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2007年3月30日 (金)

ニッポン人・脈・記第3回

ニッポン人・脈・記

第3回 実力者が一喝「騒ぐな」2007年03月07日

首相安倍晋三(52)が拉致問題に取り組むきっかけは、20年ほど前、父晋太郎の秘書をしていた時に拉致被害者 有本恵子(ありもと・けいこ)の両親が訪ねて来たことだった。
内閣のメルマガに安倍はこう書いている。
 「そのとき私は、国家がよその国の国民を連れさるなんてあり得ることだろうかと半信半疑でした。しかし、調べていくうちに北朝鮮の犯罪だと信じざるを得なくなり、日本がこの問題を報知してきたことに愕然としました」
 安倍と同じ93年総選挙で当選、いま帝京平成大教授の米田健三(よねだ・けんぞう)(59)は「東京裁判史観の不当性」を訴え続ける。自民党議員だったころ、外交や安全保障を議論する党の部会に顔を出した。
 「でも票にならないせいか、閑散としていてね。出席議員の関心はODA予算や地元の基地交付税額といった金がらみだった」
 そんなムードにあきれていた米田は、やはりつまらなそうに議論を聞いている安倍を見つける。安倍もまた憲法9条や戦後体制に強い疑問を抱いていることを知り、親交を深めていった。

 97年2月、横田めぐみの拉致疑惑が浮上、自民、新進両党の議員からつくった拉致議員連盟に安倍と米田は参加する。その秋、自民党に拉致問題を議論する小委員会をつくろうとした。だが党内の反発が強く、食料支援なども扱う「日朝問題小委員会」となる。
 ある日、安倍が司会する小委員会に突然、野中広務(のなか・ひろむ)(81)が入ってきた。当時は幹事長代理、大実力者で党内ではハト派の代表的人物。「日本は北朝鮮を植民地支配した。拉致など声高に騒ぐ話ではない」と一喝。安倍が米田に目配せし、反論を促す。しかし……。
  結局小委員会は数回開かれたあと休眠状態になった。
  そのころ自民党は、田中角栄、竹下登の流れをくむ小淵派の全盛期。野中も首相橋本龍太郎も属していた。伝統的に親中国のこの派は北朝鮮とも友好関係をめざした。橋本内閣は6・7万のコメ支援を決定。小淵政権も森政権もコメ支援を続けた。
  02年春。拉致議連会長だった元建設相 中山正暉(なかやま・せいき)(74)へのクーデターが起きる。中山は、有本恵子の家族に「(有本のケースは)日本人が日本人を拉致したのだからほかの拉致疑惑とは別」と伝えるなど、北朝鮮寄りの発言をした。
  安倍と米田らは、会長以外のメンバー全員が脱退して新しい拉致議連を立ち上げると言う荒業を思いつく。4月、その新拉致議連が発足。会長には、安倍らの人選で石破茂(いしば・しげる)(50)が就任した。
  石破「なぜ私なのか」
  安倍「ごりごりの右翼じゃないから、あなたがいいんだ」
  当時はまだ「共産主義嫌いの集団」とみる向きが多かった。
  新拉致議連は、各国大使に説明するため英文冊子を作ってほしいと外務省に求めた。だか「いたずらに北朝鮮を刺激しない方がいい」と拒まれ、党費でつくった。米田と石破が来日中の国防相に説明すると、「えっ、そんなことがあるんですか」。

02年9月、首相小泉純一郎(65)が訪朝、最高指導者の金正日が拉致を認め、党内の空気は一気に逆転した。安倍は「対話と圧力」路線の「圧力」を代表し、小泉後継の首相に駆け上がる。
  平沢勝栄(ひらさわ・かつえい)(61)は安倍が小学生のころの家庭教師だった。警察官僚としてスパイ事件を扱う外事畑を歩き、衆議院に。新拉致議連結成時に事務所長を務めた。04年、元自民党副総裁山崎拓(やまさき・たく)(70)と中国で北朝鮮高官と会談、小泉の2回目の訪朝につながる。
  いま平沢は、安倍政権をどうみているのか。
  「小泉政権が『郵政内閣』とすれば、安倍政権は『拉致内閣』と名付けてもいい。国民に北朝鮮はけしからんという気持ちがあるから、安倍さんの姿勢に拍手喝采、逆に弱腰の人たちはいわば売国奴ということで大変な批判を受ける。しかし、拉致で出来た政権だから、結果を出せなかったら国民は失望する。厳しいね」
  安倍は2月25日、新潟で拉致被害者5人と会った。「6者協議で決まった日朝の作業部会で拉致問題の完全解決をめざしたい」。5人には無事に暮らす喜びと、まだ帰らぬ日とたちへの憂いが交錯していた。

(森川愛彦)

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