2012年09月23日

会えぬ母 亡き我が父と 語り合う



彼岸でも、実家に立ち寄ることもできません。

さて、クリスチャンである私は、神仏とどう向き合っているのかについて記します。

「日本人とユダヤ人」 山本七平ライブラリーより
<引用開始>
日本人はそういう不幸にあっていないから、日本教徒などという自覚は全くもっていないし、日本教などという宗教が存在するとは思っていない。その必要がないからである。しかし日本教という宗教は厳として存在する。これは世界でも最も強固な宗教である。というのは、その信徒自身すら自覚しえぬまでに完全に浸透しきっているからである。日本教徒を他宗教に改宗させることが可能だなどと考える人間がいたら、まさに正気の沙汰ではない。この正気とは思われぬことを実行して悲喜劇を演じているのが宣教師であり、日本教の特質なるものを逆に浮き彫りにしてくれるのが「日本人キリスト者」すなわち日本教徒キリスト派であるから、まず、この両者に焦点をあててみよう。
<引用終了>

この本は実に面白い本でした。もう1冊、ユダヤジョークについてユダヤ人が日本人を揶揄しているとしか思えない本と合わせ、「ユダヤ人は頭が悪い」ことに気付きました。
この本は実に面白い本でした。もう1冊、ユダヤジョークについてユダヤ人が日本人を揶揄しているとしか思えない本と合わせ、「ユダヤ人は頭が悪い」ことに気付きました。

ここまで書いてきて、別なタイトルでのユダヤ人論、日本人論を書いた方がアーカイブとしては効果的と考えるに至りました。

結論だけ書きます。

神社、仏閣を訪れることは、万物をお造りになった創造主「神」とのふれあいです。クリスチャン以外の日本人と何の違いも無く受け入れます。ただし、祈ったあとの言葉は違います。

「主、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン」

posted by S・C・ NAKAMURA at 00:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/293727745

この記事へのトラックバック