2012年09月24日

亡き父と 会えぬ母との 彼岸かな



昨年の今ごろは、土の上の生活だった。

お彼岸である。お寺について再確認しておこう。

江戸の歴史は隠れキリシタンによってつくられた 古川愛哲 講談社+α新書
<引用開始>
島原の乱が日本人の宗教生活に与えた影響は大きい。
 寛永15年(1638)檀家(だんか)制度、寺請(てらうけ)制度が全国的に確立されたからである。これにより日本人全員がどこかの寺を菩提寺(ぼだいじ)にして、檀家の関係をもたねばならなくなった。菩提寺とは葬式をしてもらう寺のことである。そして寺の檀家に登録してもらう。これを「寺請証文」といい、寺請証文がないとキリシタンと疑われる。そこで寺が必要になってくる。
 中世後期以来、持仏堂(じぶつどう)、阿弥陀堂(あみだどう)、観音堂(かんのんどう)など、無住の堂宇(どうう、堂の建物)があった。それらの堂には季節ごとに僧侶が訪れるだけだったが、これらに住職を置き常駐の寺に昇格させた。そうでもしないと、村人全員の菩提寺が足りないからである。寺院の由来書で中興の僧が江戸時代の人物であるのは、この檀家制度が原因である。
ところが、本山が無住の堂宇に住職を派遣して昇格させる費用を出してくれるわけではない。そこで、村人が三十五石以上の出費をして住職を派遣してもらい、寺として昇格させてもらうことになった。ところが、一人年間一石の時代だから三十五石というと、三十五人分の年間生活費を出し合ったことになる。大変な出費である。
 このようにして、この時期、全国で爆発的に寺院が増えることになった。一村一寺院で、一つの村があると必ず寺院がそびえるという風景が誕生した。慶長6年(1601)から元禄13年(1700)の百年間に、各宗派の寺院の82パーセントが開創されたとみられている。
 ここでふたたび困難が生じた。仮に檀家120軒の村ならば、その約一割の12軒から毎年葬儀が出るという。そうなると、月一回の葬儀で寺院は生活を維持しなければならないが、それでは経営的に苦しい。
 そこで一周忌(二回忌)を作ると、毎年二倍の収入になる。さらに三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、三十三回忌、五十回忌、百回忌を増すと、約十一倍に跳ね上がる。この一周忌に始まる年回忌の法要は、江戸時代の寺院経営者のために作られたものといってもいい。
<引用終了>

ドリーム党は、この制度をなくしたいと考える。その理由は、東日本大震災後に、日本の仏教界は全く無力だったからである。

宗教は祭りごとである。つまり、神とのふれあいであり、神から自分のを位置付けるマクロの視点が要求される。現在のように、お坊さんや寺院の視点から宗教を考えてはなけないのである。

どうすればいいか。まず、この言葉を知らなくてはならない。

万教同根
ばんきょうどうこん キリスト教、仏教、儒教などの世界を代表とする宗教の源泉は同じところから来ているということ

私はクリスチャンだが、原理主義的な排外さを嫌う。

アメリカの良さは、ノブレス・オブリージュ(賢者の献金)精神が浸透していることである。鉄鋼王と言われたカーネギーやスタンフォードなどの賢者の思想を今も、ビル・ゲイツ氏などが受け継いでいる。

翻って、日本には献金の文化がないといっても過言ではない。

この事実から導き出した結論は、仏教寺院を公共財と捉え、僧侶が経済活動をしなくてもいいように、補助金を支給するという政策である。

平安時代、鎌倉時代からの真言宗や禅宗などの教え(フロイトの言葉を借りれば「無意識下」の教養)は日本人の「心」であると言って良い。日本人以外には絶対に理解できない精神文化の世界が確実に存在するのである。

秋雨のなか、そんな風に考えたのであるが、読者の皆さまはどう思われるであろうか。


posted by S・C・ NAKAMURA at 00:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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