『アジア・アフリカ研究』2002年第2号Vol.42,
No.1 (通巻364号)、
アジア・アフリカ研究所刊
アジア・アフリカ研究所所員 新藤通弘
1)
問題の所在
近年、コスタリカについて、さまざまな本が出版され、記事や報告書が多く書かれている[1]。さらに本年になって各地で映画「軍隊をすてた国」が上映され、コスタリカへの関心が一層高まっている。ほとんどは、コスタリカを「軍隊を捨てて、教育費に回した、民主的で平和・中立の国」として期待を込めて語っている[2]。
しかし、これらの人々が、たとえ善意から行っているとしても、その内容には、社会科学の立場からすれば、無視できない史実や現状についての美化、あるいは一面的な評価が、少なからず見られる[3]。本稿は、本格的なコスタリカ社会論ではないが、現在、上記の理解が日本各地で広がっていることを考慮して、共通して見られる一面的な評価と思われる事象について、不十分ながらも問題を提起するものである。なお、80年代の中米紛争におけるコスタリカの役割、アリアス・プランの果たした役割については、別稿を期したい[4]。
2)
コスタリカの非武装の内容について
まず、「非武装の国」として、最も賞賛されているコスタリカの現行憲法を見てみよう。コスタリカ憲法は、第12条で、次の通り規定している。
「常備機関としての軍隊は禁止される。
公共秩序の監視と維持のために必要な警察力を置く。
米州の協定によって、あるいは国家の防衛のためにのみ、軍事力を組織することができる。いずれの軍事力も常に文民権力に従属する。軍隊は、個人的であれあるいは集団的な形であれ、声明あるいは宣言を討議したり、発表したりしてはならない[5]」。
すなわち、コスタリカ憲法は、確かに常備軍の保持を禁止している。しかし、同時に非常時には軍隊を組織できることを規定している。憲法第147条によって大統領と閣僚によって構成される政府評議会が、国会に国家防衛非常事態の宣言、徴兵の承認を要請し、第121条によって国会の3分の2以上の賛成でそれは承認されることとなっている。つまり、非常時の軍隊は否定されていないのである。この点では、日本国憲法第9条の方が、厳格に遵守されるならば法規的には徹底していると思われる。この常備軍廃止の理念は、2000人の犠牲を出した、1948年の苦い内戦の経験からでたものである。その際コスタリカの国防、安全保障に関しては、米州機構(OAS)及び米州相互援助条約(リオ条約)に依存することを念頭に置いていた[6]。
それでは、コスタリカの「警察力」は現実にはどのようなものであろうか。国際的に定評のある英国・国際戦略研究所の『ミリタリー・バランス2000−2001』によれば、次の通りである[7]。
「総治安兵力(準軍隊)」8,400人 (人口の0.22%)
市民警備隊 4,400 (戦術部隊、特殊部隊を含む)
国境警備隊 2,000
地方警備隊 2,000
小火器(軽機関銃、小銃)のみ
市民警備隊[8]は、ロケット発射器90ミリをもっており、日本の警察(拳銃、ライフルなどの小火器)以上の装備をしている。地方警備隊は小火器のみである。また、治安、諜報、対テロ特殊部隊も存在している。多くの将校が、アメリカ、韓国、台湾、イスラエルの軍事学校で軍事訓練を受けているといわれている[9]。
憲法制定後のコスタリカの国防、安全保障政策は、常備軍廃止を決めた当時の事情をその後も引きずっていくことになった。米州機構は、歴史的には米ソ対決の時代に(1948年4月)アメリカの西半球支配のために作られた集団安全保障機構である。同機構は、80年代まではアメリカの政策がほぼ全面的に実行された組織であった。現在はさすがにかつてのようなアメリカの一方的な支配が貫徹する場所ではなくなり、アメリカに対する反対意見も述べられたりしているが、依然として強い反共的性格を持っている組織である。それは、キューバを排除していること、オブザーバー諸国から中国、ベトナムなどが排除されていることからも理解できよう。また、昨年の同時多発テロ事件、今回のベネズエラのクーデター未遂事件では、米州機構を舞台としてアメリカ主導でアフガン報復攻撃支持、ベネズエラのクーデター派支持が推進された事実もある。同憲章第28条の集団安全保障の規定をどう考えたらよいのか、問題もあるように思われる。依然として冷戦時代のマイナス面をぬぐいきれていない組織といえよう。
リオ条約(米州相互援助条約)は、1947年9月結成された軍事条約である。アメリカの西半球支配の道具として利用されたことは、歴史が示している。コスタリカが、60年代以降、アメリカを除いて近隣の中米諸国には覇権主義的、侵略的政権が存在しないという国際環境の中で、非武装政策を維持できた条件は、自国の国防、安全保障をアメリカが主導する米州機構、リオ条約に依存したことと、いろいろな事例に見られるようなコスタリカの対米従属外交によってのみ可能であったといえよう[10]。そうした対米従属性から、後で詳しく述べるが、中米紛争の際にはレーガン政権による反サンディニスタ反革命勢力であるコントラの出撃基地、支援基地の自国内設置を認めたのであった。また、同様の理由でパナマの民族主義政権打倒をめざす反政府分子の訓練基地も自国内に認めたのであった。この対米従属性は、現在も継続されており、中南米の左翼勢力の中では、歴代のコスタリカ政権の内外政策は、決して自主的、革新的とはみなされていないのである[11]。
現在、コスタリカの警備隊は、1999年に結ばれたアメリカとの麻薬取締協定に基づいて、米軍と大西洋、太平洋で共同パトロールを行っている。対麻薬対策でココ島(国立公園)の使用を米軍に認め、同島は、ほとんど軍事基地となりつつあることが懸念されている[12]。最近では、本年10月、麻薬撲滅の口実による米軍の中南米への派遣計画「コロンビア計画」に基づいて、艦船15隻(7月の計画は38隻)をコスタリカに長期間寄港させたいという要請を、コスタリカ政府は最終的に認めることになった。その際、米軍の兵員がパスポートなし、ビザなしで自由にコスタリカ領内に入国できる処置が取られたことに対し、さすがにコスタリカ国内でも大きな論議を呼んでいる[13]。
なお、米軍の艦船の寄港は、7月コスタリカ国会で、コスタリカの憲法に抵触するのではないかという批判が提出され、国会で4日間激しい討議が続いた。その際、アリアス元大統領は、「別に他国の軍隊と戦う目的ではなく、麻薬取締の目的であるから、米軍の寄港は認めるべきである。もっと財政赤字などの重要な問題を討議すべきである」と発言している[14]。ここには、アリアス元大統領のアメリカに対する姿勢が如実に示されているように思われる。
ちなみに、中南米においては、1950年代以降この半世紀間、アメリカの権益を侵す政権と見られた民族的、あるいは革新的政権はすべて、この地域を「裏庭」=「勢力圏」と考えるアメリカによる直接・間接的(傭兵を使用)軍事介入あるいは干渉を受けており、キューバとベネズエラを除き政権は倒壊させられている。それらを列挙すれば、次の通りである[15]。
1954年 グアテマラのアルベンス左翼政権、CIA(米中央情報局)支援の傭兵の進入により倒壊[16]。
1961年 キューバのカストロ政権打倒をねらい、アメリカの傭兵がキューバのプラヤヒロンに侵攻するも、撃退され失敗に終わる[17]。
1964年 ブラジルの民族主義的グラール政権、CIAの支援を受けた軍部により打倒される[18]。
1965年 ドミニカのボッシュ民族主義政権、カーマニョ大佐を指導者とする民主勢力、米軍侵攻より掣肘される。国連で非難される[19]。
1971年 ボリビアのトーレス左翼軍事政権、CIAの支援を受けた軍部クーデターにより倒壊する。
1973年 チリ、アジェンデ政権、CIAと呼応したピノチェットの軍事クーデターにより倒壊。国際世論から非難される[20]。
1983年 グレナダのモーリス・ビショップ左翼政権、米軍侵攻により倒壊。国連で非難される[21]。
1989年 パナマ民族主義政権、米軍侵攻により倒壊。国連で非難される[22]。
1990年 ニカラグア、サンディニスタ政権、CIAの傭兵コントラとの長期干渉戦争により経済が疲弊し、選挙で敗北、下野する。アメリカの干渉ハーグ国際法廷で非難される[23]。
2002年 ベネズエラ、チャベス左翼民族主義政権に対し、アメリカが支援したクーデター勃発するも失敗に終わる[24]。
チョムスキーによれば、「米国は、その国の労働者の権利が抑圧され、海外からの投資条件が良好であるかぎり、その国の社会改革を許容する。コスタリカ政府は、この決定的な二つの義務をいつも遵守してきたので、ある程度の改革を許されてきたのである」[25]」とコスタリカのこれまでの社会改革の性格を的確に指摘している。
こうした歴史的事実は、逆説的にいえば、中南米においてアメリカの干渉を受けない政権あるいは政策は、革新的、民族的ではないということである。歴史的にみると、中南米諸国の政府が、革新的な内外政策を実行しようとすると、アメリカの軍事介入を受けるので、みずからを武装して守らざるをえないという厳しい現実があるのである。国際世論に訴えて、非武装を貫き、非同盟に参加し、革新的政策を実行することは望ましいとしても、非現実的な考えとならざるをえない。コスタリカの場合はこうしたアメリカが憂慮するほどの革新的な内外政策を犠牲にし、かつ親米協調路線を維持してはじめて可能な非武装といえるかもしれない[26]。
3)
コスタリカの中立政策の内容
次にコスタリカの中立政策の実態はどうであろうか見てみよう。ところで、一般には、中立の義務としては、次の5項目が挙げられている[27]。
戦時においては、@黙認義務(自国民が受ける不利益を黙認する)、A避止義務(一方の交戦国に直接、間接の援助をしない)、B防止義務(交戦国による戦争目的の自国利用を防止する)。また、平時においては、C侵略的軍事ブロックに加わらない、D自国領土に外国軍事基地を置かない。
コスタリカの中立は、1983年のモンヘ大統領の大統領中立宣言によって確立されたといわれている。それでは、その中立宣言はどういう経緯で決定され、どのような内容を持っているのであろうか。国民解放党のモンヘが1982年5月大統領に就任したとき、コスタリカは深刻な経済危機に見舞われていた。対外債務は26億ドルにたっしており、コーヒーなどの輸出価格も低迷していた。IMF(国際通貨基金)の指示による財政緊縮政策を前政権と同じように実施する必要があった。首都サンホセには、CIAに支援されたコントラと呼ばれる反サンディニスタ武装勢力である民主革命同盟(ARDE)が司令部と放送局をもっており、北部では戦闘基地を設置していた。ARDEは、コスタリカ領内から自由にニカラグアに出撃し、コスタリカに帰還するという活動を行っていた[28]。モンヘは、大統領就任後、こうしたコントラの反サンディニスタ活動を「秘密裏に、抑制して、注意深く」行うということで、「アンビバレント(二重評価どっちつかず)」な態度で許可していた[29]。モンヘ政権は、反共主義と中立政策の追求の間で揺れていたのである[30]。モンヘ大統領は、「膨大な援助を受けたアメリカに協力して、コスタリカ領内におけるコントラの存在と活動に、殊更寛容であった」といわれている[31]。
しかし、国内でこうしたコントラの活動を容認することは、コスタリカの伝統的な中立政策を矛盾するのではないかという批判が国内で高まってきた。国内のコントラの存在をめぐって左右の対立も激化し、いくつかのテロ事件が起き、クーデターが噂されさえした[32]。さらに83年半ば北部ではコントラの暴力事件で農民6名以上が殺害されるという事件が起きた。国民解放党政府部内の左派は[33]、左翼政党の人民同盟、労働組合、一般市民によるコントラの国外追放の要求を背景に、中立を維持するよう右派の[34]モンヘに迫った。政権内部の対立も激化した。コントラの活動に対する何らかの強い規制が必要であった。こうした動きに押されて、モンへ大統領は、1983年9月「永世、積極、非武装中立」を大統領宣言として発表したのである[35]。
この大統領中立宣言では、@コスタリカを中米の紛争から隔離する、Aコスタリカは、2国間の紛争を武力で解決する戦争を行わない、B第3国の戦争に介入しない、Cいかなる武力紛争にも巻き込まれず中立外交政策を進める、D諸国家内部の武力紛争に対して恒久的に中立を守る、E戦争状態にある当事者による作戦基地としてのコスタリカ領の使用、武器・兵員の輸送、兵站活動、活動事務所設置の禁止、F紛争当事者に対する敵対行為あるいは支援行為を慎む、G軍拡に反対し、紛争の平和的解決を訴える、H西側民主主義体制度を擁護する、Iこうした中立政策は、永世的なものである、Jコスタリカの安全保障は米州機構と米州相互援助条約に依存する、といった内容を含んでいた。
モンヘ大統領は、この内容を憲法に組み入れようとしたが、国会では3分の2に達せず否決されてしまった。そこで大統領宣言としたのである。この宣言の法的な有効性については、さまざまな議論があるが、憲法は、第7条で条約、国際協定、約定は、国会の承認を得てはじめて有効であると規定している。中立宣言は国際的な性格をもつものであるが、国会の承認を得ていない。したがって、法的にはあくまでモンヘの大統領としての決意表明であり、将来の政権の新たな宣言によって変更されうる性格のものである。この中立宣言は、国内的にも国際的にも法的な根拠はもっていない。そうしたことから、コスタリカは、国際的には一般に中立国家とは見なされていない[36]。内容は別として、中立政策を追求する国家なのである。中南米で発行されている各種の『年鑑』などでも特に「中立国家」として紹介されてはいない。
この中立宣言を見ると、宣言が出された動機がコントラの不当な国内活動を許してはならないという強い国民の要求からでたものであり、激化している中米紛争(ニカラグアは国外からの干渉戦争であり内戦ではないが、グアテマラ、エルサルバドルとも各国内での紛争内戦)という各国の内の部紛争武力抗争に対してコスタリカは、巻き込まれたくないという、いわば防御的な中立であった。つまり、コスタリカが調停役として関与し、中米地域の和平を自主的に実現する目的をもった中立宣言ではなかったのである。スイスや、オーストリアなどの国家間の戦争に対する中立とは違った意味をもっていることに注意する必要がある。
この大統領中立宣言は、コントラを利用してコスタリカ領及びホンジュラス領からニカラグアを攻撃する二正面作戦を考えているレーガン政権からは、当然のことながら好ましくは思われなかった。しかし、モンヘは用心深かった。宣言の中には「西側民主主義を擁護するために常に闘う」との条項を入れて、レーガンには「コスタリカは、思想的、政治的にはアメリカの同盟国であることを保障した」[37]のであった。レーガン政権は、すぐさま反撃に転じた。AID(米国際開発局)の援助の停止をちらつかせつつ、中立宣言発表わずか10日後の9月25日にはゴーマン米南方軍司令官をコスタリカに派遣し、コスタリカ北部の道路、橋梁、飛行場建設用の工兵隊の受け入れをモンヘに承認させた[38]。CIAが後押しした反サンディニスタ・キャンペーンが大々的に組織された。84年8月には政権内の左派が一斉に追放された[39]。その後モンヘ政権には、第三世界の国の中でも最大級のアメリカの援助が行われるようになった[40]。83年から85年の間、アメリカの対コスタリカ経済援助は、コスタリカ政府予算の3分の1に達したという計算もある[41]。コスタリカの中立政策は、こうした中立宣言を発表したときの事情をその後も大きく反映している。
もちろん中立自体は評価できることであるが、問題は、モンヘ政権が実際に中立をどう守ったかである[42]。しかし、その後のコスタリカ政府の態度には、前述した中立の基準、中立宣言に反する重大な行為が見られることが問題である。
そのひとつは、1982年よりコスタリカ領北部にCIAに支援されたコントラと呼ばれるニカラグアの独裁者ソモサの残党や反サンディニスタ勢力が結集した武装勢力の基地を認めたことである。また、もうひとつは、83年からコントラへの支援物資を補給するための飛行場設置をアメリカに認めたことである。さらに、89年には、アリアス政権の下で、コスタリカ領内で反パナマ政府ゲリラをCIAが訓練することを容認した事実もある。
アメリカン大学政治学の教授であるウイリアム・レオグランデは、特に左翼的というわけでなく、リベラルな研究者と評価できると思われる。コントラ支援のための飛行場設置問題の実態について、いささか長くなるが、彼の本から引用する(括弧内は、筆者注)[43]。
@コントラ支援物資補給飛行場
「CIAの「暗殺マニュアル」についてのスキャンダルが1984年10月に露呈したとき、フェルナンデス(米CIA要員)は、公式に譴責された一人であった。その後、彼は、CIA支局長としてコスタリカに派遣され、コスタリカの公安責任者ベンハミン・ピサと密接な協力関係を作り上げた。フェルナンデスは、ピサを通じてコスタリカ大統領ルイス・アルベルト・モンヘとの協力を維持して、コントラがコスタリカ領土からサンディニスタ政権のニカラグアに出撃する作戦を実行できるようにした。米政府はピサに大いに感謝し、ピサ夫妻はロナルド・レーガン大統領と短時間の会見をし、記念写真の撮影をする栄誉を得た。
フェルナンデスは、オリバー・ノース(イラン・コントラ事件の首謀者)とタンブ(反共的なサンタフェ文書の起草者の一人)の間を取り持つ人物となった。タンブが南部戦線(コスタリカ領内のコントラの基地)についてワシントンと連絡を取りたいときにはいつも、ノース、エイブラムズ(現ブッシュ大統領民主主義・人権担当補佐官)、ファイアだけが電報を受け取ることができるように、国務省チャンネルよりもむしろ『裏チャンネル』すなわちCIAチャンネルを通じて連絡した。ノースの方は、直接フェルナンデスと連絡を取った。
『コントラ支援計画』がによるコントラへの物資救援のための緊急着陸地としてコスタリカ領内に飛行場を建設する必要が生じたあったとき、ノースは、タンブにコスタリカと交渉するように命じた。タンブはコスタリカから合意を取り付けた。その条件は、飛行機はコントラへの救援の役目が終わった後でのみ着陸できるので、飛行機はコスタリカ領内では荷物をもっていないというものであった。こうしてコスタリカは、その架空の中立を維持することができたのであった。飛行場用地は、シコード米軍退役少将の会社によって購入され、1986年4月には使用可能となった」。
A南部戦線の設置
「クラーリッジ(CIA中南米作戦部長)は、エデン・パストラ(元サンディニスタ民族解放戦線の司令官の一人)の中にカリスマ性を認めた。彼は、その他の亡命者と違ってニカラグア国内で人気があった。ホンジュラスにいるコントラは、依然としてほとんど旧ソモサの国家警備隊のメンバーによって指揮されており、ニカラグア市民によって恐れられ、憎まれていた。クラーリッジは、パストラが、ホンジュラスを基地とした北部戦線とコスタリカを基地とした南部戦線の二つの戦線のコントラ軍を統一した指導者となるように目論んだ。ワシントンは、パストラをニカラグアの第二革命のスターとしようとしたのであった。しかし、この目的をパストラは達成することができなかった。
1982年パストラは、コスタリカに現れて記者会見を開き、彼の古い武装闘争の同志を「裏切り者、暗殺者」と非難し、サンディニスタ軍とニカラグア市民に彼らを打倒するよう訴えた」[44]」。
この南部戦線を率いた民主革命同盟(ARDE)は、1982年9月コスタリカ領内でエデン・パストラと実業家のアルフォンソ・ロベロによって設立された、反サンディニスタ武装勢力である。ソモサの残党が結成したニカラグア民主軍(FDN)よりもより反感が少ない勢力としてアメリカのCIAにより期待され、支援を受けた。1984年4月までコスタリカ領北部で活動するARDEに対してCIAは毎月40万ドルの支援を供与したといわれている[45]。
こうしたCIAに支援されたコントラのコスタリカ領内の行動の一部は、すでに1982年頃からコスタリカ国内でも良心的な人々によって問題とされていた。たとえば、1987年刊のトマス・ウォーカーの『レーガン対サンディニスタ−ニカラグアに対する布告されざる戦争』には、アメリカによるコスタリカ領内における国家警備隊の訓練の実態、各種作戦が詳細に述べられている[46]。
また、当時(1984年)、日本においても、次のように報道されていた。
「『第二のゲバラ』という茶番劇役者エデン・パストラのひきいる『民主革命同盟(ARDE)』によるコスタリカ領からの侵入は、もしサンディニスタ政府軍が反撃のために誤ってコスタリカ領に越境すれば、軍隊をもたないコスタリカへのニカラグア軍の国境侵犯として、アメリカ軍の『コスタリカ支援―ニカラグア侵入』という口実を狙ったものである[47]」。
「コスタリカも、昨年11月『永世中立宣言』を行ったものの、自国内のニカラグア反革命勢力の活動を依然として容認している」[48]」。
当然のことながら、ニカラグアのサンディニスタ政権は、コントラによるコスタリカ領土の使用に抗議を行っている。1984年4月16日ニカラグア国家再建政府は、次のように抗議した[49]。
「コスタリカ領土の公然とした利用は、最悪なものとなり、(ニカラグアの)ケサーダ市やバラス・デル・コロラドなどの病院や、住民への医療サービス・センターが、現在、傭兵侵入者によって使用されている」。
これに対して、コスタリカ国民や、良心的な政治家達3万人が、1984年5月中旬、首都サン・ホセでコスタリカの中立を要求して集会を行った[50]。
最近日本を再三訪問して、講演を行っている国際反核法律家協会副会長のバルガス氏によれば、80年代のこうしたサンディニスタ政権打倒の秘密作戦をコスタリカ国民は、知らなかったということである。しかし、こうした歴史的事実は、バルガス氏の前述の発言をまったく否定するものである。まず当時の政権は、バルガス氏が属する国民解放党政権であったということを想起しなければならない(表1参照)。それでは、同政権を支持していた多くの国民は、こうした事実を知らされなかったとすれば、どういう「民主主義的な」政権であったとかということになる。事実は、多くの国民はそうした事実を知っており、それを行っている政権を支持していたということである。そして、それに反対していたのは、一部の少数の良識ある人々、あるいは革新勢力であった。このように多数のコスタリカ国民がアメリカのニカラグア干渉政策を支持していたのは、保守的なメディアを利用した支配層の巧みな世論操作に加えて[51]、国民の中にある伝統的な強い反共主義、反ニカラグア意識があったものと考えられる。
(表1)コスタリカ歴代大統領(1970−2002年) |
1970−1974 ホセ・フィゲーレス・フェレール 国民解放党 1974−1978 ダニエル・オドゥベル 国民解放党 1978−1981 ロドリゴ・カラソ 反対連合 1982−1986 ルイス・アルベルト・モンヘ 国民解放党 1986−1990 オスカール・アリアス 国民解放党 1990−1994 ラファエル・カルデロン キリスト教社会連合党 1994−1998 ホセ・フィゲーレス・オルセン 国民解放党 1998−2002 ミゲル・ロドリゲス キリスト教社会連合党 2002− アベル・パチェコ キリスト教社会連合党 |
それでは、なぜ、国民解放党政権が、自国内における民主革命同盟(ARDE)の反サンディニスタ活動を容認していたのであろうか。それは、軍隊がないから規制できなかったのではなく[52]、反共主義の立場からサンディニスタ政権を倒壊させるために、またアメリカの経済援助を受けるために[53]、容認することが自らに有利だと国民解放党政権が考えていたからである。それを規制する程度の必要な武力はもっていたし、国際世論に訴えれば、またサンディニスタ政権と協力すれば、規制は可能であった。サンディニスタ政権は、再三再四、その規制をコスタリカ政府に訴えていた。しかし、モンヘ国民解放党政権は、サンディニスタ政権をマルクス主義政権と見ており、同政権の倒壊を希望していたのである。
また、アメリカからの経済援助もそうした動機のひとつとなっていた。80年代の10年間でコスタリカは、こうしたアメリカのサンデティニスタ革命政権への干渉政策への協力の見返りとして、14億588万ドル(約3500億円)の援助を受けた[54]。これは、国民一人当たり援助額としては、当時イスラエルについで最も高い数字であった[55]。その多くが、警察隊の軍事訓練と装備に当てられ、警察の軍隊化が進んだといわれている[56]。
むしろ、サンディニスタ政権が、コスタリカ領内からのコントラの挑発にもかかわらず、越境してARDE基地をたたかなかったことにも見られるように、同政権の民族主権尊重政策、平和政策によってコスタリカの平和は守られたといえよう[57]。実質的には中立ではなかったコスタリカの平和は、サンディニスタ政権にせよ、パナマの民族主義政権にせよ、この当時の隣国政府の節度によって守られた側面もあることも見る必要がある[58]。
以上述べたすでに歴史的に定着している事実からすれば、「モンヘ大統領が、アメリカからのコントラ支援基地の要請をきっぱり断り、コスタリカの中立を守り通した」という解釈は事実と反することがわかるであろう[59]。モンヘ大統領の中立宣言にしても、大統領がいわば「上から」中立理念を提起して実施したかのように言われているが、実際は「中立は、国民が要求したため、国民解放党はが受け入れたもの[60]」という重要な指摘を筆者は重視したいと考えている。
Bパナマ民族主義政権に対して。
アリアス政権の下でも、パナマ民族主義政権打倒のための訓練がコスタリカで行われた。このことについて、これもリベラルなアメリカ人ジャーナリストの報告がある。
「1989年の9月初頭、CIAは、コントラとパナマ人のゲリラ・グループをすでに組織しており、パナマ国内で不安定を引き起こしアメリカの介入を正当化する一連の事件を引き起こすために、コスタリカ領内の基地で彼らを訓練していた」[61]」。
「コスタリカの中立法にもかかわらず、CIAは、パナマを不安定にしてアメリカの介入を引き起こすためにゲリラ・グループを組織し、訓練するための基地としてコスタリカを使用した。反ノリエガ勢力がコスタリカで訓練を受けていたとき、コスタリカのエルナン・ゴラン治安相は、このような訓練が行われていることを完全に否定した」[62]」。
このように見てみると、コスタリカの中立の実態は、前述の基準からすれば、かなり問題を抱えているといえる。歴代コスタリカ政府は、その対米従属性から、アメリカのCIAの秘密活動は、それが秘密である限り表にでないと考えて、受け入れてきたのであろうか。しかし、それは、レオグランデが指摘するように、「架空の中立」にしかすぎないといえよう。
4)
コスタリカの積極平和外交について
コスタリカの歴代政権の外交の根本は、親米反共外交である。コスタリカの外交関係をみると、台湾と外交関係を維持し、中国とは外交関係をもっていない。また、キューバとは現在、領事関係のみである。コスタリカは、エルサルバドル、ウルグアイと並び中南米でキューバと外交関係を持っていないわずか3カ国のうちの一つである。また、非同盟運動には、消極的で第6回ハバナ会議に初めてオブザーバーとして参加し、その後もオブザーバーの地位を抜け出ていない。これは、周りの中南米諸国、グアテマラ、ホンジュラス、ニカラグア、パナマが非同盟運動の正式加盟国であるのと対照的である。コスタリカが非武装、「積極」中立であれば、非同盟運動で展開されている多くの論点と一致するはずである。しかし、非同盟運動で主張されているものの中には、帝国主義、新旧植民地主義、人種差別、覇権主義、軍事ブロック、外国軍事基地、核兵器、多国籍企業によるグローバル化に反対し、平和共存、完全軍縮の推進、南北問題、貧困の解決などを推進して、先進国への強い非難と要求を含むものがある。コスタリカが、非武装、「中立」ではあっても、非同盟運動に積極的に参加しないのは、こうした非同盟運動が掲げている課題への消極的な姿勢があるように思われる。
一方で、対米協調あるいは従属性は、中南米の国の中でも際立っている。87年中米和平の過程で、レーガンとの会談の際、アリアスは、コントラへの援助に抗議したが、レーガンは、立腹してアリアスに立ち去るように命じ、「あの小物は誰かね」と側近に述べた。すると、その後アリアスは、アメリカの援助を失わないように、アメリカの許容限度を越えることなく、行動したといわれている[63]。
近年では、昨年9月の同時多発テロ直後のリオ条約会議でコスタリカのロベルト・ロハス、コスタリカ外相は、ブッシュのアフガン報復攻撃を全面的に支持するとのべた[64]。9月21日大要次のように発言している[65]。
「テロの実行犯及び共犯者は、すべての法律、国際法が厳密に適用されることを知るべきである。この意味でアメリカ政府に指導された国際社会がテロに対して断固として闘うことを、われわれは全面的に支持する。
・・・しかしながら、これらの行動は、国際法、特に人権、人道的国際法に基づいて行わなければならない」。
この発言は、アメリカのテロに対する闘いを全面的に支持すると述べたことと、アメリカの行動が、国連を中心に解決されるべきであるという言葉がまったくないことが特徴である。その点は、同じリオ条約会議で、ベネズエラのルイス・アルフォンソ・ダビラ外相の発言した内容と対照的である。同発言は、次のとおりである[66]。
「ベネズエラは、あらゆるテロに反対する。古くなったリオ条約に代わる新たな集団安全保障条約が必要である。また、平和的解決を常に追求することが重要である。テロに対する行動は、国連憲章、OAS憲章、リオ条約憲章にもとづいて、国際法を尊重して行わなければならない」。
キューバのカストロ議長も、テロ反対、アフガンへの報復攻撃反対、国連を中心とした話合いによる解決という原則的な立場を強調している[67]。同時多発テロに対する態度では、中南米ではキューバとベネズエラ2カ国がテロ反対、国連中心の話合いによる解決という原則的な態度を明確にしたのであった。
また、本年4月コスタリカは、国連におけるキューバの人権問題非難決議で、アメリカ主導の決議案に賛成した。
さらに、本年の4月11日のベネズエラにおけるクーデター未遂事件についても、コスタリカ政府は、チャベス政権自体に責任があるとして、クーデター派を厳しく批判する態度はとらなかった。コスタリカ政府は、OSA会議ではクーデター政権を容認する動きをアメリカとともにとった[68]。竹村卓氏は、『コスタリカについて』の年表において、「2002年5月首都サンホセ開催の中南米リオグループサミットで、ベネズエラ軍事クーデターを非難して国際世論をリードし、クーデターを失敗に追い込む」と述べているが[69]、竹村氏はどういう資料に依拠しているのであろうか。むしろ、事実は逆で、コスタリカは、クーデター派の暫定政権を承認しようと動いたのであり、そのため、チャベス大統領が復帰後、クーデター批判の原則的態度をとった国として5カ国(メキシコ、キューバ、グアテマラ、チリ、ブラジル)を具体的に名前を挙げて感謝したとき、コスタリカは入っていなかったのである[70]。
本年9月の南アでの地球サミットでは、コスタリカのパチェコ大統領は、環境問題に触れるのみで、これをもたらしている先進資本主義国の横暴などを指摘することはなかった[71]。その点、新自由主義をそろって批判したベネズエラ、キューバと対照的であった。ベネズエラのチャベス大統領は、「人道基金」の創設を訴え世界の軍事費の10%を拠出すること、また発展途上国の対外債務の10%を同基金に回すことを提案した[72]。またキューバのペレス・ロケ外相は、発展途上国の経済発展のために国際金融取引に0.1%の取引税(年間4000億ドルの税収)、世界の軍事費の50%を国連開発寄金に回す(年間4000億ドルの拠出)、発展途上国の対外債務金利の免除(3300億ドル)、先進国のGNPの0.7%の発展途上国開発への援助の即時実施を訴えた[73]。当然のことながら、こうした両国の提案は、多くの発展途上国から賛同の拍手を得た。この事例は、国際会議におけるコスタリカの現政権の位置を見極めるには、よい例と思われる。コスタリカが、国際的に積極平和外交でイニシアチブをとっているとはとうてい言えないように思われる。
5)
パナマ国防軍廃止の経過について
パナマの常備軍の廃止は、民族主義的性格を維持するパナマ国防軍の解体を目的とした89年12月のアメリカの侵攻による結果であることは、すでに各種の資料によって明白となっている[74]。アメリカは、パナマ国防軍を解体し、パナマ運河返還後には、有事の際にはアメリカ軍のみでパナマ運河の防衛に当たれるようにしたかったのである。パナマ研究家の小林志郎氏は、この点を的確に指摘している[75]。
「米軍の軍事作戦(侵攻)は、米本土内の基地からいつでも軍隊を派遣してパナマ運河を防衛できることを証明するための大軍事演習であったとも解釈できる。また、今後の運河防衛をやりやすくする上で、パナマ国防軍は存在しないほうがいいのだ」。
また、侵攻した側のパウエル米軍統合参謀本部議長(当時、現国務長官)は、「パナマにかかわるなら、ノリエガを排除するだけで問題は終わらない。・・・第一の目標はノリエガおよび国防軍を絶滅する。それが成功すればわれわれが文民政府を樹立し、新しい警備軍(軍隊ではない)を創設するまでこの国を管理する」計画であったとパナマ侵攻の真の目的を述べている[76]。
コスタリカのアリアス大統領(当時)は、米軍のパナマ侵攻直後の1990年1月に、パナマがコスタリカに見習って軍隊を廃止するように提案した[77]。しかし、この提案は、アリアスの意図がどこにあれ、まったくアメリカのパナマ侵攻の目的に沿うものであり、客観的には「非武装という見栄えの良い衣装で」パナマ侵攻を正当化する役割を果たすものでしかなかった。
米軍のパナマ進攻後開催されたOAS会議で、メキシコ、ニカラグア、エクアドル、ペルー、チリなどは、米軍のパナマ侵攻が主権侵害に当たるとして厳しく批判し、ノリエガ問題に関係なく米軍が即時撤退するよう要求した。アルゼンチン、ボリビア、ブラジル、コロンビアなどは、米軍侵攻を批判しつつ、ノリエガの退陣がパナマの民主化に貢献すると主張した。コスタリカは、ホンジュラス、グアテマラ、エルサルバドルとともに米軍の侵攻に遺憾を表明するものの、それは独裁者ノリエガに責任があるとして、米軍の即時撤退要求案が承認されないように働きかけたのであった。その結果、ニカラグアが提案した米軍即時撤退要求案は、絶対多数の21票に達せず、賛成18、反対11(アメリカ、バハマ、エルサルバドル、コスタリカ、ホンジュラス、グアテマラ、グレナダ、サンキッツ、サンビセンテ、サンタ・ルシア、ジャマイカ)によって否決されてしまった[78]。反対に回った国々は、カリブ海の小国を除いて、反サンディニスタ・ニカラグア政権、反キューバ、反パナマ民族主義政権として当時知られていた反動的な国々であった。こうした事実もまた、中南米で、コスタリカが国際的にどういう位置にあるかを明確に示しているものである。コスタリカが、パナマを説得して、「軍隊を廃棄させた」とは、歴史的事実にはまったく合致しないことは明白である。
6)
軍事費と教育費・社会福祉費の関係について
それでは、コスタリカの治安対策費はどうなのであろうか、(表2)を参照していただきたい。イギリスの戦略研究所発行の『ミリタリー・バランス』2000−2001年によれば、コスタリカの治安費は、113億ドルで、金額では中米で第3位、GDP比で0.76lでやはり第3位である。この傾向は、中米紛争が終結したときの状況を反映している同『ミリタリー・バランス』の1990−1991年版を見ても変わらない[79]。
(表2)中米6カ国の軍事・治安費比較
|
グアテマラ |
ホンジュラス |
エルサルバドル |
ニカラグア |
コスタリカ |
パナマ |
人口 |
12,974,361 |
6,406,052 |
6,237,662 |
4,918,393 |
3,773,057 |
2,845,647 |
IISS |
2000-2001 |
|
|
|
|
|
GDP |
141億j |
54億j |
159億j |
29億j |
113億j |
97億j |
軍事・治安 |
1.14億j |
0.35億j |
1.12億j |
0.25億j |
0.86億j |
1.28億j |
GDP比 |
2.5% |
0.65% |
0.7% |
0.86% |
0.76% |
1.3% |
IISS |
1990-1991 |
|
|
|
|
|
GDP |
78億j |
44億j |
54億j |
29億j |
47億j |
45億j |
軍事・治安 |
0.87億j |
1.38億j |
2.24億j |
18.90億j |
0.57億j |
0.96億j |
GDP比 |
1.1% |
3.1% |
4.1% |
65% |
1.2% |
2.1% |
出典 IISS, The Military Balance 2000-2001,
Oxford Univ. Press, London, 2,000.
ITSS, The
Military Balance 1990-1991、メイナード出版(邦訳)
キューバ
IISS |
2000-2001 |
人口 |
10,479,000 |
GDP |
356億j |
軍事・治安 |
22.40億j |
GDP比 |
6.2% |
IISS |
1990-1991 |
人口 |
11,320,000 |
GDP |
150億j |
軍事・治安 |
7.50億j |
GDP比 |
5% |
一方コスタリカの教育費は、(表3)に見られるように、一般予算の中で20%程度を占めている。しかし、この予算経費だけをみるとメキシコが25%で上位にあるし[80]、キューバも22lでコスタリカよりも教育が重視されていると言える。しかし、一方キューバは、アメリカの干渉を常時受けている関係で、軍事・治安費に22億ドル、GDP比で6.2%も割かなければならない[81]。また、コスタリカは、歴史的に見れば既に常備軍を廃止する前の「1948年までに6年間の義務教育が保障されており、『兵隊の数よりも教師の数の方が多い』と評されるほど、教育に力が入れられていた[82]。そして、国家予算における教育費の占める割合は多かった」と竹村卓氏は述べている[83]。一方で、一般予算における教育費は少ないものの、アルゼンチンやウルグアイの教育水準が高いことは、中南米でも広く知られているところである。両国の識字率はいずれもコスタリカよりも高い。
(表3)教育に関する指標
国名 |
初等教育総就学率 % |
高等教育総就学率 % |
識字率 % |
平均就学年数 |
教育費/一般予算 % |
対外債務 億ドル |
メキシコ |
114 |
18 |
91 |
7.2 |
25.5(?) |
1502 |
キューバ |
100 |
19 |
97 |
--- |
22.6 |
400 |
コスタリカ |
107 |
|
94 |
6.0 |
20.6 |
44 |
ベネズエラ |
94 |
|
93 |
|
|
381 |
アルゼンチン |
120 |
47 |
96 |
8.8 |
6.2 |
1461 |
ウルグアイ |
113 |
35 |
96 |
7.6 |
7.1 |
81 |
チリ |
106 |
34 |
95 |
7.5 |
17.8 |
369 |
日本 |
102 |
44 |
--- |
9.5 |
6.0 |
--- |
スウェーデン |
111 |
63 |
--- |
11.4 |
6.5 |
--- |
出典:世界国勢図絵2002/2002、矢野恒太郎記念会
キューバ: Anuacrio Estadístico
de Cuba 2000, Oficina Nacional Estadísticas.
それでは、コスタリカの社会福祉はどうであろうか。(表4)に見られるように、コスタリカは、社会・福祉関係予算に46%を当てており、高い比率である。確かにコスタリカは、中米のグアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアと比べると、治安もよく、教育水準も高く、医療制度も整っている。国民の97%が、医療を受けており、92%が衛生的な上水道を使用し、平均寿命は76歳で先進国並みである。平均賃金もニカラグアの6倍、エルサバドル、グアテマラの2倍である[84]。しかし、ウルグアイやアルゼンチンは、それ以上の66%、あるいは50%を社会福祉予算に当てている。コスタリカの平均寿命もキューバ、チリと同程度である。
(表4)社会福祉・生活水準比較)
国名 |
社会保障・福祉・保健/一般予算% |
平均寿命 |
乳児死亡率(1000人当たり) |
失業率 % |
貧困ライン以下の家庭
(%) |
テレビ受信機数/1000人 |
メキシコ |
25.3 |
73 |
29 |
2.5 (?) |
38.0 |
272 |
キューバ |
35.5 |
76 |
6 |
4.5 |
--- |
239 |
コスタリカ |
46.6 |
77 |
10 |
5.8 |
18.2 |
140 |
ベネズエラ |
|
73 |
19 |
13.9 |
44.1 |
180 |
アルゼンチン |
50.3 |
74 |
17 |
17.4 |
13.1 |
223 |
ウルグアイ |
66.6 |
74 |
14 |
15.4 |
5.6 |
239 |
チリ |
45.7 |
76 |
10 |
9.5 |
16.6 |
215 |
日本 |
38.4 |
81 |
4 |
5.0 |
--- |
686 |
スウェーデン |
48.3 |
80 |
3 |
4.7-5.6 |
--- |
519 |
出典:世界国勢図絵2002/2002、矢野恒太郎記念会
CEPAL, Balance Preliminar 2002.
しかし、貧困ライン以下の家庭は、18%、日常の生活必需品に事欠く絶対的貧困ライン以下の家庭は、7.5%もあり[85]、これは中南米ではキューバ、ウルグアイやアルゼンチンよりも貧困者の比率が大きいことを示している[86]。このことは、人口380万のコスタリカで、70万人が貧困ライン以下、35万人が絶対的貧困ライン以下の生活をしているということを意味している。つまり、約100万人、すなわち、4人に1人以上が、かろうじて日常の食糧とその他の生活必需品を購入することができる生活水準にあるということである。
一方でコスタリカでは、2000年度は12万5000戸の住宅が不足した。首都サンホセには数百名のストリートチルドレンがおり、全国で9000人の女性が売春を行っているとも報告されている[87]。その点では、医療費が基本的に無料、大学までの教育費も基本的に無料である制度を40年間維持しているキューバと比較すれば、特に優れた福祉政策とは呼べないであろう。
とすれば、コスタリカは、常備軍こそ持っていないが、国防・治安関係にはそれなりの経費を費やしており、「軍隊を捨てた」分だけ国防・治安費が激減し、教育費や社会福祉費に回されたと単純に跡づけることは難しいことがわかる。軍事費は、教育費、社会福祉費、道路建設、電化推進などのコスタリカ社会全体の発展に向けられたと[88]いうのが客観的な判断であろう。コスタリカは、中米の地域では確かに優れているが、ウルグアイ、アルゼンチン、チリと同等の教育水準、社会福祉水準とみなすのが順当なところと思われる。
バルガス氏は、「1949年軍隊を廃止した際に、それまで軍隊に使われていた予算が、まず教育に回されました。それから、社会的な保障に回されました」と述べているが、上記の資料からは、氏が指摘する因果関係は見られないことが理解できるであろう[89]。
環境保護に関しては、コスタリカは、世界で先立って優れた政策をとっているとも言われている。しかし、観光のための乱開発、海水浴場の私有地化などが問題となっている。森林破壊率では、コスタリカは世界で上位6位にランクされるほど深刻な問題を抱えている。輸出向け農業、急激な都市化などにより1960年代より森林の破壊が著しく進んでおり、国土の42%が侵食されているという報告もある[90]。政府は、このことを懸念して1988年自然保護の法律を制定した。しかし、80年代からの新自由主義政策のもとで、環境保護政策も困難を抱えているのが実情である。足立力也氏は、「環境の先進国だというが、よくよく見ると、自然保護区の山にいく途中で禿山ばかりが目につく」と環境保護に問題があることを率直に指摘している[91]。
なお、コスタリカへの不法入国者の扱いについて、一言触れておきたい。ニカラグアからコスタリカに不法入国した人々は約30万人といわれているが、これらの人々はニカラグアからの難民ではなく、職をもとめて、またほぼ6倍近いコスタリカの賃金を求めて不法入国した人々である[92]。コスタリカの雇用者側も、不法入国者を平均賃金よりも安く雇用することができ、双方の必要性が一致して、大量に不法入国したと考えるのが現実的であろう。こうした事例は、年間100万人以上と言われるメキシコからのアメリカへの不法入国などにも見られる現象と同じものである[93]。
7)
コスタリカの選挙制度と政党
コスタリカ憲法では、第3章第99−104条で「最高選挙裁判所」について詳細な規定を行っている。しかし、そこにはコスタリカ、われわれからみれば特殊な固有の規定制度はが見られるもののが、それは、コスタリカ独自のに限られた制度ものではない。中南米では、メキシコ、エルサルバドル、パナマ、ウルグアイなどの憲法にも、選挙管理裁判所の設置の規定がある[94]。また3名の判事、6名の判事補は、最高裁判所の3分の2以上の賛成で任命されている。もともとの憲法制定過程から、選挙による紛争を避けるための仲裁機関という性格を持っている。コスタリカ憲法そのものも第9条で、コスタリカを「立法、行政、司法の三権分立制である」と位置づけ、最高選挙裁判所は、「国家三権力から独立した地位をもって」、選挙の実施と監視を行う「任務」を持つと規定している。つまり同裁判所は、選挙の実施と監視を行う「任務」をもつ機関であり、四権目の権力とは規定していないのである。日本国憲法には選挙管理裁判所の規定がないので、新鮮に感じるかもしれないが、コスタリカ独自の四権分立制度というのは過大な評価ではないであろうか。むしろ重要なことは、何が規定されているかよりも、実際いかに選挙が行われているかであろう。
コスタリカの選挙制度には、いくつかの積極面があるが、選挙自体は中南米の選挙文化の枠を大きく越えるものではない。1986年の大統領選挙では、アリアスは、後ほど麻薬取引で逮捕される、リカルド・アレム(選挙財政責任者)から違法な選挙資金を受け取ったという疑惑がもたれている[95]。また、マイアミに本社を置く「オーシャン・ハンター・シーフード社」より5万ドルの選挙資金を受取り、自分の個人口座に預金した疑惑もある[96]。さらに、今回の大統領選の期間中、現大統領のアベル・パチェコ陣営(キリスト教社会連合党)が、台湾企業から100万ドル余の選挙資金を受け取った疑惑が報道されている[97]。コスタリカでは、国が選挙資金を支給する代わりに、コスタリカ憲法によって外国の個人及び法人からの選挙資金の供与は憲法によって禁止されている。
2002年の大統領選挙においては、98年アリアス元大統領は、憲法第132条の大統領再選禁止条項の改定を提唱して(一時国民の62%が賛成)、大統領選に立候補する構えを見せたが、同氏が提唱している民営化、専売公社および国営企業の資産の売却―株式化政策に国民の74%が反対しているのをみて、復権大統領選再出馬の動きを取りやめた経過があった[98]。また、アリアスは、今回の大統領選では、自党のロランド・アラヤ・モンヘを推薦したが、国会議員の選挙では、市民行動党の候補者を、近親者であることから支持を表明した。
周知のようにコスタリカは、長期間、国民解放党(PLN)とキリスト教社会連合党(PUSC)が交代で政権を担ってきた。両党の違いは、国民解放党が中道左派、キリスト教社会連合党が中道右派とみなされており、その政策には大きな違いがない。そのために国民の政治への無関心が増加している。しかも二大政党制が長期間続いたことから、深刻な政治腐敗も指摘されている。今回の大統領選挙では、政治腐敗の一掃を掲げた、市民行動党のオトン・ソリス候補は決選投票には進むことができず、決戦投票では40l近い、棄権率となったと言われている[99]。投票率は別として、各選挙ごとに選挙陣営を中心に選挙後の利害関係がからんで国中が過熱する状態は、中南米一般に見られる現象であり、特にコスタリカが特別に熱心なわけではない。コスタリカの現実の選挙は、清潔でも、民主的でも、いわんや模範的でもなく、中南米、あるいは資本主義国一般に見られる生きた生身の人間が繰り広げている、決して清潔とはいえない個人的利害関係を強い動機として戦われる選挙である。
なお、現在コスタリカにおいて革新的な政党と考えられているのは、民主勢力党である。その前身であるコスタリカ共産党は、1929年に創立された。同党は、歴史的に下層市民、農業・プランテーション労働者連盟(FENTRAP)、労働総同盟(CGT)の間に大きな力をもっており、労働法、社会保障金庫の制定に貢献した。43年にはコミンテルンの人民戦線結成の指示に従って、人民前衛党に改称した。しかし内戦終了後、1949年ホセ・フィゲーレス政権が制定した憲法98条により非合法化され、非合法時代は75年に憲法第98条が削除されるまで続いた[100]。その間、共産党の名前は使用しないものの、1960年にはコスタリカ社会党が設立され、労働総同盟(CGT)、公務員労働者を結集した労働者統一同盟(CUT)の中で大きな影響力を維持していた。これらの組合は、首都のサンホセ以外ではAFL−CIO加盟の民主労働者同盟(ORIT)よりも勢力が大きいと言われている[101]。1978年には統一戦線党である統一人民党が人民前衛党、社会主義党、真正革命運動によって結成され[102]、さらに、1992年にはコスタリカ人民党、コスタリカ社会党、コスタリカ労働者党が結成する統一戦線である統一人民党を軸に進歩党、愛国連合党、人道主義環境保護党が参加して、やはり統一戦線党である民主勢力党が結成された。しかし、長期間に共産党の非合法時代が続いたことと、コスタリカのマスコミが極めて保守的なことから[103]、国民の間に反共風土が極めてつよいことが特徴である。
民主勢力党は、内部分裂もあり今回の選挙では国会の議席をすべて失った[104]。同党の選挙綱領には、民営化反対、政治腐敗の一掃、新自由主義反対、民族主権の確立は強調されているが、米州自由貿易圏構想(ALCA)を推し進めているアメリカの覇権主義への闘いなどがうたわれていないこともひとつの特徴であった[105]。民主勢力党の選挙綱領においてこうした政策が提起されないとすれば、中道左派および右派の二大政党がどのような対米政策を取るかは推して知るべしであろう。ちなみに、昨年12月、ハバナで中南米の左翼政党・諸組織が参加して、第10回サンパウロフォーラムが開催されたが、これに参加した組織は、コスタリカでは民主勢力党だけであり、国民解放党は同フォーラムには一度も参加していない。
(表5)コスタリカの政党
政党 |
議席98年 |
議席02年 |
キリスト教社会連合党(PUSC) |
27 |
19 |
国民解放党(PLN) |
23 |
18 |
市民行動党(PAC) |
0 |
14 |
自由運動(ML) |
1 |
5 |
革新党(PRC) |
0 |
1 |
民主勢力党(FD) |
3 |
0 |
8)
80年代の国民解放党の政策の実態
それでは、国民解放党が政権を握っていたモンヘ大統領、アリアス大統領時代、80年代の国民解放党政権はどういう政権であったであろうか。国民解放党は、一般的には社会民主主義政党といわれているが、80年代にはそのアメリカや、国際金融機関のIMF、世銀の圧力によって推進した新自由主義政策によって、その伝統的な社会福祉政策を転換しその本質を変えてしまった[106]。80年代のコスタリカでは、「それまでの(国民解放党内部の)改良主義勢力の意思も想像力も弱体化してしまった。社会問題に関しては伝統的な改良主義的近代化路線からプラグマティズム、日和見主義への政策転換が行われた。こうした保守への移行は、モンヘによって開始され、アリアスによって意識的に追及求された」と中米研究の泰斗であるエデルベルト・トレス‐リバスは、的確に指摘している[107]。現在、同党の支持基盤は、労働者階級ではなく、主として農村と都市中間層である。モンヘ大統領の時代のレーガン政権との強調協調ぶりはすでに述べたので、ここでは、アリアス時代にしぼって論じたい。
アリアスは、中米紛争を冷戦構造における東西対決の場と見ていた。しかし、80年代の中米紛争は、それぞれの国内で60年代から発生した経済的、社会的諸矛盾の解決をめぐっての各国内部の紛争であり、米ソの代理戦争ではなかった[108]。エルサルバドル、グアテマラでは、寡頭制勢力・反動的軍部と革命勢力との内戦であったが、ニカラグアに関していえば、「内戦」ではなく、アメリカが支援した反革命勢力による国外からの「干渉戦争」であった。アリアスの見解は、アメリカのレーガン政権が「サンタフェ文書I」で示した極端な反共的な地政学的見地と同じものであった[109]。アリアスの立場について、アメリカのジャーナリスト・研究者マルタ・ハーネイは、その大著「敵対行為―1980年代のアメリカの対コスタリカ政策」の中で次のように的確に指摘している。
「思想的には、実際アリアスはレーガン政権から遠く離れているわけではない。しかし彼のニカラグア問題の解決は、かなり異なったものであった」[110]。
つまり、アリアスの思想はとても「非武装・積極中立」という模範的なものではなかったのである。アリアスは、アメリカのレーガン政権の政策があまりにひどく、それと対立することもあったが、両者とも反共主義では一致しており、基本的には、中米のサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)、ファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)、グアテマラ民族革命連合(URNG)などのいわゆる左翼革命運動を押さえ込むことに和平交渉の主眼があったことも、現在では広く認められていることである。
アリアス和平プランについて触れれば、同和平プランは、ひとつには、ニカラグアのサンディニスタ政権打倒が目的であった[111]。しかし、中米の和平活動が、突然アリアスによって開始されたのではない。83年以来、中米紛争を、中米地域自身の自主的な話合いで解決しようというコンタドーラ・グループ(メキシコ、パナマ、コロンビア、ベネズエラ)、及びその支援グループ(ペルー、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ)による地道な努力があったのである[112]。そうした努力は、84年9月コンタドーラ合意として結実した[113]。その後もコンタドーラ・グループは86年6月まで何度も和平修正案を提案したが、中米諸国は承諾するものの、アメリカはコントラへの援助を禁止する案に賛成せず、コンタドーラ・グループの和平交渉は頓挫したのである。モンヘ大統領は、コンタドーラ・グループによる交渉過程への参加を拒否し、コスタリカは、87年1月まで同グループにも、同支援グループにも参加することはなかった[114]。87年2月、コンタドーラ・グループの和平交渉が行き詰った中で、しかし、同グループの努力の上に立って、アリアス大統領の和平案が提起されたのであった。
しかし、実は、このアリアス和平提案によって合意された「エスキプラス合意II」[115]は、アメリカが合意案を誠実に実行する、つまりコントラへの援助を停止するということに過度の信頼を置くという弱点をもっていた。アメリカの良心的知識人といわれるノーム・チョムスキーは、80年代の中米紛争に関する数々の著作を出版しているが、同氏によれば、「アリアスとホワイトハウスおよび米国議会は、この和平計画を実行に移す意図を全然もっていなかった。米国はコントラに対するCIAの援助を三倍に増やし、数ヶ月のうちにこの和平計画は完全に死んだ」と指摘している[116]。また、トニー・アビルガンによれば、「(サンディニスタ政権は、)アリアス大統領を始はじめとする中米の大統領が企んだ詐欺にはまり、1990年2月の選挙で敗北したのであった」[117]」と手厳しく批判している。実際、意図した「詐欺」であったかどうかは一層の検証が必要であるが、和平合意後の経過は、アメリカによって合意が踏みにじられ[118]、アリアス大統領もそれを支持して[119]、サンディニスタ政権は、予想外に選挙で敗北する結果となったのであった。
また、反パナマ政府ゲリラに対するコスタリカ領内の訓練の容認、米軍のパナマ侵攻に対する態度、本年7月の麻薬対策のための米軍艦船のコスタリカ長期寄航支持については、前に述べた通りである。
次に、アリアス大統領時代の国内政策はどうであろうか。コスタリカにおいて、37億ドルに達する膨大な対外債務の返済に対するIMF(国際通貨基金)の圧力に押されて[120]、国民に過酷な影響を及ぼす新自由主義構造調整政策を最初に導入したのは、アリアス大統領であった[121]。同政権のもとで、社会・経済的国家機関が解体され、警察力は、レーガン大統領の要請を受けて、「カムフラージュされた軍隊」として再組織された[122]。他の中米諸国と比べると低い水準ではあるが、「アリアス政権下で、警察の軍隊化が進行し、少なからずの左翼活動家、農民運動、労働組合運動の活動家が不当逮捕され、拷問を受けた」ことをコスタリカ人権委員会は報告している[123]。アリアス政権下の1988年治安対策費は15%、89年には13%増大するとともに、治安部隊による人権侵害も増大した[124]。国民解放党は、次第に保守的な立場に移行し始めた。公務員の大量解雇、賃金切り下げ、弱者切捨て、教育・福祉予算削減、規制緩和、民営化の推進などによって、一般市民の生活は、大きな影響を受けている。また、「連帯主義」の名前で労使協調路線が労働組合運動に導入され、戦闘的なバナナ労働組合などが、切り崩され分散化されてしまった[125]。トレス‐・リバスが述べているように、国民解放党がすすめる新自由主義が、同等の伝統的な社会民主主義そのものも維持できなくしているのである[126]。
9)
おわりに
以上述べたように、コスタリカには、依然として寡頭制(オリガルキア)の存在、対外債務問題、対米従属問題、外交の自主性問題、非同盟運動への消極的な態度、米軍長期寄港問題、米州自由貿易圏推進に対する国内農業保護の問題、財政問題、政権の汚職、警察力の民主化の問題、高い選挙の棄権率、民営化推進により中小企業破壊の問題、労使協調路線推進の問題、教育、社会福祉制度の条件低下の問題、保守的メディアによる情報操作、拡大する貧富の差、人種差別、先住民の居住区問題[127]、環境保護問題、人権抑圧問題、男女性差問題、少女・少年売春問題、年少者労働問題など山積している。これらの問題の多くは、他の中南米諸国のほとんどが程度の差はあれ、大なり小なり抱えている共通の問題である。コスタリカで比較的中間層が発達しており、治安が良く、教育、社会福祉政策が進んでいるといっても、コスタリカだけが例外ではありえない。
現実政治は多面的かつ複雑で、本年7月の国会における米軍の長期寄港問題討議においても国民解放党の内部でさえも、憲法擁護の立場からそれに反対する議員とそれに賛成する議員とが大激論を交わしたのであった。いわんや当然のことながら、コスタリカ社会には、伝統的な寡頭制勢力(オリガルキア)、超保守的なメディアから、比較的発達した中農層、小農、中小企業家、あるいは都市中間層、貧困ライン以下の生活をする人口の3分の1を占める下層住民、最下層階層を構成する先住民、黒人、そうしたそれぞれの階層・階級に支持基盤を持つ政党、中道右派のキリスト教社会連合党、中道左派の国民解放党、二大政党に飽き足らない市民を結集する市民行動党、一層の社会改革をめざす民主勢力党、エコロジスト、宗教者、政治に無関心な無党派層、戦闘的なバナナ労働者労働組合、労使協調路線を追及追求する労働組合、親米、反米まで様々な階級的利害を代表する勢力が同居しているのである。これらをひとまとめにした「平和で民主的な」コスタリカ国家は、現実には存在しない。コスタリカ社会を「非武装・平和・中立・教育・福祉国家」として一面的に描くことによって、これらの政治的、経済的、社会的、階級的矛盾をめぐって、コスタリカ社会の各社会勢力がそれぞれの階級的基盤に立って、日常的に闘いをすすめていることを忘れてはならない。
いうならば、コスタリカは、国としては、折角「非武装・中立」の憲法と大統領宣言を有しているが、それらを非同盟の立場に立って、名実ともにそれぞれの内容を一層高めることができないでいるのが現状といえよう。それは、コスタリカには、こうした課題の担い手である強力な革新政党、強大な革新勢力が存在しないところからきているように思われる。
こうしたコスタリカを、以上述べた問題を抜きにして、「軍隊をすてた平和・積極的中立国家、模範的民主主義国家」と描くことは、歴史的事実に反するし、脱階級史観的な見方といわざるをえない[128]。この現象は、ちょうどソ連のゴルバチョフ大統領の経済顧問であるミリューコフが1989年来日し、日本社会を調査して、「日本では生産及び生産手段の所有において極めて高度に社会化が進んでいる」と報告したことを思い出させる[129]。もし、その報告を読んだソ連国民が当時の日本(いわゆる日本型社会が頂点に達していた時期)を素晴らしいものと考え、日本の支配層(自民党、財界など)と連帯や交流を進めたならば、ソ連の人々が目指す「社会主義」はその程度のものかと言うことになったと思う(実際にそうなったが)。同じように、コスタリカ社会を、「軍隊を捨てた平和・積極的中立国家、模範的民主主義国家」と見て賛美するならば、その人々の目指す平和・中立・民主主義の日本は、その程度のものかということになるであろう。
注1で引用した人々の中の多くの人が目指す「平和・中立・民主主義の日本」は、非同盟運動、核兵器廃絶運動、海外軍事基地撤去運動、憲法9条厳守運動に積極的に参加し[130]、アメリカの帝国主義政策、覇権主義政策に断固反対し、国内においては経済の民主化を推進し、福祉政策を重要視し、大企業の横暴から勤労市民を擁護するなどといった内外政策で革新的政策を実行する国であるはずである。そうした目的からすれば、コスタリカ社会の歴史と現実は、かなり異なったものといわざるをえない。
現在、日本で行われているコスタリカ社会への積極的評価は、そのほとんどが、国民解放党の立場にたったバルガス氏、カレン女史、モンヘ元大統領、アリアス元大統領などの説明に基づいているように思える。しかし、自主的・客観的な分析にもとづいて、コスタリカをいわば等身大で見ること、社会科学的にいえば、コスタリカ社会にも民族的、階級的諸矛盾が存在するのであり、それらを史的唯物論の立場から見ることが重要であることをわれわれに教えているのではないであろうか。
[1]
そうした書籍、記事、報告集の中で筆者の目に留まった主なものをあげると次のようなものがある。いささか長くなるが、筆者の見解と対比していただくために引用した。下線は筆者によるものである。
・早乙女勝元編『軍隊のない国コスタリカ』(草の根出版会、1999年)。
「アメリカは、ニカラグアへの経済封鎖のほかに、反政府勢力コントラを支援し、85年以来170億ドルもの援助を行ったという。一方のソ連は革命政府に肩入れして、ニカラグアの内戦はついに泥沼状態になった」。25ページ。
「それこそ素手で、(中米)内戦のさなかにあるニカラグアをはじめ中米諸国に、積極的に和平を働きかけたのだった」。98ページ。
・日本反核法律家協会主催、カルロス・バルガス氏講演2000年9月25日http//hccweb1.bai.ne.jp/hankaku/d3-1valgas.htm
「1948年にホセ・フィゲーレス元大統領が軍隊を廃止するという法律を作りまして、この憲法は結局、コスタリカから輸出というような形で、パナマもこの憲法にしたがって、コピーをした形になって軍隊を廃止いたしました」。
・「日本国際法律家協会訪問へのカルロス・バルガス氏2000年10月14日講演」、『コスタリカ報告集2002年1月―2月平和視察団のみたコスタリカ』、コスタリカの人々と手をたずさえて平和をめざす会。
「以前、コスタリカに米軍基地を置こうという欲望を抱いた人達もいたことがありました。それは、ニカラグア内戦の時ですね。また、アメリカ軍がパナマから撤退した時もそうでした。
しかし、我々はアメリカと対等な立場を保つために、その誘惑を断ち切ったわけであります」。163ページ。
・緒方靖夫『視点を変えるとこんな日本が見えてくる』(新日本出版社、2000年)34−36ページ。
「コスタリカは、軍隊も、軍備も、軍事費もない国です。自分の国で平和を守るためには、近隣の国も平和にしなければならない。これがまたコスタリカの発想です。
・・・平和教育の根本を徹底して、兵士を先生に変え、軍事費を教育費にまわして、国の教育予算は国家予算の3分の1を占めています」。
・「平和憲法の世紀」に向けた事例研究、非武装・積極中立のコスタリカ(上)『今週の憲法』第36号2000年12月18日
「コスタリカの非武装は、1949年以来の憲法『常設制度としての軍隊は禁止される』規定が守りぬかれた上に、1983年モンヘ大統領による『コスタリカの永世的、積極的、非武装中立に関する大統領宣言』によってその趣旨の徹底が図られてきたことによる」。
・藤原真由美「軍隊を捨て、平和を輸出する国 コスタリカ」(『婦人通信』2001年2月10日 NO.509)
「アリアス大統領は、自国の平和を維持するためには周辺の国々も平和にならなければとイニシアチブをとり、「トラクターは戦車より役に立つ」と、軍隊をもたないことがどれだけ国民の生活を豊かにしたかを実証的に説いて中米諸国を回りました。その結果、ニカラグアの8万人の軍隊は1万3千人に減り、パナマの軍隊は廃止されたのです。「国際火消し」と自称するこの積極的な平和外交が評価され、アリアス大統領は1987年、ノーベル平和賞を受賞しました」。
・水島朝穂「50問・これが核心だ」(別冊『世界』岩波書店、2001年4月所収)
「実は一九八三年に非武装中立宣言をした背景には、隣国ニカラグアの内戦の激化がありました。アメリカがニカラグアの反政府組織コントラを支援して、コスタリカ国内に出撃拠点を作ろうとしていました。コスタリカは、この脅威に対して、非武装中立宣言によって応えたわけです」。
・上田耕一郎『戦争・憲法と常備軍』(新日本出版社、2001年)8ページ。
「カント以来の常備軍廃止の人類的理想をすでに実現した国々がある。人口のもっとも多い国が中米のコスタリカ共和国(353万人)で半世紀前に軍隊を廃止した。昨年9月この国を訪問した池田眞規弁護士から資料をいただいた。氏はそこには日本国憲法の理念を実現した非武装中立の模範的な民主平和国家がありましたと感動的に語っている」。
・児玉房子『コスタリカ賛歌―絵かきが目と手と足でみた』(草の根出版会、2001年)。「こんなにも支持政党をはっきり表明できるということは思想や信条で差別されない保障があるということだろう」(19ページ)。「国土の4分の1を自然保護区にし、熱帯原生林の動植物をしるにはコスタリカは欠かせないといわれている」(78ページ)。
・池田眞規「軍隊を捨て平和国家に、中米コスタリカに学ぶ」『平和新聞』2001年4月25日号。
「外交の方針は、積極的な平和外交である。・・・近隣の国々で武力紛争が起きると、大統領や外交官を派遣して、紛争解決の仲裁役を買って出る。・・・近隣を説得して常備軍を廃止させる(パナマが94年廃止)。・・・このコスタリカの経験を見ると、軍隊の廃止、清潔な選挙制度の確立、徹底した平和教育、積極的平和外交の全てが有機的に相互作用して、平和国家を建設したことが分かる」。
・池田眞規『コスタリカ視察報告:コスタリカに学ぶ−軍隊なき平和国家』http://hccweb1.bai.ne.jp/hankaku/b2-1costarika.htm,
2001.5.29.
「まず彼らは、国政の民主化の第一は清潔な選挙制度の確立が先決だと考える。その方法として立法、行政、司法の「三権」から独立した第四権の常設の『選挙管理裁判所』という近代憲法学の通説にもない国家機関を創設し、これに選挙のすべてを管理させることにした。 この選挙管理裁判所はすべての干渉から独立して民意を反映した清潔な選挙を実施する権限と責任を持つ。選挙の結果の発表も選挙管理裁判所が行うのである」。
・西山明行「軍隊のない国コスタリカ訪問報告」2001.12.9 『日本反核法律家協会報告』
「コスタリカは、『三権分立』ではなく『四権分立』です。・・・最近アメリカと言えば戦争、戦争と言えばアメリカという感じですが、中米などはしょっちゅう内紛があり、アメリカが口出ししたら収まらず、かえって酷くなった。非武装中立のコスタリカが口を出すと収まるという現象があるようです。だから信頼感が違うような感じがします。政府軍と反政府軍の難民を受け入れているというのも大きな特徴です。」
「コスタリカは、「三権分立」ではなく「四権分立」です。選挙管理裁判所があり、ここで選挙の公正ということを徹底してやるということです」。
「コスタリカは、「三権分立」ではなく「四権分立」です。選挙管理裁判所があり、ここで選挙の公正ということを徹底してやるということです」。
・カルロス・バルガス氏講演、『コスタリカ報告集2002年1月―2月平和視察団のみたコスタリカ』、コスタリカの人々と手をたずさえて平和をめざす会。
「1986年の中米紛争時、紛争の環境の中にあって、中米の紛争環境というのはニカラグアのサンディニスタ政権に対してホンジュラスの介入があり、戦争が起こりそうになったとき、アメリカ合衆国はこのホンジュラスの政権を支持しようとしたわけです。・・・アメリカとコスタリカは友達です。また、連帯もしています。しかしながらコスタリカはアメリカに従属していないということです」。35ページ。
・「カレン女史のスピーチ」『コスタリカ報告集2002年1月―2月平和視察団のみたコスタリカ』
「四つ目の権力として『選挙に関する最高裁判所』を設置しました。これは、非常にほかの国々とも違いまして、違うメカニズムをもったものなんですけれども、これによって、クリーンな選挙が確実になったということです」。133ページ。
「以前に創価学会の核の脅威展というのがありまして、創価学会の池田会長と私の息子のホセ・マリア・フィゲーレス(1994−98年大統領)と非常に懇意なのです。もしも池田様にお目にかかることがありましたら、よろしくお伝えください」。143ページ
・ルイス・アルベルト・モンヘ「モンヘ元大統領に訊く」『コスタリカ報告集2002年1月―2月平和視察団のみたコスタリカ』
「ニカラグアは当時紛争の中にあり、ソ連とキューバの支援を受けていました。・・・ホンジュラス・エルサルバドルでも紛争が起きており、やはりキューバの援助を受けていました。・・・アメリカはホンジュラスなどの左翼勢力を制圧しようという政府を支援していました。冷戦構造がはっきりと現れていました」。57ページ。
・自由法曹団『有事法制のすべて』(新日本出版社、2002年)。
「80年初め、隣国ニカラグアで内戦が起こったときは大変な危機だった。ニカラグアとコスタリカは国境を接しているが、ここにアメリカの息のかかったゲリラがいる。彼らが負けてコスタリカ領に逃げ込んでくる。それを追ってニカラグア兵がくる。そうすると、ニカラグア側のコスタリカも武装しようという話になる。
・・・そこでレーガン政権がコスタリカに軍事基地を作らせて暮れくれ、というようなことを言うわけだね。これを当時コスタリカの大統領だったモンヘ氏は、断固拒否した。そして世界に非武装中立を誓う。これが、1983年の「非武装中立宣言」だ」。128ページ。
「・・・実際にアリアス大統領の和平工作によって、1987年、和平協定が成立してしまう。これでアリアス大統領はノーベル平和賞を受けるわけ。
このように、コスタリカの平和主義は、世界の平和を積極的につくり出していこうという、積極的非武装、積極的平和主義だと言ってよいと思う」。129ページ。
「コスタリカの平和主義は、コスタリカの成熟した民主主義のシステムによって、支えられている。
まず、驚くのは、軍隊がない分、50年にわたり国費の三分の一をいつも厚生面、そして教育に使ってきたという事実だ。コスタリカの子供たちは、みな均等に教育の機会を与えられ、学校で平和と民主主義、人権保障を学ぶ」」130ページ。
・伊藤千尋「平和憲法の国コスタリカ、非武装という強さ」『週間金曜日』400号、2002年2月22日。
「(1949年軍隊を廃止した。)その後、「兵士の数だけ教師」を合言葉に、それまでの軍事予算を教育予算に変えた。以後年間予算の三分の一が教育費になった」。「(80年代の中米紛争が激化した時)ニカラグア政府軍に追われたゲリラがコスタリカに逃げ込んできた。こうしたときに『永久的非武装、積極的中立』を宣言したのがモンヘ大統領だ。」「彼の後を継いだアリアス大統領は、対話によって中米全体の紛争を終わらせてしまった。彼の発想は、いわば『国際的火消し』である」。
・伊藤千尋「コスタリカと中米の歴史」『コスタリカ報告集、2002年1月―2月平和視察団のみたコスタリカ』17ページ。
「(中米和平協定の)功績によって87年アリアスはノーベル平和賞をもらいました。日本でもノーベル平和賞をもらった総理大臣がおりましたが、ただ長期政権にいたというだけでもらった。ああいう名目的な平和賞ではなくて、この人はほんとうにすごいです」。
・早乙女愛・足立力也『平和をつくる教育―「軍隊をすてた国」コスタリカの子どもたち』(岩波ブックレット、2002年)。
「コスタリカも結局数ある貧しい発展途上国のひとつであり、しかもこれといった資源がなく、コーヒーやバナナの輸出と観光でなんとか糊口をしのいでいる。逆にそういった逆境が、コスタリカの「教育偏重」傾向を強くした。・・・そのために、軍隊すら廃止してしまったのだ。少ない資源を教育にふるいわけるために」。39−40ページ
・藤森研「軍隊を持たない国―コスタリカと比較して」、東京土建一般労働組合『建設労働のひろば』10月号、18ページ。
「80年代にアメリカはニカラグア干渉を行いましたが、それを遂行するためにコスタリカに飛行場の建設を提案します。ところが時の大統領(モンヘ)は、一方に肩入れするのでなく中米全体の平和に寄与する『非武装積極中立宣言』を発して、アメリカ政府の意図を挫いてしまうのです。・・・さらに米州機構(OAS)を活用して両国の和解調停に乗り出し、アリアス大統領は87年ノーベル賞を受けています」。
・池田眞規「カレン・オルセンさんについて」『カレン・オルセンさん招聘企画挨拶文』。2002年10月。
「この国は半世紀以上にわたって、非武装・中立の平和国家、民主主義国家として発展してきました。・・・アリアス大統領は、中南米の和平に貢献したことで89年ノーベル平和賞を受賞しました。同時にコスタリカは、国としてもノーベル平和賞を受賞しています」。
[2] 執筆者の多くは、同時に日本において憲法を守る運動や有事法制反対運動に参加している人々である。筆者もこうした運動を支持し、積極的に関わって行きたいと考えている。
[3]
本稿は、社会科学の立場から、コスタリカの史実と現実をできるだけ客観的に把握することを目的としているものであるが、筆者は、上記の運動を進める立場からしても、誤った認識にもとづく評価からは、運動を進めるための力となる正しい教訓を学べないのではないかと憂慮している次第である。
[4]
現在までのところ、筆者とほぼ同じ考えで、上記の一面的評価、賛美が行われていることを批判したものは、筆者の知見するかぎり、わずかに小澤卓也「映画“軍隊を捨てた国(ママ)”を観て」(『歴史評論』NO.261、2002年11月号、110−11一ページ)のみである。小澤氏が指摘する「コスタリカの平和の安直な神話化および伝説化」については、同じ内容をすでに筆者も指摘したことがある。日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会機関紙、2001年6月1日号、同千葉県支部講演レジュメ(2002年10月5日)を加筆訂正した『コスタリカをめぐる8つの神話』(本稿は、ある雑誌に掲載予定であったが、結局未掲載となった)参照。
[5] コスタリカ憲法(スペイン語)よりの拙訳。第3項については、他の翻訳には誤訳が見られるが、正しくは、「声明あるいは宣言を討議したり、発表したりしてはならない」という意味である。
[6]
1949年憲法の制定過程については、竹村卓『非武装平和憲法と国際政治−コスタリカの場合』(三省堂、2001年)75−84ページ参照。
[7]
IISS, The Military Balance 2000-2001, Oxford Univ. Press,
London, 2,000
[8]
コスタリカの警察法には、明らかに日本の警察法とは違った規定が見られる。それは、コスタリカの警察が、軍隊的な側面を持っていることから来るものと思われる。市民警備隊(Guardia
Civel)の警備隊Guardia(グワルディア)という用語は、軍隊(Ejercito)と警察(Policia)の中間の強度をもつ「治安機関」である。警備隊(Guardia)は、中南米では歴史的にはかなりの重装備をもったり、軍隊そのものである場合もある。そうした語感をもつものとして市民警備隊がコスタリカ国民に捉えられていることを知る必要がある。すなわち、装備からしても性格からしても日本の警察力とは違ったパーセプションといってよいであろうか。
[9]
Efraín Valverde y Nidia Aguilar, La barahunda de Costa
Rica en Ginebra: Made in USA, http://www.rebelion.org/internacional
[10]
中南米一般において、国民は、「北の巨人」に対して歴史的な関係から「ヤンキー」とか「グリンゴ」とか呼んで嫌悪感をもっており、その感情を吐露する場合が少なくない。しかし、政治の現実は複雑で、そうした感情をもちながらも現実の力関係あるいは利害関係でアメリカ政府との関係のあり方が決められている。コスタリカの場合もそうで、対米従属性と同時に時に対米批判がでてくる複雑な側面をもっており、対米関係を一面的に捉えてはならない。
[11]
筆者は、最近キューバ人研究者、またプエルトリコ独立運動の活動家とコスタリカについて話す機会があったが、前者は、「コスタリカは、軍隊を持たないのではなく、アメリカがいざというときに守ってくれるので、持つ必要がない」と述べたし、後者は「コスタリカが軍隊を持たないといったからといって、現実のコスタリカの行動から見れば、中立でもなく、積極的な平和外交とはいえない」と厳しい批判を行っていた。こうした見解は、中南米左翼一般の見解と思われる。
[12] Ibid.
[13] Granma, Octubre 18, 2002.
[14] Nacionales, Julio 6, 2002.
[15] アメリカのモンロー主義の史的展開については、岡部廣治「米国の『勢力圏』思想と革命ニカラグア−『モンロー主義の史的展開』−」『経済』1986年1月号参照。
[16]
グアテマラについては、岡部廣治「グァテマラの問題」(『歴史学研究』、第174号、1954年8月号)、Guillermo
Toriello Garrido, Guatemala, Más de 20 Años de
Traición, Ediciones Ciencias Sociales, La Habana, 1981を参照。なお岡部氏は、Richard
H. Immerman, The CIA in Guatemala: The Foreign Policy of
Intervention, University of Texas Press, 1982を推奨しているが、筆者未見。
[17]
アメリカに支援された反革命軍のキューバ侵攻事件(プラヤヒロン侵攻)については、近年新たな公開資料にもとづいて研究がなされている。最新の研究は、Juan
Carlos Rodríguez, The Bay of Pigs and the CIA,
transulted by Mary Todd, Ocean Press, Melbourne, 1999, James G.
Blight and Peter Kornbluh, Politics ofIllusion: the Bay of
Pigs Invasion Reexamined, Lynne Rienner Publishers, Boulder,
1998などを参照。
[18]
エドゥアルド・ガレアーノ『収奪された大地』大久保光夫訳(新評論、1986年)270−271ページ
[19]
トマス・J・マコーミック『パクス・アメリカーナの五十年』松田武・高橋章・杉田米行訳(東京創元社、1992年)243−244ページ。
[20]
チリのピノチェットのクーデターの背景については、多くの書籍・論文が内外で刊行されているが、さしあたっては、岡倉古志郎・寺本光朗編『チリにおける革命と反革命』(大月書店、1975年)、Helios
Prieto, Chile: Los Gorilas estaban entre nosotros,
Editorial Tiempo Contemporaneo, Bueos Aires, 1973を参照。
[21]
アメリカのグレナダ侵略については、岡知和『踏みにじられた“香料の島”−アメリカのグレナダ侵略―『文化評論』No.274,1984年1月号を参照。
[22]
パナマのノリエガ国軍司令官の麻薬疑惑を利用したアメリカのパナマ侵攻については、拙稿『国際法を蹂躙したアメリカのパナマ侵略』世界政治90年2月下旬号、新原昭治『アメリカの戦略は世界をどう描くか』(新日本出版社、1997年)、小林志郎『パナマ運河』(近代文芸社、2000年)を参照。
[23]
1980年代の中米情勢については、日本共産党出版局『中米―前進する民族自決の戦い』(1985年)、同時期の日本共産党中央委員会発行の『世界政治』に詳細な資料と論文が掲載されている。アメリカのレーガン政権によるサンディニスタ政権打倒政策については、さし当ってはノーム・チョムスキーの次の本が参考になる。Noam
Chomsky, The Culture of Terrorism, South End Press, South
End Press, Boston, 1988. Noam Chomsky, Deterring
Democracy, Hill and Wang, New York, 1992. Noam Chomsky,
Necessary Illusions: Thought Control in Democratic Societies,
South End Press, Boston, 1989
[24]
アメリカに支援されたベネズエラの政界・財界・軍部・労働組合・マスコミ・カトリック教会が一体となってのチャベス打倒クーデター未遂事件については、拙稿「4月11日ベネズエラ・クーデター未遂事件」『アジア・アフリカ研究』、通巻363号、2002年第1号を参照。
[25]
ノーム・チョムスキー『アメリカが本当に望んでいること』益岡賢訳(現代企画室、1994年)29ページ。
[26]
キューバのフェリーペ・ペレス・ロケ外相は、本年4月コスタリカが、ジュネーブの国連人権委員会でアメリカが後押ししたキューバの人権非難決議に賛成に回ったのを受けて、記者会見で「もはやコスタリカに欠けていることがあるとすれば、それは、アメリカに併合を要請することだけであろう」と述べた(Granma,
April 12, 2002)。この発言は、若干冷静さを欠いた発言にも思えるが、コスタリカの対米従属性の一面を指摘したものである。
[27]
岡倉古志郎、土生長穂、立木洋『非同盟・中立』(新日本新書、1982年)27−31ページ。
[28] Clifford Krauss, Inside Central America: Its People, Politics, and History, Simmon & Shuster, London, 1991, p.224.
[29] Ibid., p.225.
[30] John A. Booth, Costa Rica: Quest for Democracy, Westview Press, Boulder, 1998, pp. 184.モンヘは、大統領就任直後、ワシントンを訪問し、レーガン政府に「中米において全体主義のマルクス・レーニン主義者達が大規模攻撃を行っており、コスタリカはニカラグアに指導されたマルクス・レーニン主義の包囲網に脅かされている」と訴えた(Martha Honey, Hostile Acts: U.S. Policy in Costa Rica in the 1980s, University Press of Florida, Miami, 1994, p.300)。
[31] Ibid., p.120.
[32] Thomas W. Walker and Ariel C. Armony ed., Repression, Reistance, and Democratic transition in Central America, SR Books, Wilmington, 2000, p.99.
[33] 国民解放党は、親キューバ反米派から、反キューバ親米派まで含む幅広い党である。
[34] モンヘは、国民解放党の中では右派に属していたといわれている(Guía del Tercer Mundo, 1984-1985, Periodistas del Tercer Mundo A.A., México, 1984, p.87)。
[35] 原文は、http://www.geocities.com/CapitolHill/7145/neutra.htmlを参照。
[36] Diana Kapiszewski ed., Encyclopedia of Latin American Politics, Oryx Press, Westport, 2002, pp.92-101.、Al sur del río bravo: monografías de países de américa central y del sur, Editora Política, La Habana, 1991, pp.63-73.、あるいは『ラテン・アメリカ事典』ラテン・アメリカ協会、1996年版633−652ページでも特にコスタリカを中立国家と記載していない。「モンヘ大統領は外交面において非武装中立を唱えた」という程度である(同書、636ページ)。
[37] Martha Honey, op.cit., 301.
[38] モンヘは、ムルシエラゴ米訓練基地、道路、橋梁、サンタエレナ飛行場建設を容認する代わりにCIAから相当な金額を受け取ったといわれている(Jeffrey Toobin, “Opening Arguments: A Young Lawyer’s First Case; The United States vs.Oliver North, New York, Viking, 1991, pp.96-115; David Johnston, “Book Accuses the CIA, New York Times, Feb.5, 1991, cited in Martha Honey, op.cit., p.371.しかし、モンヘのCIAとの関係は、50年代にさかのぼる。当時モンヘは、CIAから資金を受けていた米州地域労働機構(ORIT)の書記長であり、同様にCIAから資金を受け取っていた国際労働調査協会(IILR)の役員も行っていた。モンヘは、ホセ・フィゲーレス(彼はCIA要員であったと後年認めている。注100参照)とともに国民解放党の幹部養成学校「米州政治教育協会」(IIEP)を設立した。このIIEPは、IILRから資金を受け取っていた。つまり、国民解放党の幹部養成学校には、間接的にCIAの資金が流れていたのである。このIIEPの初代書記・会計は、ルーマニア人亡命者のサチャ・ボルマンで、彼もまたCIA要員であった(Martha Honey, op.cit., pp.531-532.)。
[39] これは、一種の平和クーデターであったとも言われている(Coautores,
Centroamérica: una historia sin retoque, El Día
en Libros, México, 1987, pp.54-55.)。
[40] モンヘ政権は、1983年だけでもアメリカの1億2500万ドルの経済援助とIMFの1億ドルの借款を受け取った(Clifford Krauss, op.cit., p.224)。
[41] Ibid.,p.224. モンヘによるこうした工兵隊の即座の受け入れ、アメリカの援助の急速な進展と、その後のモンヘによるコントラ秘密基地の容認を考えあわせると、国内外の反対意見をかわすために大統領中立宣言を行ったのではなかったかと推測させられる。
[42] ここで筆者は、エンゲルスが、「一般的にいえば、ある党の公の綱領より、その党が実際になにをやるかということの方が重要です」(ゴータ綱領にかんするエンゲルスのベーベル宛手紙、マルクス=エンゲルス著『ゴータ綱領批判・エルフルト綱領批判』全集刊行委員会訳(国民文庫、1986年)55ページ)と述べたことを思い出す。憲法や、永世中立宣言よりも、実際にその国がなにを行っているかということが重要なのである。
[43] William M. LeoGrande, Our Backyard: the
United States in Central America, 1977-1992, The University
of North Carolina Press, Chapel Hill, 1998, pp.405-406.
[44] Ibid., p.295.
[45] Thomas W. Walker ed., Reagan Versus the
Sandinistas: The undeclared War on Nicaragua, Westview Press,
Boulder, 1987, p.26.
[46] Ibid., pp.47-48.
[47]
岡友和「本格化するレーガンの中米軍事介入」、『赤旗評論版』1983.8.1
[48]
岡友和「強まるレーガンの中米軍事侵攻の危険」、『赤旗評論版』1984.10.8.
そのほか、岡知和「緊迫した情勢下ですすむ選挙準備」『世界政治』、1984年3月下旬号、14頁、増田紘一「民族自決―中米和平への道」『世界政治』1985年1月号6頁、「オルテガ司令官記者会見」(同15頁)ほか、この当時の雑誌『世界政治』には多くの言及がある。
[49] Alberto Prieto Rozos, Centroamérica
en Revolución, Ediciones Políticas, La Habana,
1987, p.261.
[50] Ibid., pp.262-262.
[51]チョムスキーは、「コスタリカにおいては、実際には富裕な超保守主義者達が、主要な日刊紙と放送局を掌握しているので、住民はしばしば一方的な筋書きを手に入れることができるだけである」というアメリカの西半球問題評議会(COHA)と新聞協会の討議を引用している(Noam
Chomsky, The Culture of Terrorism, South End Press,
Boston, 1988, pp.121-122.)。
[52] モンヘ政権は、前政権よりもはるかにコントラの国内活動に寛容であった。それまでは、国内で活動が発覚した場合、エデン・パストラのような著名なコントラでも警備隊に逮捕され、収監されるか、国外追放されたが、モンヘ政権になってからは、数週間収監されるだけで国外追放されることはなかったといわれている(Clifford Krauss, op.cit, p.225.)。
[53] モンヘは、アメリカの経済援助を受けるために(1981年―89年間で11億4000万ドルにのぼり、前政権の10倍に達した)、サンディニスタ政権打倒の協力を行ったという事実は、いろいろなところで指摘されている(たとえば、Thomas W. Walker and Ariel C. Armony ed., Repression, Reistance, and Democratic transition in Central America, SR Books, Wilmington, 2000, p.99.を参照)。
[54] John A. Booth, op.cit., pp. 215-216.
[55] Tjabel Daling, Costa Rica: a Guide to
the People, Politics and Culture, Latin America Bureau, New
York, 1998, p.22.
[56] Navis Hiltunen Biesanz, Richard Biesanz
and Karen Zubris Biesanz, The Ticos: Culture and Social Change
in Costa Rica, Lynne Rienner Publishers, Boulder, 1999, p.91.
[57] サンディニスタ政権は、「ニカラグア国家再建政府評議会綱領」において、民族自決権の尊重と非同盟外交の推進を述べている(『世界政治』第557号1979年9月下旬号、37ページ。
[58]
元CIAのデビッド・マックミシェルは、1981年にコスタリカ国境でニカラグアを挑発しニカラグアのコスタリカ侵入を引き起こす計画をCIAはもっていたと証言している(Noam
Chomsky, op.cit., p.121.)。当時中米で記者活動を行っていたクラウス記者も同じ内容の証言を直接聞いている(Clifford
Krauss, Inside Central America: Its People, Politics, and
History, Simmon & Shuster, London, 1991, p.227)。
[59]
アメリカが支援したコントラによるニカラグア侵略は、サンディニスタ政権によりハーグの国際司法裁判所に提訴され、1986年「他国の内政への不干渉という国際慣習法上の義務違反」として断罪された。詳しくは岡部廣治『たたかうニカラグア』(新日本出版社、1986年)139−141ページ参照。同裁判記録については、International
Court of Justice, Case Concerning Border and Transborder Armed
Actions (Nicaragua v. Honduras) Volume 1, 1992及び、『世界政治』1986年1月下旬号―87年7月上旬号、1986年8月上旬号、10月上旬号―11月下旬号を参照。
[60] Alberto Prieto Rozos, op.cit., p.261.
[61] Christina Jacueline Johns and P.Ward
Johnson, State Crime, the Media, and the Invasion of Panama,
Praeger, Westport, 1994, p.26.
[62] Ibid., p.125.
[63] The US Council on Hemispheric Affairs, “News
and Analysis”, Aug.18, 1988, cited in Noam Chomsky, Necessary
Illusions: Thought Control in Democratic Societies, South End
Press, 1989, p.267. バルガス氏は、「コスタリカが、30億ドルのアメリカからの援助を受けながら米軍のコスタリカ領使用を断って、永世中立をとったのは、非常に大きな賭けであった。しかし、コスタリカはその賭けに勝った。経済的援助は無くても中米にコスタリカありという国になりうることができた」と述べている(バルガス氏の講演、『コスタリカ報告集2002年1月―2月平和視察団のみたコスタリカ』154ページ)。しかし、もはやどちらが歴史的真実かは、明白であろう。
[64]
バルガス氏は、「コスタリカがアフガニスタン爆撃に対して、直接的な支援、賛成等を示したことはありません」と述べているが(カルロス・バルガス氏講演、『コスタリカ報告集2002年1月―2月平和視察団のみたコスタリカ』、コスタリカの人々と手をたずさえて平和をめざす会、55ページ)、ロハス外相の発言をどう説明するのであろうか。
[65] www.oas.org/OASpage/crisis/CR_s.htm
[66] Ibid.
[67] Fidel Castro, Comparecencia en la TV
Cubana, Granma, Noviembre 4, 2001.
[68] El Proceso, Mayo 1, 2002.
[69] http://jca.apc.org/costarica/consinfo.html
[70] La Jornada, Abril 16, 2002.
[71] Discurso del Presidente la República
de Costa Rica, Dr. Abel Pacheco de la Espriella en Cumbre Mundial
sobre Desarrollo Sostenible, Johannesburgo, Dirección de
Prensa, Lunes 2 de septiembre, 2002, Presidencia de la República,
Costa Rica.
[72] Discurso del Presidente Constitucional de
la República Bolivariana de Venezuela, Hugo Chávez
Frías, durante la inauguración de la II Cumbre
Mundial sobre el Desarrollo Sustentable, Ministerio de
Communicación e Información, Venezuela.
[73] Intervención pronunciada por el
Ministro de Relaciones Exteriores de Cuba, Felipe Pérez
Roque en la Cumbe Mundial sobre Desarrollo Sostenible,
Johannesburgo, Granma, Septiembre 4, 2002.
[74]
詳細は拙稿、前掲論文51ページ、新原昭治、前掲書、20−23ページ参照。
[75]小林志郎、前掲書、297ページ。
[76] コリン・パウエル+ジョゼフ・E・パーシコ『コリン・パウエル自伝―マイ・アメリカン・ジャーニー』統合参謀本部議長時代編(角川文庫、2001年)31−43ページ。
[77] Noam Chomsky, Deterring Democracy,
Hill and Wang, New York, 1992, p.224.チョムスキーは、このアリアス提案を「偽善的」と批判している。
[78] Luis Dallanegra Pedraza, La OEA y La
invasión de EUA a Panamá, http://www.geocities.com/luisdallanegra/EUA_Amla/capit_25.htm.
[79] 実は、1980年代よりコスタリカの警察力は倍増したと言われている(Efraín
Valverde y Nidia Aguilar, La barahunda de Costa Rica en
Ginebra: Made in USA, http://www.rebelion.org/internacional/aguilar2900.htm)。
[80]
メキシコにおいては、予算における教育費が中南米で一番高い比率を示しているが、同国の教育水準を見ると、この数字の信憑性に首を傾げざるを得ないのは、筆者一人ではないであろう。
[81] 軍事費は確かに再生産構造に組み込まれず、非生産的なものであるが、教育や社会福祉の推進は、その国の政府や国民が、どういう教育、社会福祉推進理念を持っているかにかかっている。そうでなければ多額の金額を軍事費に割かざるをえないキューバの教育、社会福祉水準の方が、コスタリカより優れている実情や、コスタリカの治安対策費が90年代ほぼ同じ水準を保ちながらも、教育、社会福祉費が減額されている実情を説明できないであろう。
[82] 「兵士の数だけ教師」という合言葉は、素晴らしい政策として聞こえるが、さほど難しい目標ではない。たとえば、キューバは、2000年度教員数は206,657人で(Anuario Estadístico de Cuba 2000, Oficina Nacional de Estadísticas, La Habana, 2001, p.297)、軍隊58,000人(The IISS, The Military Balance 2000-2001, Oxford Universiy, London, 2000, pp.236-237)のほぼ4倍、日本は、教員数は112万8000人で、自衛隊員23万8000人のほぼ5倍である(『日本国勢図絵98−99』国勢社、485ページ、533ページ)。たとえ兵士の数を減らした分だけ教員を増やしてもそれらは、現教員数の4分の1あるいは5分の1増えるに過ぎない。
[83] 竹村卓、前掲書、78ページ。
[84] Tjabel Daling, op.cit., p.40.
[85]
CEPALがいう貧困ラインとは、日常の食糧や衣料などの生活必需品をかろうじて購入できる収入がある家庭で、絶対的貧困とは、日常の食糧は購入できるが、生活必需品は購入できない生活水準のことを差指している(CEPAL,
Anuario Estadístico Latinoamericano, 2000, p.xxxiii.)。
[86]
いろいろな統計によれば、コスタリカの貧困ライン以下の家庭は、18−25%の間を、絶対的貧困ライン以下の家庭は、8−10%を示している。即ちほぼ4分の1の家庭が貧困ライン以下で生活している。たとえば、Noam
Chomsky, Deterring Democracy, Hill and Wang, New York,
1992, p.222. あるいは、Efraín Valverde y Nidia
Aguilar, La barahunda de Costa Rica en Ginebra: Made in USAを参照。
[87] Tjabel Daling, op.cit., p.45.
[88] Daniel Camacho, “Costa Rica: virtudes y
vicios de una democracia ‘Perfecta’”, en Pablo González
Casanova, Marcos Roitman Rosenmann ed., La democracia en América
Latina, La Jornada Ediciones, México, 1995, pp.424-425.
[89] カルロス・バルガス氏「講演―その1」『コスタリカ報告集2002年1月―2月平和視察団のみたコスタリカ』44ページ。
[90] Noam Chomsky, Deterring Democracy,
Hill and Wang, New York, 1991, p.222.
[91]早乙女愛・足立力也、前掲書、61ページ。
[92] Tjabel Daling, op.cit., p.21.
[93] オースティン・アメリカン・ステーツマン特別取材班『ラ・フロンテェラ』中嶋弓子訳(弓立社、1989年)67ページ。
[94] これらの各国の憲法は、http://lanic.utexas.edu/参照。
[95] アリアスは、自陣営の財政責任者リカルド・アレムより300万コロン及びキーホルダーやステッカーなどの提供をうけた。また二人でロスアンゼルスに選挙資金の受け取りにいった。その結果、アリアスは、大統領に当選後アレムを論功行賞として「中米経済統合銀行」のコスタリカ代表に任命した。その後アレムは、地位を利用してコロンビアの麻薬マフィアと結託してマネーロンダリングを行い、5000万ドルも蓄財した。アレムは1988年に麻薬取引が発覚するも、無罪となった。しかし、アレムは釈放後も麻薬取引を行い、1995年マイアミで逮捕、無期懲役を宣告された。その後、司法取引を行い懲役13年に減刑された(La
Fiesta del Cerdo: ?Quién le teme a Ricardo Alem? http://lafiestadelcerdo-2002.americas.tripod.com/lafiestadelcerdo/id53.html)。
[96] Noam Chomsky, Deterring Democracy,
Hill and Wang, New York, 1991, p.223.
[97] Granma, Octubre 18, 2002.
[98] Costa Rica: Vientos de reelección, Tico
Page, http://www.ticopage.com/reeleccion.html
[99] Fiona Ortiz, Reuters April 7, 2002.
[100]
ホセ・フィゲーレス(ドン・ペペ、カレン女史の夫)は、コスタリカでバナナ・プランテーションを経営するユナイティッド・フルーツ・カンパニーが彼を「中南米で最良の同社の広告代理店」と述べたほど、同社と親密な関係を持っていた。また彼は、アメリカのCIAからも秘密資金援助を受けていた(Noam
Chomsky, op.cit., p.273 and pp.385)。後年、フィゲーレスは、こうしたユナイティッド・フルーツ・カンパニー及びCIAとの関係から、バナナ労働者の間に強い影響力を持つ共産党を非合法化したと述べている(Noam
Chomsky, op.cit., pp.385-386)。1975年彼は、CIAの協力者として30年間働いてきたことを自ら公言している(William
Blum, Killing Hope: US military and CIA interventions since
World War II, Consortium Book Sales & Dist, 1995, p.83.)。フィゲーレスは、また、前述のプラヤヒロン侵攻事件を支持し、ジョンソンのドミニカ侵攻も弁護したのであった(Noam
Chomsky, op.cit., p.273)。このように、ホセ・フィゲーレスの実像は、「軍隊を捨てた」憲法制定者としての平和の姿よりも、CIA協力者、反共の闘士としてのもうひとつの姿が浮かび上がってくるであろう。
[101] Robert Wesson ed., Communism in
Central America and the Caribbean, Hoover Institution Press,
Stanford, 1982, pp.104-106.
[102] 1980年代初頭、統一人民党の党員数は、3万5000人と寿里順平氏は報告しているが(寿里順平『中米の奇跡コスタリカ』(東洋書店、1984年)288ページ)、現在はかなり減少しているように思われる。
[103]
コスタリカのマスコミは、チョムスキーをはじめ多くの識者が指摘するように極めて保守的である(Efraín
Valverde y Nidia Aguilar, op.cit.)。中米紛争においては、同国の主要紙『ラ・ナシオン』などのマスコミがいっせいに反サンディニスタ・キャンペーンを行い、反サンディニスタ政府の方向に世論を誘導していったことが指摘されている(Harry
E. Vanden, “The Effects of Globalization and Neoliberalism in
Central America: Nicaragua and Costa Rica” in Gary Prevost and
Carlos Oliva Campos ed., Neoliberalismo and Neopanamericanism:
The View from Latin America, Palgrave Macmillan, New York,
2002, p.168).また、こうした反サンディニスタキャンペーンに、CIAがコスタリカ国内のジャーナリストに資金を与えたといわれている(Clifford
Krauss, Inside Central America: Its People, Politics, and
History, Simmon & Shuster, London, 1991, p.227)。
[104] 2002年の国会選挙では、同党から人民統一党が分離して、カンビオ2000を結成した。得票率は、民主勢力党は1.98%、カンビオ2000は0.85%であった。
[105] Partido Fuerza Democática, En
defensa de la Patria y los Costaricenses: Nuestros Compromisos Básicos.
[106] Diana Kapiszewski ed., Encyclopedia of Latin American Politics, Oryx Press, Westport, 2002, p.99.
[107] Edelberto Torres-Rivas, “Personalities, Ideologies and Circumstances: Social Democracy in Centro America” in Menno Vellinga ed., Social Democracy in Latin America: Prospects for Change, Westview Press, Boulder, 1993, p.247.
[108]
この点については、数々の優れた欧文文献もあるが、さしあたっては、次のものを挙げておく。Centro
de Estudios Internacionales, Centroamérica en Crisis,
El Colegio de México, Mexico, 1980. CECADE CICDE, Centroamérica:
Crisis y Política Internacional, Siglo XXI, Mexico,
1982. Thomas P. Anderson, Politics in Central America,
Praeger, New York, 1982. 日本語文献では、日本共産党出版局『中米―前進する民族自決の戦い』(1985年)所収の諸論文を参照。
[109] 「サンタフェ文書I」については、日本共産党中央委員会発行、『世界政治』第619号1982年4月下旬号及び第621号1982年5月下旬号を参照。
[110] Martha Honey, op.cit., p.481.
[111]
アリアス大統領(当時)は、1988年シュルツ米国務長官と会談したときの模様を反サンディニスタ感情を顕わにして、次のように語っている。
「今日のサンディニスタは、悪いやつらだが、あなたがたはいい人達だ。彼らは正体を現したのだ、と私はシュルツ氏にいった」(Richard
Boudreaux, Los Aneles Times, August 5, 1988, cited in Noam
Chomsky, Necessary Illusions: Thought Conrol in Democratic
Societies, South End Press, 1989, p.267.)。
[112] 上記注1で引用した人々の言及の中には、コスタリカ側にしろ、日本側にしろ、域内の自主的解決をめざすコンタドーラ・グループの長年にわたるねばり強い和平交渉があってこそ、最終的にエスキプラス合意が実現したことがほとんど触れられていないことが特徴である。
[113] 和平交渉過程については、Sung
Ho Kim, “tThe Emergence of the Peace Process in Central America”,
in Perspective War and Peace in Central America, Ohio
University, Ohio, 1992を参照。このコンタドーラ合意の重要性については、加茂雄三「中米史の現段階―「エスキプラスU」の歴史的意義」、加茂雄三・細野昭雄・原田金一郎編著『転換期の中米地域』(大村書店、1990年)所収、18−19ページを参照。
[114] John A. Booth, op.cit., pp.185; Clifford Krauss,op.cit., p.229.
[115] エスキプラス合意Uの全文については、日本共産党中央委員会発行『世界政治』第748号1987年9月上旬号を参照。
[116]
ノーム・チョムスキー、前掲書、67−68ページ。
[117]
同上、67ページ。この点については、サンディニスタ民族解放戦線も同じ見方をしている(Visión
Sandinista, http://www.fsln.org.ni/vsandinista/archivo/2002/julio/11al17/analisis/
[118]
チョムスキーが指摘しているように、アメリカ側は、エスキプラス合意を誠実に守る気持ちはなかった。レーガン政権は、とにもかくにも「『人道援助』を継続してコントラを少なくとも1年間はホンジュラス領に戦闘可能な状態で維持し、外交交渉が行き詰った際に抑止力として使用する」つもりであったと、当時のベーカー米国務長官は述べている(ジェームズ・A・ベーカーIII『シャトル外交、激動の四年』仙名紀訳(新潮文庫、1998年)122−128ページ。これは、明らかにエスキプラス合意に違反するが、こうしたアメリカ政府の意図をアリアス大統領がどれだけ知っていたか、今後の公開文書で解明されるものと思われる。
[119] Noam Chomsky, Necessary Illusions:
Thought Control in Democratic Societies, South End Press,
Boston, 1989, p.226, pp.392-393. チョムスキーは、「アリアスは、ソ連やキューバのニカラグアへの武器供給は繰り返し批判したが、エスキプラス合意直後、アメリカがコントラへの援助を増大したことに対しては口を閉ざしていた」(Noam
Chomsky, Deterring Democracy, Hill and Wang, New York,
1992, p.275)と非難している。
[120] Tjabel Daling, op.cit, p.21.
[121] Harry E. Vanden, op.cit., p.169.
[122] Noam Chomsky, op.cit., p.223.
[123] Efraín Valverde y Nidia Aguilar, op.cit.
[124] Noam Chomusky, op.cit., p.223.
[125] Navis Hiltunen Biesanz, Richard Biesanz
and Karen Zubris Biesanz, op.cit., p.102.
[126] Kees Biekaart, “The Double Defeat of
the Revolutionary Left in Central America” in Jolle Demmers ed.,
Miraculous Metamorphoses: The Neoliberalization of Latin
American Populism, Zed Books, London, 2001, p.197.
[127] 1万から3万人といわれる先住民は、全土の6.3%にあたる居留地で生活している。彼らは土地の所有権を有しないが、生活地域は白人の狩猟者、森林伐採人、無地農民、鉱山発掘者などによって頻繁に侵入を受けている。また、先住民を「考古学ツーリズム」の観光対象としているという批判もカトリック教会から出されている(Tjabel Daling, op.cit.,pp.48-49.)。コスタリカの先住民問題については、西川長夫・原毅彦『ラテンアメリカからの問いかけ』(人文書院、2000年)所収、小澤卓也「白色化された国民―コスタリカにおける国民イメージの創設」を参照。
[128]
映画『軍隊をすてた国』は、ドキュメンタリーというよりも、製作者の主張を伝える宣伝映画と言ってよいであろうが、結論として「平和・民主・中立国家コスタリカ」のイメージを引き出すためにかなり主観的な論理の展開が行われている。それが意図的に行われているとは筆者には思われないが、もしそうであれば、小澤氏がいうように、「『平和』物語作りに情報操作が行われている」ことになるであろう(小澤卓也、前掲論文、110ページ)。
[129]
A.ミリューコフ編著『日本経済に学べ[ソ連・ミリューコフ報告]』中村裕・服部倫卓訳(朝日文庫、1991年)36−37ページ。
[130]
バルガス氏は、米軍基地と自衛隊の関係について、「結局、自衛隊という軍隊があるということが、米軍基地を日本に置くことを許容してしまう理由を作ってしまうことにもなっているわけです」と述べている(『カルロス・バルガス氏の講演』『コスタリカ報告集2002年1月―2月平和視察団のみたコスタリカ』164ページ)。しかし、これは、アメリカの帝国主義の世界制覇政策、日本のアメリカへの軍事的従属性、日米安保条約の性格を理解しない見地である。また、ここには、コスタリカのように国家安全保障は、集団的安全保障に委ねればよいという考え方が潜んでいる。筆者が知るかぎりでは、バルガス氏の諸発言の中に、日米軍事同盟である日米安保条約破棄の提言や、核廃絶の課題において最大の核保有国であるアメリカに核廃絶を強く要求する主張が見られないのが特徴である。こうした点を、小澤氏は、「あたかも自衛隊の存在に反対しながら、日米安保条約に従って日本に駐留する米軍の存在を肯定する反戦論者のようなものである」と鋭く批判しているが、正鵠を射た指摘であろう(小澤卓也、前掲論文、111ページ)。
(完) 2002年11月5日記。