日本社会について思うことを書いてみます。
いつ弱者に転じてもおかしくはない
「ニッポンのジレンマ」でもそんな主旨のことを話したのですが、このブログ記事を読まれている1,000〜10,000人程度の方々、そして僕自身は社会的に見たら「強者」の部類に入るでしょう。こうしてインターネットにアクセスもできていますし、社会について考えるだけの余裕も持っています。
しかしながら、僕(たち)が「強者」だったとしても、それは本当に一時的なものにしかすぎません。
僕自身は今フリーランスです。フリーランスには「雇用保険」のセーフティネットが用意されていないので、何らかの事情で仕事を失ったら、すぐに生活保護という一番下のセーフティネットに頼ることになります。今日、交通事故に遭わないなんて断言できませんし、大病を煩う可能性も否定できません。来年の今頃、僕は自分の体を自分で動かせなくなっていても、なんらおかしくはありません。
ネット上で見かける「生活保護は恥だ!」と受給者を非難する人たちは、こういうシンプルな話を肌感で分かっていないのでしょう。自分はたまたま、今は必要がないだけで、よほどの資産家でもないかぎりは、明日、来週生活保護が必要になる可能性は誰しも持ち合わせているのです。不慮の事故などで自分が受給することになったとき、それでも「生活保護は恥」だと思うんでしょうか。
ライフステージによっても容易に、強者は弱者にシフトしうるでしょう。
例えば我が家も第一子の出産を控えていますが、育児によって生活に掛かる負荷は大きくなるので、あらゆる面で今ほど余裕がなくなっていくと思われます。今は積極的にプロボノとしてNPO団体のお手伝いをしていますが、育休に入ったらそんな余裕も少なくなっていくのでしょう。
「一時的な弱者」であることの自覚は、社会参加の態度を変える
自分は今は「強者」だけど、すぐにでも「弱者」に転じるかもしれない、という諦念は、社会参加への態度を変えます。
そりゃ僕だって高い税金を払うのは嫌ですし、生活保護の「不正」受給はモラル的にも許されないと思いますけど、自分がいつ「落ちる」か分からないので、しっかりセーフティネットは維持しておきたいです。
なので、僕は税金を払うとき、誰かのためではなく、自分のリスクヘッジだと思って払うようにしています(そうでもないとやってられませんしね)。
自分が「一時的な弱者」にすぎないことを知れば、NPO活動のように「直接的な社会参加」へのモチベーションも高まります。
僕自身、NPO活動を行うモチベーションの一つは、「今は余裕があるし、困ってる誰かを助けよう。多くの人を助ければ、それは巡り巡って自分のセーフティネットにもなるし」という利己的なものだったりします。
ここでもやはり、一義的に「誰かを助けるため」というよりは、まずは「自分のリスクヘッジのため」に、結果的に誰かを助ける、というモチベーションの構造になっています。
失うものは特にありませんし、特に生活に困窮しているわけではなく、この記事を読んでいる方は、ぜひ自分を「一時的な強者」として捉えてみてください。きっと、利他的な行為を始めるモチベーションが芽生えるはずです。こういう「諦め」を常に胸を抱いておくことが、21世紀的だと僕は思っています。
関連本。80件のレビューが付いている名著。この本を読むと、「貧困」は他人事ではないことがよく分かります(読書メモ)。