百済王敬福
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百済王 敬福(くだらのこにきし の きょうふく、文武天皇元年(697年) - 天平神護2年6月28日(766年8月8日))は奈良時代の貴族。摂津亮・百済王郎虞の三男。官位は従三位・刑部卿。
749年(天平21年/天平感宝元年/天平勝宝元年)、陸奥守在任時に陸奥国小田郡から黄金が発見されたことで知られる。また橘奈良麻呂の乱や藤原仲麻呂の乱の鎮圧にも功績があった。
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経歴
日本に亡命した百済王族の子孫である百済王郎虞の三男として生まれる。なお、『公卿補任』によると敬福は百済王南典の弟との記述があるが、南典は朗虞の兄弟つまり敬福の叔父とする系図もある[1]。
738年(天平10年)41歳の時に陸奥介に任ぜられる。時の陸奥守は大野東人。翌739年(天平11年)正六位上から従五位下に昇叙、743年(天平15年)46歳で陸奥守に昇進した。
黄金発見
当時、聖武天皇は東大寺大仏の建立を進めていたが、巨大な仏像に塗金するための黄金が不足し、遣唐使を派遣して調達することも検討されていた。全国にも黄金探索の指令が出されていたが、これまで日本では黄金を産出したことがなかった。746年(天平18年)4月敬福は何故か陸奥守から上総守に転任するが、9月には従五位上へと加叙を受けて陸奥守に再任されている。奇妙な人事だが、あるいはこの時に黄金探索の手がかりがあった可能性もある。
749年(天平21年/天平感宝元年/天平勝宝元年)になって、陸奥守の敬福から平城京に対して陸奥国で産出した黄金900両が貢上された。聖武天皇は狂喜し、東大寺大仏殿に行幸して仏前に詔を捧げ、全国の神社に幣帛を奉じ、大赦を行っている。わざわざ遣唐使を派遣する必要もなくなったのである。産金地である陸奥国小田郡を管轄する国守である百済王敬福は従三位へ七階級特進し、宮内卿兼河内守に任命され、産金に貢献した地方官人らもすべて位階が進められた。年号は天平から天平感宝と改められ、さらに天平勝宝と改められている。万葉歌人大伴家持は次のように黄金産出を寿ぐ。
- すめろぎの御世栄えんと東なる みちのく山に黄金花咲く
- 須賣呂伎能 御代佐可延牟等 阿頭麻奈流 美知(乃)久夜麻尓 金花佐久 - 『萬葉集』巻18 4097
確かな文献があるわけではないが、発見したのは敬福配下の百済系鉱山師ではないかとも言われている。日本最初の産金地である小田郡の金山は現在の宮城県遠田郡涌谷町一帯であり、同町黄金迫(こがねはざま)の黄金山神社は延喜式内社に比定される。現代の調査でも黄金山神社付近の土質は純度の高い良質の砂金が含まれているという。
激流の中で
同年4月9日大仏開眼の法要が営まれ、5月26日には敬福は常陸守に転任した。また757年(天平宝字元年)には出雲守に転任している。これらの任官は実際に任地に赴かない遙任と推測される。同年に橘奈良麻呂の乱が勃発すると、衛府の人々を率いて黄文王・道祖王・大伴古麻呂・小野東人ら反乱者の勾留警備の任に当たった。
759年(天平宝字3年)伊予守に転任し、761年(天平宝字5年)に新羅征伐の議が起こると敬福は南海道節度使に任命された。これは紀伊・阿波・讃岐・伊予・土佐・播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防など12カ国の軍事権を掌握する役目である。実際には新羅への進攻は実現しなかったが、もしこれが成功していれば、敬福が百済国王に返り咲く可能性がなかったわけでもない。
763年(天平宝字7年)には讃岐守へ転任し、764年(天平宝字8年)に藤原仲麻呂の乱が起きると、敬福は外衛大将として、藤原仲麻呂の支持により即位していた淳仁天皇を幽閉する役目を引き受ける。結局、淳仁天皇は淡路国に配流となり、孝謙上皇が重祚した(称徳天皇)。765年(天平神護元年)称徳天皇の紀伊国行幸時には騎馬将軍として警護に当たり、その帰途天皇が河内国の弓削寺に行幸した際、従三位・刑部卿の百済王敬福らは本国の舞(百済舞)を奏した。
敬福は激動の時代を無事に生き抜き、766年(天平神護2年)に亡くなっている。享年69であった。
系譜
- 父:百済王郎虞
- 母:不詳
- 妻:不詳
- 男子:百済王理伯(?-776)
- 男子:百済王武鏡
- 男子:百済王利善(?-784)
- 男子:百済王玄鏡
- 女子:百済王難波姫
脚注
- ^ 栗原信充考訂『百済王三松氏系図』
参考文献
- 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年