被害者の立場にたった報道を
—天理大学セクシュアルハラスメント報道—
人権と報道関西の会の例会が2月14日(土)に大阪・北区のプロボノセンターで開かれた。テーマは「セクシュアルハラスメントと報道」で、15名の参加者のうち半数が女性で、この問題に関する関心の高さがうかがえた。 例会では取材にあたった新聞記者から去年、天理大学で起きた指導教員による学生へのセクシュアルハラスメントでの一連の報道について、また京都産業大学教員で「キャンパス・セクシュアル・ハラスメント全国ネットワーク」の運動に関わる渡辺和子さんから報道の問題、課題についてそれぞれ報告していただいた。
報道の経過
例会では初めに記者が、今回のセクシュアルハラスメント報道について説明した。—天理大学は97年12月1日、記者会見し「卒業論文の指導を受けていた女子学生が担当教員からセクシュアルハラスメントを受けたという申し立てが学内の人権推進会議にあり、調査の結果、その事実が認められた」と発表した。 発表で大学側は「継続中のことであり、被害者が特定されかねないので教員の役職は言えない」としたが、マスコミ側は「被害者が特定されないように書くのは当然の事。しかし事実経過を説明する時には少なくとも教員の役職を公表するのが大学側の責務ではないか」と追及。大学側は「該当教員は国際文化学部」まで発表した。
しかし各社は「加害者」側が教育者であり社会的影響も大きいことから大学が発表した以上に、取材で確認できた「助教授」まで報道することになった。その後、教員の退職願が8日に受理され、翌12月9日以降各紙がそのことを報道したが、奈良新聞だけは教員を特定できるような報道をした。更に大学側は11日に全学集会を開いて学生にこの間の経過を説明。集会の中で教員の名前を特定したことに対して抗議の意思を表明した。が、ほとんどの社はマスコミの問題については触れず、学内のセクシャルハラスメントに対する対応についてのみ報道した。
大学側の情報閉鎖性と
メディア側の感受性欠如
記者はこの説明の後、取材を進めて行く上で感じた問題点について次の点を指摘した。 第一点に大学側が情報を公開したがらない閉鎖性について。天理大学では2年前にも同じセクシュアルハラスメントがあり問題になっていたが、デスクとは「なぜ、こういうことが頻発するのか」「被害をなくすにはどうしたらいいのか」についてを考えるまとめ記事が必要であると話し合った。同時に被害者のプライバシーを守るために加害者を記事の上で特定しないことも確認した。そして学内の取材を始めたが、当局だけでなく、関係者までが一様に取材には消極的だった。取材を進めていって、この教員には別のセクシュアルハラスメント被害の訴えも出ていることがわかったが、これについても学内では口を閉ざしたままだった。結果的に本人の「依願退職」を大学側が受理して「決着」してしまったが、被害を二度と起こさない対策などについては不十分なままと思う。
第二に報道と人権との関わりの問題。報道が加熱し、ついには教員を特定する報道にまでなってしまったが、学生をはじめ学内の雰囲気が「マスコミはひどい」ということになり、ますます取材がやりにくくなった。大学側は奈良新聞の報道について記者クラブに抗議してきたが、記者クラブは報道各社の親睦団体で報道内容について「いい、悪い」を言う立場ではなく、全体としてマスコミ不信が残ったのも事実だと思う。一方で奈良新聞の報道を「他社の問題」として受け止める傾向がその他の社の記者にあり、報道総体としてマスコミ人の感受性が欠けているのではないか、などと問題提起した。
被害者保護の視点を
これを受けて渡辺和子さんからセクシュアルハラスメントの構造、被害者の立場を踏まえ、報道の問題について述べてもらった。今回、天理大学の「事件」を取材している記者だけでなく同様の追跡調査をしている記者からも、「なぜ関係者は取材拒否をするのか」との質問があった。セクシュアルハラスメントの報道にはまず第一に被害者のプライバシーの保護、被害者の意志が重視されなければならない。なぜなら依然としてセクシュアルハラスメントの認識が低い上、被害者を批判する意識が非常に強く、その人権が報道でいっそう侵されかねないからである。
第二に加害者は公にされることで社会的制裁を受けることになるが、それによって被害者のプライバシーもさらされるので、どこまで具体的に報道するかがつねに問われねばならない。天理大学では、以前、同種の事件があって有志の先生らが勉強会を開くなど認識が高く、また大学側も情報をある程度、学内だけでなくメディアに向けても公開していて、相対的に民主的な運営がなされていると思っている。むしろ報道関係者の側の姿勢が問われる。
学生に対する教員のセクシュアルハラスメントはその多くが教員としての権限を行使して行うということで、どこの大学でも起こりうる。特に大学院では学生に対して、教員が成績評価だけでなく、専門分野への就職を含めて将来にわたる影響力を持っているので、その被害は深刻であるとともに、被害は表に出にくい。教員の多くはまたその様な権限を認識していないことが多く、被害を訴えても多くの場合、大学側では対処してくれないことが多い。また、被害者はセクシュアルハラスメントによって精神的にも非常に傷つくのである。特に今回のケースでは加害者の所属が報道されたことで、被害者が特定されかねないという問題が起こった。被害者が被害を訴えてもキャンパス・セクシュアルハラスメントの場合は、相手が教員の場合はまともに取り合ってもらえないケースが多い。逆に訴えた本人が責めを受けるケースもある。そういう被害の深刻さが一般に知られていない。まして今回のように加害者の名前を出すことで、被害者が特定されかねないような報道をする意味がどこにあるのか。報道がのぞき見的な興味本位に走ることなく、また読者が偏見を持たないように、専門家のコメントを取るなどして、この問題の構造的な掘り下げをした多角的な報道が求められているのではないか、などの指摘があった。
セクハラと言う言葉の問題
被害の背景に「女性差別」
その後、参加者とともに議論に移った。今回の報道については「セクシュアルハラスメントは通常の犯罪と違って主従関係の中で、権力を利用して行われる点が問題で、当然、報道の対象になると思う。奈良新聞の報道だが、教員が本当にやっていたとしても実名は要らないと思う」と指摘する人が多かった。
その他、「セクハラという言葉だが、一部の新聞社はタイトルでも本文でも使っている。何かあれば単にセクハラと軽く揶揄するような響きが感じられる。問題の本質がわかっていないのではないか」「奈良新聞社を見てショックだった。報道でもっと大勢の人が被害者のことを知ることになってしまう。強制ワイセツ、レイプまでもセクハラと言う傾向があるが、セクハラとなんでも軽く扱うことはやめてほしい」など被害の深刻さが報道で伝えられていないという指摘があり、渡辺さんは「確かに日本ではセクハラと言う言葉に代表されるように、軽い問題として取り扱われている。セクシュアルハラスメントについてアメリカでは、どこまでが犯罪で、だれが責任をとるのかが、法律に書かれている。今回のケースでは加害者の教員、それに雇用主の大学側に責任があるとアメリカでは書かれている。また賠償金の額も日本よりはるかに大きい」と述べた。
またセクシュアルハラスメントの被害者と共に運動を進めている参加者もいて、「天理大学だけが特に問題だという印象をもたれているが、それは事実に反する。被害があっても言い出せない、訴えても取り合ってくれないケースが多い。」と述べていた。また「十年来、南京虐殺を調べている」参加者は「事件を調べていると、目につくのがレイプ事件だ。雇用機会均等法ができたが、戦前からの女性に対する差別構造が根底にあるから、この法律ができたと思っている」とセクシュアルハラスメントが起こる背景について触れた発言もあった。(関屋)
次回は「新聞社の労働実態」
人権と報道関西の会の次回例会は、4月25日(土)午後l時から、第5大阪弁護士ビル(大阪市北区西天満4の5の3)3Fのプロボノセンター(06・366・50l )で、「新聞社の労働実態」をテーマに開きます。講師は、新聞労連近畿地連の伊藤明弘・調査部長。私たちは日ごろ、新聞記者に対して人権に配慮した報道を求めていますが、実際の現場では、たとえ記者個人がそのような姿勢を示そうとしても、上司や先輩の命令に逆らえず、心ならずも不本意な報道に陥ってしまう事例が多々あるようです。事件担当の記者は、休みもろくにとれず、睡眠時間すら削りながら事件現場を走り回り、夜討ち朝駆けに明け暮れる毎日で、意識がもうろうとした精神状態のなか、特ダネ競争にゲーム感覚でのめり込んでしまう、と新聞労連前委員長から聞いた事があります。新聞記者の置かれた古い体質の職場環境を改善することも、人権報道を確立するための重要な要素となるのではないでしょう。各新聞社の実情に詳しい伊藤さんに、それらを分析していただき、当日参加するその他の新聞記者たちの生の声も交えながら、討議を進めたいと思います。奮ってご参加ください。(小和田 侃)
先日、朝日放送のテレビ番組「驚きものの木20世紀」で、松本サリン事件報道が取り上げられ、私も興味深く鑑賞した。犯人にでっち上げられた河野義行さんが孤立無援となる実態などが生々しかった。河野さんをめぐっては、最近は報道批判の記事や番組がかなりみられるようになっているが、この番組では、事件現場近くに住んでいて、やはり「犯人視報道」に加わった中日新聞の記者が、自己反省を込めて当時を振り返っていたのもいい構成だった。ただ逆に、それに反発も覚えた。たとえ彼が近くの住人であるという要素があるとしても、なぜ中日新聞の記者だけが登場したのか。どうして、系列放送局なり朝日新聞の記者が、自身の過ちを検証するインタビューがとられなかったのか。他人の意見を掲載することで、さも総論的な正義を標榜するのが、マスコミのよくやる手だ。本島等・長崎市長が襲撃された時の報道に対し、本島市長は「マスコミは、この問題を言論の自由という範疇でしかとらえていないが、なぜ昭和天皇の戦争責任について自身で言及しないのか」といった批判を向けていたのを思い出す。謝罪報道を含め、マスコミは自分の言葉で語りかけるべきではないだろうか。 (侃)
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