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2007年3月30日 (金)

ニッポン人・脈・記第2回

ニッポン人・脈・記

 第2回『何かある』闇から発掘」2007年03月06日

北朝鮮による拉致問題に、はじめは官庁も政治家もマスコミもほとんど目を向けなかった。掘り起したのはごく少数のジャーナリストや議員秘書である。
 「みんなが追いかけるものはいい。誰も追いかけないものを追いかけたい」
 大阪の朝日放送の石高健次(いしだか・けんじ)(56)は、そんな記者魂の男である。ひたむきな取材の軌跡は、3本のドキュメンタリー番組のDVDにきざまれている。

 1本目は、92年5月オンエアの「楽園から消えた人々 北朝鮮帰国者の悲劇」。日本海の荒波の映像と「忘れ去ってしまうにはあまりにつらい重い現実。それは新潟の港から始まった」と言うナレーションで始まる。北朝鮮の核開発疑惑が起き、それを調べているうちにつかんだ話だった。
 戦後しばらくして在日朝鮮人9万人余が北朝鮮を「医療費も教育費も要らない地上の楽園」と信じ、新潟港から帰っていった。やがて思いがけない話が在日の家族たちに伝わる。寒冷地や炭鉱に回されて音信普通、政治犯として処刑された人もいると言う。DVDには、肉親の身を案ずる在日の人々を訪ね、確かめ歩く15年前の石高が映っている。
 2本目は、95年5月オンエアの「闇の波涛(はどう)から 北朝鮮発・対南工作」。前回の取材で石高を信頼した在日の女性が打ち明けた。その女性は兄が平壌で銃殺されている。「私、あなたにまだ言わなかったことがある。実は北から来た大物スパイと私、同居していた」
 そのスパイこそ辛光洙(シン・グァンス)、日本から原敕晁(はらた・だあき)を拉致したとされる男である。石高は辛の共犯者を追って韓国の済州島に飛び、直撃した。「ひとりの日本人の生死がわからないんだ」と問い詰める石高。逃げ回る共犯者。ついに道路にへたりこんで泣き、犯行を認めた。
 それにしても北朝鮮はひどい国だという話は韓国の情報機関にのせられているのではないか。石田かはいつも疑いつつ、裏付けに努めた。
オンエアから1ヵ月後の95年6月、その韓国情報機関の高官がソウルの一隅の喫茶店で教えてくれた。「77年ごろ、バドミントン帰りの13歳の女の子が日本の海岸から拉致されたらしい。名前はわからない」。なんだ、それは。本当なのか。

共産党の参院議員橋本敦(はしもと・あつし)(78)の秘書だった兵本達吉(ひょうもと・たつきち)(69)もまた、拉致を追っていた。
78年、日本海の海岸などで3組のアベックが蒸発した。80年1月、産経新聞の阿部雅美(あべ・まさみ)(58)が足で調べて「外国情報機関が関与?」と1面トップで報じた。だが、政府も警察も反応せず、世間は「虚報」扱いした。
 87年11月、大韓航空機爆破事件が起きる。犯人 金賢姫(キム・ヒョンヒ)は「日本から拉致された李恩恵(リ・ウネ)に日本語を教わった」と、明かした。兵本はアベック蒸発を思い出し、それぞれの家族に会いにでかける。「松本清張の世界のようにミステリアスだと思ってね。はじめは好奇心」。だが、何かがある。
 88年3月、表もとのデータをもとに橋本が国会で質問、国家公安委員長 梶山静六(かじやま・せいろく)は「北朝鮮の拉致の疑い濃厚」と答えた。そうだったのか。それにしても何のため?京大でハンガリーの学者ルカーチを読んでマルクス主義になった兵本にとって「社会主義の北朝鮮がやるはずがない」のだが。
 石高の3本目のDVD、97年5月オンエアの「空白の家族たち 北朝鮮による日本人拉致疑惑」その年の1月、石高が横田滋(よこた・しげる)、早紀江(さきえ)夫妻をはじめて訪ねる場面から始める。ソウルで「13歳の少女」の話を聞いて1年半、石高はようやく「横田めぐみ」にたどりついた。
 夫妻の居場所を割り出したのは兵本だった。阿部と週刊誌「AERA」がいち早く報じ、石高と兵本は拉致被害者の家族会の結成に力を尽くす。
 それから10年。石高は相変わらずドキュメンタリーを手がけ、兵本は共産党を除名され、阿部は関連会社の社長になっている。「官僚の事なかれ主義、政治化の無責任が、真実解明を阻んでいた」と石高。彼らの曇りなき眼がなかったら、拉致問題はまだ闇の中にあっただろう。

(早野透)

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