プロフ&リンク
以前の記事
|
次の論文を読んだ感想を書いてみようと思う。
間山広朗 「いじめの定義問題再考‐「被害者の立場に立つ」とは」 1節では,TVのワイドショーからいじめに関する言説を抜き出し,この言説が被害者の立場からなされていることを指摘している。このような言説は正論のようにみえるが,この言説が隠蔽している部分があることを「アンフェアさの欠片」(p.99)と表現している。2節では,いじめ論とその定義の関係について語られている。いじめはいかに定義されてきたか,いじめの公的な定義はどのようなものかなどを指摘したあと,現在のいじめの定義がいじめの被害者を中心に設定されていること指摘している。そして,この「いじめ定義の被害者中心性」(p.104)が妥当か否かを問う(この問いへの回答が4-5節である)。3節では,先の問いへの解答の準備として定義に関する論点が提出・整理される。定義設定は,ある立場を強化し(エンパワーし),一方で別の立場をエンパワーしない,あるいは無力化する行為であることを指摘している(p.112)。このように1-3節で,いじめの定義について被害者を中心に設定することが妥当か否か(あるいは,いじめの定義について被害者を中心に設定することで生じる問題は何か)という本章の問いを提示し,4-5節でその回答を提出している。こうした論文構成のもと,以下で要約を示す。なお,要約の中心は4節および5節である(pp.113-124)。なぜなら,この2つの節が本章の核心部分だからである。 本章の主張は,いじめの定義を「被害者の立場に立つ」という視点から設定した場合,隠れてしまう部分があるということである。すなわち,「被害者の立場に立つ」という正論ともいえる視点からの定義設定は,被害者以外の立場のエンパワーを削ることになり(disempower),こうした立場に属する人々を苦境に追い込むことになる(p.118)。同時に,この「被害者の立場に立つ」という被害者主権的な定義付けは,被害者を救済することを目的としているにもかかわらず,これに成功しているとは言いきれない。要するに,本章は,いじめの定義を被害者の立場から設定するという正論を批判し,それによって生じる問題,それは被害者以外の立場から生み出されるロジックを認めないことで被害者以外の立場を弱めるのみならず,被害者救済も機能しない状態にあることを指摘している。 「被害者の立場に立つ」という定義設定はどのような立場を隠すのか(無力化するのか)。それは,教師と加害者生徒である。まず,教師について。「被害者の立場に立つ」定義によって必然的に生じるのが,責任の帰属である(p.113)。「被害者の立場に立つ」定義によって,被害者が誕生した原因主体として教師が上がる。しかし,教師の側からいじめを見れば,問題となっている行為がいじめといえるのか否か必ずしも明確ではないこともあり,また仮にいじめだとしても,当該の行為を常に隠蔽するとは限らない。問題行為がいじめのストーリーになるか否か,またこれを隠蔽するか否かは微妙な問題であるにもかかわらず,「被害者の立場に立つ」という被害者主権的な定義はこれを「単純な構図」(p.117)で処理してしまう。ここに,「被害者の立場に立つ」定義による教育現場においていじめを扱う論理のdisempowerが発生することになる。 次に,生徒について。いじめの定義を「被害者の立場に立つ」視点から設定することで,「いじめ」行為に関係した生徒は加害者の立場になることを回避できなくなる。実際の生徒世界では,問題となっている行為をいじめと認識していたか否か,またいじめに対する認識が低いか否かは必ずしも明らかではないこともある。しかし,この定義は,加害者となってしまう生徒の言説を言い訳と同定し,自身の行為をいじめに対する低い認識から生じたものだと決定する。このため,加害者にもそれなりの事情があるという言説は無力化され,ましてや加害者の立場になってしまう生徒の「正当な攻撃」(p.122)は認められなくなる。このように,「被害者の立場に立つ」定義は,妥当な事情や正当な攻撃を排除することで,「いじめという名の『不当な攻撃』が発生し,『加害者』と『被害者』が誕生する」(p.123)という帰結をもたらす。ここに,「被害者の立場に立つ」定義による生徒世界の論理のdisempowerが発生することになる。 さて,こうした要約のもと感想を書いてみよう。本章の主張は,いわゆる社会学的なそれの典型である。通説や正論を批判するのだから。また,こうした通説や正論が覆い隠してしまう部分,本章の言葉を使うのなら苦境に追い込まれるカテゴリーに光をあてるというのはいかにも社会学的な仕事である。しかし,現状の批判だけで終わっている点も社会学的な仕事の典型であるといえる。間山は森田や文科省の定義を批判しているが,ではどういう定義ならよいのかというオルタナティブは提示していない。彼は以下のように指摘する。 「われわれは『正論』が覆い隠しているいじめ論のアンフェアさに目を向けてもよいのではないだろうか」(p.124) 「アンフェアないじめ論が,結局は「被害者を救済する」ことを困難にし続けてきた側面があるように思われるのである」(p.124) この指摘をどのように解釈すればよいのだろうか。アンフェアであることを認識するのなら被害者主権的定義でも許容できるという意味か,それとも被害者主権的な定義なアンフェアな部分があるためこの定義は放棄すべきだという意味なのか。もう少し丁寧に指摘してみよう。彼の前半の指摘はその通りであり,特に新しい指摘でも何でもない。なぜなら,彼が取り上げる定義設定のみならず,何かを「書く」という行為は別のカテゴリーを覆い隠してしまう(捨ててしまう)ことが不可避だから。現在採用されている定義がアンフェアなのは論じるまでもない。もっと言えば,フェアな定義など存在しない。それでも現実がこの定義を採用しているのは,仮にいじめが存在していたと場合と冤罪であった場合の比較衡量の現実的な帰結によるのだろう。彼は,いじめというストーリーを描くことが妥当ではない場合の教師,またいじめではなく正当な攻撃である場合の生徒に光を当てている。しかし,もしいじめが事実であった場合と事実でなかった場合とでは,事態の深刻さが異なるというのが現実の判断である。いじめが事実であった場合の被害者の苦痛と,いじめはないにもかかわらず隠蔽と糾弾される教師の苦痛およびいじめでなどはなく正当な攻撃をいじめと判断された生徒の苦痛では,前者の方が大きいと現実は判断している。別の言い方をすれば,いじめがなかったにもかかわらずそうであったかのように糾弾されて冤罪を負う教師と生徒より,実際にいじめがあった方がいっそうリスキーなため,現実はいじめがあった方向のベクトルに下駄をはかせるような定義を採用しているのである。いじめが事実であった場合,それが自殺という最悪の事態を喚起しうるという点で,現実の社会は被害者主権的な定義を採用しているといえよう。 先に指摘したように定義のアンフェアネスが必然であるとすると,この議論が展開すべき最大の論点は,現在の定義が被害者の救済を可能にしていないということである。しかし,この重要な論点について彼は現在の被害者主権的な定義が被害者を救済できていないと繰り返すばかりで,その論拠は提示されていない。ここでいう論拠とは,たとえばこの定義で救済された被害者とそうではない被害者の比較分析の結果である。つまり,彼の議論には決定的に重要な論点,つまり現在の定義のメリット・デメリット比較が抜けているのである。この点については彼自身が次のように指摘している。 「『隠蔽』が頻繁に生じるものなのか,生じるとすればどのような割合でなのか,もしくは極めてレアケースなのかについて,信頼に足る調査結果が公表されたことはない。にもかかわらず,『単純な構図』を押しつけるわけにはいかない教育現場の事情も汲まずに一方的に学校はいじめを“隠蔽したがる”とみなすのは,少々アンフェアなのではないだろうか」(p.117) 要は,現在の定義が役に立っているか否かを決する数字がないということだ。しかし,これが事実なら現在の定義が有効であると考える森田などと間山の議論はただの水掛け論に終始することになり,何のための論文なの?と言いたくなる。もちろん,彼は被害者主権的な定義が優勢になってしまうことに危機感を覚えているのかもしれない。しかし,それは杞憂に過ぎないだろう。なぜなら,いつの時代もどこの学校でも,いじめが発生したとき加害者がすべて悪いなどと思っていることはないからである。そのことは彼自身が本章で触れている通りである。それゆえに,先に私が指摘したように,現実は推定被害者に下駄をはかせる定義を採用しているのである。私は,彼の議論は彼自身が引用している次の言説内容と同じ結果をもたらしているように思える。 「いじめの定義の混乱は議論をいたずらに紛糾させるばかりか,語ること自体が何についての語りでもないという,滑稽な結果さえ招いている」(p.101) 結論として,彼の議論は不十分である。彼の議論から言えることは,現在採用されている定義はある一定の存在を排除することになっているということであり,それは定義自身が内在する当然の問題であり,だから何?という程度のことでしかないということである。以上。 by morakomu | 2012-01-03 23:50 | にっき。
|
ライフログ
おすすめキーワード(PR)
ブログパーツ
Skypeボタン
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
|