考悟堂 画餅の不定期行進

国民による憲法の制定、また自由な憲法論議を訴えています。


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第52条(皇室の歳費、財産)
 ①天皇の国事行為、また日常生活の歳費は、すべて国税によってまかなわれる。
 ②天皇の行う伝統的な祭祀は、すべて神社等から得られる寄付金によってまかなわれる。
 ③皇室会議で選定された文化事業等は、すべて寄付金等でまかなわれる。
 ④天皇、皇族による利殖行為、又は特定の集団への利益となる投資行為は禁じられる。
 ⑤天皇、皇族による財産の出納は、すべて国会に報告され公開される。

第53条(皇室典範)
 ①皇室典範は、天皇、皇族の法規である。
 ②皇室典範は、議会の承認を受け、制定、改正、廃棄される。
 ③天皇、皇族に対する権利、裁判等は皇室典範を基におこなわれる。


 天皇の行為として、私は「国事行為」と「祭祀行為」を明確に分けることを案としている。その理由として民主主義国家日本において、独特の、超越的権力を持つ皇室が、実際の政治、つまりは国政に参与できないために、現在はその自由性を著しく制限されているが、その制限の幅を拡げんが為であると述べた。しかし、今一つこのように分けなければならない理由として、その行為に対する財源、または財政的な権限がある。
 天皇は、日本国の象徴的存在であり、それを旨とした行為は国事行為となる。それゆえに、その行為の費用、また天皇、皇族がその象徴性を維持するためだけの歳費は、現状同様、国税によって賄わなければならない。
 では、その祭祀行為はどうであろう。祭祀行為は皇室の存在理由の核心であるといえる。しかし、その淵源が、日本古来の宗教に依拠している以上、その宗教を信じないものもいれば、それに多額の国税を費やすことに疑問を抱く声もある。一地方の地鎮祭の問題が、天皇の祭祀行為を問うものとして最高裁で議論された例もあり、また近年削減の一途をたどってきた宮中祭祀の論拠も、推測に過ぎないが、財政的な問題の側面があるかもしれない。
 そしてもう一つ、例えば私たち国民の中で、天皇における祭祀行為の拡大を応援する、または皇室が保護する伝統や文化、技芸などを支援するために、皇室に直接奉賛する経路が無い。神社の遷宮や寺社における勧進は今だ存在し、それが地域における様々な信仰の財源となるが、皇室に租税以外で直接協力する機会はあるのだろうか。もしかしたらあるのかもしれないし、あったとしたら私の不勉強ではあるが、天皇の祭祀行為を憲法で明確に規定し、その祭祀行為の末である各神社を皇室の直轄とすることで、皇室に対して志のある人間が、直接奉賛できる機会は増えるであろう。そしてまた、法で定められた象徴性以上の行為、特に宗教的な行為にたいして、その信仰の違いから協力できない国民の自由も、また納得がいくようになると思える。
 
 天皇、そして皇族は、その全時間が公人であるかもしれない。その存在に象徴性があるのなら、それは生死を超えて、拘束され続けるといってもよい。そしてそれがゆえに、その自由を拘束される。先帝である昭和天皇は、自らの好みを発言することにも注意していたというエピソードもあるし、それは今上天皇においても同様であろう。象徴性という巨大な影響力は、その力が向けられたものの人生を大きく変える力を持つため制限せざるを得ない。しかし私が思うに、悪意や虚偽など、または利益的な背景を持つ宣伝行為などといった負の方向に力が向けられることには十分注意を払わねばならないだろうが、存在が仁徳そのものである天皇が、それをよい方向へ向ければ、それは国民にとってはげみや目標となる。必ずしもその影響力を、悪しき方にだけ考えなくてもよいのではないか。もっと天皇、皇室が、主体的にその力の方向性を選択できることで、メディアが利益本意で作り出す流行よりも、心情的な、文化的な流れが出来るのではないだろうか。
 先の戦争において、国民を1つにさせ、多くの健児を戦地へ赴かせた力として、天皇の力を否定することは出来ない。あの当時の印刷物、プロパガンダを参照しても、天皇という力を背景にしていないものはない。それが軍によって作られた、軍の持つ理想であったとしても、それは天皇の名の下に行われたことは間違いのないことであり、それがゆえに現在は極度に天皇の力を圧している。実際政治というのは多くの数の力を必要とする以上、常に人を集めやすい宗教や信仰といったものを利用し続けた。その宗教や信仰もまた、その存続などを維持するためには、そのような実際政治の力を利用せねばならないこともわからないではない。しかし、現在の日本の天皇制は、悠久の歴史を背景とし、また私たちの大小様々な信仰を受け入れ、また根となっているため、その存在が揺らぐはずはないものである。だから、天皇制が実際の政治に関与する必要などないのである。天皇制は、実際の政治などよりも、そのたどってきた歴史同様、更なる未来を見つめ、この日本という国家にながれる伝統や文化を受け入れ、伸ばしていって欲しいと私は願う。不敬を承知で言えば、天皇も一個の人間である。それがゆえに、その判断に絶対性はないし、歴史においても、帝国主義の日本時以外にこのような考えが理念以上に実施されたことはないはずである。もし、そうでないのなら、古来よりどうして戦が起こったのか。民衆が苦しむ時代があったのか。天皇の権力が弱くなってしまったのか。そこに答えはあるはずである。
 しかしながら、私たちは国家という共同体を築かねば、私たち自身の生存を持続できない。もちろん、その共同体を法のみによって拘束することは可能であるが、人間が心情豊かな、多くの異なる欲求を持つ個人の集団である以上、その心情を納得させる力というものは必要なのである。そしてそれが宗教であり、信仰であり、または血統であり、財産であり、それを総合的にあらわした、王室やここ日本の天皇制なのではないだろうか。それもまた、古より様々な法の力によって形作られている以上、法の下にあるといっても過言ではないかもしれない。しかしだからといって私は天皇制を全く否定する気はないし、むしろ天皇制が日本から無くなれば、もはや日本ではなくなるであろうと思っている。実際的な政治は常に変化にさらされている為、それに応えねばならない。それゆえに、私は憲法を変えねばならないと主張する。しかしそれは日本という国家を分解し、全く別の国家を樹立することを望むからではない。日本という大きなものを守る為に、私たちは変化をし続けなければならないからであり、その大きなものを守る為には、天皇制という根であり、幹である存在は絶対必要なのである。

 皇室が巨大な影響力を持つことは先に述べた。それが利益本意の力に流されないようにするためには、そういった行為の制限を、明確にしておかねばならない。またその出納も明らかにしておかねばならない。
 
 憲法が皇室について規定するのはこれぐらいでよいと思う。その他の一切は、現在同様、皇室典範で十分であろう。しかし憲法を変えるのならば、それに合わせて変えるべきであるし、私は延喜式のような、祭祀や伝統行事に関する明確な次第を、現在の事情に合わせて、そろそろ決めておいた方がよいとも思う。

これで、「新日本国憲法私案」における天皇制についての解説を終わる。出来れば、次は、第1章より解説を行ってゆきたいと思うのだが、どうなることやら。

 また私事の告知ですが、相模原市上鶴間公民館で「考悟堂」というサークルを開いています。九月末より、その活動の一環として、隔週土曜日に「古典会読会」を行いたいと思っています。
 どんな本を読んでゆくかは、まず9月24日土曜日、16時に公民館大会議室に集まって話し合いたいと思っているのですが、日本、中国の古典思想文献中心に考えています。例えば「荀子」や中江藤樹の「翁問答」、荻生徂徠の「論語徴」など一石二鳥でいいかもしれません。興味がある人は、是非。

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第51条(皇室会議)
 ①皇室会議は天皇もしくは摂政が招集し、議長として運営する。
 ②皇室会議は、法で定められた皇族、また国会、行政府、司法の代表、そして各分野より
  選出された助言者が参加する。
 ③皇室会議での決定事項は、個人の情報を侵害しない限り告知される。

 皇室会議というのは、天皇がその長となり、その祭祀行為、それに関すること、また皇室における様々な進路を決め、問題を解決する、いわば輔弼の機関である。現在は何事も内閣が助言、承認、そしてその責任を負っているが、それゆえに天皇、皇室の行為が拘束され、その自由性は失われ、また皇室を外交など、政治に利用しようという影も見え始めている。そう言った諸問題を考えると、先に述べたように、天皇の助言や承認、責任を内閣よりも議会に委ねるべきであると思うし、また国事行為以外の様々な行為、つまり神事や私的なことに関しては(当然継承の問題も含め)皇室がその決定、責任を独自に持つべきであると思う。しかしそれでも、天皇制が民主主義国家において、例え国政に参与せずとも超越的な力を持つことは否めない以上、皇室が末長くよき判断を下せるよう、その力を輔弼する機関は必要であり、ゆえに私は皇室会議の存在を提言する。
 皇室会議の構成者は、もちろん皇家が中心である。そして三権より選ばれし助言者、また天皇が選んだ各界の助言者が参加する。
 また皇室会議における議事は、原則的には公開された方がよいだろう。現在のメディアではないが、隠し立てをすればするほど、それを盾に、あらぬ憶測を書いたりして興味だけを向けようとする。皇室の存在意義を考えると、そうした報道姿勢はあってはならないことであるし、そうならないためにも、より開かれた姿勢が必要であると私は思う。

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もちろん、こうした祭祀が現在の私たちの生活と何の関係もないと言うことも出来る。信仰の自由は保障されているわけであるし、それを強制することも出来ない。私も無信仰な人間であり、神も仏も「敬して信ぜず」の立場をとっている。私は、神というものは人間が創り出した概念、つまり、かつては理解できなかった自然の運行、物事の成り立ちから、私たちの周りにある偶然性、私たち自身の生死、そしてその生まれる前のことや死後のこと、またなぜ私たちは集団でまとまって生きねばならないのか、同じ人間同士、その命を大切にしあわねばならないのか、そう言った簡単に説明できかねることを、論理を超えて納得させるために生み出された概念が「神」や「仏」であると思うのである。それゆえに私は、これを無自覚に信じ、奉仕しようとまでは思わないが、しかし個人がそれを創り出し、それを守り続けてきたことに敬意を表し、またそれを否定することを表明できない以上、自己の周囲の人間が大切にしている信仰は出来るだけ守ってゆきたいと思っている。先祖がいなければ、現在の私たちがいない以上、その供養は行うし、それが代々仏式で行われているのなら、それを否定する根拠が無い以上、私はそれに従う。個人として仏の存在を信じているわけではないが、それを押し付けることの出来る根拠などどこに存在するのだろう。そしてそれと同じことを宗教者にも感じるため、私は宗教者による勧誘や強引さは好まない。路上において托鉢を行ったり、その教えを説くことには、相手が拒否する自由も存在する。しかし無理解をわかった上での勧誘といったものにはその自由性が存在しない。それゆえにこうしたことには反発するし、それがゆえに、それを利用した宗教政党は。私は民主主義国家における政治団体として、全く認め難いのである。
 しかしそんな私が、天皇制に肩を持ち、その存続を願うのは、ひとえにそれが、わたしの生まれ育った日本においてずっと続けられてきた大切なことであり、またそこにいくばくかの良心が見られ、また個人的に、日本の「八百万の神」という概念が好きなためでもある。何でもかんでも神に出来るという、この受容性、この「あはれ」な感じは、私はもっとも日本人として大切にせねばならないことであり、またそれは「仁」であるとも思う。そしてこうした古き、尊い概念を守るために天皇制があり、そして天皇の御心を伺うにそこに良心が存在していることがわかる以上、どうしてそれを否定できようか。それを廃そうと出来るのだろうか。私はこの天皇制が、日本の伝統、文化、それら全てを含めた歴史を守ってゆこうとしている間は、それを守ってゆこうと心がけるし、そしてそれが民主主義下において存続し、また日本の独自さを失わないためにも、国民の大法である憲法によってもっと明確にすべきではないかと思い、この条を起草するのである。
 
 随分と色々な方向へと話が飛んでしまったが、私は現在の日本国憲法で国事行為しか認められていない天皇の行為を、もっと拡大し、よりその歴史的な象徴性、そして国民に近しく、そして尊ばれるよう、天皇の「祭祀行為」も憲法で認めるべきであると思う。
 ここで認めるべき祭祀行為は、まずは祭祀の本質である、国家、そして国民に対する「祈り」であろう。祭祀とは、その原初は自然と人との調和であり、そしてその行為によって人と人とを調和させることである。そしてその調和の主体は「祈り」であり、全く別個の存在である各個人が同じ願望を祈る、この力こそが国家を豊かにし、互いの共存力を高めるのではないだろうか。そしてそれを取りまとめてきたのが、ここ日本国において天皇ならば、天皇の祭祀行為として、まず初めにあげねばならないのは「祈り」であると思う。
 次に、その「祈り」を具現化し、続けられてきた儀式、また秘儀は継続して守り続けてゆかねばならない。
 先日、士気の集いの講演会において、斉藤吉久先生の話を聞いたが、宮中においてその秘儀は削減される一方であるという著しい事態になっている。それは天皇の御心というよりも、君側の者がどういった理由かわからないが削減しているらしい。天皇の体調問題を考えての故かもしれないが、それが財源や個人的な負担を考えてのものならば、非常に許し難いものである。またそれが削減されたまま、次代に引継がれないのだとしたら、もっと憂慮すべきことであり、何としてでも止めなければならないことである。祭祀の独自性は儀式にあり、またそれを継続してゆくことに伝統性が生まれる。皇位継承問題などに目を奪われがちだが、私は祭祀問題はもっと重要に考えねばならないという斉藤先生の考えには賛成である。
 さて、この日本において、一般的な祭祀の起点になるところといえば、神社である。各地域に、またその職業や目的によって、様々に祀られた神が、神社に鎮座している。そして日本が統一国家となってより、その祭祀は原則として天皇と天照大神が中心になっている以上、天皇がかつて神祇官をおき、またその皇女から斎宮や斎院を派遣したことから察しても、日本における神社は天皇の下にあるといってもよい。天つ神、国つ神などの異なりはあるかもしれないが、それらは天皇制の中で受け入れられて各々が存続している。そしてまた、私たちが国家の中において、間接的にでも天皇と繋がることが出来るのは、この神社においてではないだろうかとも私は考える。神社において大祭があれば天皇より奉勅使が派され、また神社を通じて私たちはその生産物や金銭を献上することが出来はしないだろうか。
 またこういったことも考えられる。
 例えば以前より不祥事が明かされる大相撲であるが、私は相撲が元は神事であるならば、それは文科省より、国税として資金が出るのではなく、皇室より、一般の寄付を通じて、その存続資金が出るようにすればよいのではないかと思う。また、相撲そのものを継続させるのであれば、大相撲にこだわらなくてもよいのではないだろうか。
 もちろん、大相撲はプロの格闘技、そして興行として存続する。興行である以上、八百長の有無を問う必要はない。面白ければよいのである。ただ、そうである以上、国税を使用することはない。こうした方が、娯楽の本道とも言え、興行にも身が入るはずである。
 そして皇室によって保護される相撲はまた別になる。それは全国の神社で奉納相撲が、地域の人間によっておこなわれ、またそこで覇を争う力人が全国より集まって、伊勢や鹿島、明治神宮などで奉納大相撲をおこなう。もちろん大きな賞金をそこに出し、プロ競技者である大相撲の強者たちも、別個参加することで、「国技」として盛り上がるのではないだろうか。また全国各地でその予選が開かれるのならば、相撲教室なども盛んになり、現在の両国一極集中の相撲部屋も全国に分散し、それはそれで面白い地元びいきの理由が出来るかもしれない。
 とかく現在の大相撲は、八百長、暴力団との関係性、そのモラルから、外国人力士の増加、国技としての存否など、また名跡問題や引退力士の行く先など、それそのものが大きな問題となっており、国民の期待も下火になる一方である。こうしたところで全く改革が為されず、ただ自己の安定だけを願っているのならば、それはイス取りゲーム同様、自分が座れる場所を確保するだけのために他の人間と手を組み、数をそろえ、排除する人間を少しずつ切り出してゆくというものになり、結果として総体的な力を弱めてゆくだけである。これはもちろん、今の日本そのものにも言えることである。相撲の根源が祭祀行為であるならば、もう一度その原義に立ち戻ってみたらどうであろうか。そして、それが伝統に属するのならば、それは文科省によっておこなわれるよりも皇室によっておこなわれる方がよいだろう。そしてそれは他の伝統、様々な工芸や技術、芸術。また各地域の歴史や史跡の保護や発掘なども、国家だけではなく、皇室がそれを独自に保護することで、より大切に守られ、またそれが守られてゆくのなら、そこに新たな芽が出ることも期待できるのではないだろうか。
 最後の祭祀行為の選定と責任は、皇室が中心になっておこなってゆく以上、その決定権は皇室、そして皇室会議にあると私は考える。その財源も、神社を通じて確保できるのならば、また実際政治と切り離されているのであれば、そこに行政が挟むべきではないだろう。

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