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映画の見方 

映画が抱えるお約束事

わたしが、このブログで書いている内容をまとめてみたいと思っているのですが、

まず二つのことが言えます。

映画とは、対象を撮影している過程で結果として画面が左右に動くというものではありません。
あらかじめ画面の右なり左の先に、ゴールがあると仮定して、そこに到達するまでの葛藤を左右への動きで表現するというものです。

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月世界旅行』   メリエス
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映画ができたばかりの頃のこの短編映画は、画面向かって右側ー>に月世界があると想定されています。
そして、そこまでの行程は ー>向きの移動で表されており、月からの帰還は逆の<ーー向きの移動で表されています。
つまり画面のイニシアチブを握っているのは、被写体ではなくカメラである、というこということができます。映画の画面に映るものは基本的に撮影する側によって管理されたもの、もしくは編集の過程で管理されたものでもあります。

2001年宇宙の旅
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こちらは月面基地から木星に向かう宇宙船ディスカバリー号。画面に気を付けていると、その進行方向はひたすら−>であることがわかります。




そして、もう一つ重要な映画画面の特徴というのは、同じ価値観同じ内面を持つ人物は同じ方向で表現するというものです。
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孤立した邸宅  グリフェス
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邸宅に強盗が押し入る話ですが、強盗ー>  <ー家人 で左右に分かれてあたかも陣地戦のような画面です。

この二つを合わせたものが、現在主流の映画です。
画面の進むべき方向を ー>と設定し、その先には目的地がある。
そして、その方向を向いているのは主人公、そしてその同調者たち。
それに対し、逆向きの人物たちは、その主人公の目的地到達・目的達成を容易ならざるものにする妨害者、対立者、ライバルもしくは異質な他者、対話者。



『サウンドオブミュージック』
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修道院で奔放なジュリーアンドリュースを弁護する側がー>、批難する側が<ー。

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頑ななフォントラップ大佐の心を矯正するために歌う子供たちはー>、その対象である大佐は<ー。

E.T.
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空を飛んで逃げようとする自転車ー>、それを捕まえようとする警察は<ー。

燃えよドラゴン
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自分の妹の仇と対決するブルースリーー>

『生きる』
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末期ガンの患者志村喬が人生の目的を見出したいと苦悩する場面。その状況にどう対処していいかわからない女の子は、おしゃれな店に冴えないじいさんと同席していることが少々辛い。自然と同世代の恋人に羨望の視線が流れる。

オズの魔法使い
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エメラルドシティーを目指すドロシーはー>方向に画面を進む。そして、彼女の同行者、トト、かかし、ブリキの木こり、ライオンも同じ方向に進む。



よくよく考えると、これは、サッカー中継の画面とそっくりです。
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それぞれのチームのメンバーは、みな協力して敵のゴールを目指します。つまりチームのメンバーは基本的に同じ方向を向いているということです。

スターウォーズ
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後にミレニアムファルコンに乗り込んで共に戦うメンバーは、別々に画面に登場してきます。しかしながら、彼らが皆自由の闘志でありのちに共同して戦うことの画面的伏線として、彼らの初登場画面では、皆例外なくー>方向です。

ちなみに、『スターウォーズ』は『オズの魔法使い』の構造を取り入れたと言われており、ドロシーはレイア姫、トトはR2D2、ブリキの木こりはC3P0、ライオンはチューバッカと言われているから、じゃあ案山子は誰なんだろう?服装から考えて、オビワンだろうなと思うのだが。
まあ、どちらにしても歴史が200年ちょっとで過去にファンタジーの世界を見いだせないアメリカの辛いところがミョーな痛々しい妄想力につながっている。
オズの魔法使い』は西遊記不思議の国のアリスを足して割った内容ですが、エメラルドシティを統治する魔法使いは単なる機械使いのハッタリ男。近代200年の歴史しかないアメリカらしい身も蓋もないファンタジー。
そして『スターウォーズ』の方はというと、そういう妄想のよりしろが自分の国にないものですから、世界中の神話を研究してファンタジー空間をでっち上げようとした。しかしながら、その妄想のよりどころは所詮ローマ帝国史。本気で思ってんですか?アメリカ人って自分たちがローマ帝国の後継者だと?

話は戻りますが、
サッカーの中継画面は俯瞰図ですが、映画の画面は必ずしもそのようなものではありません。
いくつかのカットが組み合わされて、映画の流れを作り出していますが、むしろサッカー中継的な俯瞰図は意図的に隠されていると考えたほうがいいでしょう。
それらのカットは現在の映画では、基本的に統一的方向を持っています。
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更には、移動を表現しない映画の場合、そのゴールは目的地ではなく目的の達成です。

チャップリン キッド』
捨てられた子供が、実の母親にめぐり合うまでのお話です。そしてその間浮浪者のチャップリンが子供の面倒をみるのですが、

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捨てられた子供をチャップリンが引き受けることになったとき、かれはー>の方向に進みます。

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子供がチャップリンのもとから引き離され、孤児院に連れられていきますが、チャップリンはその車を必死に追いかけ子供を取り戻します。
チャップリンの向きはー>、それに対して孤児院の車の向きは<ー
本来、チャップリンは車を追っかけるハズで、そうなるとチャップリンと孤児院の車は同じ方向に進むことになるのですけれども、
チャップリンが、屋根を歩いて車の行先を先回りするという設定により、対立する勢力がー> <ーと画面上でわかりやすい画面構図を描いています。

この映画は、子供に愛情を注ぐことを肯定した映画であり、子供に愛を注ぐことで大人も幸せになれるというメッセージがあるのですが、

母親が子供を捨てて逃げるときには
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<ーの方向に進みますが、

子供を捨てたことに後悔し、ひっかえした時は
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ー>方向です。

これはどういうことかと申しますと、映画の画面で向かって右側の端に目的地がある、もしくは物語の目的が在ると想定された場合、
そちらに向かうこと、そちらを向くことは、物語上はポジティブなことになります。それに反して<ー側を向くこと、その向きへの移動は、物語的にはネガティブなことなのです。
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つまり、画面右端に物語の目的地なり目的があると設定したならば、その方向を向くことのできる、画面の向かって左側は主人公並びに主人公の同調者の定位置ということになります。

もし主人公が青半分にポジショニングしたとするなら、目的地もしくは目的を追求することができないわけですから、逆境にさらされていると考えるべきでしょう。

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画面上の人物の配置は、基本的にこのようになっている。


チャップリンの『キッド』の画面は決してサッカーの中継のような俯瞰の画面ではなく、小さなカットをつなげていったものですが、それらの場面々々をすべてつなげて俯瞰図のように図示すると、
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このようになります。この映画の場合はゴールは母と子の再会になります。

なぜ映画が、このように恣意的に画面の方向を操作しているのか、ということについてですが、
このように画面の方向を操作することで、観客はストレスなく物語を追うことができるというのが理由の一つでしょう。

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映画が誕生して最初の三十年間は、サイレントの時代であり、頻繁に画面に文字が映されていました。それら文字の読み方はー>なのですから、ー>方向の動きは文字との関連から目に心地よいストレスの少ないものです。それに対して<ー方向の動きは、文字の流れと逆になりますから、なるべくなら少なくして欲しいのですね。

基本的に映画はハッピーエンドに向けて物語が進展しますから、二項対立的に分類するなら、ポジティブな場面の方が多くなります。
ポジティブなシーンを文字を読む方向に一致させるなら、映画全体として見ていてストレスが少なくなるのですね。

そして、このように画面の方向を操作することで観客に対してサブリミナル的な効果を上げているものと考えられます。

『キッド』
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子供がいなくなったチャップリンはうちひしがれていますが、そこに警官がやってきて、彼を車に乗せてどこかへ行きます。
その車はー>の方向にすすみ、子供が母と暮らす豪邸の前に乗りつけます。

物語の進行がー>の方向になされることを理解しておく、もしくはサブリミナル的にそのことを了解しておくと、この車にチャップリンが乗った時点で、ハッピーエンドが来るだろう予感が強く沸き起こるのですね。
いわば、この画面の進行方向操作が映画に於ける伏線として機能しているわけです。これは文学的な伏線とは完全に異なるものです。

ブレードランナー
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ナイトクラブで蛇使いをやっているレプリカントをハリソンフォードが射殺するシーンです。
レプリカントー>の方向に走って逃げるのを背後から射殺するのですから、ハリソンフォードもー>の方向に発砲します。

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ここで奇妙だと思うのは、ハリソンフォードの二発目は<ーの方向から発砲されています。
これは、ハリソンフォードが二発目を撃つ前にレプリカントの逃走コースに先回りして正面から撃ったということを表現したいのではないようです。
ここでおそらく映画が語ろうとしていることは、一発目と二発目の画面の向きの違いというのは、サブリミナル的な刺激となって観客に届いているものと思われます。

映画において基本進行方向はー>に設定されていますから、レプリカントの逃走というのは、、物語の中でポジティブな意味を担っているのですね。「生きたい,死にたくない」という気持ちに素直に従うことは生き物としてはポジティブなことなのでしょう。
そしてそのようなレプリカント、ある意味では普通の人間よりもずっと人間らしいレプリカントを平然と射殺する態度は、卑劣な行為と言えるのかもしれません。
そのような意見を、このカットのつなぎは表現している、私にはそのように考えられます。

最初の発砲のカットがー>向きなのは、ハリソンフォードがレプリカントを背後から撃ったことを示すため。
そして二発目の発砲で彼の向きが逆になるのは、生命を渇望するレプリカントを虫けらのように撃ち殺したことへのネガティブな評価の提示と私には考えられます。

そして、そのような情報というのは役者の演技で表現されているのではないのですね。
演技の下手な役者というのは本来何やっても下手なんですが、
映画では全く無表情でありながらも、音楽、色彩、画面の向きで演者の内面を表現するという技法がありますので、時と場合によっては役者は何もしない方がいいのですね。
常に表情で何かを表現しようとやっきになっている役者は、かえって大根に見えたりするものです。

クレショフ効果モンタージュの効果についてソ連での研究ですが、役者は何にもしなくてもその他の要因によって演技しているように見えるというのは画面の方向変換や色彩や光量の変化でも可能なはずです。
そして、私には、方向の操作というのはほとんど誰も気に止めていないという点で実にサブリミナル的な道具だと思われるのです。見れば誰でもわかる明白なことであり、右か左かの脅迫的な二項対立を提示しているわけですから。

サブリミナル手法で登場人物の内面や未来への予感を提示し、それを無意識的に観客に了承させることで、強い共感を引き出している。謂わば映画の無意識と観客の無意識を直に結びつけているわけです。
こういうことに考えがいたと、どうして映画がプロパガンダとして用いられてきたのかがよくわかります。

導師
プロにしろアマチュアにしろ、映画を語る人間はやたらと上から目線なもんですが、あれはどうしてかというと、映画では登場人物の限界、欠点も提示しているからではないでしょうか。観客は登場人物が自分に与えられた駒であり、それをより白として映画という仮想現実の中に入り込んでいるというように考えやすいものです。それゆえ主人公の限界を見せられると、自分に与えられた駒は自分の知的サイズに合わない、つまり「自分はこの映画自体よりも知的な存在ではないか?」などと錯覚するのですが、それって映画にそういう風に仕組まれているだけですから。
別の言い方をすると、映画は2時間弱の上映時間の間、常に観客の心理状態を想定した上で進行していくものでして、それだけの長い時間ですからどこかにアラが出てしまう確率がものすごく高いわけです。

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私は、映画は赤側と青側の闘いというふうにこの文章を書いてきたのですが、その言い方だと誤解を産みそうなので少し訂正しておきます。
赤側の人物には物語の目的が見えています。青側にいるときにはそれが見えてない場合が多い。もしくは赤側の人ほど強く目的の達成を求めていない。

スターウォーズ2』
別にヨーダとルークは戦争しているわけではありません。ヨーダには見えていることがルークには見えていないのです。

スティング
まだ青二才のレッドフォード。師匠の復讐のためどうしてもドネガンをペテンにかけたいのですが、そのような個人的感情に引きずられることは青臭く、また危険であると諭される。

じゃあ、ポール・ニューマンにやる気がないのかと言われると、そういうことではなくて、もっと軽やかなチャレンジ精神で大仕事を成し遂げようという爽やかさが主体なだけです。でも、それだと個人的な情念にかけますから、どうしても主役はロバート・レッドフォードということになるでしょう。
私たち観客も、彼同様どうしてもペテンの実行と成功を見てみたいのですから、必然的に彼に共感する割合が大きくなります。

マネー・ボール
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チームのスタッフに今後の方針を語るブラッド・ピット。主役ですがかれのポジションは<ー、今後採用していく確率論の主導者がー>側。今後の物語はこのキモオタの理論に沿って流れるのですから、彼がポジティブ側であり、ブラッド・ピットはその紹介者に徹している場面です。



地図のイメージはしばしば踏みにじられる

ドイツイギリスの戦争映画を作るとして、あなただったら両軍の配置を左右道割り振りますか。普通だったら、地図のイメージ通りにイギリスー> <−ドイツという配置にするでしょう。
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イギリス軍人を主役にするならこの図の通りで何の問題もないのですが、もしドイツ軍人が主役だったらこの法則に抵触するのですが、

『ブルーマックス』
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この映画ではドイツ軍ー> <ーイギリス軍 と配置されています。
こういうことって言われてみないと気がつかないことなんですわね。つまり画面の左右のことなんて誰も気にかけて映画見てないんですよ。そして私がここで語っているような仕掛けにまんまとハマって情感を操作されているわけです。

映画の画面においては、進行方向がー>に恣意的に決められており、そこに進めるか進めないかで物語状況のポジティブとネガティブ評価を示している、ということをとりあえず了承してみてください。そうすると映画に於けるお約束というものが、芋づる式にゴロゴロわかってきます。
尚、
映画には色々なお約束事があるとは思いますが、ここでは画面の左右の方向だけに特化して語っております。

私がここでいう「お約束ごと」というのは、花火が上がったときに「たまやー」「かぎやー」みたいな掛け声をかけるようなこととは全然違います。玉屋鍵屋は花火職人と観客の間の相互了解事項ですが、
私がここで語る「お約束事」というのは、「…な場面では、…な画面の操作が親和性が高い」程度の意味です。
映画の観客というものは、基本的に教養を求められてはおらず、文盲で無教養でも構わないと考えられています。それゆえ共産主義ファシズムプロパガンダとして映画は重宝されてきたのですが、
これら「お約束事」はあくまでも制作サイドのみのお約束事であって、一般観客にとってはサブリミナル的にしか受け止めていないことばかりです。

お約束事にはどのようなものがあるか

旧情報ー>新情報 

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物語がー>方向に進展するということは、新しいものは画面の向かって右側から登場するということです。

オズの魔法使い
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ドロシーが旅の随伴者に出会うときは、彼らは必ず<ー側。

主人公とはどんな人のことを言うのだろう?と考えるとき、この画面上のポジションがひとつの指針を与えてくれます。例えばシャーロックホームズですが、ホームズは本当に主役なんでしょうか?それともワトソンが主役なのでしょうか?
通常、ホームズが主役であり、ワトソンが語り部という扱いだと思いますが、
グレナダテレビ制作のジェレミーブレット主演のホームズシリーズでは、ホームズの基本の立ち位置は<ーであり、ワトソンの方がー>になります。
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これはどういうことかと申しますと、
普通、私たちは映画を観る時、その物語の進展を興味深く見守っていますから、必然的にー>向きの人物に共感しやすい状態になっています。
ところが、ホームズみたいな天才が主役だと、なかなか私たちは共感できないのですね。ワトソンくらいの知能がちょうどいいわけです。(ワトソン博士を馬鹿にしちゃいけませんよ、一応お医者さんなんですからそれなりに頭良いんです)

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旧情報つまり、観客が既に知っている人物以外にも、観客にとって普通な人物、理解しやすい人物は、ー>側のポジションに神話性が高く、
新情報つまり、観客にとって未知な人物、理解を超えた人物は<ー側のポジションに親和性が高い。

つまり、物語の目的を追求しているのは主人公のようにみえはしますが、本当のところはどうなのでしょう?観客は物語の場面々々において一番共感できるキャラクターを選択して自己裁量で物語にのめり込んでいると思い込んでいますけれども、本当は製作者にほぼ完全に操られているだけなのではないでしょうか?
その場その場で観客に最も共感しやすいキャラクターをー>側に配置させることで製作者が観客がどのように感じながら映画を観るのかについての目論見を私たちは知ることは出来ないでしょうか?
映画というヴァーチャル空間で目的を追求しているのは、実は観客の欲望ということなのではないでしょうか。そして、観客の欲望がどのように推移するかについては、映画が始まる前から制作サイドには完全に想定されきっているものです。

ガンジー
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あくまでも白人の側から見た歴史であり、東洋人には理解不能の神秘が存在する。そのような類型的な見方を残した映画ゆえ、白人と並ぶときガンジー<ー側。

燃えよドラゴン
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ガンジー』同様に白人の視点を通したびっくりアジア!の映画。
白人の視点から新情報=異質な存在としてのブルースリー<ー側。
上映時間も後半に差し掛かった頃、白人観客にはブルースリーとほかの中国人の顔の区別がついてきた頃になって初めてブルースリーのポジションはー>側に変わる。

ランボー
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ランボーは規格外な存在ですから、正直私たち一般人には取り付く島がありません。彼が悲しみを背負った存在だということはわかりますし、その悲しさの正体を見つけることが、この物語の骨格なのかもしれませんが、どちらかというと、私たちはランボーに狩られる立場の警察に感情移入しながらスリルを味わってはいないでしょうか?
世の中の一般的定義では、どう考えてもランボーが主役のはずなのですが、彼の立ち位置は、どうもそうなっていません。そしてランボーが物語の目的を追求するというよりも、彼の心の悲しみににじり寄ることがこの物語の目的なのだろうか?と私は考えてしまいます。





過去・回想
またこのようなことも言えます。画面の向かって右側に物語が進展するということは、時間経過もその方向に進むということです。
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『キッド』
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「そして五年の時が流れた」バックの雲の動きはー>
時間は目に見えないものですから、「時が流れる」というような言い方、つまり「流れる」は液体の移動を示す動詞ですが、そういう比喩的な表現を用いないと表すことができません。
このように画面をー>に進めることももちろん比喩の一つであります。映像的比喩表現とでも申しましょうか。

だから、タイムスリップで過去に向かう場合や、過去を回想するシーンは、<ー向きの画面と親和性が高いです。

ある日どこかで
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ベットで寝転がりながら、自己催眠だけでタイムスリップするという、かなりアレな設定の映画ですが、
過去にタイムスリップするとき、主人公の向きは<ー

愛の嵐
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収容所時代のセックス奴隷に偶然再会。そこから過去の回想が始まる。

『ワンスアポンアタイムインアメリカ
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題名からして回想を軸にした映画と言っているわけですが、デニーロの回想が始まるときには<ー向きと親和性が高い。

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年老いたデニーロがかつて憧れていたジェニファー・コネリーの家を覗いた穴をもう一度覗いています。これは、単に穴を覗くことではなく過去を回想する行為であり、この時点から映画も過去に舞台を移します。
それゆえ、デニーロ視線<ー

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覗いた先には、ジェニファー・コネリーの姿。

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今度は、少年時代のデニーロの目がのぞき穴の外側からのカットで映されます。ここからしばらく少年時代を舞台に話が進みますので、デニーロ視線ー>のものに切り替えられています。




転換・断絶
ターニングポイントという言葉があります。日本語に直すなら転換点とでも言えばいいのでしょうが、映画の画面においてはこのターニングポイントでは文字通り登場人物の向きが転換することが多いです。

ゴッドファーザー
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ゴッドファーザーは、家族愛とマフィアの残酷さの間の葛藤の物語。
これは、物語の構造としての葛藤であるだけでなく、監督を担当したコッポラの態度そのもののようで、かれは、イタリア移民の闇の部分であるマフィアの称揚に繋がるような映画を監督することに当初は反対だったらしい。

敵対するマフィア悪徳警官を射殺する場面で、マイケルコルレオーネの人生はひっかえすことのできないポイントを越えてしまう。

更に言うと、このシーンは『ゴッドファーザー』の物語のターニングポイントであるだけでなく、アルパチーノの人生のターニングポイントでもあるのですね。当時全く無名のアルパチーノを主役にすることに映画会社が反対したので、コッポラはそれを黙らせるために早い段階でこのシーンを撮影しパラマウントの重役にみせたそうです。
結果は、あまりの迫真の演技にアルパチーノ主役のまま映画は完成しました。

あと、全般的に闇の世界マフィアとしての立ち位置は<ー
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マイケルコルレオーネが父親の復讐を自ら実行する決意があることを周囲に示すシーン。
それに対して、家族愛、カトリックへの信頼を示す場面ではー>にまとめられており、
その傾向はシリーズを重ねるごとに強まっていく。

『生きる』
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うさぎのオモチャの動きから霊感を受け人生を意味を見つけた志村喬。とりつかれたようにー>方向に走り出す。




車の事故
平穏な日々も交通事故により奈落に落とされる、自動車教習所に行くとそういうビデオ魅せられたりするんですが、交通事故の瞬間は、画面の向きを左右転させることと親和性が高いようです。


移動の終了
移動のシーンでは、行程全てを映し出しているわけではありません。移動したという事実を表現したいだけで、移動しているシーンを全て映すことはまずありません。
ポイントポイントをつまんで行程を端折るのが普通ですが、移動の継続を示すには、継続した方向を画面が示し続ければそれでいいわけなのですね。
そして
ー> ー> ー> ー>と画面が続いて<ーが楔に入ったとき、その継続は途切れた、つまり移動が終了したと見る者には感じられやすい。

『クオヴァディス』
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ロバート・テイラー率いるローマ軍団がローマに凱旋するシーンです。
軍団の行軍は全てー>向きです。
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ロバート・テイラーチャリオット<ー方向にターンすると、

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終点ローマを見下ろす丘の上に到着していました。これで実質の旅程は終了したということです。


画面方向の切り替えが、継続性の断絶と神話性が極めて高いので、物語のピリオドの代わりに<ー方向の画面が用いられることも多々あります。

エイリアン
クライマックスの20分間、唯一の生き残りシガニー・ウィーバーー>の方向に逃げ続けます。救命艇のなかでもー>向きです。
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最後の冬眠のカットだけは、<ー向きの画面です。
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復路
行きて帰りし物語」の場合、物語は大概往路についてのものです『2001年宇宙の旅』とか『ロードオブザリング』(なんで『指輪物語』という題名にしてくれなかったのだろう?)でも復路はほとんどエンドクレジットのような扱いでほんのわずか描かれます。
そのような復路の場合、<ー進行が一般的に見られます。
何はともあれ、画面の向きを変えると、行き先が違って見えるのが普通の人間です。



映画とは、画面の向きを切り替えることで「何か」が切り替わったと感じさせる表現、もしくは画面が切り替わることで「何か」が切り替わったと感じてしまう表現です。

そして、このことに気がついている一般観客はほとんどいません。それゆえ、そのような切り替えのメッセージはことごとくサブリミナル的に観客に受け止められます。
そして、そのサブリミナル効果をより高めるために、画面の左右の切り替えにもっともらしい理屈を付けることが従来より行われてきております。もっともらしい理由付けにより、方向の切り替えはさらにカモフラージュされ、さらに無意識的に受け止められることになります。




タクシードライバー
映画史的に有名な場面ですが、よくよくチェックしてみますと、この場面でもサブリミナル的な演出がなされています。
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デニーロが銃を購入してから、最初のうちは、ずっと<ー向きに発砲しています。
これは、観客の視線は物語の進展方向ー>に同化しやすいですから、<ーーの方向に弾撃ち込まれると、自分が撃たれているような気持ち悪さを感じるのですね。

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自室で鏡を前に練習しているシーンから、銃の向きがー>に切り替わります。鏡をきっかけに胸像が左右逆だということを利用して画面の左右切替えが行われています。
これで発砲の方向がー>方向に切り替わることで、自分が撃たれているような気味悪さが画面から消えて、気分が楽になります。ついでに自分が撃っているようなカタルシスまで感じてしまいます。
どうして、自室で痛々しい独り言を言いながら銃の練習をしているデニーロに観客は乗せられてしまうのかというと、そういうサブリミナル的な技法が使われているからだと私は考えています。


階段・踊り場

こちらも伝統的に多用されてきた画面の進行方向の切り替えを自然なものに偽装するための道具立てです。

太陽の帝国
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戦争状態に過剰適応した少年は、空襲に出くわしても怖いという感覚が麻痺している。
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ふと気が付くと自分の親の顔さえ思い出せない可哀想な子供である自分という現実を認識すると、年齢相応のか弱い子供に戻って大人に抱えられて階段を下りていく。

少年の認識の急激な変化を階段を下りるための急な方向転換になぞらえたドラマチックな表現。


天使

映画の画面は、その方向で登場人物の内面や状況を表現しているわけであります。それならば逆に、ただ画面の方向だけをポジティブに構成してみると、内面や状況の変化がポジティブであると説得させることは出来ないでしょうか?
これはいわば、原因と結果を取り違えさせるテクニックです。

私たちは、原因が結果を有無と考えており、そのことは科学の根幹であり論理の根幹でもあるのですが、日常生活的には実にしょっちゅう原因と結果を取り違えています。
代表的な例が深呼吸でしょうか。
私たちはゆったりした気分の時はゆったりと呼吸できるものです。そして深呼吸とはゆったりした気分であると自分を錯覚させるために敢えてゆったりした呼吸をしてみることなのです。

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映画の画面は物語上の葛藤を左右の対立として視覚的に表現しているわけですが、それなら画面上に赤側の数的優位を作れば、勝利できるように見えるのではないか、という原因と結果を取り違えさせる手法です。

『ロッキー』
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アポロとの戦いに備え、それまでの不健康な生活を改めて激しいトレーニングに精を出すロッキー。真面目にボクシングに取り組むようになってからはロッキーの向きはー>主体になります。
そして、ファンファーレのテーマ曲に合わせてランニングするロッキーを後押しするように煙突の煙もー>方向に流れます。

煙突の煙は頻繁に天使の役割を担わされる。煙突の煙の方向を見ていれば、どのくらい真面目に取られた映画であるかが大体分かる。


このように物語をポジティブ方向に流す為に配置された補助物のことを、このブログ天使呼称しております。

タクシードライバー
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デニーロは大胆にも選挙事務所で働く女性をその職場にナンパに出向きます。
普通に考えると、そんなナンパが成功するわけがないのですが、なぜか成功してしまいます。
そして、この事務所のドアをくぐる前の画面では、全く意味もなく、ロン毛の通行人がー>方向に歩いていきます。

この些細な動きが、デニーロのナンパ成功の画面的伏線になっていると考えられます。

『生きる』
おそらく映画史上最も成功した「天使」の使用例
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人生の意味を見出したいと悲愴な思いの志村喬。でも女の子はそんな思惑には気づかない。隣の席のカップルが青側の数的優位を作り出し、志村喬の劣勢を表現。

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女の子に自分がガンであることを打ち明けるも、その態度のキモさゆえ女の子ドン引き志村喬単に劣勢であるだけでなく青サイドに配置替え。ほぼ崖っぷち状態。

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そこに起死回生のうさぎのおもちゃのー>への動き。これが私が言うところの天使です。

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そのうさぎの動きで、人生を意味を見つけた志村喬。とりつかれたようにー>方向に走り出す。

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人生の意味を見つけた志村喬の背中で、ハッピーバースデーツーユーを歌う赤の他人たち。
ストーリーを現実的に見るなら赤の他人ですが、映画の仕組みを了解してこのシーンを見るなら、この学生コンパの人たちは天使の群れであり、志村喬を祝福している。

ちなみに、「天使」という私的用語はこのシーンから思いつきました。



地図的なイメージは踏みにじられている



暫定的な居場所

映画の画面はこのように構成されています。
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ー>側にいる場合には、物語の目的の方向を向くことができ、<ー側では物語の目的に近づくことができないわけです。

つまり主人公がどのような時物語の目的に近づくことができないかを考えてみると、<ー側のポジションと親和性の高い状況がわかります。

逆境
いわゆる絶体絶命の場面です。とりあえず生き延びることが先決で、目的の追求は二の次という状況です。主人公が死んだら話続かないですから、絶体絶命の場面は暫定的ということが言えます。

宇宙戦争
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父親のトム・クルーズが、頭のおかしくなったおっさんを殺しに行く場面。
女の子は、トム・クルーズが人殺しをするという事実と、もしくは彼が返り討ちにあって殺されてしまうかもしれないという二重の恐怖に<ー側を向くしかない。

『生きる』
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先ほど「天使」の解説で取り上げたカット。女の子に自分がガンであることを打ち明けるも、その態度のキモさゆえ女の子ドン引き


崖っぷち
物語がー>に進むということは、その先には広いスペースがあるということです。その逆に主人公が<ーをむいている場合は、その先にはほとんどスペースがありません。それゆえ行き場や居場所のない崖っぷち感を表現する際には<ーサイドを使うことが多いです。

『生きる』
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若い女と遊び歩いていることを息子夫婦から叱責され、もしやの状況を考えて遺産相続の話まで持ち出された志村喬。自分が末期ガンであることを言い出す気持ちにとてもなれず、崖っぷちの気分。


嘘つきのポジション
嘘つくことが物語の目的の追求というと詐欺師の話になります。通常は自己欺瞞は物語の目的にはなり得ません。
風と共に去りぬ
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正直、スカーレットみたいな女勘弁して欲しいです。
ただ、映画の中では、スカーレットが嘘偽るときは<ー向きが常態です。




入室 入郷
異国、もしくは他人のテリトリーというのは、文句なしにアウェーの状況です。
それゆえ外国入国のシーンや他人の玄関をくぐるシーンは<ー親和性が高いです。

『サウンドオブミュージック』
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フォントラップ大佐の邸宅にやってくるも、門をくぐることに気が進まないマリア。


第三の男
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ドラキュラ
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上司の部屋
日常感覚からすると上司の部屋は真にアウェーの状況です。なかなかくつろぐこともできませんし、自分のやりたいように振る舞える場所でもありません。そういう理屈からでしょうか、非常に高い確率で上司の部屋への入室は<ーとなります。

アラビアのロレンス
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お祈り
ある意味、人にとって究極の上司というべき存在が神であり、神に祈るシーンの<ー方向の親和性は高いです。
十戒
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007は、自分の身分を偽り、敵地に単身乗り込み、常に絶体絶命の危機に身を晒しているわけですから、主人公でありながら<ー向きと親和性が高いです。
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戦士の休息
このブログの中では、便宜的にポジティブ・ネガティブという言葉を使っていますが、それは物語の中で設定された目的に対してポジティブであるかネガティブであるかということです。
別に、世の中で一般的に言われている前向き後ろ向きという意味とは直接g関係ありません。
もし、映画の中で語られることが戦争の悲惨さであり、主人公が戦場で痛ましく倒れる悲劇的瞬間がその映画のゴールだとすれば、映画において血まみれなのはー>の方向と親和性が高いということになります。

西部戦線異状なし
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第一次大戦塹壕戦で兵士が死ぬ映画です。厭戦映画であり、勝利を目的とし他映画とは思われません。
人の死ぬ流れはー>

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戦場から離れて一時の安楽を貪るときには、<ーが普通です。

明日に向って撃て
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有名な『雨にぬれても』の自転車シーンですが、これも<ー方向です。最終的に血まみれとなる物語において、ほのぼの心温まる「戦士の休息」の時間ということです。

スーパーマン
映画の中盤で新聞社の同僚の女の子と空を飛ぶシーンがあるのですが、空を飛ぶ方向に規則性が見られません。
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気持ちのいいシーンですが、映画のストーリーの本筋には関係ないエピソードで、こういうのは物語の目的達成の観点から見るにポジティブとはみなせないということなのでしょう。



いかんともしがたいこと

自動車
車の運転席と助手席に座っている人物を撮影するとき、一番簡単なのは、それぞれ反対側の席にカメラをおいて映すことですが、そうすると

『テルマとルイーズ』
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二人の顔の向きが食い違ってしまいます。
撮影的にはこの構図を選ぶのが一番簡単なはずなのですが、それをすると二人の内面が食い違っているように見えてしまうのですね。

それで、二人の心が通じ合っているとしたら、
車外にカメラを置いて撮影して二人の向きが揃った画面が必要になることがあります。
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もしくは
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このように助手席側の人にそれとなく後ろを振り向かせたりして、画面の向きを揃えます。

車の運転手を撮る場合、カメラの置き場所は、基本5箇所しかありませんから、ロードムービーはいろいろ大変です。

汽車 電車 船    

自動車、バイクそれに飛行機は、乗った人の顔は必ず進行方向をむいています。それらと比べると、これらの移動手段には面白い特徴があります。
進行方向と人物の顔の向きが食い違っていても問題ないのです。
乗り物の進行方向を状況に例え、その状況と主人公の内面の食い違いを表すときに便利な道具です。

そして、進行方向を向く必要のない移動手段というのは、登場人物が自ら運転席に座る必要のないものです。そういう乗り物の場合は特に、主人公の内面とはべつに状況に流れというものを乗り物の移動方向に仮託しているような場合が多いのです。

ガンジー
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汽車ー>の方向に向かっているのに、ガンジー<ー向きです。
長いものに巻かれろ、易きに流れろ的な生き方を拒否して、革命的人生を送るガンジーを表現しているものと思われます。
そして、この直後のシーンでは、人種偏見から汽車から放り出されることになります。

  
自転車、バイクの二人乗り

日本の青春映画には自転車の二人乗りのシーンが必ずと言っていいほど出てきますが、自転車バイクの二人乗りというのは、二人が同じ方向をむいているのですけれども、前に乗って運転している人には、後ろの人の姿が見えません。
それゆえ、後ろに乗っている人の恋心にあまり気がついてくれない前の人という状況をあらわすのに便利です。
もしくは、自分の本当の心を偽ったまま明かせない女の子を後ろに乗せてツンデレのシーンを演出することもよく行われています。

日本映画はこういうシーンすごく多いんですが、アメリカ映画ではあんまり見たことがありません。

私、日本人について思うんですが、好きな相手に好きだといっても、損する人も損することもないんですよね。ダメもとでも好きだと言えば活路開ける場合多いし、例えどんな相手からでも好きだと言われりゃ嬉しいはずなんですよ。

やっぱ日本人陰湿ですわ、と思う。


バッターボックス

通常の野球中継ではピッチャーの背中越しにバッターを撮す構図が用いられます。
無論、ピッチャー、バッターのアップもありますし、ネット裏からバッターの背中を撮す構図も取られますが、基本となるこの構図で、ヒットを打って出塁しようとすると、

<ー方向に走り出さなくてはいけません。これは映画のお約束事的にはネガティブな方向への移動ですから、打つ側が主役の場合には、厄介な問題なのですね。
だから、バットがボールを捉えた瞬間に、バッターを後ろから撮す構図に切り替えられることが多いです。

『ナチュラル』
左利きの野球選手の物語であり、天才でありながら人生全然上手くいかない人の物語でもあります。
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左打者がバッターボックスに入ったとします。彼の顔をアップで撮そうとすれば必然的に、顔の向きが<ーになってしまいますから、
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バットがボールを捉えた瞬間に、背中からの視点に切り替えてー>の方向を作り出します。

ロバート・レッドフォードブラッド・ピットには親子説まで流れるくらいで、まあ顔が似ているんですけれども、ブラッド・ピットの『マネーボール』でも同じテクニックが用いられています。
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この人は、何の因果か左利きでして、そうなると通常の画面映りは常に<ーネガティブ方向になってしまいます。それが、何をやってもうまくいかない天才選手を画面に表現するに実に都合のいい条件建てとなっています。



北枕と蘇生 
物語はー>の方向に進展するのですから、必然的にー>方向への動きが多くなります。それゆえ画面上にはーー>方向への残像がちらついているような感じがあり、進行方向に起き上がるのはスムーズに見えるのですが、<ー方向に起き上がるのは負荷がかかるように感じられるものです。

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この性質を利用して、生きているときはー>の方向をむいているのですが、息を引き取るタイミングに合わせて<ー方向に頭の向きを切り替える手法が一般化しています。
人が死んだあと、枕を北向きにする私たちの習慣とそっくりですね。

勝手にしやがれ
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イントレランス』1916年
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バビロニアの女弓手が射殺されるシーン。
96年前には既に「北枕」という手法が映画に用いられていた。

塹壕にて』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10342341
これは、映画ではなく、コスプレ愛好家が撮影した自主フィルムです。
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アマチュアの短編作品だけあって、爆発シーンを撮影することができていないのですが、それでも、「お約束事」である臨終場面での頭の向きの切り替えを行なっています。
興味深いことは、この「北枕」で臨終を示す手法は、その他の血糊とか爆発とかのもっともらしい要素にサポートされていないと、見ている人には意味がわからないのですね。
この兵士が、爆発で死んだことが見ていて分からない視聴者もいるというのがコメントから分かって面白い。

逆に言うと、臨終の場面ではとりあえずこのように頭の向きを変えた画面をつなぐことがそこまで「お約束事化」しているのかということでもあります。

インディージョーンズ 最後の聖戦』
臨終のシーンはいくらでもありますが、よみがえるシーンはあんまりありません。現実では死ぬべき時に人は死ぬだけですから。
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銃弾を受けて瀕死のショーン・コネリー

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ところが、聖杯から水を傷口にかけると、あら不思議。

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傷は治って、すっかり元気です。そして頭の向きもいつの間にかひっくり返っています。


画面を傾ける 
 真に受けてはならないお話にならない状態

第三の男
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間抜けな素人探偵による謎解きの物語なのですが、主人公が間抜けなため情報収集能力とその解析能力が低く観客に正しく謎解きの材料を提供することができません。
これでは『アクロイド殺人事件』と同じくアンフェアな状況です。

それゆえ、主人公の観察力に問題があり、容疑者キーパーソンから正しく情報を引き出せていないことを観客にサブリミナル的に知覚させるために、実は胡散臭い人物が映る時には画面を傾けています。

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更に言うと、主人公自体が誤った情報の発信源であるので、彼が酒を飲んでいるシーンでは、彼自体が激しく傾いています。

恋する惑星
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金城武は酔っ払ってまともな話が出来ていません。電話の向こうの女の子にはもう相手にされていませんが、観客の我々も同様に彼のことをまに受けてはいけないというメッセージです。

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