これも昔書いた映画批評です。
なお、私は北野武の「brother」と「座頭市」は割合好きです。ただ、突拍子もない比較ですが、同時代に武士道三部作を作った山田洋次監督と比べるとまだまだ道楽芸ですね。私は「寅さんシリーズ」を含めて山田監督を高く評価しています。
{あらすじ}
この映画は形を異にする3組の男女の愛(狂恋)を描いている。
一組目は、結婚の約束をしながら、社長令嬢からのプロポーズを受けて出世のために、元のフィアンセを裏切った男の話である。元のフィアンセは自殺未遂をしてしまう。そして気が狂ったままになる。男は、結婚式の当日に式への出席を拒否して、元のフィアンセの入院している病院へ行き、女を連れ出して、車で転々とする。やがて車も捨てて、男女は赤いヒモで結び合って、美しい風景の中を歩き続ける。
二組目は、ヤクザの組長が若い頃に愛を誓い合った女性との話である。工員のころに、恋人が毎土曜日にお弁当を作って公園のベンチにやってくる。男は、出世をするために遠くの町に行くという。女は、土曜日には必ずお弁当を持ってこのベンチで待っている、と約束する。それから数十年、ヤクザの組長になった男がその公園に行ってみると、弁当を持った老女がいる。昔の恋人だと気づかずにその女性は組長に弁当を渡す。
三組目は、売れっ子アイドルとその追っかけの物語。アイドルが自動車事故で顔に傷を負ったために芸能界を引退する。彼女の熱狂的な追っかけは、自分の目をカッターナイフで切ることで盲目となり、アイドルの顔が見えない状態を作り出す。
これら3つの話が、オムニバス風に順次に展開され、第一話が縦糸となって、2つの話を横断する。そして、最後、赤いヒモで結ばれあった二人は雪の中を進み、崖から転落して木の枝に引っかかる。この「心中」と「道行」の最後の場面は、文楽の上演の場面と交互にカットバックされる。
{批評}
この映画は、さほど高い評価を得られていないが、私が見た北野映画の中では、もっとも上質な部類に入る。
ざっと概観すると、この作品は「狂恋もの」という日本映画に伝統的なテーマと、「道行」という歌舞伎・文楽に伝統的な演出、という2つの日本的な美意識を基に作られた、実に日本的な映画である。
狂恋もの、というのは、この映画の3つの物語のように、人を恋するあまりに狂気に陥った人間を描くもので、自殺未遂して精神を病んだ女、弁当を持って土曜の公園で待ちながら老婆になっていった女、アイドルを思うあまりに両目を切断するファンの男・・・・・これら3者が、恋の究極の姿を示している。
道行、というのは、第一話の二人が、赤いヒモでつながりあいながら、ドンドンと風景の中を闊歩していく場面である。そこには約束事のように、桜やモミジが際立って美しく背景をなしている。これから死に向かうものを祝福するかのように、花や紅葉が爆発し、男女の悲劇的運命に対して無関心に美しさを際立たせている。
私が見たこれまでの北野映画は、彼の劣等感の裏返しが気になって仕方なかった。北野は気の弱い人間だからこそ強いヤクザの役をやりたがり、間を持たせる技術がないから、妙に間延びした、間の腐った時間を作り出していたし(ゲイの映画人はこういうのを好む傾向がある)、演技が下手だからこそ、台詞は棒読みで、演技しない演技に頼るしかなかった。それが芸能人特権というのか、逆に美学と受け取られている。贔屓の引き倒しになると、欠点までも長所に見えてくるから世の中は面白いものだと思う。
このように、これまでに私が見た北野映画は、「北野ファンにとっては素晴らしくても、第三者にとってはただの駄作」としかいいようのないものだった。淀川長治さんが北野を天才といっても、それは映画の質が全体的に低下している時代、ヨドチョウさんの戦略的なエールだと見ていたし、黒澤明が北野に「これからの日本映画をよろしく」といったとしても、あの所ジョージをいい役者だという黒澤の人気芸能人に対するお世辞だとしか思えなかった。私は、北野映画を「芸術映画を意識して作られたB級娯楽映画」だと思っていた。
しかし、この「DOOLS」はなかなかいい。北野は恋の究極の姿に祝福を与えたかったのだろう。狂恋の人物たちを美しい風景の中において歩かせる、ただそれだけをしたかったのだ。大金をかけてただそれだけをする、というところが洒落ている。
駄作を作る割りに評価の高いB級監督だった北野は、「ときにはいいものを撮るマアマアの監督」と思えるようになった。ベネチアでグランプリを獲った「HANA−BI」などよりはずっと高度な映画である。(ところでキタノブルーなどという迷信を流したのは一体誰でしょう。小津安二郎の「浮草」1959年の色使いと比較して欲しいですね)。
なお、私は北野武の「brother」と「座頭市」は割合好きです。ただ、突拍子もない比較ですが、同時代に武士道三部作を作った山田洋次監督と比べるとまだまだ道楽芸ですね。私は「寅さんシリーズ」を含めて山田監督を高く評価しています。
{あらすじ}
この映画は形を異にする3組の男女の愛(狂恋)を描いている。
一組目は、結婚の約束をしながら、社長令嬢からのプロポーズを受けて出世のために、元のフィアンセを裏切った男の話である。元のフィアンセは自殺未遂をしてしまう。そして気が狂ったままになる。男は、結婚式の当日に式への出席を拒否して、元のフィアンセの入院している病院へ行き、女を連れ出して、車で転々とする。やがて車も捨てて、男女は赤いヒモで結び合って、美しい風景の中を歩き続ける。
二組目は、ヤクザの組長が若い頃に愛を誓い合った女性との話である。工員のころに、恋人が毎土曜日にお弁当を作って公園のベンチにやってくる。男は、出世をするために遠くの町に行くという。女は、土曜日には必ずお弁当を持ってこのベンチで待っている、と約束する。それから数十年、ヤクザの組長になった男がその公園に行ってみると、弁当を持った老女がいる。昔の恋人だと気づかずにその女性は組長に弁当を渡す。
三組目は、売れっ子アイドルとその追っかけの物語。アイドルが自動車事故で顔に傷を負ったために芸能界を引退する。彼女の熱狂的な追っかけは、自分の目をカッターナイフで切ることで盲目となり、アイドルの顔が見えない状態を作り出す。
これら3つの話が、オムニバス風に順次に展開され、第一話が縦糸となって、2つの話を横断する。そして、最後、赤いヒモで結ばれあった二人は雪の中を進み、崖から転落して木の枝に引っかかる。この「心中」と「道行」の最後の場面は、文楽の上演の場面と交互にカットバックされる。
{批評}
この映画は、さほど高い評価を得られていないが、私が見た北野映画の中では、もっとも上質な部類に入る。
ざっと概観すると、この作品は「狂恋もの」という日本映画に伝統的なテーマと、「道行」という歌舞伎・文楽に伝統的な演出、という2つの日本的な美意識を基に作られた、実に日本的な映画である。
狂恋もの、というのは、この映画の3つの物語のように、人を恋するあまりに狂気に陥った人間を描くもので、自殺未遂して精神を病んだ女、弁当を持って土曜の公園で待ちながら老婆になっていった女、アイドルを思うあまりに両目を切断するファンの男・・・・・これら3者が、恋の究極の姿を示している。
道行、というのは、第一話の二人が、赤いヒモでつながりあいながら、ドンドンと風景の中を闊歩していく場面である。そこには約束事のように、桜やモミジが際立って美しく背景をなしている。これから死に向かうものを祝福するかのように、花や紅葉が爆発し、男女の悲劇的運命に対して無関心に美しさを際立たせている。
私が見たこれまでの北野映画は、彼の劣等感の裏返しが気になって仕方なかった。北野は気の弱い人間だからこそ強いヤクザの役をやりたがり、間を持たせる技術がないから、妙に間延びした、間の腐った時間を作り出していたし(ゲイの映画人はこういうのを好む傾向がある)、演技が下手だからこそ、台詞は棒読みで、演技しない演技に頼るしかなかった。それが芸能人特権というのか、逆に美学と受け取られている。贔屓の引き倒しになると、欠点までも長所に見えてくるから世の中は面白いものだと思う。
このように、これまでに私が見た北野映画は、「北野ファンにとっては素晴らしくても、第三者にとってはただの駄作」としかいいようのないものだった。淀川長治さんが北野を天才といっても、それは映画の質が全体的に低下している時代、ヨドチョウさんの戦略的なエールだと見ていたし、黒澤明が北野に「これからの日本映画をよろしく」といったとしても、あの所ジョージをいい役者だという黒澤の人気芸能人に対するお世辞だとしか思えなかった。私は、北野映画を「芸術映画を意識して作られたB級娯楽映画」だと思っていた。
しかし、この「DOOLS」はなかなかいい。北野は恋の究極の姿に祝福を与えたかったのだろう。狂恋の人物たちを美しい風景の中において歩かせる、ただそれだけをしたかったのだ。大金をかけてただそれだけをする、というところが洒落ている。
駄作を作る割りに評価の高いB級監督だった北野は、「ときにはいいものを撮るマアマアの監督」と思えるようになった。ベネチアでグランプリを獲った「HANA−BI」などよりはずっと高度な映画である。(ところでキタノブルーなどという迷信を流したのは一体誰でしょう。小津安二郎の「浮草」1959年の色使いと比較して欲しいですね)。