今日はよー働いたなー。伝票起こして梱包して郵便局まで持っていくってのを全部俺一人でやったんだよ。
今日こそ借りてきたビデオを見ようと思ってたんだけど,疲れたから寝ることにしたよ。午前1:00起きてビデオを返却。
テレビのリモコンがどこかに行ってしまった。部屋のどこかに埋もれてしまった。
『SF入門』(早川書房)を読み終わった。というか,適当に拾い読みしているうちに読むところがなくなった。まるで中途半端で散漫な本だ。オールタイムベストだとか作家へのアンケートだとかの毎度毎度のかわり映えのしない企画で,こんなのいまさら作ったってしょうがないじゃないの。それに,SFマガジンでもしょっちゅうやってるのに。まあ,中には面白い文章もあるにはあるけど,ひとつひとつの文章が短すぎて食い足りない。"入門者"を低く見積もり過ぎているんじゃないのか。はっきりいえば舐めすぎ。
と,思っていたら,野尻ボードに僕は小学校高学年向きの本だからと聞いてたんですけどね。
という記事が。そそそそうだったのか。しかし,その編集意図は執筆者に満遍なく伝わっているとは言い難いようで。児童書にしてはちょっと……字が小さいしルビが少ないんじゃない? それに,子供が「SFと哲学」なんてことに関心を持つだろうか。そりゃあ中には持つ子もいつだろうけど。
ここ何年かで最良の文学入門書は,おそらく福田和也『作家の値うち』だったろうと思う(はいはい,賛否両論あるのはわかってるし,「否」の人たちの気持ちだってわかってますって)。あの本はたとえば「名前は知ってるけど読んだことが無いあの作家のやたらに売れたあの本は,要するに可なの,不可なの」っていうようなところに明確に答えを出していて,しかも,いろいろ不可解な「抜け」はあるにしても,そうとう網羅的にしかもひとりでやっちゃってるから,ひとつの視点から現代の小説全体を輪切りにしているような面白さがあった。最大公約数的なアンケートなんかより,こういう仕事のほうがはるかに面白いに決まっている。わたしもこの本を足掛かりにして何冊か読んでみて,「福田ぜんぜんわかってねえ,死ね」とか「福田もけっこういい趣味なあ,うんうん」とか思ったりして,そういう楽しさもある。
本来,本を人に読ませるって事は,そういう緊張感をはらんでいる。薦めた本を貶されたらどーしよう,なんていう所から始まって,まあ,いろんなことがあるわけだ。でも,『SF入門』には緊張感が生む楽しさがないんだ。「SFは素晴らしい」「SF最高」としか言ってない太平楽な巻頭言に,緊張感など求めるべくもない。わたしはこれを読んで本当に情けなくなった。子供向けってことならこんなもんなのかもしれないけどさー。
更新が止まったままの「SF作家の値うち」だけど,もうちょっとがんばらないとダメですね。
あー。あれだ。わたしにゃ「SFに入門する」ってことがどういうことなのかよくわかんないよ。SF自体がまだ珍しいものだった福島正実の時代とはもう違う。だから,ああだこうだ言ってないで今日からSFを読めばいいじゃないのそこら辺にいくらでも転がってるよ,ということになる。SFを知りたかったらSFを読むしかない。それって入門書が必要なほど難しいことかね。「何を読んだらいいのかわからないしー」などととぼけた事を言ってる人には,わたしならこう言う。「あ,君は『入門』しなくていいからね。てゆーかSFに関心があるふりをすること自体をやめたら? 時間の無駄だから」
歴史や伝統や諸々の言語圏のSFに目配りをきかせつつSFの現在の姿を正しく伝える,ということがなぜ出来ないのか。SFがそんなに素晴らしいものだ,と現在形で言いたいのなら,是非ともそうすべきではないか。なぜ長山靖生は,日本のSFの現在について,ファンタジーやホラーとして発表された作品にも優れたSFが多く見られるのが,近年の特徴だ。
などと,「なんでもSF」的なお気楽なことしか書かず,野尻抱介や,小林泰三や,北野勇作や……といった(挙げれば幾らでも名前が出てくるのに!)ジャンルの中心で現在をになう作家達について触れないのか。ここを素通りして,なにが近年の特徴
だ。誰をどこに入門させようというのだ。
日本SF作家クラブ創立以来初のベスト作品アンケート
なんてものが最大の目玉
だって。まったく情けない。どの作品が一番素晴らしいか,なんてことは,実はそれぞれの個人の読書の実践から,ということは恐らく創作の実践からも,もっとも遠いところにある。まだそんなこともわからないのか。
それに,ベストの一位から順番に読んでいくような子供は,俺は嫌いだね。初心者向けに『夏への扉』を読ませる大人も俺は嫌いだ。なんか,やーらしーんだよなー。『夏への扉』は好きだけど,それとこれとは話が別。
新御茶ノ水の駅の構内に,古本屋がワゴンを出していたのでちょっと覗いてみた。『フランケンシュタインのライヴァルたち』を100円で拾って,小さな幸せ。他にはこれといったものは見当たらず。
と,まあ,性懲りもなく文句を書き連ねたところで。
『SF入門』を買ふのはSFヲタ(SFゴロ)だけと云ふ話。
実に素晴らしい要約。まったくもってその通りなんですが,そのSFヲタへの仁義さえ欠けてるんだもんなあ。
泣けるね。
中古のモニタを買うつもりだったのだけど,後輩から,もうちょっと金を貯めて新品を買ったほうがいいです絶対,と言われた。まったくその通りなので我慢することにした。わたしは後輩の意見もきちんと聞く度量の大きな男なのだ。今日はそれだけです。
フォーマルハウト・ダイアリー(1/19)から,児童文学作家いぬいとみこ氏の訃報。小学校の図書室にあったいぬい作品はひととおり読んだはずだ。いまではすっかり話を忘れてしまったけれど。今にして思えば,生まれてはじめて作家の名前で本を選ぶということを覚えたのがその頃だった。御冥福をお祈りします。
フォーマルハウト・ダイアリー(1/19)から,児童文学作家いぬいとみこ氏の訃報。小学校の図書室にあったいぬい作品はひととおり読んだはずだ。いまではすっかり話を忘れてしまったけれど。今にして思えば,生まれてはじめて作家の名前で本を選ぶということを覚えたのがその頃だった。御冥福をお祈りします。
<a href="hoge">あれ</a>や<a href="hogehoge">ここをクリック!</a>などのようなアンカーがダメな理由。<a href="soudesune">そうですね</a>なんてのもダメ。第三者に意味を成さない。
要点をまとめると、以下の通り。
以下、参考リンク。
Linux端末(未だモニタ無し)にTelnetでログインしてw3mを使うのが,今の環境でもっとも快適なWEB閲覧方法であるというのは,何か間違っているのではないか。
私は瀬名秀明(作家)が嫌いだ。瀬名は膨大なアンケート資料と慎重な論理でSFイデア主義者を論破してしまう。SFイデア主義者が無能かどうかは単なる逆恨みと出鱈目な三段論法と大衆の支持で20年後に明らかになっていくもので,一作家が実証的に決めて良いものではない。瀬名の真面目な態度が腹立たしく感じるのだが,いかがなものか。(東京都・梅原 サイファイ作家・41歳)
ほんの出来心でつい。いや,都民かどうかは知らないけど。
一歩さんの日記経由。
俺も『冒険者たち』を貶されたらちょっと黙っていられない。この書評は屑ですな。つっこみどころがありすぎてうれしくなってきます。,ほとんど途方にくれてしまいます。まあ,書かれた時期を考えれば時効成立かもしれませんが。
面白さの背後にある無思想性と意外な古さ
ですってよ。あーいやだいやだ。小説には思想がなくてはならないと言いたいらしい。が,小説というものはそういうものではない。いや,そうであってもだ。思想無しに書かれた小説などというものを,はたしてこの評者は本気で信じてるのだろうか。もちろんそんなことはありえない。評者の思想と相容れない思想のことを「無思想」と呼んでいるだけのことである。こういうのを世間では思想的貧困と呼ぶ。古くて何が悪いかということはまあ保留するとしよう。
ファンタジーは思想は奥深く秘められ
重層的な読み
が出来なくてはならないものだと言いたいらしいのだが,はて。いつからファンタジーはそんなものになったのか。いや,そうであってもだ。「冒険」の回復というモチーフの奥深くに秘められた「思想」性とガンバの冒険心のなかに潜む高度な倫理性を,当時子供だったわれわれは完全に正しく理解した。「重層的」に読んだということである。この評者にはそれがまったく読めなかったというだけではないのか。いや本当は読んでいるのだ。でなければ一行たりとも面白く読めるはずが無い。だが,「戦い」といえばなんでも「怖い」などといってすませて正しく見ようとしないだけだ。単に足腰が弱いだけなのに,それを他人のせいにしてもらっては困るんだな。
斎藤惇夫『冒険者たち ガンバと15ひきの仲間』を買わんとて、三省堂の2階に行ってみる。が。講談社文庫の児童文学シリーズって、もしかして全滅ですか。佐藤さとるも松谷みよ子も消えてるじゃないの。ちぇ。しかたなく6階の児童書コーナーまで上がりましたよ。ええ。で、岩波少年文庫版を購入。なんか微妙に高く付いた気がするなあ。図書館の児童書コーナーに乗り込むのはちょっと恥ずかしいし実家に帰るよりはましとなればしかたないか。お、あとがきがついてる。
いぬいとみこ追悼コーナーができてたけど、『ながいながいペンギンの話』と『北極のムーシカミーシカ』の2タイトルしか置いてなくて、えーっと思った。bk1で検索してみると、まだけっこう買えるみたいで(版違いでタイトルはかなり重なっているけど)ちょっと安心した。bbk1にリストアップしておいた。
某方面およびその周辺では,
<ol>
の中に<dl>
を入れるなどして連番振りをさせてるケースがあるようなのですが,ぼく的にはそれは「ある表示結果を得るために本来不要な構造を HTML に与えるインチキ」という気分がしないでもなかったり。
がぁーん。なにを隠そう,わたくし,SF100質への回答でそれをやっちゃっているのだったりするんですが。なんとなく,周辺てことで。
番号付きリスト序列リストの形(まあとにかく見かけ上は)で提供されている一連の質問に答えを付けていくということは,と考えたらああいう形になってしまったのだけど,なるほど,counterプロパティね。スマートじゃないけどしょうがないよなあ,などといいながらシコシコタグ打ってた俺って。とはいうものの,手元の環境じゃ出来栄えを確認できないのが厳しめ。けっこう悩ましい話だなあ。Mac用Operaの6番はまだか。
表示結果といえば。このやりかたって,文法チェッカとして愛用のiCabではとてもとてもスマートではないことになっちゃうんですよねえ。ほんとどうしようかと思ったんだけどさ。
久々に遭遇したバカの本のヒット。もちろんバカは読まなくていい。どうせ誤読する。
わたしはバカは嫌いだがバカの本は好きなのだ。バカに向かってバカと言い,どこがどのくらいバカなのか事細かにあげつらっている本ほど良い。その手の名著として呉智英の『バカにつける薬』を挙げておこう(本書の中でも採り上げられている)。ただし,賢くすばらしい人がバカのふりをしてほらこんなにバカだろ俺たち,とやってるのはパスである。たとえば『SFバカ本』。初めのうちは物珍しさもあってそれなりに楽しく読んでいたが,3冊目くらいでほとほと嫌気がさしてしまった。もちろん,なかには面白い小説もあったし,今でもあるんだろうけど,断固パスする。『SFギャグ本』なら買うかもしれない。
この本,なんといってもタイトルが素晴らしい。そうは思いませんか。だいたいハズレなしと確信できるタイトルで,むろん黙って買いである(目次くらいは見たけど)。で,「もうバカばっかしやってますよ」という男が嫌いである
と来るので嬉しくなるわけだ。わたしも嫌いだ。そういうやつは絶対,本気で自分がバカだなどとは思ってない。そこに何か反省があるわけでは決してない。じゃあなんなのかというと,その手のバカはこんなに不真面目なんだぞ,器がでかいだろう
といいたいらしく,その根性がもうケチくさくて,小物根性である
と,言うのである。正しい。
第3章「現代バカ著名人列伝」までは掛値なしに楽しく読める。渡辺昇一や佐高信を罵倒するあたりはもうバカ本好きにはたまらない。4章になると,いささか深刻なバカが登場してきて暗澹とした気分になるが,ここを耐え抜いていくと,また味わい深くも楽しいバカ論がつづく。
中でも本好きには6章「「あとがき日付」一言バカの諸君」は楽めることと思う。あとがきの最後に日付と署名が記してあったりする。さらに一言二言書き添えてあったりする。そんなのを集めては「くどい」とか「酔ってる」等と言っているだけなんだけど。なんとなく詳しくなったような気がするがその実ぜんぜん意味がないところがいい。「わっ,またバカ見つけた」という傑作は思ったほど多くはなく
……とがっかりしてるのもいい。こうなると,上遠野浩平のあとがきを是非,と薦めたくなる。日付こそないが,いちいちBGM hogehoge
という,気取りまくったアレね。ライトノベル系のあとがきは宝の山なんじゃないかと思ったりもするんだが。ちょっと調べてみたくなる。
この著者についてはなにも知らなかったんだけど,他の著書のタイトルが『自分をつくるための読書術』だとか『「自分の力」を信じる思想』なんてものでは,書店で見かけていたかもしれないが記憶に残らなかったとしても致し方なしというほかない。わたしは「自分」本は大嫌いなのだ。「じぶん」などと平仮名で書いてあると,もう最悪。けど,まあ,そのうち読んでみるかもしれないね。
ちなみにわたしはバカSFという言い方が好きではない。むかしは平気だったんだが,ある人から「やらしー物言いだ」と指摘され,そのときはよくわからなかったんだが,あるとき,はた,と気付いた。たしかにやらしー。こんなバカな話を敢えて書いたり敢えて読んだりしてる僕たちって高級でしょ。とかなんとかいいたげなあの目付き。いや正直に言うと,目を見たことはないが。それにバカSFという言葉はある作品が持っているありとあらゆる小説的価値をあっという間に切り捨ててしまう。横暴である。で,そゆこというと,そんな小難しいことを言わずに読者はただ楽しめばいいのである,とかなんとか妙に物分かりの良いことをいわれてしまったりしてぜんぜんお話にならないのである。この物分かりのよさもなんだか偉そうで嫌だ。俺は本当はわかってるんだけどね,というニュアンスが必ず含まれている。普通に偉そうにしてるよりねじくれている分だけ余計に腹立たしく感じられるのだが,いかがなものか(と,ここで自分がバカSFという言葉を使ってるかどうかをgrepして検証。あ。あ。あ。あ,いけない。まあ,しかし,バカなSFをバカSFと言ってるだけだから自分を許そう)。
このサイトをご覧になるには最新のフラッシュプラグインが必要です。お持ちでない方はコチラでダウンロードしてください
いやだね。
なにかってーとすぐに他人を原理主義者よばわりするのは,あまりよろしくないんじゃないか。
わたしも林さんのS-Fマガジン考課表企画に参加してもいいですか。読まれているのかしら。メールでお知らせしたほうがいいのかしら。
<20世紀SF>のほうは,保留です。いまさら前の方を読み直すのも辛いし,読み直さないまでも,読み終わった分は実家に送ってしまったし,「90年代」がどこかに消えてしまって部屋の掃除か買い直しかで迷ってるところで。
第43巻第3号などと書いても何のことだかわからないだろうな。
ムアコックとかレンズマンの新訳版とか,いろいろ出てるみたいだけど,買う余裕がないよ。
降るぞ降るぞと言われていたが,結局雪にはならなかったようだ。
9時になると眠くなる。寝る。すると,ほんの3,4時間で目が覚めてしまうので,仕方なく日記を書く。睡眠不足で夜九時になると眠くなる。
いったい俺にどうしろというのか。
まだうまくシェルを使えないんだけど,すごく便利なものだということはわかりはじめた。そうなると,MacのクラシックOSで似たような環境が欲しくなる。探してみると,あるんですな。Mshてのが。うむ。なかなかよい。grepが凄く早くてびっくりしてしまった。
『ドン・キホーテ(前篇二)』読み了える。今ごろ気付くのもなにだけども,岩波文庫版は去年出た新訳だったのね。読みやすくい訳でよいと思います。
ちょっとしたアレなナニでKとともに新宿の高島屋と伊勢丹をハシゴした。事が終わった後で,俺はなぜ三越に行かなかったんだろうかと,ちょっと後悔した。何故なんだ。とはいえ,なかなか質の高い買い物であったのではないか。K君のおかげでしょー。
帰宅後,古凡堂,うしぴーを召喚して,今季初(暖冬だからね)の鍋ぱーちぃー。モンティパイソンを見たことが無いとかいうじゃないか!
「教養」って言葉が一番身に染みるのはモンティパイソンを見てるときだよね,と思う。ユトレヒト条約が何年だったかなんてことがギャグとして成立するってのがね。
件の方はずいぶん調子が出ていらしたみたいなんだな。いつかみた光景なんだな。リメイクのアニメ見てるみたいで懐かしいんだな。おおたさんの購入本リストが味わい深いんだな。僕も買っておけばよかったんだな。でも,あの当時はなんか気持ち悪く買えなかったんだな。
ビデオで,桜井亜美『デジャ・ビュ』の元ネタ(違)になってるという『ガタカ』を観た。序盤はくーだらなーいっ,と思ったんだけど,なかなかいい話じゃないの。ジェローム(本物)がいいね。男だ。どうしてこのビデオには『バロン』の予告編が入ってるのかなあ。
あ,連載も読むのですね。当たり前か。
伝え聞くところによると(新聞をとっていないので),例の朝日新聞のコナンが嫌いな人の投稿に対して反論のお便りが掲載されたそうで,これがまたなんとも。日本は平和だなあ。バカの平和。
『小松左京マガジン』第5号届く。「小松左京自作を語る」という企画が始まっていて,その第1回が『日本沈没』。非常に興味深い内容。第2部の執筆に関して,未だに放棄したわけではない,というニュアンスが読み取れるのだが……。
「コメットさん」最終話はまだ観てない。えーと,心の準備がまだ……。
人は他者からの承認なくしては生きられない,というのが,本書の前提である。富や社会的名声といった世俗的欲求の根源に,かならず自分という存在を証明したい,という欲求があるというわけだ。だが,それだけではない。そうした根源的欲求のためには殺人さえも平気で犯すのが人間である,というのである。自己の存在証明の重さと他人の命を秤にかけて,自己の存在証明を選ぶということがある。あるいは,必要であれば自分の命さえも投げ出してしまうことがある。
本書の中では,そうした例のひとつとして,野田正彰『戦争と罪責』から,はじめての戦地で
のエピソードを引用している。彼は理念や道徳観のために腕試し
だといって捕虜の首切りを強いられた帝国大学卒の見習い士官若干の抵抗
を感じながらも捕虜の首を切ってしまう。そして,これで一人前になったと実感する
……。もちろんこれは許しがたい蛮行だ。そんなことはこの士官にもわかっている。だが,ここでそうした認識よりも上官や部下からの「承認」がもっと差し迫った切実な問題
と感じられる,そういう転倒が起きてしまうということ,ここが重要なのだ。
これは極端な事例だが,しかしこうしたことは日常的なレベルと実は地続きではないのか。わたしたちは自分のライフスタイルや倫理観と,周囲の視線とかその場の雰囲気が対立したとき,どんなふうに行動するだろうか,と少しは真面目に考えてみなくてはいけない。
この本は,そうした承認への欲求と,承認の在り方についてのさまざまなレベルにおける論考。先日読んだ同じ著者の『まれに見るバカ』におけるバカ論とも直接つながっていく。バカは底の抜けた自己承認の世俗的な形態だからだ。
薄い本で文章も読みやすいが,なかなか読みごたえがある。
MacにもMPWという無料のコンパイラがあると知って,ふらふらとC言語の入門書など買ってしまう。うーん。買ってから一時間後には後悔しはじめている。
ウィンドウの上の方にサイト内ナビゲーション用のアンカーを並べておくのは,一見便利そうだけど,携帯電話やPDAの小さい画面で見ようとしたときには鬱陶しいだけ,ということに気付いた。何度スクロールしても,なかなか本文にたどり着けなくて苛々することが往々にしてある。そうこうしている間にICテレカの度数が減ったりすると,これが気分が悪いんだよなー(ま,偶然の巡り合わせだとはわかってるけどさ。あ,貧しいですか)。そこで,日記に関してはそれらの一切を一番下に追いやってしまうことにした。
どのみち,このアンカーはあまり使われていないだろうという気がするし,LINK要素だけで充分かとも思う。新しめのMozillaやiCabではLINK要素をきちんと反映してくれる。Lynxも解釈する。実は下の方に追いやったとはいえ残しておくのはLINK要素を解釈しないブラウザに対応するためにすぎないんだが,まあ,いずれ完全に不要なものになるだろうな。
ところで,わたしのサイトナビゲーション用としてのLINK要素の使い方は,これであってるのだろうか,どうも自信が無いまま使っているのだけども。
CSSを一新しようと思ってあれこれいじくっているんだけど,どうもぱっとしないなあ。視覚的なセンスとか蓄積てものがまったくないのが問題なんだけど,自信なくしちゃいますわ。
どうもわたしは気配りというものが下手くそだ。ようするに余裕がないのだなー。まあ,その点に関しては,自分でもわかっちゃいるのだ。
しかし,こんなふうに言われるともうだめだ。もうすこし気配りをするのが当たり前だろう
。こういうありふれた言葉は,自分も何かの拍子にうっかり使っているかもしれないから,ちょっと怖い。と思いつつも,そんなことは棚に上げて一方的に,当たり前じゃなくて悪かったな,とむっとしてしまう。お前は「当たり前」ではないから逝ってよし,だというのか。「当たり前」でない人間の言ってることは「承認」できないというのか。
今回はわたしのことを少しは解っててくれると思っていた人から言われてしまったのである。むっとする気力もない。夢破れて山河あり(違)。疲れる。
わたしは,自分で思っている以上に平凡なんだろうと思っているけれど,ある面では逆に,自分で思っている以上に特殊らしい。いい年してそんなことの見極めもできない。
そこがまたカワイイところだと思うんだけどなー。ダメ?