実力行使
多衆集合して解散せず、さらには違法行為し放題。さぁいよいよ機動隊がその弾圧パワーを解放する時がやって参りました。もっとも、パワー解放といっても全力攻撃!という訳ではなくて、相手の違法の程度に合わせ鎮圧に必要な最小限度の実力の行使……という枷があるんですけどね。しかしそうは言っても、相手の力を凌駕できるだけの力は出さなければ話になりません。
計画的なものであれ無計画なものであれ、群れ集った人間が集団で違法行為に及ぶ。それだけで既に通常の警察の手には負えないものです。興奮して手に手に棒や石を持ってる群衆なんて、指揮する者がいなくったって十分危険です。まして、計画的・組織的に行われる暴力デモともなれば。そこで出動するのが機動隊であり、こちらも又集団の力でもって事態鎮圧に努めます。
警察である以上事態の鎮圧のみならず犯罪者を検挙するのも仕事の内ですが、事態が事態だけにまずもって鎮圧し被害拡大を抑えるのが先です。そのためには特殊な技術を必要とします。そういった鎮圧技術として、ものの本には次のような手法が挙げてあります(*)。
- 勢力分散
相手集団の中に警備部隊を割り込ませこれを分断し、もって集団力を減殺する。
- 排除
現場から相手集団を排除する。例えば、道路上で気勢を上げる集団を、交通に支障の出ない別な場所に排除する等。
- 統制破壊
発煙筒・催涙ガスの使用、私服員の活動等により相手方の集団を混乱に陥れ、その指揮統制を分裂させ活動を鈍化させる。
- 主導者の隔離
前記1、2と関連して、集団中の主導者・指揮者あるいは煽導者を集団から隔離し、相手方集団力を減殺する。
- 積極的行為者の検挙
積極的な行為者が犯罪を敢行した時は、現場において速やかにこれを検挙する。
5項目中実に4項目までが、「相手の集団力の減殺」に関するものであるところに、その特徴を見出す事ができます。群衆犯罪は集団でなされるもの。集団を "蹴散らして" しまえば群衆犯罪も起こらない。まぁ、一理ありますかね。
勿論、そこで起こった犯罪について捜査もします。しかし、群衆犯罪の起こる場所というのはえてして混乱していて、軽微な違反も含めれば犯罪などそれこそ検挙しきれないくらいあるものでして。証拠集めも大変という事で、積極的に違法行為(特に暴力行為)に及んだ者が主な検挙対象になります。
例えばデモ行進の際、デモ隊が、本来なら車道左側を3〜4列縦隊でまっすぐ進まねばならないところを、「示威(デモンストレーション)だ!」とばかりに道幅一杯使ってのジグザグ行進を始めたとします。これは本来道路交通法違反なのですが、この段階ではまだ検挙はしません。とは言っても違法行為であるので、警職法5条に基づき指揮官車よりジグザグ行進を中止するよう警告がなされ、次いで並列中の警備部隊がデモ隊を制止、具体的には本来の行進位置に「圧縮規制」します。この時警察官をどついたりする者がいれば、公務執行妨害罪の現行犯!となるのです。
またあるいは何か突発的なイベントや抗議活動などで、道路に人が集まって騒いだり、ものをぶちまけていたり、あるいは路上に座り込んでいたとします。これは地方の公安条例や、居場所が道路上であれば道路交通法などに違反することになるのですが、やはりこの段階ではまだ検挙はしません。警職法や公安条例に基づき、解散するよう、あるいはその場をどくよう警告がなされ、次いで駆けつけた警備部隊が規制を行います。で、この時警察官をどついたりする者がいれば、公務執行妨害罪の現行犯!ということになるのです。
このように、警備実施の基本は「現場での警告」と「各種規制活動による集団力の減殺」です。警告には手持ちの拡声器や機動隊の指揮官車が用いられますが、違法行為をやめるよう「警告」している事、命令者の名、時刻をはっきり言うことが要点です。「デモ隊に警告する、直ちにジグザグ行進をやめなさい! 警告、午後○時×分、△□警察署長!」「ジグザグ行進をやめない場合、警察は部隊で規制する! 警告、午後○時×分、△□警察署長!」というように。特に命令者の名と警告時刻は、はっきりと言って記録しておけば、後々事件化して裁判になった時、事前警告があった事の証明に使えます。事前警告があったという事は、検挙された側は事前の警告にも関わらず犯罪を敢行した、すなわち違法性の認識があったという事になり、公判の運営上有利(*)。
警告が効果ない場合はいよいよ規制という事になるのですが、規制に関連し検挙が行われる可能性もあるため、規制と並行して現場記録を入念に取ります。具体的には、現場の状況をカメラやビデオで撮影し、または録音します。なお、この段階で撮影をなす事については、いまだ違法行為に及んでいない段階での撮影は肖像権・プライバシーの侵害だとして違法視する向きもあるのですが、警告を聞かない=まさに犯罪が行われようとしているとみなされ、現場記録撮影が認められるものらしい(*)。記録に当たっては警察本部警備部や機動隊から人を出して現場記録班(採証班ともいいます)を編成し、指揮官車の上や、前線部隊の中で活動させます。なお、言うまでもない事ですが、これら記録は後々事件化して裁判となった時には証拠として用いられます。
さていよいよ、機動隊の規制活動について。こうした規制活動に際して、部隊は基本的に盾を持つか素手で活動します。ジグザグ行進するデモ隊を道路の片側へ押しやったり、車道上で騒ぐ人々を歩道上に押し上げたり別の場所に排除したり、あるいは座り込んでる団体の構成員を独りずつごぼう抜きにしたり。警告に従わない相手を、盾や手で押したり抱えたりして、どかして行く訳です。
規制は、検挙や鎮圧ではないので、まだ警棒は使いません。装備紹介のところでも書いたように、部隊組織で活動する際の警棒使用は部隊指揮官の命令によるものとされ、緊急の場合(例えば、目の前の相手が突如刃物を抜いたとか)を除くと、命令なしには抜くことさえもありません。
集団力減殺には効果的な催涙ガス器具はもっと厳しく、部隊活動時の使用が指揮官の命令よるべきであるのはもちろん、そもそも現場に持ち出す時点で所轄長(※警視総監・道府県警察本部長のこと)の許可が要り、使う時にもあらかじめ事前警告をしなければなりません。拳銃に至っては、警備の時には基本的に携帯して行きません。
度重なる警告にもかかわらず違法(のおそれがある)行為が続くと、規制に移る訳ですが、規制が始まってもなお抵抗し行為をやめないとなれば、もはやこれまで! 事態はついに鎮圧・検挙となります。
機動隊が装備する警棒やガス筒は、犯人の逮捕または逃走の防止・自己または他人の防護・公務執行に対する抵抗の抑止・犯罪の制止その他の職務遂行のため、使用されます。とりわけ、正当防衛・緊急避難に当たる場合、あるいは懲役三年以上の重罪犯容疑者の逮捕に際し抵抗や逃走を防止する場合においては、武器に準ずるものとして使用され相手に危害を加えてもやむを得ないものとされます。
角材など凶器を持ったり投石したりして抵抗する相手集団に対し、まず機動隊は盾を構え防護を固めます。事前警告を済ませると、指揮官の命令で催涙ガス筒を撃ち込み、放水車がいれば併せて高圧放水も行い、とにかく相手を弱らせて行く。ちなみに高圧放水は、通常の水の他に、色水を使い、相手集団の服を色付けして後で検挙した時の採証に役立てる事もあります。
催涙ガスや放水で相手が浮き足立ったところで、前進し、違法行為を確認した相手から順次現行犯で逮捕して行きます。石や火炎瓶を投げたり、角材で機動隊に突きかかったりすれば、もうそれは立派な凶悪犯罪。公務執行妨害、器物損壊、暴行、凶器準備集合、火炎びん処罰法違反、などなどなど。これらの行為が確認されれば、指揮官の命令で1個分隊程度の警察官が相手集団に突入し、容疑者を拘束して戻って来ます(*)。またこの時、警棒使用の命令があれば、警察官は警棒を抜いて突入し逮捕への抵抗抑止と防護のため使用します。
……もっとも、最近ではデモや集会が荒れること自体ほとんどありませんから、こういう「催涙ガス立ちこめ石が飛ぶ中警棒片手に大乱闘」という場面を見ることもなくなりました。
いくら治安警備といっても、本来のデモ行進をちょいと逸脱する程度だとか座り込み程度なら、そこまでぴりぴりする必要もなかったんですが……。しかし実際に機動隊が鎮圧に当たった群衆犯罪は、こんなもんではありません。
波乱の歴史
1950年代、60年代、70年代と、機動隊は波乱に溢れる状況を経験して来ました。ある意味皮肉な話ですが、かような過去の歴史が、今現在の強力な警備警察を作り上げたと言えます。
ちゅう訳で、ここでは「取り締まられる側」の話を少し致しましょう。つっても包括的な話をするんでなくて、暴力的なデモ隊、それも安保闘争期のデモ隊の行使した集団暴力についての話がメインになっちゃうんですけどね。趣味の関係上。
戦後すぐから1950年代までの時期、の機動隊の相手は、一口で言えば共産党でした。
あまり詳しくは書きませんが、大戦終結後、合法政党となった共産党は活発な活動を開始し、労働運動と連帯して勢力を伸長して行きます。当初は議会を通じての政権獲得を目指していましたが、1950年の朝鮮戦争を直接のきっかけとして、武力革命を目指すようになります。
昭和26年・1951年10月、第5回全国協議会において、共産党は「51年綱領」を制定しました。この綱領では「日本の解放と民主的改革を、平和的手段によって達成し得ると考えるのは間違いである」とうたわれました。要は武装闘争宣言。以前から頻発していた集団事件は、これ以降さらに激化して行きました。
この時期の共産党の武装闘争は、主要な武器として火炎瓶が使われた事から「火炎瓶闘争」と呼ばれました。また警察側は、鎮圧のためにしばしば発砲しており、デモ隊の側に死者を出しています。昭和27年・1952年5月のメーデー事件、5.30記念日集会、同年7月の大須事件などで警察側が発砲しています。デモ鎮圧のために警備実施部隊が武器を使ったのは、戦後においては今のところこの時期だけ。現在ほど整った警備警察がなかったせいもありますが、当時の武装闘争の激しさも伺われます。
一時は革命前夜と称されるほどの情勢に至ったそうですが、しかるに実際に政府がひっくり返る事はなく、朝鮮戦争の終結を受けて火炎瓶闘争は終息に向かいました。共産党も綱領を変更し、今ではすっかりおとなしい。
時代は下って昭和35年・1960年。この年は、安保闘争と三井三池闘争があり、またもや警備警察が大いに出張る年となります。
安保闘争は、講和条約時に結ばれた日米安全保障条約の改定を巡り、反対運動が盛り上がって闘争へと発展したものです。前年の昭和34年・1959年頃から反対運動が始まり、60年1月16日には当時の岸首相の訪米に反対する全学連デモ隊による羽田事件が発生、これ以降改定反対のデモが頻発するようになります。特に5月からは、国会包囲デモが連日のように起こります。デモ隊は首相官邸、アメリカ大使館にも押しかけた他、全国各地でも同様の抗議活動が展開されました。
1950年代の火炎瓶闘争と違い、1960年の安保闘争は自然発生的な部分も大きく、全学連や労働組合だけでなく、一般市民も数多くデモ隊に参加していたのが特徴であるようです。それだけにデモの規模も大きく、警視庁は、治安警備としては初めて近隣他府県警察に警備の応援を要請、延べ4,045人の応援を得ました(*)。この他に警視庁は、本来の機動隊員に加え本部・署各所属の機動隊経験者830名についても機動隊と併任とし、臨時編入する措置を取っています。この措置は、本来は臨時の措置でしたが、翌昭和36年(1961)に「機動隊特別隊員制」として正式化され、昭和41年には警視庁予備機動隊員と改称、さらに昭和43年に警視庁特別機動隊(特機)となります(*)。かようにデモ警備で手を焼いた安保改定ですが、昭和35年・1960年6月23日、改定された日米安保条約は発効し、これ以降反対運動は沈静化しました。
一方の三井三池闘争は、三井鉱山が行った指名解雇による人員整理が発端の労働争議です。当初は、会社側と、解雇に反対する労働組合側の対立でしたが、組合が分裂した事で事態は複雑になります。その間の細かい状況は書きませんが、ストライキを打った上鉱業施設を占拠して操業させまいとする組合側、ロックアウトで組合を排除し生産再開したい会社・第2組合側が鋭く対立していました。昭和34年・1959年末から始まった争議は翌昭和35年・1960年に入って激化し、警備に当たる福岡県警は、隣接する熊本県警はじめ九州各県から応援を受けて警備を実施します。
一刻も早く生産再開にこぎ着けたい会社側は、組合による鉱業施設の占拠を解くべく、裁判所に仮処分を申請し、それを執行しようとします。ところが組合側は仮処分に従う気はさらさらなく、占拠したままてこでも動かない構え。このため仮処分執行・鉱業施設の占拠解除のために警察が動きます。昭和35年・1960年7月には、労働組合側20,000人以上が籠城する鉱業施設の占拠解除のため、警察は約7,000人にも達する警備部隊を集結させました。九州管区のみならず中国・近畿管区の各府県警からも応援を得ていました(*)。この警備規模は、九州内では平成12年・2000年の九州・沖縄サミット時の警備に次ぐものです。
7月の段階では衝突寸前、あわやこれまでかと思われましたが、土壇場で労働省(当時)中央労働委員会が行った労使間問題解決のための斡旋申し入れが通り、ひとまず休戦。その後、中央労働委員会が提示した斡旋の内容を、労使双方とも受け入れ、三池闘争は終わりを告げました。
三池闘争以降、労働紛争に警備警察が出動する事例は徐々に減って行きます。しかるに安保闘争については、安保条約の一方的終了通告が可能となる昭和45年・1970年に向け、反対運動が高揚して行きました。また、第二次安保と時同じくして起こった成田空港問題も、後々に続く火種となります。
昭和42年10月8日の第一次羽田事件を皮切りに本格化した第二次安保闘争は、左翼学生が中心となって遂行された闘争でした。彼らは時同じくして起こった学園紛争に介入し、学園を拠点化し、そこから街頭へデモ闘争へ繰り出しました。時に1967年。3年後の1970年は安保条約発効から10年。条約第10条によれば、発効から10年経過後は、日米いずれか一方からの通告で安保条約を終了させることができます。その節目の年に向け、時代は風雲急を告げていました。
これに加え、昭和43年・1968年6月の日大全共闘を皮切りに学園民主化を求める学生運動、全学共闘会議(通称「全共闘」)運動が全国の大学に野火のように広がりました。この全共闘運動自体は、元々は暴力的なものではなかったようです。しかし極左過激派学生が介入して来たために運動は次第に集団暴力を伴ったものになり、さらに上記安保闘争ともからんで問題は複雑化して行きました。
学生が中心となり「学園封鎖」「街頭デモ」の二本立てで集団犯罪がなされた事が、この時期の特徴です。街頭で戦闘的デモ隊を相手とするのは機動隊のお手のもの、ですが、学園封鎖の解除というのはこの時期特有のものです。取り締まろうにも、学問の自由は憲法で定められた基本的人権、という事で大学構内には機動隊もむやみに乱入できず、極左過激派がいるのが分かっていても当初は攻めあぐねた様子(*)。本格的な解決は昭和44年・1969年8月に「大学の運営に関する臨時措置法」(いわゆる大学臨時措置法)が施行されてから、という事になります。
こうした学生運動の中で、先頭に立って積極的に集団暴力を行使したのが、共産党系の既成左翼に対置して新左翼とも呼ばれた、極左過激派の学生です。昭和35年・1960年に安保闘争を戦った共産主義者同盟(通称ブント、共産同)に始まる、急進過激な左翼組織。幾つもありますが、それらをひっくるめて新左翼と呼んでいます。昭和35年・1960年に安保条約をついに阻止できなかった経験に鑑み、今回(70年)こそは必ず!という訳で、上記したように昭和42年後半からその活動を活発化させました。目的達成のためには暴力の行使も厭わず、極めて過激です。
昭和44年以降大学への警察導入が進み、また昭和45年・1970年には安保条約は自動延長。第二次安保闘争は一区切りを迎えます。しかし、新左翼過激派は暴力行為をやめる事はなく、その後も闘争を継続し、様々な運動に介入していきました。成田も、新左翼が介入した運動の一つです。
昭和40年・1965年以降成田の問題は悪化の一途を辿っていきました。羽田の東京国際空港に続く第2の首都圏国際空港の候補地を成田に定めたまではまだ良かったのですが、用地の取得がうまく行かず、土地収用法に基づく強制収用を選択した辺りから雲行きが怪しくなります。現地の住民は猛反発して立ち退き拒否、収用のための測量も拒否。これに対して警察力が導入され、さらに新左翼過激派が介入するに至って事態は決定的となりました。
昭和45年・1970年の強制測量開始以降、立ち退きを拒否して立てこもる住民や過激派、これを排除しようとする警察の間で衝突が頻発しました。昭和53年・1978年3月の成田開港阻止闘争警備では、警察側が過激派集団に向け武器を使用するまでに至りました。その後同年5月に成田空港は開港しますが、予定通りの施設を完成させられないままの、見切り発車的な開港でした。その後も土地取得・施設拡充は遅々として進まず、今現在(平成20年10月現在)もなお問題の解決には至っていません。成田開港より30年が経つも、いまだ未完成のまま。
かように、1960年代末から70年代にかけては極左過激派が大暴れした時期であり、現在の警備警察機構が整備されたのはこの時期であると言っても過言ではないでしょう。少なくとも、この時期の機構が基礎になっている事は間違いありません。また現在もいまだ存続する極左過激派組織の大半は、第二次安保闘争の頃に組織されたものです。
以下、現在とも繋がる部分の大きいこの時期の極左過激派の行動と武器について、ごく簡単に列記してみましょう。
極左過激派が、デモに当たって集団暴力の行使をも厭わなかった、という点は先にも述べました。ヘルメットかぶって得物は角材、覆面にグラサンという格好で顔を隠して警察の現場写真撮影に対抗、さらに検挙される事も念頭に置き身元を判別できるものは一切所持しない、逮捕されても黙秘また黙秘、と徹底しています。実に計画的。
60年の第一次安保闘争がどちらかというと自然発生デモの側面もあったのに対し、こちら第二次安保闘争は、最初から暴力でもって警察権力に刃向かう事を指向していました。かつての、50年代の火炎瓶闘争を彷彿とさせる "武装闘争" の姿勢です。成田闘争も、元からこじれる要素があったとはいえ、極左の介入が過激な武闘路線を決定的にしたといえます。
例えばの話、第二次安保・成田闘争の時の新左翼は、凶器準備集合の容疑でそれこそ枚挙に暇ないほど検挙されていますが、一方60年の安保闘争時にさかのぼってみると、当時のデモ隊が凶器準備集合の容疑で摘発される事はありませんでした(当時同罪が新設したてで運用の基準が定まっておらず、また予防検束との批判が強かった……という事情があるにせよ)。それだけ、新左翼が暴力的だったって事です。
さて、暴力を振るうとなれば、徒手空拳よりは得物があった方がよほどましな訳で、これは集団でも同じ事。ここで、武闘を指向した極左過激派デモ隊は、一体どのような凶器でもって警察に刃向かっていたのかといいますと。
- 石
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石を投げるのは基本です。石の他にも色々投げはしますが、しかし基本はやはり投石であると。
現在、歩道の舗装といえばアスファルトが中心ですが、昔は敷石舗装のところが結構あったそうです。で、極左暴力集団がその敷石をはがして、砕いて、投石に用いるという事態が横行して問題化した事がありました。特に東京都の歩道。昭和42年以降大学紛争と第二次安保闘争が荒れゆく中、政治経済の中心地というだけでなく、東大や日大といった紛争の目玉的な大学を抱え、事ある度のデモでは激しい投石で機動隊に負傷者続出。そこで、投石対策の一環として考え出されたのが、「歩道の敷石を何とかする」。
警視庁では「環境整備」と称し、昭和43年秋に神宮外苑の明治公園周辺の歩道から敷石を撤去。その後も大学紛争警備や極左の集会に先んじて関係地域の敷石撤去を進め、これにより投石による被害は大幅に減ったそうです(*)。また東京都も、警視庁からの申し入によって歩道のアスファルト舗装化を進めました(*)。昭和44年1月には、この問題が閣議でも取り上げられ、歩道の整備のため都に対する財政支援ができるかどうかが検討されました(*)。
ところで投石といえば、舗装の敷石の他にも、鉄道線路の砕石が投石に用いられて問題になった事もありました。そこで当時の国鉄当局は、主に首都圏主要駅間の線路について「線間舗装」を施す対策を取ったそうです(*)。具体的には、線路のバラスト(※基盤の砕石)をアスファルトで固め、文字通り舗装するというものです。
- 棒
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相手を殴る得物。フラットな棒の他、角材だとか、五寸釘を打ち付けて威力upを図った代物もあるそうで、ここまで来るとかなり意図的です。殴る気満々。
共産党系の民主青年同盟のデモ隊は農具の鍬の柄用の樫材、新左翼の革共同中核派は鉄パイプ、と各派愛用の棒がある(あった)という話も聞きます。闘争を意味するドイツ語「ゲバルト」を頭に付けてゲバルト棒、さらに略してゲバ棒と呼ぶのが通の証。
- 火焔瓶
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モロトフ・カクテルとも称される由緒ある(?)武器、投げつけて燃やすための、見紛うかたなき凶器です。これを持って集会したりデモったりすると、暴力行使を企んだ上で多衆集合しているものとみなされ、凶器準備集合罪容疑でお縄となります。当たり前ですね。
基本は瓶にガソリン詰めて、口のところに油を染ませた布を付けるタイプです。投げる時は布に火を付けて……という訳ですね。改良型は、詰め物がガソリンのみからガソリン+粉石けんになります。こうすると、よく燃える上に消えにくいんですって。へぇぇ。
さらに高性能なものになると、瓶の中にガソリンと硫酸を詰めて密封し、瓶の外側に塩素酸カリウムを塗った紙片を付ける、という仕組みに進化します。発火の仕掛けは、投げて瓶が割れたら硫酸と塩素酸カリウムが反応する、というもの。ガソリンも燃えるし硫酸も燃える、投げつけて割ればほぼ確実に発火すると、凶悪この上ありません。ついでに、化学をかじった友人曰く「安い薬品を使っているのでコストパフォーマンスが良さそう」。おいおい。
この火炎瓶、凶器ではありますが、銃や刃物や爆発物と違って当初はその製造・所持・使用を取り締まる法律がなく、摘発上問題がありました。個人の部屋に火炎瓶が備蓄してあったとしてもそれだけでは摘発できないし、火炎瓶を手に歩ってるやつがいてもそれだけでは摘発できない(集団ならともかく、ぽつねんといる個人の場合)、せいぜい軽犯罪法違反(理由なき凶器の所持)くらいにしか問えなかったのです。こういう事情から、昭和47年5月に「火炎びん処罰法」が施行されました。
- ラムネ弾
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最近は市販の飲料といえばスチール缶にアルミ缶にペットボトル。瓶入り飲料はなかなか目にしなくなりました。なんと、夏の風物詩ラムネさえもがペットボトル化されているほどです。私は瓶入りラムネが大好きで、夏の盛りなどはもう無性に飲みたくなるものなのですが……それはともかくとして。
ラムネ弾は、このラムネの空き瓶を使った凶器です。ラムネ瓶は栓にガラス玉を使っています。このガラス玉の栓は飲む時瓶の中にぽんと落とすんですが、瓶を傾けて玉を飲み口のところに持って来ると簡単に瓶を密封出来る、というところが要点です。
ラムネの空き瓶に、まずカーバイトを詰めます。次いで水を注ぎ、瓶を傾けてガラス玉を使って密封状態にします。瓶の中では水とカーバイトが反応し、アセチレンガスが発生します。カーバイト及び水の量によって多少違って来ますが、密封して大体4〜5秒後には、内部の圧力に瓶が耐えきれなくなり、ばーん!
警察(裁判所だったかも。)が行った試験の結果では半径3〜4mの範囲に危険な破片を撒き散らし、殺傷能力は十分にあります。……もっとも実際は、タイミング良く投げないとヘンなところで炸裂して相手にダメージがうまく与えられないため、効果的な使用は難しく、そこまで広く用いられる事はなかったようですが……。
大体このような凶器を携えて、過激派は安保粉砕・日本革命を叫び闘争を展開しました。ゲバ棒vs警棒、火炎瓶vs放水、投石vs催涙弾、これは最早銃がないだけの市街戦です。
しかし結局安保は粉砕できず、日本に左翼革命は起きず、それどころか逆に積極的な暴力行使がたたって今に残るは悪評ばかり、というのが現状。なにせ銃器使用の人質立てこもり、ハイジャック、爆破、海外でテロまでやらかしました。まあ、以上は治安と権力の側から見た話で、過激派には過激派なりの理論と正義があったみたいですが、しかしそれを取り上げるのは私の目的とするところではありません。