> 理論的には成り立っても誰も用いない論理を突っ張るよりも現実的な外用(体)のもとに引くべきところは引いて、すみやかな日蓮宗の統合を目指すべきなのである。これなくして広宣流布は無いと断言するのです。 ================================================================ 同感です。少し論点はズレますが、日蓮系は宗派、派閥が多すぎます。 古く、日蓮宗は一家離散の業と聞きました。しかし、どうでしょう。現 実は大石寺系(破門された宗派、新興宗教も含む)も、どれほど一家離 散が多いことか。これが現実ですよ。一番、かわいそうなのは、一つの 家庭にあって、大石寺帰依の家族と破門された宗派帰依の家族の親の一 家離散。その一家離散となった家庭の子供達が、もう、どちらの宗派の 御本尊にも向き合うことが出来なくなったという、この現実。もう不幸 も不幸。そのように導いてきた僧侶陣こそ大罪だと思うのです。もちろ ん、大石寺の教義を超えた在家の責任もしかりですが。ともあれ、知っ てか知らずか、これは僧侶、また行き過ぎた在家、どちらも破和合であ り、結果、ささやかな、けれども尊い人間の幸福を踏みにじることとな った。これもこの大石寺系各宗派の独善性が根っこにあるからではない でしょうか。
家庭は土台です。その家庭にあって一家和楽が成し遂げられないのに、 どうして広宣流布が出来るのでしょうか。大変に疑問です。 日蓮宗の統合は、私自身、願うものであります。 祖師の云う異体同心はどこに行ってしまったのか。
>そも、大石寺は徳川幕政下の縛りから解放された明治年間以降、内部抗争に明け暮れている。その原因の大きな要因がともすれば独善に走りがちな本仏論にあるのではあるまいか。 ================================ 本仏論は独善な信仰者を生みます。これは本当に実感します。 気違いを生む。これも同感です。 この落とし穴に知らずに堕ちた人達は、あたかも古酒に酔っている状態 に見受けられます。 破折と称し、確実にその害毒が生命に刻まれていく。 よっぽど信心のある方でないと、この行為は危険です。 自分自身の生命を観ることのできない人が、この行為をすると、大変です。 そういう方を何人も見てきました。 古く、縁のあった正信会の知人も、そこを指摘されていました。 本当の折伏や破折はかなりの訓練が必要とのこと。 この正信会の方とはもう二十三年お会いしてませんが、今になって、その言葉が思い起こされます。(今の正信会はどういうことになっている かは知りません。)
>※私の「非本仏論」というよりも日精上人までの大石寺教学と、寛師の本仏論も理論のプロセスはほぼ同じなのです。理論構成が同じで結論が違うという摩訶不思議な現象なのですが、ようするに内証を取るか外用を取るかとの話なのであります。 ============================== 了解いたしました。 当然のことですが、大石寺の教義においてのそれと受け止めさせて頂いきます。 様々な日蓮の宗派。様々に教義があろうかと思うのですが、何分、知らないというのがダメですね。(苦笑) 他の日蓮系の宗派と同じく、大石寺も論議に加わり、独善性を発揮するで はなく、前向きに取り組まれることを念願するものです。
PS 普通に見て、創価教育学会からスタートした創価学会は、仏教学という 見地ではもともと素人なのですよ。 これは致し方がないことと思います。 もともと、大石寺と創価学会は、また別なのですよ。 少なくとも私はそう捉えています。 あまり、鼻息を荒立てるほどでもないですよ。 ただ、人の不幸を取り除きたい。また、悲惨の二字を無くしたい。 この思いは本物です。 理解は得難いものではありましょうが、私はそう捉えています。 あまり理系の方々には、およそ理解は得難いだろうな。 ま、当然といえば、当然ですね。
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