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高野山ツアーにおける恵光院とのやり取りについて 

先日は、皆様、高野山ツアーお疲れ様でした。

次回より、高野山ツアーにおいては、宿泊場所として恵光院を利用しないことになりました。

最終日の夕方、伊藤先生、木村、谷田、向井、鈴木がバスを待つ20分程の間、大広間で待たせて頂いたことをきっかけに、恵光院ご住職、奥様より謂れの無い批判を受けることとなりました。

相次ぐ侮辱とも取れる発言に対して、事実に基づかない議論を避けるため、その場では一旦話し合いを終了としました。
後日、批判を受けた事について、ひとつひとつ事実を確認したところ、言い掛かりとも取れるようなことが殆どであったため、伊藤先生を代表に鈴木、向井のそれぞれで文書を作成し、恵光院に対して正式に謝罪を要求することに致しました。その文書が完成したのは、奇しくも2011年1月11日、伊藤先生が弘法大師より美海というお名前を授かった日です。本日、先方には到着しております。

文書の内容を、そのままここに公開させて頂きます。

今後の先方の反応なども、随時ご報告させて頂きます。




【伊藤先生ver.】

恵光院 御住職様


拝啓 厳寒の候、時下ますますご清祥の段、お慶び申し上げます。

昨年は、当校の生徒たちが大変お世話になり、誠にありがとうございました。

この度は、御住職にいくつかお伝えしたいことがございましたため、お手紙をしたためました。
気付けば、随分長い便りとなってしまいました。お忙しいところ、大変恐縮ではございますが、どうぞ、最後までお付き合いくださいますよう、お願い申し上げます。

まずは、最終日にお話をさせて頂きました際に、御住職が強調しておられました「教義」に関することです。御住職は、人の心を育てる過程で、理論によって埋め尽くされた教義や思想というものが、如何に力ないものか、実感されたことはございませんでしょうか?
私はこれまでに、酷い虐待を受けて育った者や、どこに行っても排除されてしまうような精神疾患者を含め、絶え間なく、多くの者を導いてまいりましたが、その中で、真理というものは理論や思想として語るものではなく、人の心に根付いていなければ何の意味もないのだ、という答えに至りました。
人の心を動かすのは、あくまでも人の心であり、まっすぐで真剣な、屈託のない愛情です。どれほど饒舌に教義や真理を語ったところで、深く傷ついた人の心が開かれることはありませんし、人と人とが真の信頼関係を築くにも至りません。

また、教義を頭に詰め込むことと、真理をマスターすることは、まったく次元の異なることです。もし、御住職が真理をすでに体現されている御方であるとしたら、あの場面で教義にこだわられることはなかったでしょう。真理をハートや腹で理解した者にとって、教義は時に、無用の長物とさえ思えるほど、無力なものであるはずです。
真理体現者とは、数々の物事を創造する中で、多くの者を、知識ではなく、愛によって導く者です。

そして、大師というひとりのマスターを理解するにあたって、教義はすべてではございません。大師を理解することと、キリストを理解することは同等のことです。大師を理解することと、目の前にいる人間を理解することもまた、同等のことです。さらに、大師を理解することと、何かに没頭し、それを極めるために誠心誠意尽くすことも、同等のことです。
渋谷をうろついている中学生が、宗教家以上に真理を理解していることもあります。職人として料理を極めた者が、教義を学ばずして、大師の教えを体現するに至ることもあります。逆に、何十年もかけて教義を学んだ人間が、誠実さや、感謝する心を一切置き去りにし、傲慢にも他者に教えを説くこともあります。
宇宙の法則をマスターするにあたって、その道程はひとつではありませんし、大師は真言密教という宗教の中にのみ存在しているわけではありません。大師は、宗教の枠を超越した、大いなる意識であり、愛であり、法則であり、宇宙そのものです。
私はそれを、教義を通じてではなく、肉体を持たない大師との関わりの中で、至上の愛情を注がれながら教えられました。その結果、長年、地獄を彷徨い続けたかのような人生から一転して、私はかつて望んだものを、すべて手に入れるに至りました。それは、愛とは何かを知っている者としての、不動の自信と、存在するものすべてへの信頼です。
「求めよ、さらば与えられん」。これは、キリストの残した言葉として知られていますが、それを私に教えてくれたのは大師でした。真理とは、最終的には愛に集約されていくものであると、私は身をもって体験して今に至ります。
また、私の場合は逆に、教義や学問と化した真理に惑わされ、自身の感覚を鈍らせることのないようにと、読書を始めとする情報収集を、最小限に止めるよう導かれました。
それは、私が過去に幾度にも渡って、体現者として、真理を説くことを目的とした転生を果たした記憶を持つからです。それらの過去における経験をもとに、私は自分自身の内側に、真理体現者としての感覚的記憶を保持しながら、今生の転生を果たしました。私がこの年齢で、人間界に特定の師を持たずして今の環境を整えられたのは、過去生から積み上げてきた実績があってのことです。私は今生において、教義を学ぶことではなく、時代に適した新たな教義を提供することを目的に存在しております。

御住職は、「感じることではなく、教義という裏付けが必要だ」と仰いました。それに対して、私が普段から説く裏付けとは、理屈ではなく、現実レベルで如何に結果を出すか、ということです。教義を学んだ末に、真の理解に至っているか否かを宇宙に示すには、極まった愛の体現者として、多くの者の魂を揺さぶりながら、社会に影響を与え続け、日々、自らが宇宙の意思と共に在ることへの自覚を、持ち続けることなのではないでしょうか。
少なくとも、私は体現者としての役割を、日々果たしていると自負しております。それは、誰から何を言われようとも揺らぐことのない、結果を出し続けてきたことによる、己への敬意であり、己への信頼です。
そんな私にとって、大師は「教祖様」ではありません。ここでは詳細には触れませんが、大師は、これまでに数え切れない転生を果たした中で、私が最も愛し、最も愛され、そして最も多くを与え、与えられた、ただただ愛しい一魂なのです。

「大師」という敬称には、すでにそこに十分な敬意が込められています。「御大師様」という表現は、例えるなら、「先生」を「御先生様」と呼ぶことに相当すると思います。私は生徒たちに、「御先生様」などと呼ばれたいとは思いません。また、御大師様と呼ぶことが、大師を敬愛している証であるとも思いません。
御住職は、お弟子さんたちに「御住職様」と呼ばれたいですか?「御住職様」と呼ぶ弟子は、「住職」と呼ぶ弟子よりも、あなたを理解し、敬愛していると判断なさるのですか?

大師は、空海というひとりの人間として、様々な苦悩に苛まれ、葛藤し、時に迷いながらも、まっすぐに宇宙を見据えて突き進んだ勇者であったと、私なりの認識をしております。私はそんな、人間らしい大師を愛しています。
少なくとも、私が「大師」と呼ぶ時、「宇宙で唯一、この命と人生を捧げられる存在である」という、究極の愛と敬意がそこにございます。そんな想いを込めた「大師」という敬称を、御住職は「軽い」とおっしゃる。大師に対するご自分の敬意の方が、私の敬意を上回るとおっしゃる。
なぜ、大師が残した教義を学ばれたお方が、浅はかにも、そのような幼稚な主張をなさるのでしょう? 御住職は、「言葉は大切だ、言葉には心が表れる」というようなことをおっしゃったように記憶しておりますが、逆に、言葉に囚われることによって、物事の真意や神意を見失っておられる可能性はございませんでしょうか?
大切なのは、言葉のその向こう側にあるものを、見つめ、感じ取ることではないでしょうか? そこにこそ、物事の本質が存在するのではないでしょうか? それこそが、真理なのではないでしょうか?

私は、大師が築かれた高野山を、今も守っておられる多くの方々に、常日頃から多大な敬意の念を抱いておりますし、高野山で日々勤めておられることは、大変すばらしいことと存じます。ですが、だからといって、高野山の常識を世の常識とし、人を裁く権限を得ることにはならないと思います。
最後にお話をさせて頂いた際、御住職はほとんど私の目を見ることなく、宙を眺めながらお話をなさっていましたね。相手の目を見ないでお話になられるのは、真言宗のしきたりなのでしょうか? また、一度了承したことを、多額の代金を受け取った後に覆すことは、常識的でしょうか? 確かに、深夜まで大広間をお借りすることが、通常の申し出ではないことは明らかです。だからこそ、前もって御承諾を頂いたのです。もし、私どもの申し出や、在り方が、どうしても受け容れ難いということでしたら、大金を受け取る前に予約を断る方が、よほど人として健全なのではないでしょうか?
そして、奥様が主張された事柄のほとんどが事実無根であったことが、その後の調査によって判明いたしましたが、事実と異なる一方的な思い込みによって、宿泊客を罵倒することは、高野山で勤めておられる方に許された特権なのでしょうか? 御住職と奥様は、どれほど常識やマナーをわきまえた方なのでしょう? 
少なくとも私どもは、御住職や奥様から、マナーを心得た人としての品格を、一切感じ取ることは出来ませんでした。おふたりは、自分たちを正当化することで人を見下し、己の未熟さや愚かさを省みることのない、傲慢な方たちです。本音でまっすぐに人と関わろうとしない、排他的で、裏表のある方たちです。
御住職は、それを否定なさいますか? ご自身を振り返って、自分は愛に満ちた、誠実で謙虚な賢者であると、胸を張ることが出来ますか?
教義を長年学んだお方が、自分とは異なる思想を持つ他者を忌み嫌い、排除するようなことをした時点で、その教義の価値を貶めることになるのではないでしょうか。

「常識を振りかざす人間ほど、非常識だ」。過去に、ある人格者が述べた言葉です。

私は、自分を常識人だとは思っておりません。逆に私は、常識を覆すことで、多くの人を本来のありのままの姿へと導く指導を致しております。
常識や秩序は、とても大切なものですが、常識にばかり囚われている限り、人が輝くことはありませんし、物事の本質を見極める眼力を養うこともありません。逆に、あらゆる世間の情報に洗脳されず、自分らしく「今」を生きている人間は、常識を超越した、「宇宙の秩序」に従うようになるものです。

また、御住職は、恵光院で勤めていらっしゃる皆さんのことを、「うちには気の利いたヤツはいない」「うちもスリッパも揃えられない人間ばかりだ」とおっしゃいましたが、私が、恵光院を利用させて頂こうと思ったひとつの理由として、息子さんを始め、恵光院で修行をされている若い方たちの純朴さや、明朗さに惹かれたということがございました。
他の宿坊では、いじめのようなことが日常茶飯事で、若い人がすぐにやめていってしまうというような小言を聞かされたこともあります。なかには、陰気臭く、何をするにも事務的な、愛想の悪い人たちが勤めている宿坊もありました。
そんな中、数年前、貴院でお世話になった際に、息子さんやお弟子さんたちの屈託のなさに触れ、御住職がオープンで愛情深い方だからこそ、スタッフの皆さんが自然体でいられるのだろうと思ったことを、昨日のことのように覚えております。
当時から、御住職には親しみを覚えていただけに、この度は、御住職の発言の数々に、大変な衝撃を受けているというのが正直な気持ちです。
御住職は、お弟子さんたちを尊敬なさっていないのですか? 私は生徒たちに対して、絶対的な敬意を持っております。
奥様は、当校の生徒たちに触れて、こんなに常識のない人達を見たことがない、とおっしゃいましたが、私は当校の生徒たちほど、謙虚でまっすぐな心を持った人間を知りません。彼らは、至らないながらも、未熟ながらも、人生で起こる様々な問題を人のせいにせず、自分自身の在り方を見つめることで成長に向かおうとする、誠実な人間の集まりです。私にとって生徒達は、誇りであり、私に余りあるほど多くを与えてくれる無二の存在です。そして、生徒たちは皆、大師や宇宙の計らいによって、私に与えられた宝です。
そんな彼らの在り方に触れることで、私自身も共に、誠実さや謙虚さを学ぶことが出来るのです。
地位の低い者の中にも、年の若い人の中にも、偉大な側面は常に存在します。個々が備えている純真さや偉大性を引き出すことこそが、人を大きく育てる秘訣であると、私はこれまでの経験から断言します。

大師が何もないところから高野山を築かれたように、私は、リラ・アカデミーを築いてまいりました。リラ・アカデミーは、何の後ろ盾もないところから、私が自らの手で一から築き上げた、私の魂が込められた学びの場です。私の持ち得るすべての力を注いで築き上げた、私の命であり、私の誇りです。リラ・アカデミーという学びの場で、これまでも、そして今も、多くの者が生きる喜びを見出し、確実な成長を遂げております。
過去に味わった苦痛や苦悩から立ち直れず、生きることへの意欲を失った者が、徐々に自分自身を取り戻し、イキイキと輝きを増していくその姿を見ることが、私にとって最大の悦びであり、それが、大師によって与えられた愛に報いることであるとも思っております。
御住職はそれを「考え方が違う」という理由で、私と真剣に語り合うこともなく、いとも簡単に否定された。
御住職は、大師がどのような覚悟で高野山を築かれたか、想いを馳せられたことはございますか? もし、大師が築き上げられたものに敬意を払っていらっしゃるのであれば、御住職は、私に対しても同様に、敬意を払われたことでしょう。
人には、それぞれの個性と役割がございます。何かが絶対的に正しいなどということは、あり得ません。何らかの規律や特定の教えを絶対とした時点で、他への否定が始まります。真理とは、異なるものや相反するものを、すべて受容した上でこそ、成り立つものです。また、異なるものや相反するものが、共存する道を説いたものが、本来すべての宗教に共通した真理であるはずです。真理に到達する手前で説かれる戒律は、あくまでも、一通過点であり、到達点ではありません。私は、戒律を守らせることを強いる教師ではなく、あらゆる個性を持つ者が、互いに受け容れ合い、共存する道を説く教師です。
私は、大師に敬意を払うように、御住職にも敬意を払っております。私にしか出来ないことがあるように、御住職にしかお出来にならないことがあるからこそ、社会は成り立っているのです。
御住職は、教義を学んでいない私が、大師の意思について語ることを「心外だ」と仰いましたが、その言葉、そっくりそのままお返しさせて頂きます。御住職や奥様から浴びせられた数々の暴言に対して、「心外」なのはこちらの方です。
これに関しましては、正式な謝罪を要請させて頂きます。

大師の教えを受け継ぐ者としての誇りがおありならば、常識や教義を振りかざす前に、人が心血を注いで築き上げたものに対して敬意を払うという謙虚さや、偏見なく、人とまっすぐに向き合う誠実さを養うことが必要なのではないでしょうか。教義を学んだことで、御住職は一体、何様になられたおつもりなのでしょう? 
私がこの度、御住職とお話をさせて頂きました中で、最も残念に思いましたのは、御住職と奥様から、私たちへ対する一切の感謝の念が感じられなかったことです。それは、つまり、大師によって与えられた出会いや、大師によって運ばれた金銭という恵みに対して、感謝がないということを裏付けています。

私は普段から、人を霊的成長へと導く教師として、人の心やメンタルを扱うエキスパートとして、そして作家として、一流の仕事をします。故に私は、この精神世界において、稀に見る成功を収めています。現在も、私の個人面談の予約は、一年近く先まで埋まっている状況ですが、私はそれを、当たり前のことだと思ったことはありません。私が教師でいられるのは、生徒たちがいるからです。私が仕事を通じて、喜びを得られるのは、多くの人が私を必要としてくれるからです。
現在、私はとても豊かな暮らしをしておりますが、それが、生徒やクライアントたちから与えられたものであることを忘れる日は、一日たりともございません。そして、それらの出会いを与えてくれているのは、大師を始めとする、目に見えない存在たちであるということも然りです。
当たり前のものなど、何一つない。これは私が普段から、生徒たちに最も強調して指導している事柄のひとつです。
御住職は、恵光院を運営されるお立場にありながら、多くの人の想いや存在があってこそ、ご家族やお弟子さんたちとの、豊かで不自由のない暮らしが成り立っていることへの感謝を噛み締めることはないのでしょうか? 日々与えられていることが、決して当たり前のことではないのだということを、ご家族やお弟子さんたちに教育なさらないのでしょうか? 

当校の生徒たちにとって、高野山を訪問することは格別なことです。皆、大師御廟前で胸を張って挨拶ができるよう、日々、自分自身の未熟さと向き合い、直向な努力をしながら過ごしてまいりました。
奥の院に続く参道でも、ゴミを拾ったり、荒れたお墓の掃除をしたりと、常識人以上に思いやりのある行為をした者も何人もおりますし、当校のスタッフの中には、貴院のスタッフによるトイレの水拭きの処理が不十分で滑りそうになったことから、自らトイレを掃除したという者までおりました。
その後、調査を致しましたが、スリッパに関しましても、奥様がおっしゃるような酷い乱れを目にした者は、ひとりもおりませんでした。全員が、「大人数の割には、整っていた方だと思う」と、回答しております。
逆に、「こちらから恵光院のスタッフに挨拶をしても無視された」という証言が、多数ございました。複数の生徒たちが、挨拶をしても無視をされたというお弟子さんの風貌は、小柄で色白で眼鏡をかけたお方です。
これらの調査結果について、御住職はどのようにお考えでしょうか? どちらが非常識で、どちらの筋道が通っているか、御自身と、奥様と、そして気に入らない客人には、挨拶すらしないお弟子さんの在り方について、御住職の見解をお聞かせ頂きたく存じます。
その他のスタッフに関しては、皆が、親切でとても感じが良かったと答えておりますが、もし仮に、他の方々が、表面的には友好的に振る舞い、その裏で、私たちへの誹謗中傷を繰り広げていたとするなら、それはそれで、その陰湿さに大変な憤りを覚えます。
何か、目につくことがあったのなら、それをその場で注意してくだされば良いだけではないでしょうか? それこそが、スリッパを完璧に揃えること以上に大切な、人に対する「マナー」なのではないですか?

教義を学ばれたお方であれば、私との出会いが大師の意思によるものであることくらいは、お分かりになるはずです。大師が私を通じて、御住職に何を伝えようとしているのか、どうか御思慮下さい。
大師は、「よくやった。よくぞ、美海を追い払った」と喜んでおられますか?「あなたこそが私の意思を継ぐ、偉大なる賢者だ」と、御住職を称えていらっしゃいますか?
大師は今も、奥の院にて生きておられるのですよね? ならば、教義ではなく、今この瞬間の、大師の「声」を聞いて頂きたい。今も動き続けている、大師の「心」を感じて頂きたい。

本来なら、受け容れ合い、共に学び合えるはずの出会いが、このような結末を迎えたことは、本当に残念ではございますが、ただ、御住職や恵光院の皆様への感謝の気持ちは、以前とまったく変わりがありません。
毎年、高野山を訪れる度に貴院にてお世話になり、限られた時間の中で、本当にかけがえのない思い出を、たくさん作ってまいりました。
現時点で悔やまれることといえば、もっと御住職とお話をしておけばよかった、ということです。そうすれば、生徒たちの直向さや誠実さを知って頂けたことでしょう。
年々、参加者が増加する中、私自身、生徒たちの引率にばかり気を取られ、恵光院の皆さんとの交流を深めることに意識を向けるに至らなかったこと、そして、同じ指導者としてのお立場にある御住職には、言葉なくとも心通じるものがあるはずだという、私の一方的な信頼感や安堵感が、このような残念な結果を招いたとも思っております。
問題を改善し、より良い関係を築くために、歩み寄って頂けなかったことは大変寂しく思いますが、私たちの存在が恵光院様にとって、ただただ迷惑でしかなかったという事実を受け止めると共に、数年に渡り、数々のご迷惑をお掛けしておりましたこと、お詫び申し上げます。

ここに認めましたことはすべて、私が最後に、貴院にて御住職と奥様を前に、直接お伝えしたかったことですが、私どもとの出会いを「縁などとは思わない。高野山の長い歴史と比べたら、たかだか数年の付き合いなど、縁のうちにも入らない」と仰った奥様を、許容なさっている御住職の在り方や、「真理」という言葉を持ち出した私を、鼻でお笑いになったおふたりの姿を目の当たりにしたことで、直接の対談は避けさせて頂くことが賢明であると判断いたしました。

私と致しましては、この文書を、奥様を始め、恵光院にお勤めのすべての方々に目を通して頂くことを望みます。そして、御住職ご自身からの御返答と、数々の無礼に対する謝罪を求めます。

ご多忙のところ、長文にお付き合い頂き、誠にありがとうございました。
最後に、大師の教えを受け継ぐ者として、心在る、気高き御判断に至られますことを、心より願っております。

敬具



2011年1月11日


リラ・アカデミー代表 伊藤美海






【鈴木ver.】



恵光院 御住職様 奥様


拝啓 厳冬の候、時下ますますご清祥の段、お慶び申し上げます。

私は、伊藤美海のもと、リラ・アカデミーでスクールに在籍しながら、アシスタントとして勤めております鈴木睦子と申します。
このたび、私達の高野山訪問にあたって宿泊させて頂いたこと、学びの場を提供して下さったこと、感謝しております。大変お世話になりました。

私は、一昨年より、リラ・アカデミーに縁を持ちましたので、宿泊させて頂いたのは今回で二回目です。恵光院さんは、清潔で、食事もおいしく、スタッフの方たちの対応も親切な、一定水準以上の宿坊だと感じておりました。そして、私たちの学びのために、大広間を深夜まで貸して下さる寛容な対応に、ご住職の懐の深さを感じておりましたので、最終日のお二人のお話には、大変な衝撃を受けました。

特に、帰りのバスを待つ間の20分程度、大広間で寛がせて頂き、ストーブで暖を取らせて頂いたことに対して、唐突に、奥様から咎められたことに対しては、本当に驚きました。
「何時までいるつもりなのか、10時チェックアウトが常識である、掃除をするので早く場所を空けて欲しい」という言葉に始まり、「ストーブを点けている時に戸を閉めていないことが非常識である」「女性が寝転んでいるところを通る人に見せるべきではない」等々、いきなり、そして一方的に非難されたことには、驚いたのと同時に、憤慨いたしました。
ストーブを点けた時は、ドアを閉めるのが常識だという言葉、「常識」を盾にとった議論には呆れました。東京には、暖房を入れている間、ドアを閉める習慣がない人はいくらでもいます。また、あの時ストーブの前で横になっておりました者は、体調が悪かったため休ませて頂いていたのですが、人によっては体調が悪い時には、公共の場であっても人の目を気にすることなく横になって休むこともあるかと思います。常識とは、人によっても、土地によっても、状況によっても、異なるものではないかと思います。
奥様は、常識、常識と連呼しておられましたが、横になっている人間に対して、何故そうしているのか理由も聞かずに罵ることは、常識でしょうか?
仮に、恵光院独自の規律に従うのが当然だと仰るのでしたら、それらを紙にまとめたものを、宿泊客に手渡されては如何でしょうか。

その他にも、あの時、奥様が次々と挙げられた私たちへの非難について、納得のいかないことを多く感じたのですが、裏付けの取れていないことに関する議論は避けたいと思い、あの場では発言を控えさせて頂きました。
予約の手順、スタッフの方とのやり取り、私達の振る舞い、スリッパの乱れ等について、その後、当校のスタッフや参加者に確認を致しましたので、ご報告させて頂きます。


1 最終日の大広間使用に関して

最終日の大広間の使用につきましては、私共は、事前にスタッフの方より了承を得ておりました。
「今日は使用する予定が無いため、終日、大広間を、荷物を置く場所として使ってもらって構わない」「夕方までなら、ある程度何時まででも使ってよい」、と仰って頂いておりました。
ですので、奥様から掃除のために、すぐに大広間を空けるようにと突然責め立てられた際には、まるで意味が分からず、なぜ、こんなにも話が変わってしまうのだろうかと、呆気にとられてしまいました。

2 予約の手順に関して

予約の手順についてですが、奥様は、「予約の連絡が無かったため、恵光院より何度も確認をした」「あったとしても予約が宿泊日直前だったため、思うように準備ができず非常に困った」「到着前に部屋割り、部屋に何人ずつ宿泊するのか、何度連絡をしても返答がなかった」と、仰っていたかと思います。

その後、当校の窓口となっていた担当者に、そちらのスタッフの方との予約に関するやり取りについて、確認を取りました。
こちらから、最初の予約のお電話を差し上げたのは春先で、「60人規模になるかもしれない」と、お伝えしたそうです。その後、夏頃に「50人程度に減りそうである」と、二回目のご連絡を差し上げました。
そして、宿泊予定日の一ヶ月位前に、40、50人程度になるとご連絡を差し上げた際、そちらから「人数の確定は直前でも大丈夫だ」と仰って頂いたそうです。
これに関しましては、「早めに予約を入れるように」との伊藤の指示のもと、当校の吉田と申します者が、お電話を差し上げております。
何度かのやり取りの中で、部屋割りについても、「到着後に詳細は決定すればよい」と、ご指示を頂き、その通りに対応したそうです。
こちらの担当者は、スタッフの方々は終始快く対応して下さったと感じたそうです。奥様のご意見を伝えたところ、大変驚いておりました。


3 朝のお勤めの際の、伊藤の服装について

伊藤が、朝のお勤めの際、スウェット上下を着用していたことに対して、奥様は、「パジャマで出席した」と、非難をなさいましたが、それを許可されたのは恵光院のスタッフの方です。
あの朝、離れから出る際、そちらのスタッフの方から、「先生、それはパジャマですか?」という問い掛けがありました。伊藤は、「パジャマではないけれど、寒かったのでパジャマの上にこれを着て寝ていました」「着替えた方が良いでしょうか?」「何なら私は、お勤めには出席しなくても構いませんが」と、いう返答をしておりました。
それに対して、「パジャマじゃないなら、大丈夫です」と、スタッフの方が許可をされました。このやり取りをしている間、スタッフの方も、伊藤も、終始穏やかな雰囲気でした。
その場では了承したことを、後から非難するような卑劣なやり方に、大変な憤りを覚えております。これに関して、伊藤は、「まるで陥れられたような気分だ」と、申しております。
服装規定があるならば、後になって陰口を叩いたり、罵ったりするようなことをせずに、前もって伝達しておくべきではないでしょうか?

4 スリッパの乱れに関して

奥様からは、スリッパがひどく乱れていたことや、また、乱れたスリッパを揃えて下さっているそちらのスタッフの方に、一言も礼や挨拶が無かったという指摘もあったと思います。
その後、当校の生徒全員を対象に調査を行いましたところ、スリッパが常識を逸脱するほど乱れていたところを目撃している者は、一人もおりませんでした。(高野山ツアーに参加いたしましたのは、ほとんどが当校の生徒ですが、一部、一般の参加者もおりましたため、参加者全員の意見や感想を募ることはできませんでした)
そして、滞在中、スタッフの方とすれ違った際には、当然のように挨拶をしたと、皆、申しております。
以下は、一部ではありますが、参加者から寄せられた報告や感想です。




伊達
大広間や玄関のスリッパは50人以上の人がいっせいに出入りする際は、乱れるのは仕方が無いとしても、ほかの部分では私は特に気になるほど乱れていたようには感じていませんでした。
トイレ内のスリッパも多少の乱れはあったものの 私としては乱れているうちには入らない程度だったと思っています。
また、1日目の夜、大広間を最後に出ましたが、参加者の方々が食器類は一箇所にまとめてくれていて、私たちは座布団を一箇所にまとめ電気を消して部屋を出ました。
その後洗面所で歯を磨いていたら、吉橋さんから、すれ違ったスタッフの方に「こんばんは」と声をかけたら無視されたと聞きました。 大広間を見ると電気がついていてスタッフの方が作業されていました。 終わるまで待たれていたのかと思うと申し訳ないな、終わったときに声をかけるようにしたほうがよかったかなと思い、スタッフの方に伺ったところ ひどく不機嫌そうな顔でこちらを一瞥もせず「次回から、そうしてください」と作業をしながら言われました。
さすがに、申し訳ないという思いも吹き飛び 感じが悪いと思ったことがありました。

吉橋
1日目の夜、最後に大広間を出て、係りの方とすれ違ったので挨拶をし、「有難う御座いました」と言いました。聞こえていないはずはない距離でしたが、無視されました。ムカッときましたが、遅くまで待っていたのだろうからと思ってしまいました。 靴やスリッパの件は団体にしてはさほど乱れてはいなかった様に記憶しています。

松村
大広間や玄関のスリッパの乱れは多少あったかと思いますが、常識範囲での乱れであると思います。部屋の前に人数以上のスリッパがある時がありましたが、最終退室をするときには、あまっているスリッパは片づけました。 チェックインするときに玄関でスリッパを出して下さったスタッフの方には、「ありがとうございます。」と挨拶しました。

渡辺
私は、大広間や玄関のスリッパがひどく乱れていたとは記憶していません。 どちらかと言えば、大人数にしては、揃っていたほうではないかと思います。
夜大広間から部屋を移動した際、スタッフの方が座布団やお茶セットを運んできて下さったり、挨拶もスタッフの方からして下さったり、私は特に対応の悪さは感じていませんでした。
ただ、掛け布団が薄い布団一枚のみだったので丹前やフリースを着込まなければ、寒くて眠れませんでした。 昨年は毛布もあったように記憶しています。

鮎澤
一度、男性用トイレのスリッパが大広間前に有るのを見て、誰か男の人がいれば戻してもらおうと大広間に入りましたが、近くに男の人がいなかったので戻そうと廊下に出たらすでに無く、誰かが戻して下さったと思います。でも慌てていて履いて来てしまう事は有ると思います。
1日目の夜は部屋へ戻った時、大広間の方からグラスの音等がしていたので、申し訳無かったと思いました。
奥の院でどこかの宿坊の方が「恵光院では阿字観などをやっている」と話されていて、頑張って高野山を盛り上げようとしていると感じていたので、残念です。

新谷
若いスタッフの方とお話することもありましたが、感じが悪いということはありませんでした。
朝、すれ違うときにも普通に挨拶を交わしました。奥様とご住職の最後の対応を聞いて驚きました。
こちらも常識を外れるような事はした覚えがありません。
何か理由をつけて、難癖をつけられている印象を持ってしまいます。 とても、気持ちよく過ごさせていただいただけに、残念です。

加藤
僕はスタッフの対応に悪い印象はなく、とても好印象でした。 トイレのトラブルがありましたが、すぐに対応してくれました。 ただ布団が1枚なのは確かに寒かったですね。 来年から利用できないということは、とても残念です。
それにしても、住職と奥さんはなんなのですかね。 現場のスタッフの対応がよかったと僕は感じているだけに、腹が立ちます。

小池
スリッパの乱れは、私は気になりませんでした。宿坊では、各々、もっときちんと並べることを求められるのでしょうか・・・。だとしたら、最初に宿坊側から伝えて頂きたかったなと感じました。
スタッフの方とは何回か挨拶をしましたが、感じが悪いということはなかったです。

鈴木 
スリッパの乱れに関しては、何度も出入りをしましたが、ひどく乱れていると感じることはありませんでした。
これは、一昨年のことになりますが、私が朝方トイレに参りました時に、清掃後、十分に乾いていない石段の上に、ビニール製のスリッパが置かれていて、あやうく転倒し、床に叩き付けられるところでした。危ないと思ったので、スリッパを乾いた床に並べなおしました。
もしかしたら、この事もスリッパが乱された、と理解されているかもしれないと思い、お知らせしておきます。そして、もっと早くにお伝えしておけばよかったと思います。

向井
それほど乱れているという感覚はありませんでしたが、多少不揃いなスリッパに関しては、気が付く都度、何度か揃えました。また、スリッパをスタッフの方が並べてくださっているところに出くわした際、「ありがとうございます」と、お礼を申し上げました。
その他にも、洗面所を片付けているスタッフや、お膳を片付けてくださっているスタッフに、その都度、お礼を伝えました。

谷田
完璧にスリッパが並んでいたとは思いませんが、隅のほうが少し乱れていたぐらいで、基本的には乱れていると感じたことはありませんでした。
離れには、バスタオルも浴衣もお茶セットも、何も用意されていなかったため、自分達で部屋に運んだり、お茶は遠慮させて頂いたり、私達なりに折り合いをつけておりました。それに関して、不満に思うことはありませんでした。



5 「お大師様」と呼ばないことへの批判に関して

御住職と奥様は、当校のブログをお読みになって、私共が、大師を「お大師様」と呼ばないことが許しがたいというようなことも仰いました。
私達は、伊藤先生との出会いによって、自分を取り戻し、それまでの空虚な人生から脱する事が出来ました。私達は、伊藤先生の指導のもと、愛に基づいた生き方とはどんなものであるかを、日々真剣に学んでいます。伊藤先生が、命を捧げられるほど敬愛している大師を、私たちも未熟なりに敬愛しております。
大師を、お大師様と呼ばないなどという訳の分からない理由で、御住職や奥様に、批判をされる覚えはまったくありません。

6 昨年寄せられた苦情に関して

一昨年の12月にそちらを利用させて頂いた際、いくつもの苦情が寄せられていたという事実を、昨年末に御住職より告げられました。これに関して、伊藤がはっきりと記憶している事がございますので、お伝えいたします。
一昨年、大広間を深夜に使わせて頂いていた最中、そちらのスタッフの方から突然、「早く引き上げて欲しい」という要請がありました。
それに対して伊藤は、「それは、ご住職からのお言葉だと捉えてよろしいですか?」「遅くまでお借りできるお約束になっていたと思いますが、何か問題が生じましたか?」「苦情でもございましたか?」と問い返しました。
それに対してスタッフの方は、「いいえ。結構です。このままお使い下さい。」と返答し、退室されました。
このやり取りを踏まえて、その年の帰り際、伊藤はご住職に、スタッフの方からお話を頂いたことをお伝えし、「深夜まで使用させていただくことに関して、問題はないですか?」「他の宿泊者から苦情はございませんか?」等、質問をさせて頂いたと思います。
その際、ご住職から、「全く問題はないし、苦情もない。スタッフに連絡が行き届いていなかったため、そういう発言になっただけです」と、ご返答を頂いておりました。

仮に、その後苦情があったのなら、昨年末に予約を入れた時点で、その旨を伝えて頂きたかったですし、深夜まで大広間を使用する事が迷惑であるなら、前もって断って頂ければ、他の宿坊に問い合わせることも出来ました。

7 スタッフの方が深夜まで起きていらしたことに関して

奥様は、私達が深夜まで大広間を使用する事で、スタッフがいつまでも起きていなくてはならないことに憤慨し、「自分たちで片付けてくれればいいけど、そんな申し出もしない」ということも、仰いました。

私共と致しましては、恵光院のスタッフの方が、大広間を片付けるために深夜まで起きていなくてはならなかったという事を知る方法がなく、これに関しては、伊藤も私共も大変恐縮しております。
ですが、事前に御了承頂いた時点で、「使用後は、スタッフに報告するように」との指示は頂いておりませんでしたので、大広間を深夜まで利用させて頂いた後は、食器や座布団などはまとめて隅に寄せておけば、朝になってから片付けられるのであろうという認識しておりました。
ご迷惑をお掛けしたことにつきましては、お詫びいたしますが、スタッフの方が遅くまで起きて待っていらしたことを、私共は一体どのように察すればよかったのか、教えて頂きたいと思います。

8 無礼なスタッフに関して

奥様は、私共が極めて非常識だという事を、散々主張しておられましたが、貴院には、常識を心得たスタッフしかいらっしゃらないということが前提なのでしょうか?
もし、貴院に、非常識な方がいらっしゃったとしたら、奥様は、ご自分達の至らなさを棚に上げ、私たちを罵ったことになりますね。

確かに、参加者の殆どが、恵光院のスタッフの方々に対して、好印象を抱いていたようです。
ですが、挨拶にすら応えてくれない、常に不機嫌そうな方がお一人いらっしゃいました。
その方は、小柄でメガネを掛けた、色白の方です。深夜まで大広間を使わせて頂いた際にも、こちらが挨拶をし、お詫びを申し上げても、無視をされたという証言がありました。その他にも同様に、その方に挨拶をしても無視をされたという報告が、多数届いております。
奥様は、その方の常識のなさに関して、どのようにお考えになられるのか、是非お聞かせ頂きたいものです。それもすべて、私共が深夜まで大広間をお借りしたことが原因だと、更なる非難をなさるのでしょうか?


以上が、奥様から浴びせられた、数々の批判、批難に対しての、調査報告となります。

いずれにしても、私達に完璧な対応を求めるばかりで、ご自身の落ち度や、スタッフの方達への教育について、振り返ろうとする様子が無いことには、ただただ呆れるばかりです。
宿坊にも、サービス業としての側面があると思います。四年間もの間、ご縁があって利用したことに対しても、「四年は一瞬の事でしかなく、縁など感じない」「なぜ、あなた達がうちを選んでいるか分からない」「今後は来ないでもらいたい」と仰った奥様の言葉には耳を疑いました。
寺院住職の奥様という立場のお方が、多額の宿泊費を受け取られた後、宿泊客に向かって言うに相応しい言葉なのでしょうか。人としても、客人をもてなすプロとしても、三流以下のお方であると思います。

奥様の仰っていたことの殆どは、事実と異なる言いがかりばかりで、奥様か、もしくはスタッフの中に、どなたか虚言癖をお持ちの方がいらっしゃるのではないかと思うほどです。
それとも奥様は、普段からよほどストレスをためていらっしゃるのでしょうか? まるで、ストレスのはけ口にされたかのような気分です。
奥様には、寺院住職の妻として相応しい、知性や暖かみというものを身に付けて頂きたいということも感じました。

事実と異なる一方的な数々の発言に対して、奥様からの正式な形での謝罪を求めたいと思います。ご返答、お待ち致しております。


敬具



2011年1月11日

リラ・アカデミー 鈴木 睦子






【向井ver.】



拝啓 寒冷の候、時下ますますご清祥の段、お慶び申し上げます。

初めてお手紙を差し上げます。
私は、一昨年の5月からリラ・アカデミーで勉強させていただいている向井と申します。

一昨年、昨年と恵光院に宿泊して、朝のお勤めや護摩焚きなど、それまで見たこともなかったものに触れさせていただき、とても感銘を受けていました。しかし今回の出来事で、もう恵光院での宿泊はないと思うと、何とも残念でなりません。

私は、リラ・アカデミーを訪れるまで、自分の人生に翻弄され、生きている意味さえ分からず、人生の行き詰まりの中で道を探し続けていました。
私には4人の子供がおりますが、子育てでも迷い苦しみ、家族はバラバラで会話はなく、人と触れ合うことを異常に恐れ、人に寄り添うことなど考えた事がないほど、精神的に歪んでしまっていました。
それでも、いつも人の温もりを求めていて、「自分の人生がこのまま終わってしまうのは嫌だ。でもどうしたら、この苦しみから解放されるのだろう。」と思っていました。
私は救いを求めて、宗教の教えについて、精神世界について、たくさんの勉強をしてきました。本物の真理を知りたかったのです。
そして、宗教の中の素晴らしい教えに感動して、お寺や集会に通った時期もありました。
しかし数年通っている内に、人に道を説く住職や教祖、そしてその周りにいる人達が、宗教の教えとは真逆の在り方で、当たり前のように日常生活を送っている事に幻滅してしまいました。
例えば、裏表のある言動、人を見下し陰口を叩くのは当たり前、自分だけがすべてを知っているという傲慢な態度など、「この人たちは本当に、その宗教の教えを極めたのだろうか?」と、人間性まで疑ってしまう人ばかりでした。
それと同じような事を、どこの宗教でも見せつけられて、何を信じていいのか分からなくなりました。それでも「どこかに必ず、私が本当に知りたい真理が在るはずだ。」と思い、私は道を探し続けました。

そんなある日、伊藤先生のご著書『ネガティブを愛する生き方』に出会いました。
その本の内容に、「私がずっと求めていたのは、この教えだった。」と、魂が突き動かされるような衝撃を受けました。それからの私は、先生の教えてくださる事を、一生懸命に実行していきました。その結果、何十年もの間、自分の人生を変えることができなかった私が、たった一年で、すべての景色が違って見えるほどの変容を起こしました。
それまで、ほとんどなかった家族の会話は増え、お互いを思いやる気持ちが出てきています。人が怖いと思うことも少なくなり、心から寄り添ってくれる友人もたくさんできました。私も人に寄り添うことが、いかなることかを理解できましたし、深く人を知ろうとする想いが溢れてくるようになりました。それは、伊藤先生が私達に寄り添い、愛情を持って根気強く教えてくださったからこそだと思っています。そして、それは私だけではなく、伊藤先生の下で、たくさんの人が成長していくのを、毎日のように目の当たりにしています。
伊藤先生は、人間の闇をすべて受容しておられ、言葉の一言一句が愛に満ち溢れています。人は、人としてどう在ることが大切なのか、人と関わって成長していくとはどういう事かを、私達に分かりやすく教えてくださっています。そして、私達の成長を心の底から喜んでくださるのです。
私は、伊藤先生のような人間に、今まで会ったことがありません。

伊藤先生は一年に一度、先生のメインガイドであられる弘法大師空海に、私達を紹介してくださるために高野山を訪れます。この高野山の行事は、リラ・アカデミーで勉強している私たち生徒にとって、とても重要な事なのです。そこで私たちは一年間の学びの結果を報告して、新たなる決意表明をします。私達は毎年恒例のこの行事を、とても心待ちにしていると共に、恵光院で宿泊することを、とても楽しみにしていました。
スタッフも気さくな方ばかりで、一昨年も昨年も気持ちよく過ごさせていただきました。それなのに恵光院の奥様に、あそこまで理不尽な扱いを受けた事、スタッフの方々が表面的には良い顔をしていながら、実は不満だらけであった事、陰でとんでもない団体だと思われていた事が、とても悔しくて悲しくてなりません。恵光院で楽しく過ごさせていただいた時間が、本当に嫌な思い出になってしまいました。

そしてご住職と最後の日にお話をし、過去に出会った、宗教家とは名ばかりの人達と同じだと思いました。経典を頭で理解しているだけで、自分の隣にいる人に何も教育できない、人間としての在り方を示す事ができない、中身の伴わない宗教家のプライドで人に教えを説く、自分さえ良ければ人の想い等どうでもいいという、あからさまな態度が何よりの証拠だと思います。

伊藤先生は、宇宙の法と愛を説いておられます。それはいにしえの昔に、弘法大師空海が説いた法則と同じであると確信しています。何故なら、日々当たり前のように、その法則を生きておられ、その在り方に触れることで、私自身が大きく成長できたからです。

先生は、恵光院の開けた雰囲気と、スタッフの方の明るさを、とても褒めていらっしゃいました。だから尚更、今回のことが残念でなりません。
奥様は、私達とは縁などないとおっしゃいましたが、私は恵光院に縁を感じておりました。

二度とそちらにお伺いすることはないと思いますが、最後に一言申し上げたく、手紙を書かせていただきました。

どうか善後策をお考え下さいますよう、お願い申し上げます。

敬具
2011年1月11日

リラ・アカデミー
向井 初江



コメント

とても痛いところを突いた文章だと思います。

向こうの反応を知りたいです。

恵光院に良い印象を持っていたので、裏切られた気分です。

どんな反応をしてくるのでしょうか。
気になります。

先生のお手紙を読ませて頂いているうちに、自分の中にある側面に対して、教え、諭してもらっていると感じました。
真理とは。相手と話をするということ。頭で理解しようとする。感謝。常識。敬意。など。

このお手紙を受け取った住職にとっては、分かれ目というか、ふるいにかけられている状況なのではないかと思いました。

一転、むっちゃんと向井さんの手紙を読むと、憤りがこみ上げました。

「どうせ分かんねーんだろうけど、思い知らせてやりたい」

そんな気持ちです。

恵光院のご住職、嫁がどういう返答をしてくるのかが物凄く気になります。

先生の書かれた文章を印刷しました。
何回も読み、勉強させて頂きたいと思います。

先生の手紙の力強さに心打たれたと共に、3通の文書を通じて自分の信念を貫く真剣さというのはかくあるべきという、背筋が伸びる想いがしました。

相手に真剣に向き合うからこそ、きっちりとこちらも筋を通すことの大切さを学ばさせていただきました。

私もこの文章を、何度も読み返します。

この内容を突き付けられて、恵光院の住職夫妻のプライドがどのように炙り出されるのか。
「当たり前のものなど何もない」という先生のお言葉に、高野山という場所に胡坐をかいていたということに、どこまで彼らが気づけるのか。

彼らが、これが真の大師からのテストだと気づけるかどうかというところも、注視したいと思います。

先生の大師、リラや私達に対しての思いが真っ直ぐ突き刺さり、心を打たれました。

自分の尊厳を守ること、教えて頂きました。

むっちゃんや向井さんのお手紙を朝まで、ご指導する姿を見せて頂き、本気のものを仕上げることはこういう事なんだと思いました。

何度も読み返し、在り方を自分に落とし込みたいです。

恵光院の手紙を書いている中で、先生のご指導を通し、たくさんの学びがありました。

先生の想いに触れさせていただき、自分の甘さを思い知ると共に、更に勉強し行動し、成長していきたいと思いました。
先生のお手紙を印刷して、何度も読み返します。

そして次世代の恵光院を継ぐ息子さんに、ぜひ読んでほしいと心から願っています。

先生の手紙を読ませて頂いて、私は、住職や奥様への愛を感じました。
侮辱を受けた相手に、これ程までに丁寧に、分かり易く、彼らがしてしまったことを伝えることは、先生が人に対して、何があっても切り離すことが無いことの表れだと感じました。
そして、私たちに対するくだりには、涙が出ました。

二つ目の私の文章ですが、これを書くにあたり一ヶ月という十分な時間も頂いたにも関わらず、まともなものを書き上げる事が出来ず、先生のかなりのお時間を割いてご指導を頂く結果となってしまいました。

ここには、私の先生に対する依存、ハートではなく業務を優先してしまうという課題や、家族、離婚を控えた夫に対する取り組みの足りなさ、数々の課題が起因しています。

人格の特定は出来ておりますが、正直なところ、混乱している面もあり、現在要因に切り込むところに辿り着いておりません。呑まれて全く身動きが取れないというところには、追い込まれておりませんが、軸を戻さないと、崩れてしまうかもしれないという危機感を持っています。先生からご指導頂いた録音を聞き直し、踏ん張ろうと思います。リーダーとして、6期を着地させること、何が何でもやり遂げるつもりです。


先生の手紙を読ませて頂いて真剣に
人と向き合う事、コミュで先生が御指導してくださった事が思いだされます。
私も先生の手紙を読み返していきたいと思います。

むっちゃん。

コメントを読んで心配になりました。
大丈夫?って書こうかと思ったけど、
大丈夫じゃない気がして・・。
何かできないだろうか。私に。

あと、ホソピー、
むっちゃんのコメント読んだ?
むっちゃんのコメントをもし読んでいたら、ホソピーのコメントにむっちゃんが触れられていないのが、おかしいなと思ったので。

みおちゃん

私も、むっちゃんの事、どうしたらいいだろうと考えていました。

ピラミッドの頂点を支えるには。
そして、その頂点を上に伸ばすことが、チーム全体がシフトアップしていくこと。

「べた」だけど、何回も繰り返し教えて頂いたことだけど、それぞれが、それぞれのポジションで、出来る事をやっていく。
ちょっと上の段階のことをやっていく。
自分の事だけではなくて、チームとして今、どんな状態なのかに意識を向けて、そこで何が自分に出来るのかを、「自分で」考える。

それぞれが「自分で」考えて動くことで、むっちゃんの負担が減り、むっちゃん自身の課題に向かう時間ができるんじゃないだろうか。

あー みおちゃん

時間差でコメントが読めていませんでした。

ほそぴのコメントを読んで、おかしいと思いながらも、「いつもほそぴに突っ込んでばかりだな」と思ってしまい、流してしまいました。保身でした。恥ずかしいです。

ほそぴ

コミュで先生が教えて下さった事を思いだしていたら、あのコメントにはならないよね。
むっちゃんを目の前に置いて、もう一度、思いだして欲しいです。

みおちゃん、歩たん

温かいコメントありがとうございました。さっき、マロからヒーリングしてもらって、お風呂にも浸かって、体がラクになりました。

確かに今、色んな意味でパツパツなのですが、踏ん張り時であるのも事実。
あとの2ヶ月半、この時間をどう過ごすかで、今まで積み上げてきたものの全てが決まる・・・。
そして、中級に繋がっていく。

先生からご指摘を頂いたのですが、こパツパツの状況を作り出しているのは私自身であること、全ては自分次第であること、真摯に受け止めようと、今正直もがいています。

そして、皆との繋がりが少し薄れてしまっていることに、自分の在り方のまずさと気持ちとしての寂しさを感じています。リラで過ごす時間の中に、皆と繋がる時間、取り組みにあてる時間を作ります。出来てなかったら突っ込んで下さい。

むっちゃん、
在り方のまずさってあるけど、気持ちとしての寂しさってもっと詳しく教えて欲しいです。

歩たん、
自分のできることをやる。
歩たんのコメントを読んで、高野山で皆で手を繋いだ事を思っていました。
その時、みんな自然に発言をしていたよね。そして、むっちゃんが、「皆が発言してくれるから楽だ」って言ったのを思い出した。頂点を支えるっていうのは、こういう事なんだろうな、とも改めて思った。
あの時みたいに、みんな繋がれているだろうか、と思ったらどうだろう?
辛いときにはSOSをだす。頼る。
みんな、できてる?
みんな、どんどん表現しようよ。

長い文章ですが、一気に読めました。
先方には耳が痛くて、読みづらいかもしれません。

今日ミオさんと遠隔して、いっしょくたにしないこと、ニュートラルな視点で見ることの重要さについて話しました。
いっしょくたに判断するのではなく、ものごとを多面的に観察するということです。

僕は住職はただのあほみたいに思っていました。
でも住職は高野山で修業を積み、それなりの地位にある人です。
先生の文章は、そんな住職が陥ってしまった穴をピンポイントについていてとても勉強になると感じました。

むっちゃんがみんなとつながりが薄れているとのこと、まずいと感じます。
僕もむっちゃんと繋がれるよう意識したいです。
今週は遅刻しないように頑張ります。

色んな意味でパツパツってどういうことでしょう?
もっと弱音を吐いていいんではないでしょうか。

なんかいろいろごちゃごちゃ書いてまとまりがなくてすいません。

むっちゃんを支えたい。
けれど、自分がどこまでできるのか、
自分が機能しなくなってしまっては、元も子もないんじゃないか。
私のできる限りに、私は食らいついているのか。
ブレる自分の弱さを噛みしめながら、こんなにいっぱいなむっちゃんに、私は甘えているんじゃないか。

自分に対して、歯がゆさ、情けなさ、感じています。

むっちゃん、みんないるよ。頼もしいよ。
なんとかできる。なんとかしよう。

みおちゃん、あゆたん
私、おかしいです。
自分の事しか考えられないパターンが
出ています。すみません。

むっちゃん
むっちゃんに6期を成功に向かう為に
総リーダーとしてプレッシャーを1人で背負ってしまっているのではと感じました。
むっちゃんの辛さ、皆にシェアできることがあったら、シェアして欲しいです。
シェアしてほしいです。

むっちゃん、

激動の変化にくらいついて、波に乗っているむっちゃんを見て、ほんとにすごいリーダーだと思うよ!!
でも、リーダーだってときには落ちるときはあるし、ミオちゃんや、歩たんがいうように、あの最後の高野山の日を思いだして、みんなに甘えて、頼ってほしいです。パツパツの状態は長期戦にはむいてないし、それで軸を崩したらせっかくの積み上げが台無しになるので、どうしたらむっちゃんがバランスがとれるようになるのか、一緒に考えていきたいです。

ひとり、ひとりがリーダーということをここで忘れずに、ここを乗り切っていこう!!

みんなに心配を掛けてすみません。温かい言葉をありがとうございます。
寂しさと言っているのは、みんなと距離を作った自分のせいだと思います。忙しさに対する被害者意識もあると思います。
あまり表面化してこなかったママくりちゃんのプライドカルマが表面化しています。先生からご指摘を頂き気付きました。
マイマイが言うように、今の状態では長期戦にならなくなってしまう。
これからしっかり晒します。

むっちゃん

今、本当にいろいろとキツイと思います。

むっちゃんをみんなで支えたい。

むっちゃんが、自分の取り組みに充てる時間を作るにはどうしたらいいか、プライドカルマを超えるにはなど、みんなで考えていきたいと思います。

ほそぴ

むっちゃんへのメッセージ、そのままほそぴへのメッセージにしたい。

シェアしてほしい。

おかしいのは分かったから、それをどうするのか。
自分だけで、前進していける?
今までやってきて、「これは、誰かに聞いてもらわないと、抜けられないかも」という感覚は分かると思うので、ある程度自分でやってみても前に進んでいかなかったら、自分から声をかけようよ。

コミュで書いてもいいし、誰かにメールするとか、スカイプするとか。
だから、チームなんでしょ。

でも受け身じゃなくて、そこは、自分からやっていこう。
自分のことだよ。
ほっといていいの?

今の状態は、むっちゃん自身の一杯一杯感もあると思うけど、リラの中枢で勤務しているメンバーの状態も、とても影響していると思います。

確かに、今は、色々大変な状況だと思う。

でもその大変さも状況も、皆に伝えて、皆がそれぞれできることが何なのかを改めて考えてみようよ。

まずは、この危機感の共有からだよね。

エジプト、高野山、と踏ん張ってきた私達のチーム力の蓄積を、ここでこそ発揮する場面だと思う。

むっちゃん

今の状況をきみちゃんから聞きました。
キツいと思います。
パツパツな事、もがいている事って何ですか?

6期みんなで踏ん張って、むっちゃんを支えたいです。

自分が御住職や奥様の様になっていないだろうかと考えてしまいました。
教義とか理論とかではなく、目の前の人とハートで繋がれているだろうか。
ちゃんと相手を見て、相手の視線に立って、感じられているだろうか。
不安ばかりですが、一つ一つ積み重ねてきたものを確実なものにして行きたいです。


むっちゃん
むっちゃんがむっちゃんとしていられる為に、私に何が出来るだろうか
ただただ自分に出来る事を自分でやる事くらいしか、思い浮かばなくてごめんなさい


ホソピ
私はホソピ頑張ったんだろうなって思ったよ
先生に指導してもらった時の様に何行も書けなくて
自分でもイライラしたんじゃない?

むっちゃん

詳しい状況はわからないけど,
むっちゃんが辛いのが伝わってくるよ。
一生懸命踏ん張ってるのが伝わってくる。

パツパツなときに晒すにはエネルギーがいるんだと思う。

垂れ流しでもなんでもいいよ。
みんなに支えさせてね。

むっちゃんの取組みの時間がとれるよう,もう一度,自分の軸をしっかり保つこと,自分で立つことに振り返って自分の位置でチームの底上げをしていきたいと思う。

相手に敬意を持ちながらも突くところは突く
というやり方を教えていただきました。
変に下手に出るか、やたら高圧的になるかの方法しか私は知らなかったと思いました。

また、住職や奥様に宛てての手紙ですが
人としてのあり方を私にも教えていただいているように感じます。
何度も読み返していきたいです。


むっちゃん

むっちゃんの大変さを軽減するために
何をしたらいいだろう。
皆でスクールの時に話し合えたらと思います。
今、必要なヘルプがあれば教えてほしいです。

皆さん、本当にありがとうございます。先ほどリーダー会議で少しシェアをさせて頂きました。
皆のコメントが本当にありがたいし、うれしいです。私のことは、改めて記事を挙げさせて頂きます。

恵光院に対する手紙に対して、どう感じたのか、ここではしっかりコメントしてもらえたらと思います。

すみません、お手紙の件に関してのコメントが出来ていませんでした。

私も現場に居合わせましたが、突然の理不尽な訴えに、面食らうと同時に本当に腹が立ちました。

そして、先生やむっちゃん、向井さんが手紙を仕上げる場面に同席させていただき、先生が一つ一つの文章や言い回しを大切にされるところや、決して妥協せずに思いを伝えようとされる姿勢、さらには先生のお手紙の中の、リラや私たちに懸ける愛情の大きさ、侮辱を受けた相手に対して向ける、本当の愛情に触れ、胸を打たれて泣けました。

一つ一つの物事や人を慈しむ、という姿勢を、いつも先生のそばで感じられることを、とても有り難く思います。

恵光院からの返答や謝罪があるか、真摯に受け止めるだけの器があるか、気になります。

コメントが遅くなってすみません

先生の手紙の内容を読み、先生の愛情の深さが身に沁みる内容でした。
それは自分達スクール生だったり、リラに関わる人々に対してだけではなく、侮辱するような人々に対しても真摯に向かい合う姿に感銘を受ける程でした。

むっちゃんや向井さんも、お疲れ様でした。読んでいる間に段々腹が立ってきました。

恵光院の皆が読み、どんな返答が来るのか待ち遠しいです。

しかし、住職や奥さんの言動は、家の中での自分の言動と重なっていないか不安になりました。普段の自分の言動も振り返らないとな、と思いました。



そしてむっちゃん、「やることが沢山あって忙しいだろうな。ちゃんと寝てるのかな。」なんて、軽く考えているだけでした。
こんな自分が何か声を掛けた所で、益々苛々するだろうからな。まずは迷惑掛けないように自分の事をちゃんとやることが一番だろうな。と思っていました。

詳細はわかりませんが、頑張りすぎないで欲しいです。

これはセッションで先生に教えて頂いた事ですが、
ホソピに対するコメントで、私は自分がみおちゃんや歩たんに攻撃されていると思っていました。
だから「ホソピも攻撃されている」になり、ニュートラルな見方では無かったです。
ホソピに、みおちゃんや歩たんの立場だったらホソピのコメントってどうだろうかと、投げかけが必要でした。
その後のホソピを感じてみると、話しをして上昇に向かったとしても、直ぐに下降スパイラルに向かっていたと思います。
ホソピを依存させるだけの共依存のコメントでしか無かった。
両方の立場に立って、コメント出来る様になりたいです。

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