これまでの放送
ジャーナリスト山本美香さん。
戦場から私たちにことばを残していました。
「この瞬間にも、またひとつ…。
大切な命がうばわれているかもしれない。
さあ、みんなの出番です。」
国際社会の監視の目も届かないシリアでそこに暮らす人々の姿を追い続けていた山本さん。
山本さん
「お子さんたちはおいくつでしたか?」
「3歳と9歳です。
2人とも殺されました。」
残されたおよそ700本のテープには激しい戦闘の陰で見過ごされがちな弱い立場の人々の姿が記録されていました。
山本
「どこ?どこ?」
山本さんが恐怖と怒りに震えながら取材を続けていたことも分かってきました。
山本
「ちくしょう…。」
佐藤和孝さん
「なんでこんなことになったのか、戦争とは何だろうと深く考えていた。」
山本さんは私たちに何を伝えようとしていたのか。
残された映像と証言からひもといていきます。
富士山を望む山梨県都留市。
山本美香さんはこの町で育ちました。
「ツユクサ、今朝も咲いたよ。
美香ちゃん。」
実家に戻った山本さん。
傍らには、野にひっそりと咲くツユクサが供えてありました。
山本さんが大好きだった花です。
新聞記者だった父、孝治さん。
山本さんは父の影響を受けジャーナリストを志しました。
「一途ですからね。
『思い込んだら命がけ』っていう歌の言葉じゃないけれど、その辺は(わたしに)似ちゃったのかな。」
そのジャーナリストの仕事について、亡くなる1か月前山本さんが語っていました。
山本さん
「伝える人がいないとどんどん状況って悪化していくんですよね。
伝えることによって、戦争が早く終わるかもしれない。
伝え続けるために取材したい。」
山本さんは29歳のとき一人のフリージャーナリストと一緒に、世界の紛争地域での取材を始めます。
佐藤和孝さんです。
山本さんが佐藤さんを知るきっかけとなったのが佐藤さんが制作したドキュメンタリー番組でした。
「気をつけろ!
弾がとんでくるぞ。」
内戦が続く街で懸命に生きる人々の営みが描かれていました。
「大事に育ててね。」
「戦場にも日常生活が存在し、そこで精いっぱい生きる人々の姿がある。
いても立ってもいられない気持ちが私の心を占領していった。」
ジャパンプレス 佐藤和孝さん
「行きたい、行きたいと言ってましたからね、現場に一緒に。
その思いをずいぶん僕にぶつけてきていた。
そんなに行きたいんだったら、1回ついてくればいいと。」
それから16年間山本さんと佐藤さんが取材したおよそ700本のビデオテープ。
今回、特別に見せてもらうことができました。
山本さんは何を伝えようとしていたのか。
2人が最初に向かったのは、内戦が続いていたアフガニスタンでした。
当時のタリバン政権は、厳格なイスラム原理主義を徹底。
娯楽を禁止するなど抑圧的な政策を取っていました。
2人はカメラマンとリポーターを交互に務めながら取材を進めました。
「向こう側に行ってちょっと話し聞いて。」
やがて山本さんは佐藤さんだけではできなかった取材を始めます。
地元の衣装をまとい、入ったのは女性たちが集まる秘密の学校でした。
タリバン政権は、女性が学校に通うことを禁じていました。
もし見つかれば、拘束される可能性がありました。
「わたしたちは動物のように扱われ、家に閉じ込められている。
教育を受ける権利も与えられていない。」
女性たちは偽名まで使って取材に応じてくれました。
山本さん
「偽名は何ですか?」
「ゾハラです。」
山本さんが残した著書からは、このときの経験が立場の弱い人たちに光を当てるその後の取材を形づくっていったことが分かります。
山本さん
「彼女たちに迷いはなかった。
『私たちのことを世界に伝えてください』
凛々しい表情で答えるファルリアさんの清らかな目が、私を捉えて離さなかった。」
山本さんは一度、取材した人たちを継続して見つめていました。
首都カブール、私たちはその一人を訪ねました。
バハドゥリ・バイザさんです。
12年前、タリバン政権に追われ難民となっていたとき、バハドゥリさんは山本さんと出会いました。
医師を目指していたバハドゥリさん。
制約がある中で勉強を続ける姿を、山本さんは何度も通って伝え続けました。
取材を受けることでバハドゥリさんは弱気になる心を支えることができたといいます。
「山本さんはアフガニスタンの女性が、厳しい状況の中でも希望を失わずに生きていることを取材してくれました。
私を勇気づけてくれる存在でした。」
その後、バハドゥリさんは保健学の博士号を取得。
今、国のために働いています。
紛争地域の片隅で生きる女性の姿を山本さんが伝え続けたことが、確かな実りをもたらしていたのです。
山本さんが亡くなったことをバハドゥリさんは知りませんでした。
「とてもつらいです、悲しいです。」
紛争地域の取材を始めて8年。
山本さんは、大きな転機となる取材をすることになりました。
2003年のイラク戦争です。
山本さん
「すごい、どっちだ!」
佐藤さん
「うわっ!わっ、すごい!
落ちた、落ちた!」
山本さん
「きゃー!」
佐藤さん
「大丈夫、大丈夫、大丈夫!」
アメリカ軍の空爆にさらされるイラクの首都バグダッド。
2人は中継でその惨状を伝えました。
山本さんは冷静さを失っていました。
山本さん
「どこ?どこ?ロイター?」
アメリカ軍の攻撃はジャーナリストの拠点だったホテルにも及びました。
山本さんの目の前で一人のジャーナリストが死亡します。
山本さん
「あー!わー!ちくしょう…。」
佐藤さん
「だめだ、彼はだめだ。
直撃弾受けた。
落ち着け、分かる、分かる。
分かる、分かる、狙って誰かが…。」
~中継にされなかったバクダッド~より
「目の前で死にゆくカメラマンの姿を見て動揺した。
死ぬのは私だったかもしれないと感じた瞬間に恐怖が支配した。」
しかし、山本さんは取材を続けました。
立場の弱い人たちの無数の命が奪われていたのです。
~中継にされなかったバクダッド~より
「指導者の一言で人間の命の行方が左右されているのだ。
命の価値に違いはないけれど、どんな死に方をするかには、意味がある。
イラクの普通の人々は、ある日突然命を奪われてしまうのだ。
アメリカの大義のために。」
ジャパンプレス 佐藤和孝さん
「彼女のものすごい怒りがあるわけですね。
伝えなきゃいけない、もっとやらなきゃいけないと感じたんじゃないかと思います。」
新聞記者だった山本さんの父、孝治さん。
このころ、娘の変化を感じ取っていました。
父 孝治さん
「性根(しょうね)がすわった鷹(たか)の目だと思うんですよ。
あの顔をみた時くらいから変わったんじゃないかな。
『こいつ筋金入っとるな』っていう感じに思ったんじゃないかな。」
一方で孝治さんは、帰省するたびに神棚に手を合わせる娘の姿を目にしていました。
娘が誰にも言わずにある思いを抑え込んでいると感じていました。
父 孝治さん
「やはり怖い、戦場とか紛争地で自分が入っていくってことは、出かけるときには、無事を祈って出かけていくということだったと思いますね。」
8月。
山本さんたちは、中東シリアに向かう準備を進めていました。
そこでは、子どもや女性にも多くの犠牲者が出ていたのです。
山本さんの机の上には、決意を記した直筆のメモが残っていました。
しかしシリアは想像を絶する厳しい状況にありました。
ジャーナリストに対しても容赦なく攻撃が加えられ4人の犠牲者が出ていました。
山本さん
「結構、今の危なかったね。
本当に人に向かって撃っている。
まったくやみくもに撃っている。」
銃声が響く街。
それでも山本さんは懸命に女性や子どもの姿にカメラを向けていきました。
山本さん
「ベイビー。
赤ちゃん連れです。」
殺し合いが行われる街の中にも尊い人の営みがあることをなんとか伝えようとしていたのです。
山本さん
「みんな逃げてる。」
そして。
自分の背中を追いジャーナリストを志した娘。
父 孝治さん
「首を撃たれた…。」
伝える覚悟を、その姿に感じ始めたやさきの死でした。
父 孝治さん
「美香はもっとやりたかった。
争いのない世界を、あるいは、罪のない人が、どんどん殺されていくこの世界を変えていきたい思いをもって、もっともっと続けてやりたかったはずなのに、一番無念なのは美香。
美香が一番無念に思っていると思う。
それを私は悲しむ。」
生前、山本さんは若い人たちに伝えたいと講演会などの場で必ず一つのことばを語りかけていました。
山本さん
「戦争って突然起きるわけじゃなくて、必ず予兆がある。
世界の片隅で起きていることかもしれないけど、みんなで声をあげれば止めることができるかもしれない。」
●取材対象との向き合い方
山本美香さんのやっぱり、一番優れた点は気取りがなくて同じ目線で相手と向き合うことができるっていうことなんですね。
これは、簡単なようでいて、なかなかできないことなんですよ。
ですから、あのアフガニスタンの女性も、単に取材に来たジャーナリストということではなくて、自分たちのことを理解をして自分たちのことを世界に伝えてくれる人だってそういう信頼感があったんですよね。
ですから、そういう共感というかアフガニスタンの女性たちに対する彼女の山本美香さんの思いっていうか、こういう戦禍の中でも本当に必死になって生きてるんだよっていう彼らに対する共感みたいなものが、取材されている人たちにもやっぱりちゃんと伝わっているというそういうふうに思います。
●秘密の学校に入って会話をする様子
あれ、かなり危険なんですよね。
タリバン政権下ではそういう取材が一切許されないっていう所ででも、彼女はそういう戦闘シーンだとかそういうことだけじゃなくて、こういう厳しい状況の中でも女性たちが本当に頑張って生きてるっていうそういうところをどうしても撮りたいって思って、ああいう危険な状況の中でもきちんと取材を行ってるっていうそういうところが本当にすばらしいなと思いますね。
●本音を引き出していた
特にね、イスラームの場合はやはり女性が、なかなか表に出てきにくいということで、男性の取材者ではしゃべってくれなかったり、男性のカメラマンの前には立たなかったりするんですよね。
そういう中で女性にしかできないこと。
女性の姿を、素顔を、自分は世界に伝えたいっていうふうにイスラームの取材を重ねる中で山本美香さんもそういうふうに思ってたんじゃないでしょうかね。
●自分の役割の一つ
それは、ここ十数年、彼女の取材の在り方を見ていく中で、やはり女性でしかできないこと。
それは何なのかということをずっと考えてきた十数年だったと思うんですね。
戦争というと、いかにも戦闘シーンであるとかそういうことばかりがわれわれのイメージの中に浮かんでくるんですけども、しかし大事なのはそこで必死になって生きてる人たち。
希望を失わないで生きてる人たち。
そういう人たちの姿を伝えることこそ自分の役割なんだっていうふうに感じていったんじゃないでしょうかね。
●使命感というのが強くなってたのか
最初から、何かこう大きな使命感だとかってのはあったんじゃないと僕は思うんですよね。
ただ彼女は、そういう人の、人が死んだり、生きたりっていうそういう究極の現場を取材することによって、やっぱり見てきた者の責任、立ち会った者の責任っていうのはやっぱり感じたと思うんですね。
自分がなぜここにいるのか。
自分がここにいる、ここにいることが許されることの意味っていうそれは、ここの人たちのことを世界に伝えることだと。
VTRの中に出てきましたけどね、私たちのことを伝えてほしいってそういう気持ちを受け止めて、それを世界の人たちに伝えるっていうね。
それが自分の役割なんだっていうことを、やはり取材をするたびに自分の中で育んできたんじゃないでしょうかね。
●原点は雲仙普賢岳
これが1990年ですね。
雲仙普賢岳が噴火すると。
その中でね、たくさんの被災者が出るわけですね。
そのときに彼女がどういうふうに取材をしたらいいのか。
初めての取材ってこともあって、迷うわけですよね。
しかし、そのときに避難所となった体育館に入って、被災者の方と一緒に生活する。
そういう中でもう、お前たちなんかもう帰っちまえとかね。
俺たちの悲惨な姿を、そんなに撮りたいのかっていうふうな罵声を浴びせられたりするんです。
しかし、一緒に生活する中で、だんだんと被災者の方が心を開いてくれるっていうね。
あっ、これがジャーナリストの役割なんだっていうひとつの彼女のジャーナリストとしての原点になった出来事だったと思いますね。
●彼女が一番伝えたかったことは
それは、やっぱり人間は過ちを犯す動物生き物なんですね。
戦争という大きな過ちを犯す。
しかしながら、希望を失ってはいけないと。
そういう戦禍の中でも、必死になって生きてる人たちがいると。
だから、戦争のない、生きててよかったなと思うような社会をみんなで頑張って作ってくださいよ、とたぶんそう言いたかったんじゃないですかね。