オーガニックエッセイ

オーガニックな自由人竹まつの気ままエッセイ

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雪が降るまち(7)

もうそろそろ、出産予定日から1ヵ月にもなろうかとしている・・・まわりの人たちのみならず、さすがに僕たちも少々の不安をいだく。普通の病院なら、間違いなくとっくの昔に帝王切開で赤ちゃんを出している。
赤ちゃんはいたって元気。教科書に載せたいほどの医学的数字の数々。この週にしては、よう水もまれな程きれいで量も十分。何の問題もなく母子ともいたって順調・・・
はてさて?いつ生まれてきても全くおかしくないこの状況で、いったいどうしたものなのだろう。
少々、思い当たる原因は、ゆうきと言う名前。先日、岡崎へ来る前、発見した姓名判断の事実・・・流派によって字画の数え方がちがうのだ。考えに考えたゆうきの字画はどうなのだろう?それで、他にもいろいろと調べたら、最初の決めたゆきまつの姓名判断のすばらしいこと・・・これは、もう一度考えなおす余地がある。つけた名前によって、その子の人生が少なからず変わるという名前の不思議。これは見過ごすわけにはいかない。
「神様、もし今日陣痛が来たら、最初に僕たちの願いを込めてつけた名前、ゆきまつにします・・・」そしたら、本当に夕方陣痛がきた。あー、本当にうまれる。

きのうの夕方はじまった陣痛がまだつづいている。一睡も出来ないのは、本人だけでなく僕たちや助産師さんもえらい。お産というのは、本当に大変なものだ。
「お産というものがこんなに苦しいものならば、いっその事、帝王切開を・・・」と思うくらい、ゆきがしんどそうでつらい・・・母子共に順調、初産の逆子にしては、陣痛の進み方が早いらしいが、それでもとなりで見ている身にはかなりつらい。
人はなぜこんなにも苦しいお産をするのだろう?苦しみを味わいながらも、何時間も何日も何度でもお産に耐えるのか?陣痛の苦しみという大きな「陰」の裏には、きっと例えようもなく大きな喜びの「陽」がある。人生を通して味わう子育ての喜びは、きっと何にも勝るほど素晴らしく大きいのだ。それで、Y先生がいつも言うように、目先の安全や医師の都合を優先した宇宙からは外れたお産では、子育てと言う人生の最大の喜びが、きっと何割引かになるのだろう。女の人は、本当のお産を通してそこに神をみるのだろうと思う。生命の誕生の瞬間に、宇宙の神秘を知るのだろうと思う。
Y先生が、「慈悲の仏」ならば、吉村医院の助産師さんたちは、「愛とほどこしのマリア」だ!!ただただ、妊婦さんのために時間と体力の限界を尽くしてくれる。ごはんも食べずに、休憩もせずに、まるまる一晩中、ゆきのことを励ましつづけ陣痛の痛みに耐えるゆきの背中と腰をさすりつづけてくれた。我のない無上の優しさと木目こまやかな心づかい。そして、時にきびしい愛・・・Yイズムのたまものだ。

岡崎へ来てから、もう一ヶ月がすぎた。
数ヶ月前、母乳育児、自然分娩、産後の食事など自分たちの生活スタイルにピッタリの出産を求めていろいろと調べていたら、家のすぐ近所に何とマクロビオティックの助産院をみつけた。こんな大阪の下町・・・キセキのようだった。ところが安心したのもつかの間、赤ちゃんの逆子が判明、逆子は法律上、助産院では産めない。提携先の病院も自然分娩に近いものはしているが、逆子で体格の細いゆきには自然分娩は無理と言われた。僕たちの思い通りの出産ができるところはなかった。お灸、ホメオパシー、逆子体操と思いつく事をいろいろためしたが、結局逆子は直らなかった。
僕は、もう十年以上お肉を食べていない。今、お肉を食べると多分体調が悪くなるだろうし、味覚の嗜好がかわってしまったので、欲求がない。玄米と野菜中心の無添加オーガニックの食生活のおかげで、十年以上風邪ひとつひかず病院へ行くことも全くなくなってしまった。ゆきと出会って一年、牛乳も飲まず、砂糖もあまりとらず、添加物の入った食べ物を一切食べない(食べると気分が悪くなるから・・・化学調味料は、舌がしびれる。)僕に、最初はいろいろと不信を抱いていたゆきも、自分自身の体の体験を通して、食事というものが人の健康と精神にどれほどの影響を及ぼすものであるかということを、少しづつわかっていったのだ。それで、今ではお肉も食べない無添加のバリバリオーガニック生活だ。一年前までのブツブツ肌が、今では嘘のようにツルンツルンになった。
僕たちは、普通の出産がしたかっただけなのだ。現代医療で普通に行われている、一見人間の進歩のように見える医学的処置が、どれほどに母と子の絆や子供の健全な成長に悪影響を及ぼすか・・・現代文明が壊した人の心の大きさは計り知れないのだ。昔の人がやっていたような、普通の自然のあたりまえな生命の誕生をしたかっただけなのだ。
妊娠した当初からずっとお世話になっていたマクロビオティックの助産師さんに言われた・・・「あなたたちの思い通りのお産ができるところは、Y医院しかないわね・・・」その言葉を信じて、ゆきはわらをもつかむ思いで愛知県岡崎市のY医院へ向かった。Y先生に無理だと言われたらあきらめもつく・・・
「産道もめちゃめちゃやわらかい・・・バリバリの安産です。」 死にそうなほど、不安でいっぱいだったゆきの心にY先生の言葉がひびいた・・・目から大粒の涙があふれた。出産まじかであったにもかかわらず、Y先生は、快く僕たちを受け入れてくれた。この理不尽で、あたりまえの事が通らない歪んだ世界の中で、ひとつの純粋で無垢な魂がすくわれたような気がした。

陣痛が来てからもう3日目、苦しんで苦しんでやっとの思いで、もう後はゆきがいきんで赤ちゃんを外へ押し出すだけのところまで来た。ところが、最後の陣痛が来ない・・・ゆきの体力はもう限界だったのかもしれない。Y先生の苦渋の選択で、総合病院への転院を決めた。近代医療で、ゆきまつは無事うまれた。ゆきは、出産を終えた。
ゆきは、大阪の病院で「あなたの骨盤ではこの大きな頭の赤ちゃんの自然分娩は無理だ。」と言われていた。しかし、自然の摂理、Y先生の哲学を信じ、僕たちは岡崎へ来た。ゆきと出会った当初に、何でもわかる霊能者のような人に言われた言葉が思い出される。「この赤ちゃんが、あなたたちを結びつけてくれたんやよ・・・あんたたちは、引き離された前世の約束で今、出会った。」たしかに、ゆきまつを妊娠しなければ、互いの仕事のことや生活の事で本当に結婚していたかは定かではない。前世の縁で出会ったという非常に稀有なふたり・・・ゆきまつは、自分の生命をかけてでも、僕とゆきを結びつけるために生まれてきてくれたのだろうか?
「私は、一週間ずっと夜も眠れずに考えつづけた・・・今までとりあげた二万例の赤ちゃんの中で、これほどに予定日が遅れても非常に元気な赤ちゃんはめずらしい。にもかかわらずいっこうに出てこない。私は、赤ちゃんが、僕をたすけろ!と言っているようで仕方がなかった・・・」逆子はお尻が出て、大きな頭のところで詰まってしまったら、もうおわりなのだ。ゆきまつは僕たちを引き合わせるために、この世の中に生まれてきてくれたのか?全くの真実はわからない。しかし、生活のすべてと生命の限界をかけていのちの誕生に尽くしているY先生には、きっと赤ちゃんの声が届いたのではないかと思う。
僕とゆきは、岡崎でキセキをみた。戦いとドラマの連続のY劇場の中で起こる宇宙の神秘をみた。僕たちが経験したものは、「こだわりのお産」とか、「西洋医学に対する不信」とかいう簡単なものではない。僕たちはそこでみたのだ。生命がうまれるという事の真実を。愛そのものである人たちを・・・そこには、僕たちが信じる愛と真実にみちた尊くて孤高な生き様があった。日々繰り返されるありふれた暮らしの中で、己の愛と優しさを100%この世界にたえまなく注ぐ、生命である本来の人というものを見たのだ。

季節はもうすっかり冬になってしまった。窓の外は、今年はじめての雪・・・
「まつ」の部屋で、さっきうまれた赤ちゃんがねむる。となりの部屋は、キリンなのになぜなのだろう・・・やっぱり、ゆきまつだったのかなーっ。
ゆきまつがうまれて、次の日、またY医院へかえってきた。心地のよい院内の空気、窓からは、木々の緑と慣れ親しんだ古屋が見える。優しげな助産師さんたち、Y先生の相変わらずのあのおしゃべりの口調・・・また、おだやかな時間がながれはじめた。外で今日も、妊婦さんたちのまき割りの音が聞こえる。
幸せが、またひとつ、この世界にうまれようとしている。
近代文明の安楽な生活に慣れてしまった現代人にとっては、自然のお産が無理な場合もあるのだと思う。今思うと、僕たちには帝王切開しか方法がなかったのかもしれない。逆子が最後まで直らなかった事、大阪の病院で自然分娩を断られた事、Y先生に出会えた事。何をひとつとっても、限られた条件の中で、最高に幸せなお産へとみちびく宇宙の秩序であったような気がする。もし、マクロビオティックの助産院で出産していたならば、体の準備の整わないゆきにより一層の苦しみをあじあわせていただろう。何もわからず、帝王切開になるゆきの心の苦しさは計りしれなかっただろう。判断を間違えば、命取りとなりかねなかったのだから。
もし、大阪の産院で最初から、仕方なく帝王切開していたならば、お産というものに、生命の誕生というものに僕たちはこれほどに命をかけて向き合うことは出来なかっただろう。
Y医院という生命の宇宙に迷い込んでしまったばかりに、僕たちはそこで生命誕生の神秘、かけがえのない愛と真実をみたのだ。

大病院でゆきは、手首にバーコードをつけられ手術室へ入っていった。時間どおりに手術は終わった・・・何もかもがピカピカであらゆる設備が整った最先端の病院のなかで、看護婦さんが忙しそうに診察をくり返していく。
この世界をつつむ東洋の宇宙観(易ともいう)に比べれば、現代科学という形而下学的事象というのは、ほんの些細な認識でしかないのだろう・・・物質的な幸せを追求していたあのころ・・・行き着いた先に幸せはなかった。すべてを捨ててたどり着いた心の宇宙の果てに、この世界の幸せがすべてあったのだ。

人は旅人・・・この世の中をいつも心で感じながら、もくもくと生きている心の旅人。
人の心は宇宙・・・人とのつながりが心をはるか遠くへ連れて行く。人との出会いは、この広い宇宙で点と点が出会うようなもの。求める心が必然に魂の友を引き寄せる。
人との出会いにこそすべてのはじまりがある。人との真剣な関わりの中で、愛と真実がうまれて心の旅がはじまっていく・・・
心の宇宙を旅していたら、はずれのはずれへ行ってしまった・・・
そこには何も存在しなかった。時間も空間も生きている意味さえ何もなかった。しかし、すべてがあった。ただ、質量をもたない一瞬が、永遠につながっていた。
この世界は、人の心が作り出した幻のようなもの。人も街もあるようでない。
この世界で、本当に大切なものは、愛と真実だけだった。

人はやがて、物質社会にはない本当の幸せを知るだろう。そんなときがやがてくるだろう。世の中には、そんな真実の宇宙へとつづく魔法の扉がところどころにあるのだ。実は、ありふれた日々の暮らしの中のあらゆるところにあるのだ。その扉は、目では見えない。心で感じるしかない。あらゆる心のこだわりと欲を捨て、心を空にするとその扉がみえる。心の宇宙を旅する魂の旅人だけが、その扉を開けることができるのだ。
Y医院とは、いわばそんな宇宙への入口の扉・・・一ヵ月を超える、僕たちの旅はおわった。

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