韓国が、慰安婦に対する日本政府の補償を人権問題を担当する国連総会第3委員会に提起しようとしている。朝日新聞の報道を引用しておく。
韓国、慰安婦問題の国連提起検討 国際世論喚起図る
旧日本軍慰安婦が日本政府に補償を求めている個人請求権問題を巡り、韓国政府は国連でも慰安婦問題を取り上げる方向で検討を始めた。韓国の憲法裁判所が8月、この問題での韓国政府の不作為を認めたことによる措置。
日本政府は9月の日韓外相会談で慰安婦問題は解決済みとの立場を伝えた。韓国政府は引き続き、日韓間での話し合いによる解決を求める一方、国際世論を喚起して日本の方針転換を求めていきたい考えだ。
韓国政府は10月に米ニューヨークでの国連総会第3委員会(人権)で、日本政府が元慰安婦らの請求権を認めるよう働きかけることを検討している。(9月30日asahi.com)
これは9月24日、ニューヨークで行われた日韓外相会談で、韓国政府による元慰安婦の請求権を認めよと要請したのに対して、玄葉外相が日韓基本条約で請求権の問題は解決済みであるという立場を伝えたことに対する韓国の反応だ。慰安婦に対する日本の政府保障を国際圧力によって実現するという韓国の国家意思の表れである。過去にもこのような事例があったが、今月の国連総会第3委員会に慰安婦問題を韓国が提起すれば、日本はかつてなく厳しい状況に追い込まれることになると筆者は見ている。それには2つの理由がある。
第1に、現在の米国が民主党政権だからである。特にオバマ政権は、人権問題に対しては、非常に厳格な姿勢を取る。
第2に、慰安婦問題について、日本政府が関与する「受け皿」が不在だからだ。慰安婦問題について、今年8月に外務省は、「慰安婦問題に対する日本政府のこれまでの施策」(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/ianfu.html)という文書を公表した。その冒頭にこう記されている。
日本政府は,慰安婦問題に関して,平成3年(1991年)12月以降,全力を挙げて調査を行い,平成4年(1992年)7月,平成5年(1993年)8月の2度にわたり調査結果を発表,資料を公表し,内閣官房において閲覧に供している。また,平成5年(1993年)の調査結果発表の際に表明した河野洋平官房長官談話において,この問題は当時の軍の関与の下に,多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であるとして,心からのお詫びと反省の気持ちを表明し,以後,日本政府は機会あるごとに元慰安婦の方々に対し,心からのお詫びと反省の気持ちを表明している。
慰安婦問題が多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であることから,日本政府及び国民のお詫びと反省の気持ちを如何なる形で表すかにつき国民的な議論を尽くした結果,平成7年(1995年)7月19日,元慰安婦の方々に対する償いの事業などを行うことを目的に財団法人「女性のためのアジア平和国民基金」(略称:「アジア女性基金」)が設立された。日本政府としても,この問題に対する道義的な責任を果すという観点から,同年8月,アジア女性基金の事業に対して必要な協力を行うとの閣議了解を行い,アジア女性基金が所期の目的を達成できるように,その運営経費の全額を負担し,募金活動に全面的に協力するとともに,その事業に必要な資金を拠出する(アジア女性基金設立以降解散まで,約48億円を支出)等アジア女性基金事業の推進に最大限の協力を行ってきた。なお,基金は平成17年1月の時点で,インドネシア事業が終了する平成18年度をもって解散するとの方針発表を行っていたこともあり,右インドネシア事業が終了したことを受けて,平成19年3月6日解散発表し,平成18年度をもって解散した。
「アジア女性基金」という民間団体に対して、法的責任はないが道義的に責任を果たすというのが慰安婦問題に対する日本政府の外交的アプローチだった。2007年に「アジア女性基金」は解散しているので、現在の日本政府がこの問題に関与する「受け皿」が存在しない。9月30日の記者会見において、玄葉外相は国会日程が許せば10月6〜7日に韓国を訪問する意向を表明した。玄葉氏の訪問では、韓国側が元慰安婦に対する日本の政府保証を要求してくることは必至である。玄葉外相が「その問題は日韓基本条約で解決済みです」と言って韓国側要求を拒否すると、韓国は問題の国際化を図る。その場合、北朝鮮や中国のみならず、オランダが連携し、反日包囲網が形成される。さらにその流れに米国が加わる可能性も十分ある。9月30日の記者会見における記者との以下のやりとりを見る限り、玄葉外相が危機意識を持っているようには思えない(出典:外務省HP)。
【NHK 吉岡記者】日韓関係についてお伺いします。玄葉大臣はニューヨークでの日韓外相会談で「日韓は死活的利益を共有している」と伝えていらっしゃいます。「死活的利益」、これを英語で「Vital Interest」と表現されるようですけれども、私はこの言葉を少し調べたのですが、例えば、冷戦当時の米国のケネディ大統領が「西ヨーロッパを防衛することは、米国のVital Interestだ」とか、最近ではブッシュ前大統領が「米国の自由を守って、世界に自由を広げることがVital Interestだ」というように、国家の根幹に係わる極めて重要な利益を指すという言葉のように思うのですけれども、日本にとって韓国との関係がいかに死活的なのでしょうか。
【大臣】まず日本にとっての死活的な利益とは何かということだと思います。私(大臣)は、アジア太平洋地域において、民主主義的な価値に支えられた豊かで安定した秩序を作り上げることが、日本にとって死活的な利益だと思っています。それは韓国も同じであるというように私(大臣)自身考えておりますので、その点でまさに利益を共有するということでございます。
死活的に重要ということの基準がアジア太平洋地域における民主主義的な価値観ということならば、韓国だけでなく、オーストラリア、ニュージーランドも死活的に重要ということになる。NHKの吉岡記者が正しく指摘しているように死活的利益(Vital Interest)とは、国家の根幹に係わる極めて重要な国益に関してのみ使うべきで、単なる価値観の共有程度で使ってはならない。韓国側から「貴大臣は、わが韓国との関係が死活的に重要という認識を表明された。それならば、慰安婦問題で日本は譲歩すべきだ」と詰め寄られたら、玄葉外相はどう答えるつもりなのだろうか? 外交は言葉の芸術である。それにもかかわらず、玄葉外相の言葉には、国益を熟慮していない、その場しのぎでのレトリックが多い。
さらに韓国に最初に訪問する理由に玄葉外相は「死活的利益を共有している」ことをあげ、吉岡記者とこんなやりとりまでしている。
【NHK 吉岡記者】先日の外相会談の内容で、安保協力についても話し合ったという下りがあったのですが、具体的にどのような政策をイメージされているのかということと、なぜ日本にとって韓国と安全保障面で協力を進める必要があるのでしょうか。
【大臣】何を話し合ったかということは、具体的に今申し上げることは適当でないと思っておりますけれども、特に、韓国内において、ややセンシティブな話であります。それでも、そういったことを乗り越えて信頼醸成をしていくことは、私(大臣)は日本と韓国にとっては、非常に大切なことだと考えております。これは、安保面だけではなくて、今回、韓国を最初に訪問するということの意味は、文字通り、先ほど吉岡記者が質問された「死活的利益を共有しているからだ」と。ですから、外相同士がまず頻繁に会う、そのこと自体が極めて大切で、頻繁に連絡を取り合える、個人的な信頼関係をしっかりと築く、これが私(大臣)は大事だと。ですから、まさに極めて重要な隣国だと思っています。
日本に対して、韓国は友好国である。しかし、同盟国ではない。日本が第三国によって攻撃されても、韓国が日本を防衛してくれるわけではない。外交にとって、死活的に重要な国とは同盟を結ぶ。日本が同盟を結んでいる唯一の国家は米国だ。日本にとって「死活的利益を共有している国」は米国しかないというのが、日本外交の基本だ。玄葉外相はこのような日本外交の基礎の基礎を正確に理解しているのだろうか? どうもそう思えない。
美辞麗句だけで実行が伴わないと、却って相手国からの信頼を失う。韓国の外交通商長官と個人的信頼関係を構築し、死活的利益を確保するために、慰安婦問題で日韓関係の突破口を開くような腹案が玄葉外相にあるのだろうか? 筆者にはそのような腹案があるようには思えない。
韓国に対して、「死活的利益を共有している」などという過剰なレトリックは避けるべきだ。韓国との関係で、焦眉の課題は、慰安婦問題の国際化を韓国が行わないようにするための方策を考えることだ。なぜなら、慰安婦問題が国連総会第3委員会に提起されると、それがわが国にとって死活的に重要である日米関係に悪影響を与えるからだ。
筆者が外務省にいたならば、外相に宛てて以下の意見書を書く。
日韓外相会談では、先方は元慰安婦に対する日本の政府補償の問題について必ず提起してくる。その場合、当方の発言ポイントは次の通り。
1.貴国の憲法裁判所の決定については承知している。補償問題に関するわが国の基本的立場については貴長官も熟知されていることと思うので、この場では繰り返さない。貴長官の発言については、注意深くお聞きした。その上で、東京に持ち帰り、わが方の条約や法律の専門家と協議した上で然るべきお答えする。
2.本件に関し、マスメディアや記者会見を通じた外交は行わない。お互いの国内的発言で二国間関係に否定的影響を与えることを防ぐために全力を尽くす。
3.本件を国際化(註*韓国側は10月にも慰安婦問題を国連総会第3委員会に提起する動きを見せている)は、問題の解決に資しないということにつき、貴長官と合意したい。
こうして、まず韓国による慰安婦問題の国連総会第3理事会への提起を断念させることが玄葉外相にとっての焦眉の課題だ。(2011年10月1日脱稿)
佐藤優(さとう まさる)
1960年生まれ。作家。1985年に外務省に入省後、在ロシア日本大使館勤務などを経て、1998年、国際情報局分析第一課主任分析官に就任。
2002年、鈴木宗男衆議院議員を巡る事件に絡む背任容疑で逮捕・起訴。捜査の過程や拘留中の模様を記録した著書「国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて」(新潮社、第59回毎日出版文化賞特別賞受賞)、「獄中記」(岩波書店)が話題を呼んだ。
2009年、懲役2年6ヶ月・執行猶予4年の有罪判決が確定し外務省を失職。現在は作家として、日本の政治・外交問題について講演・著作活動を通じ、幅広く提言を行っている。近著に「予兆とインテリジェンス」(扶桑社)がある。
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