして副司令官・劉復亨の負傷もあいまって、蒙古軍はこれ以上の侵攻を断念した。ついに博多中心部へ侵入することもなく、蒙古軍は軍船に引きあげたのである。戦況は蒙古・高麗連合軍に優勢ながら、太宰府占領を阻んだという点において、日本側の勝利といえる。但し、蒙古側の見通しの甘さに助けられた部分もある。『高麗史節要』にいう、
倭兵大敗伏屍如麻、忽敦曰、『蒙人雖習戦、何以加此。』
諸軍終日戦、及暮乃解。方慶、謂忽敦茶丘曰、
『我兵雖少、已入敵境、人自為戦、即孟明焚船、准陰背水者也。請復決戦。』
忽敦曰、『小敵之堅、大敵之擒、策疲兵戦大敵、非完計也。』
而劉復亨中流矢、先登舟。故、遂引兵還。
会夜大風雨、戦艦觸岩崖多敗」
倭兵大敗、伏屍如麻、忽敦曰、『蒙人雖習戦、何以加此。』
諸軍与戦、及暮乃解。方慶、謂忽敦茶丘曰、
『兵法千里懸軍、其鋒不可当。我師雖少、已入敵境。人自為戦、即孟明焚船、准陰背水。請復戦。』
忽敦曰、『兵法小敵之堅、大敵之擒、策疲乏之兵、敵日滋之衆、非完計也、不若回軍。』
欧亨(蒙古軍の副将)中流矢、先登舟、遂引兵還。
会夜大風雨、戦艦觸岩崖多敗」
日本軍は大敗し、その屍は麻の如く散らばっていた。
それを見た忻都は、「蒙古の人間は戦に慣れているとはいえ、日本もなかなかのものだ。彼らにこれ以上付け足すものは何もない」と言って感心した。
勇者への賛辞といったところか。額面通りに受け取ってもかまないが、忻都は一種の余裕も感じながら発言したのだろう。
諸軍は終日戦い、日没になって軍を引き上げた。
高麗軍の将・金方慶は言った。
「我が兵は少ないとはいえ、既に敵領に侵入した。ここに至っては、不退転の覚悟を以て進むべきである。かつて孟明は退却に必要な船を焼き、また韓信は背水の陣を布いた。攻撃の続行を乞う。」
これに対し、蒙古軍の総司令官・忻都は慎重論を唱えた。
「兵法に『小敵之堅、大敵之擒』という。疲れた乏しい兵をもって、日々増強される敵と戦うのは、良い戦略とはいえない。軍を退くのが最上である。」
劉復亨は流れ矢で負傷したため、先に船に乗った。よって、遂に兵を引いて帰った。
夜、たまたま暴風雨に遭い、戦艦の多くが沈没した。
発言のうち「疲乏之兵ヲ策シ、日滋之衆ニ敵スルハ、完計ニ非ザルナリ」は蒙古・高麗軍の疲弊を示す部分であり、これが引き揚げを決断させた要因と見てよい。
忻都は、思ったより戦況が進展しなかったのを見て、太宰府進撃は困難と判断していた。だから、軍を船上に引き上げさせたのである。 「戦闘については蒙古軍が優勢であったとはいえ、今後の戦局推移という観点から見ると蒙古軍の方が不利である」というのが彼の判断であった。 左翼の高麗軍と正面の蒙漢軍が合流することも出来なかったし、兵站を陸揚げすることも出来なかった。これに対し、日本軍の後方基地にして主決戦場になるであろう水城と大野城は無傷である。加えて、増援が続々と集結しつつあった。