2010年2月21日

EM菌をめぐる人々

参考・引用「カルト資本主義」


EM菌は世界救世教と密接な関係があり、EM菌が良く知られるようになったのは教団内の内部抗争によるところが非常に大きいようだ



 教団史『世界救世教物語』などの文献によると、世界救世教は大本教の宣伝しで東京の大森支部長だった岡田が1934年(昭和9)年に独立して結成した教団である。当初は大日本観音会と称した。やはり大本教から出た谷口雅春が創設した生長の家とは兄弟のような関係にある。

(中略)

 宗教団体は、その母体となった教団の影響を免れ得ない。古神道的な大本教の様々な特徴のうち、生長の家が万教帰一、万教同根的な宗教観を色濃く継承したのに対し、世界救世教は心霊主義的な霊術を中核とした布教活動の方法論を踏襲したとされる。岡田茂吉はそれでも、手かざしによる治病儀礼(浄霊)や薬を毒とみなす思想、無農薬自然農法の主張と実践、地上天国の雛形としての聖地など独自の宗教伝統を生み出していったが、分派を出しやすい体質は、大本教の伝統をそのまま引き継いでしまった。

 戦後間もない時代、また55年に岡田が亡くなった直後と、世界救世教からの分離独立の目立つ時期が相次いだ。世界真光教団、神慈秀明会などが有名である。さらに教団の中央集権化が推進された70年以降は、より厳しい内紛や分裂が何度も繰り返されてきた。

 そうした過程で、世界救世教には政治家が介入するようになっていく。過去のマスコミ報道を見るだけでも、福田赳夫、中曽根康弘、加藤六月、阿部晋太郎、石原慎太郎・・・・と数え切れないほどの自民党議員が教団との関係を取りざたされていることがわかる。政治家たちとの関係で、戦前からの右翼、松本秋重が介入したり、我が国最大の広域暴力団・山口組3代目組長・田岡一男の長男である田岡満が内紛の調停役を務めたこともある。

 そうした中、世界救世教は82年3月重要な教義の一つである自然農法の探求を目的とした任意団体『自然国際総合開発センター』を設立した。比嘉照夫は同じ年の暮れ、琉球大での教え子との縁でセンター指導を頼まれたのだが、当初は研究レベルの低さに唖然としたという。
「まるで実体が伴ってない。これでは詐欺じゃないか」
『そうならないために研究しているんです。先生、ぜひ協力して下さい」
 教え子との間にこんなやり取りがあり、岡田茂吉の思想に共鳴したこともあって、比嘉は依頼を引き受けた。石垣島の農場で、彼は微生物資材を使った農法の指導に情熱を傾ける。85年秋、同センターが『自然農法国際研究開発センター」と名称を改め財団法人化された際には設立発起人となり役員としても名を連ねた。


この後、教団は86年に『再建派』と「新生派」に大分裂、84年には少数派の「護持派」も決成されていたから3分派に分かれる。

 86年の大分裂以降、比嘉は新生派に同調した。
彼の研究成果はやがてEMと名づけられ、同派に活用された。


「教祖の教えとはいえ、自然農法の実践は極めて難しい。新生派はEMを喧伝し、生ごみ問題を入り口に普及を進めたことで、法定戦術上、自らの正当性を主張する格好の材料に仕立てたんです。」

 再建派関係者の話だから多少割り引く必要があるが、確かに新生派は、90年代になってEMの普及イコール宗教活動と弁え、組織的に行動してきた。私の取材に対し、複数の新生派幹部は可児市でEMを持ち出した焼却炉建設反対派運動のリーダーや、やはりEMによる生ごみ処理の先駆けとしてしばしば取り上げられる香川県高松市の担当課長は、いずれも自陣営の熱心な信者であることを認めた。他の地方で行政を動かした市民運動の中にも、実は背後に新生派が控えていたケースが少なくないそうである。

 逆の場合もある。環境問題への関心が強い所と県のある市民団体は、背後の宗教団体の存在など全く知らないまま、真剣にEMによる生ごみリサイクル運動に取り組んだ。彼らの熱意は地元団体を動かし、市民会館でのEMのイベントを開くところまでこぎつけた。と、どこからともなくボランティアがたくさん現れ、資料の収集も、会場の設営も手伝ってくれた。
 が、ある男性メンバーが回想する。
「気がついた頃にはいつの間にかEMの普及員に仕立てられそうになっていました。私をはじめ、世界救世教新生派の思惑に気付いたメンバーは活動から離れようとしましたが、しばらくの間、連日の無言電話と、深夜、家の周りを黒塗りの車に監視される恐怖に悩まされました。家族まで巻き添えにされたらろ、本当に恐ろしかった。」

 再建派が手を拱いた来たわけではもちろんない。EMのマイナス情報をマスコミを通じて積極的に流した




上記のEM菌の万能的効用ややら江本勝氏「水からの伝言」で主張している言霊と水の結晶の関係性を盲信する人たちがいる一方、似非科学として批判する人がいる。

私自身はどちらにも共感を抱かない。

微生物や酵素というのは何もEM菌に始まったわけでもなく、酒、沢庵・梅干等の漬物、味噌・醤油・納豆等に見られるようにそれ以前から生活の中にあった。
次の記事で紹介するが、比嘉以外に地道に微生物資材を研究してきた人たちがいる。

また、怒ってばかりとか意地悪で悪口や愚痴ばかり言っている人といるよりは、明るくて笑う人といる方が楽しいのは事実である。

でもだからといって、湖のほとりでたくさんの人で集まって「ありがとう」とかいって感謝をするというのは、わざとらしくてとてもいやだ。
善というのは人に自慢したり、みんなの前でさも「やってます」みたいにするものではないと思う。
誰も見ていないところでさっとゴミ拾う、お年寄りの荷物持ってあげる、落し物とどける・・・そんな小さなことの積み重ねだと思う。
(そんなの道徳の時間に作文にすると褒められたりするけど、それもやっぱりなんかいやらしいね。小さい子なら無邪気に書いちゃうかもしれないけど・・・)
みんなの前で私は正しいことをやっていますと自慢する人間を偽善者っていうんだと思う。
そういう偽善者達はしばしばそうしない人やできない人を暗に批判したり、攻撃するからとても嫌だ。
できない人(人にはそれぞれの事情があり、それぞれの信条もある。)を非難するなら最初から何もしない方がずっといい。



盲信する人達 VS 疑似科学として批判

この二者択一的構図は意図的にさえ感じてしまう。

アメリカの政権が共和党・ブッシュから民主党・オバマに変わった。
チェンジするかと思いきや、ほとんど変わらない。
相変わらず泥沼の戦争・経済の逼塞状態である。

日本も自民党から民主党に変わった。
民主党・その他の若手の議員は多少違うのかもしれないが、古株は全く自民党の政治家と変わらない。

二者択一構図によって本当のことをわからないようにしているのではないか・・
本当の支配者を隠しているのではないか・・

前もかいたが、ジャガイモ・タマネギ・人参を煮込んだものにカレールウをいれるか、ホワイトルウをいれるか・・・
味は違うけど中味は同じ。


盲信する人たちの考えも、疑似科学として批判する人たちの考えも、結局は同じようにコントロールされていると感じる。

そう、この地球の常識全て(科学)が間違っていることを隠したい存在が全ての局面で,本質から外れた所での二者択一やら分裂・分離を煽っていると思うのだ。




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2012年2月23日

EM菌をめぐる話を続ける。

健康食品会社「株ナチュラルグループ本社」(本社東京)の創業会長である橋本もまた、EMが発するフェロモンに魅せられた一人である。もともと新製品普及協会(SF)時代以来の島津幸一の愛弟子で、その後もマルチ商法から決して足を洗うことがなかった彼は、師匠によく似たメンタリティの持ち主だった。

*島津幸一
60年代後半に香具師(やし・テキヤ)商法をアレンジした催眠商法の会社「新製品普及会」(いわゆるSF商法)を経営して大儲け、70年代にはアメリカから上陸したマルチ商法「APOジャパン」のセールスマン教育を一手に引き受ける。“マルチの教祖”として、かの世界で知らぬ者はいない。

★マーフィー博士理論研究会日本代表理事。青年教育研究所所長。日本ペンクラブ会員、産業能率大学総合研究所事業本部講師、米国系ARCインターナショナルINC代表取締役会長、国際教育開発協会代表取締役。著書に『マーフィーの成功法則』(対談)、『マーフィーの黄金律』、『マーフィー名言集』、『説得学』、『プロの条件』、『潜在能力の神秘』、『瞑想の法則』、『リーダーシップ』、『ミーティング参加の知恵』、ロバート・ホワイト氏との共同製作写真集『One World One People (世界はひとつ)』などがある


★以降はこちらの記事から、
カルト資本主義の懲りない面々:マルチ商法・催眠商法・ねずみ講:波和二逮捕
http://yoiotoko.way-nifty.com/blog/2009/02/post-8d77.html
(なかなかおもしろかったです。)


この島津(故)には比嘉は警戒感を抱いていたらしい。
そのせいか生前、島津はEMをビジネスにすることができなかった。
その後、島津の意志は、未亡人の美奈子に引き継がれ、彼女は翌95年、米国シアトル市の近郊に10ヘクタールの農園を取得、EMを活用した「ヒーリング・ファーム」を開設した。


 
ナチュラル関係者の話を総合すると、橋本は89年頃、東京オリンピックに出場した元体操選手で、旧中曾根派の参議院議員だった小野清子の縁で、比嘉と知り合った。
94年、橋本は、ナチュラルがフランチャイズ展開を始めた自然食品と環境関連商品の店「アニュー」の品揃えに「環境イーエム」を加えた。ナチュラルと比嘉とは、EM関連商品を商う者が「(株)イーエム研究機構」に利益の5%を支払う通常の取引とは異なる特殊な関係になっている。

 
橋本は熱心な創価学会の信者である。彼のナチュラルグループは、かつて公明党の元委員長・矢野絢也の〈金脈の母体〉とさえ形容されたほどの、同党の有力な資金源だった。

 世界救世教新生派
とは切り離せないEMの普及活動は、自民党だけではなく、後述のように創価学会や公明党ないし新進党の熱心な応援を得ていた。この事実と橋本のラインは無関係ではないと思われる。


(中略)

橋本は健康食品会社の経営者とのし上がっていく過程で、休眠中の社団法人や財団法人に資金を提供して、実質的な支配下におさめていった。政治献金や天下りを通して政官界とのパイ王を築く手段とするためだった。

70年代半ばには、戦後の食糧難の時代に設立された名門社団法人・日本緑十字社(農水省主管)の実権を握った。橋本は同社活性化に注力し、岸信介や福田赳夫を社団の長に招いた。
環境問題にも取り組むようになる。(株)地球環境財団はその事業を母体として、87年、環境庁主管のもとに設立された。

 初代理事長には東洋英和女学院大学学長の朝倉孝吉が就任した。理事には主管官庁の環境庁から元事務次官の清水汪が送り込まれた他、「(財)育青協会」理事長の末次一郎、独特の自然農法の実践者である福岡克也、テレビプロデューサー・矢追純一、共同通信経済部からナチュラルの社長室に転職していた有賀裕らが名を連ねた。

 そして93年、橋本は朝倉の任期切れに伴い、後任理事長に比嘉照夫を推薦した。理事の間では当初、財団がEMの宣伝機関に変質してしまう危険性が懸念されたが、いざ理事会では、全会一致で比嘉理事長が承認された。

財団関係者が首を捻る。
「清水さんと末次さんの豹変ぶりがとりわけ目立っていました。お金で動くような人たちではないだけに不思議でしたね。」

なお戦時中のスパイ養成機関だった
陸軍中野学校出身の末次は、強烈な反共思想の持ち主である一方で旧ソ連に人脈を持ち、特に中曾根政権では対ソ外交における有力ブレーンだった。北方領土問題が解決に向けて一歩踏み出したと伝えられ、その後の中曽根人気を煽った85年暮れのプリマコフ(ソ連科学科アカデミ―世界経済・国際問題研究所所長=当時)訪もこの末次が根回しした結果だったと言われた。


この記事の本題からは外れるが、後半青字部分は要注目。
85年はあの日航123便の事故があった年である。

続けよう。

創価学会のEMへの肩入れは、ただし橋本の関係ばかりとも限らない。95年1月、比嘉の父親の比嘉徳仁(元・屋我地小学校校長)が94歳で亡くなった際、沖縄県名護市で営まれた葬儀に参列したEM関係者は、斎場に樒(しきみ・モクレン科の常緑小高木)を発見して驚いた。創価学会の“同志葬”は花輪の代わりに樒を用いる独自の習慣を持っているのである。
「しかもその樒の送り主は池田大作だったんです」とその関係者は証言した。



おっと話は基地問題にまで発展しそうだ・・・・
ここでは記憶にとどめておくことだけにしよう。


それでは次へ

 
EMの比嘉の売り出しに大きく貢献した船井総研会長の動きについても、ここで若干触れておく。比嘉自身の話によれば、船井と比嘉とは、橋本を通じて関係が生じた。

 EMは比嘉の発明でも何でもない。と怒っている人々が実は少なくない。古くからの微生物メーカーの経営者たちで、彼らは自分たちが苦労して育てた微生物資材の猿真似を、一般の知識が乏しいことをいいことに、さも大発明のように喧伝して売りまくったのがEMだと認識している。94年の夏ごろには、「日本ライフ(株)」社長の門馬義芳が訴訟準備を開始した。

 関係者の話を総合すると、この情報をキャッチした船井は、その年の暮れ、門馬とEMメーカーの一つである「(有)サン興産業」社長〈当時)の森山昭一を東京・品川のホテルで引き合わせている。他にもEM関連の商売をしているDIYセンターやホテルの社長らが同席したが、とうの比嘉は姿を見せなかった。
「有効微生物の先駆者は門馬さんだったんですね。よくわかりました。でもこの際、『アーゼロン』(日本ライフの商品名)もEMも共存共栄しなさいな。微生物自体が有名になったんだし、みんな一緒に広めていったらいいじゃないですか」

 大要このような船井の取りなしで、門馬は振り上げた拳を下ろすことになる。船井は自らの言葉を裏付けるようにそれからの講演や著書の中で、EM以外の微生物資材にも言及するようになった。「アーゼロン」だけでなく、ほかの開発者の「アガリエ菌」「平井菌」なども取り上げられたが、EMほどのインパクトはなかったようである。



百匹目の猿現象ということか。
自分たちは手前勝手な理屈が好きな猿だと言って憚らないように見える。

最後の引用

 
比嘉のEMには、様々な人物や団体が引き寄せられていた。新興宗教、政治家、右翼、マルチ商法・・・。彼らは金儲けが目的でないことを強調する。地球を、文明を、EMによって救済するのだという革命的確信に満ち溢れていた。また同時に、だから細かいことはどうでもよい、という態度でも驚くほど一致していた。その過程で犠牲にされる人々もいるのではと水を向けても、よいことをしているのに、何故そんな意地悪を言われるのかとでも言いたげに口を尖らせるばかりだった。

 大の虫を生かすためなら小の虫などどうでもいいとする発想のどこが新しいのだろう。
古今東西、権力者たちは常にそのように考えて、ただし自分とその身内だけは小の虫に数えないようにしたきた。EM関係者達の強すぎる善意、確信からは、そうした独善と同じ匂いが漂ってくる。



次回は 船井幸雄

 
『脳内革命』、EM菌、オカルトビジネスの影に必ずこの男がいた。
サラリーマンを魅了するこのドンは神官の家に生まれ、その職業経歴は、日本型経営を支えた労務管理の歴史にピタリと重なっていた。



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