理屈と理論 |
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私の専門は理論物理です、といっても大学までの事ですが。 物理や数学には理論の対立や排他的 派閥というものはいっさいありません。何故でしょう?それは証明という「実証」を必ず必要とするから と言う面もありますが、一番大きな原因はその体系の中に「善悪」を持っていないことです。その意味は 「善悪」というカテゴリー(命題)は決して集合を作る事が出来ないからです。集合を作れない命題を論理体系 に繰り入れると、その論理体系は矛盾を起こします。「矛盾」というのは「AならばB」というのと「Aでなければ B」という二つのものが同時に「真」になるという意味です。人はこれを「論理的矛盾」と呼んでいるようですが 論理的でない「矛盾」というものは存在していません。「矛盾のような気がする」は明らかに個人的感覚にすぎ ないのです。ですから私はただ単に「矛盾」と呼びます。矛盾があると、すべてが「真」であると同時に「偽」に なります。すなわち「矛盾体系」で議論をしても「それはそうかもしれないが、違うかもしれない」という結論以外 は出てくる事はありえません。すなわち「善悪」をどんなに議論しても決して結論が出る事はありえないという 意味です。それを無理に結論づけようとすれば「力ずく」以外にないでしょう。 現在の世の中には「理屈」というものが存在しています。これは「理」で他人を「屈服」させようという物です。 「屈服」させるには必ず「善悪」はつき物です。ですから「理屈」は必ず「矛盾」しています。論理体系に一つでも 「矛盾」を含むと、その系はすべて矛盾します。数学者であり哲学者であったラッセルという人がホワイトという 人と共に作り上げた「公理の証明」にかかわる論文で証明されています。すなわち矛盾を含む論理系は 「必ず」・・・「必ず」です、矛盾します。という意味で「理屈」は必ず矛盾しています。言い直すと、 どんな理屈でも、その反対の結論を導き出す事が可能 なのです。「理屈」に対抗するものとして「へ理屈」と呼ばれる 物があります、それは力の強い物が「理屈」で屈服させようとしてきた時の対抗手段です。力のあるものが それを嫌がりますので「屁の様なものだ」と何の根拠も無く名づけたのが「屁理屈」です。勿論理屈の一種 ですから、矛盾しています。という意味で「理屈」も「へ理屈」と同じものです。そして、どんなに理論的に見えても 「理論」と「理屈」はまったく別の物です。その意味で「理論的」にみえて人々が「理論」と錯覚させられている物 も、もしその中に「善悪」のような集合を作れないカテゴリーを含んでいたら、それは「理屈」です。 マルクスは理論体系に「善悪」を取り入れた、という意味で、大きな誤りをしています。彼の時代は産業革命で 農民達が駆り出され、抑圧され搾取され、悲惨な生活をよぎなくされていた、という現実がありますから、彼が 「この現状をなんとかしたい」と思った心情にはいたく共感します。しかし彼は性急に過ぎたため「暴力」で「暴力」 をなくそうとした、という失敗と共に「論理体系」の中に「善悪」を取り入れた、という過ちをしてしまったのです。 よくマルクスを信奉している人達は「これは科学である」と言っているのを聞きますが。「矛盾体系」である以上 「科学」にはなりえません。すなわち「マルクス主義」はあくまでも「主義主張」であって科学ではないのです。 しかし当時の社会背景が「大衆に暴動を起こさせる」に十分な抑圧があった為、多くの支持者を集めたという 事でしょう。科学である「物理」や「数学」には「これは科学である」と念を押す必要はありませんのでどんな教科書 を見ても一言も「これは科学である」と書いてはいません。その後も、そして最近でも「善悪」を取り入れた教義 は存在しています。後ほどじっくり考察しますがなんらかの抑圧を受けている人達はどうしても「善悪」の入って いる「教義」に賛同しがちな傾向にあります。そのため時には多くの支持を受ける事もまれではありませんが もともと矛盾しているわけですから、必ず「反対意見」が出てくるのです。そうなると「過激」な人が出てきたり して内部でも「解釈の違い」が生じたりして、より排他的になっていきます。そして、頑なにその教義を守ろうとす るもの(自分なりの解釈なので教義全般と言う意味ではありません)や外部との融和を考慮に入れようとする人 達の間で「派閥」が出来たりします。ほとんどの宗教が必ず「善悪」を含んだ教義を持っていますから例外では ありません。勿論出来るだけ多くの信者を獲得するという「金銭的」目的の為には「善悪」を入れる方が有利かも 知れません。しかし矛盾をしているので「分派」を作ったり「分裂」したり「強硬な反対勢力」を作ったりする事は 避けられないと思います。シュタイナーという人も同じ過ちをしています。宗教ではないのですが、同じ道筋を 通っているように見られます。すなわち「子供にテレビを見せてはいけない」とか「子供にプラスチックの玩具を 与えてはいけない」といった「・・・はいけない」という表現で「子供にテレビを見せる」=「悪」、「子供にテレビを 見せない」=「善」という概念を作ってしまっているのです。ですからこの「善悪」を頑なに守らせようとする「過激 派」と「それほど神経質になる必要はないのでは?」という穏健派が出来てしまうのでは?と推測します「過激派」 の言動は一番目立ちますので「シュタイナー」=「過激」というイメージが社会的に定着すれば当然「反シュタイ ナー」が生じるのも必然という事になります。すなわち矛盾を含めば必ず「解釈の違い」が生じて来るという事 です。ジェンダーフリーという運動もあります。やはり同じような道筋を通っているように見えるのは、その中に 「善悪」を作ってしまったからではないでしょうか?有史以来人類は同じ過ちの連続です。それが争いを生み しいては戦争に繋がるであろう事は無理からぬ事だと思います。 すなわち 「理屈」は必ず「意見の違い」が生じその解決方法は「力ずく」以外にない という事です しかもそれは結局「なんの解決も無く同じ事の繰り返し」 だと思います。 私は世界平和の為にはどうしても「平等な社会」が実現する事が必要だと思っていますので、外見的にはマルクス と良く似ている所があります。その為、内容をよく理解出来ない人達から「なんだ共産主義か!」とか「社会 主義か!」と言われることがありますが、全く違います。象の「はりぼて」と「生きた」象位の違いがあります。 この例えは「外見が似ていても中身は全く違う」という意味だけに出した物で「どちらが、どっちだ」という意味 までは含んでいません「善悪」という動き回る物を持っていないという意味では私の方が「はりぼて」かもしれま せん。ですからどうか見た目だけで早急に判断しないようにしてください。じっくり考えられる人にはその 違いは明瞭になるはずです。ですから内容をじっくり検討して貰いたいのです。 私は誰に対しても自分の意見を押し付けようとはしていません。考えられる人達に、彼らがまだ知らないかも知れ ない情報を提供し、あわせて私の仮説を提示しているに過ぎないのです。「善悪」を抜いて考える、という事が 必要です。「脱力ずく」ですから「共産主義」の暴力的な所は完全否定します。しかしその暴力的教義のおかげで 「抑止力」になり沢山の犠牲を出してはいるが、搾取する側が怖れて、それなりの譲歩をした為大衆が 暴力的にならない程度の成果はあげてきた事実は認めます。しかし、もはやそれ以上は望めないでしょう。 すなわち、マルクスの当初の目的である「平等」は作り出す事は出来ない、という意味です。「搾取」する側が ちょっとだけ利口になって、大衆を暴徒化しないギリギリの所をうまくコントロールするすべを知ったというだけです。 すなわち問題解決にはならないのです。 言い直すと「抑止力」はそこそこの成果を上げる事は出来なくはないが、その力が目標以外にも及んで無視出来 ないほどの沢山の犠牲が必ず生じ、結局はなにも解決をしていなかったのと同じ事になる。という意味です。 「力ずく」は必ず犠牲が出る という事を念頭に置いておいて下さい。 話は飛びますが、中世のヨーロッパはカトリックによって大衆が抑圧されていた時代です。歴史の暗黒時代とも言わ れていますが、それは当時の状態を研究したくても大部分の資料がバチカンによって隠蔽されてしまっているから です。それでも垣間見れる当時の状況は想像を絶するものです。勿論その悲惨な状況を「なんとかしたい」と思って 居た人達は大勢いたのではないかと推測出来ます。でも多分ほとんどの人達は「宗教裁判」で抹殺されたかも知れ ません。しかしイギリスは反旗を翻し(王様が離婚をしたかったから)かの有名な海戦でスペイン軍をうちやぶり「イギ リス聖公会」を作りカトリックから分離しました、そんな諸々の事情が働いてカトリックの力が弱まった時マルチンル ター等イタリアから地理的に離れた所に対抗集団が出来たりして、ますますカトリックの力は弱まってきたのです。 しかし大衆をカトリックの抑圧から解き放ったのはイギリスでもなくプロテスタントでもなく。ガリレオやニュートン、 ダーウインといった科学者だったのではないでしょうか?勿論彼らは大衆を抑圧から解放したいと思って研究をした わけではありません。この事から考えられることは「抑圧」してくる者が持っている「理屈」に穏やかに、犠牲もなく 対抗できるのは「理論」を持っている「科学的思考」だけかも知れないと思われるのです。 しかし科学は今の所「物」や「生物」せいぜい人間に向かっても「解剖学的」または「生理学的」どまりではないかと 私は思っています。ですから今後「人間」の精神構造に立ち入った「科学」が進歩すれば、うまくすると現在人類が抱 えているほとんどの問題を解決する事が出来る可能性は「なくはない」と思えるのです。 しかし、それは想像絶する程の難しい挑戦になると思われます。何故なら人類はもう数千年「善悪」を伴った価値観 というもので社会を構成してきているからです。しかもその価値観には「強迫観念」が付随しているのが普通です。 すなわち 「善悪の価値観」を手放す事が「死」を意味するほど怖いのが現実です。 そんな現実が人間の心の中を 科学的に分析する事を拒んでいるのです。唯一精神分析と呼ばれる学問分野で人間の心の問題を取り扱って いますが、今の所「心の病」の研究にとどまっているようです。しかしこれが「自分は健康である」と思い込んでいる 人達にまで適用するとなると、かなりの抵抗が生じることになるのです。では何故そのような事が生じるのでしょう それは「言葉」という物のほとんどが、すでに「善悪」のニュアンスを含んでいるからです。人は自分が「悪人」になる 事を好みません、それは「悪ぶっている」人達でも同じ事です。「悪ぶっている」と言うのは既存の価値観に背を向 けているだけで、すなわち既存の価値観が「悪」とするものを「善」として他の価値観の中に居る、というだけの話で 彼らの中に、彼らなりの善悪は厳然と存在しています。ですから自分の中に「悪」のニュアンスが入っている 物があることを認める事が出来なくなっているのです。その為人間の心の分析には「否認」という抵抗が生じて 「ある物(確かに存在しているもの)をある」と認める事が困難になる事がしばしば起こるのです。ですから「悪い」 というニュアンスを取り除く事に成功しさえすれば確かに存在している物を「存在している」と確認する事が可能になり 「考察」は先に進む事が出来るのです。「否認」が起こればその先に思考を進める事は不可能です。私はそんな事情 から、時には「あえて」悪いというニュアンスを持たされてしまっている「単語」を多用する事があるかもしれません。 そしてそれが「悪い物」ではない事を「理解」することで、思考の幅は出てくると思われます。すなわち「考察力」を深 める為にも「善悪」は邪魔な物になっている、という意味です。しかしそれはかなり困難な事には変わりはありませ ん。「善悪」を抜いて思考を重ね分析が進めば進むほど個人的に、時には社会的にも大きな抵抗が生じるでしょう。 「善悪」のニュアンスを抜く事が出来ない人達が「自分が悪く言われた」と感じると「怒り」と共に大きな抵抗を示しま す。人間は基本的には「他人の怒り」を怖れてしまいます。ここが最大の難関です。その為「無難」な所に結論を持っ て行ってしまうのです。これが人間の「心の構造」を研究しにくい背景です。そして人間の精神的研究が進まない大き な要因と言えるでしょう。「怒り」は確かに怖いです。しかし「怒り」そのものが「力ずく」であり、それを無視して強引に 推し進めるのも「力ずく」です。この辺のジレンマがとても難しい所でもあります。ですから「ゆっくり、ゆっくり」しか 進む事は出来ないでしょう。 「善悪」を抜いて考えるという事は、人間社会も「化学反応」の様に見ていくと言う意味でもあるのです。二酸化マン ガンと過酸化水素水を混ぜれば「酸素」が出来ます。これを「良い事」とも「悪い事」とも評価することは出来ません。 勿論「他の物を作りたかった」と思っていたとしても「出来ない相談」です。勿論個人の中に「良い悪い」の感情があ るか、ないかという事と「善悪をなくして考える」というのは別の問題です。その人が「酸素を作りたかった」と思って いたのならこの反応はその人にとって「良い事」です、しかしダイヤモンドを作りたかったと思っていたのならその人 にとって「悪い事」になるでしょう。あくまでも「良い悪い」は個人の感情(欲求)を満たすかどうかという問題に過ぎな いということは理解してもらえたでしょうか? 化学反応と同じように「殺人」が起こったとしてもそれは良い事でも悪い事でもなく「必然」と捉えるのです。「殺人」が 起こるにはそれなりの理由があるわけで、何かと何かが条件がそろって接触してしまったのです。化学反応が起こっ たのです。「殺人」を「悪い事」と考えている人や被害者の関係者にとっては「悪い事」ですが「あいつを殺したかった んだ」と思って居た人や殺人者にとっては「良い事」なわけです。この様に「善悪」はあくまでも個人的感情以外のなに ものでもありません。しかもそれは個人の中でも時間の経過と共に移り変わって行く事も普通です。すなわち自分の 中に「善悪の感情」があったとしても、それは普遍的なものでもなく、また普遍的にはなりえない、という事です。 いいかえると 「善悪の感情はあくまでも個人的感情」 ということです。それを他人に同意させるには力ずくが必要になってくると感じてしまうのです。 「いや昔から悪い事は決まっているのでは?」 と思っている人もいるかも知れません。しかし「昔から」というのは、はたして正しいという保障があるのでしょうか? 「昔から」だけで判断して、本当に良いのでしょうか?というか「昔から」に頼って、なにかが解決するなら、もう すでにほとんどの物が解決しているはずではないでしょうか?「良い悪い」の価値観すら「正しい」か「正しくないか」 が結局は「数」の問題になるだけなのです。だからこそ、国が違えば、時には集団が違うだけで「価値観」には大き なずれがでてしまうのだと思います。どうしても「殺人」をこの世からなくしたいのなら「善悪」ではない別な方法 を模索する以外にないでしょう。すなわち個別に「どうして起こったのか?」という分析が必要なのです。そのような 分析を行なって沢山の事例が出来れば、どのような時に「殺人」は起こるのか、では「殺人を無くすにはどうすれば いいのか?」と段階を追って考察するか、人間という動物の心の構造を研究し、例えば「殺人」を行なえない人間は はたして作り出す事が出来るのか?といった可能性を研究していく等基本的な所を改善していかないかぎり「殺人」 を無くす事は出来ないでしょう。すなわち 「殺人は悪い事」と誰がどんなに叫んでも条件がそろえば起る事は起ってしまうのです。 これは必然ですね。 物理には「理論物理」と「応用物理」とあります。この二つは言うまでも無く「どちらが優れているか」というのはあり ません。やたらと優劣で判断しようとする人達が多いので、あえてお断りしておきます。建前や奇麗ごとではなく 本当に「上下優劣」はありません。「上下優劣」がないからこの二つはうまく機能しているのです。応用物理は 例えば粒子加速器で陽子や中性子を加速して高エネルギーの粒子を作ってそれを物質にあててその時の素粒子 の振る舞いを観察研究すると言った物があります。これの専門家は粒子加速器に関わるとても細かい所まで熟知 しています。また中には地下深く宇宙線の影響のない所の洞窟に水を張って宇宙からくるニュートリノ観察を続けて いる人達もいます。その人達はニュートリノの事に関するエキスパートです。このような専門に分かれて実験や 観測を続けているのが「応用物理」の分野です。そしてそれぞれの専門分野の観測結果を集積して「理論的」に 考察し新たな「仮説」を発表するのが「理論物理」の分野です。そして理論物理からの提案である「仮説」を実験 や観測で「証拠」を探し出すのが「応用物理」の分野になるのです。ですから「応用物理」の専門家が「何を実験 、又は観察」するのか計画を立てるには「理論物理」の「仮説」が必要でもあるのです。漫然と実験、観察するの ではなく、系統付けて効率的に実験をする為にも必要な事なのです。例えば現在は「クオーク」という理論物理 からの提案があります。これは陽子や中性子、はたまたあらゆる素粒子(中間子等)は3種類のクオークの組み 合わせで出来ている、と仮定すると膨大な量の素粒子を無理なく説明できるという仮説です。この理論物理か らの仮説を高エネルギー粒子加速器でクオークの存在を実証しようと実験していたりするのが応用物理です。 そしてそれが見付かり、さらに他の人達により追試をして、充分な確認が出来て、初めて理論になるのです。 仮説は実証されて初めて「理論」になるのであって、実証されなければ、いつまでたっても仮説のままです。 勿論もしクオークが単体で発見出来なければ理論物理の人達は「何故発見出来ないか?」の仮説を作る必要が あるわけです。勿論「発見出来る確率がとてつもなく小さい」という仮説でも良いでしょうし。現在ある超ひも理論 から、クオークは紐の振動の腹の事ではないか?だとすると個別に取り出す事は不可能では?といった様な物 でも良いかもしれません。しかし仮説は理論として優れたものでなければ「応用物理」の専門家は取り上げたり しません。そして、この様にして最も信頼の置ける「理論」は作られていくのです。 人間一人の脳細胞はたかだか100億個くらいしかありませんので、このような機構を作り互いに協力しあう 事で、途方も無く大きな宇宙の真理に挑戦しなければならないのです。ところが社会科学と名乗る分野ではその ようなしっかりした機構は存在していないようでもあるし「真理追究」の方向性での協力関係があるのかどうか も私個人の感想では見受けられないのです。この方面でも「理論家」と自称する人達は沢山いますが、中には まじめな人も居るようですが、ほとんどが「理論家」ではなく「理屈家」の様にしか見えません。「理屈家」が 「理論家」を名乗る事で一般に「理論家」に対する風当たりが強くなっているようにも見えます。私は「理論家」 ですが、そんな状況では名乗るのに大いにはばかる所がなくはないのです。皆さんは「理論家」と「理屈家」を しっかり認識区別してください。もっとも科学に対する不信感もかなりの物があるようです。それはマルクスが 自分の「理屈」を「科学だ」と宣伝した所に大いに関係があるのではないかと思っていますので「科学」という 名前を貶めた大罪人の様に私には感じます。大学時代から十数年マルクスが吹き荒れ皆口をそろえて「科学 だ!」と叫んでいるのでどうしても気になってマルクスの勉強をした事があります「弁証法」なるものもじっくり 読んだ時期もありました。でも結論はやっぱり「理屈」でした。「弁証法」なるものは、先ず結論があって、いかに 弁を弄してその結論に導くかという理屈に過ぎません。話が横道にそれましたが「科学」と名乗るからには派閥 があったらまずいような気がします。Aという派閥はaという学説を頑なに守りBという派閥はbという学説をかた くなに守り、互いに一歩も譲らない。というのでは「真理探究」を目的とした「科学」ではないと思うんです。 「aも正しいかもしれないし間違ってるかもしれないbも正しいかもしれないし間違ってるかもしれない」であれば 論理系が矛盾しているわけですから「何が原因で矛盾を起こしたのか?」という事を派閥Aの人と派閥Bの人が 十分話し合い検討していかないと先には進めないのではないでしょうか。そして「実証」という大切な課程を経て 証明されるまでは「理論」ではなくて「仮説」であるとはっきり区別しておいて貰わないと、混乱があるのではと 思うのです。勿論人間を扱った学問はとても難しいものである事は十分承知していますが(多分物理よりはるか に難しいと私は思っています)漫然と現象を観察したり、統計をとったりするだけでなく「何をしたいのか?」 「何をするべきなのか?」「目的はなにか?」といったところを整理した方が良いと思います。どうも物理でいう 所の「応用」担当の人達が自分達の分野の結果だけを使って個々に「仮説」をうち立て「理論」と称しているだけ の様に見えてしかたがありません。すなわち物理でいう所の「理論物理」が欠如しているようでもあるのです。 私は「理論家」ですので実際に精神的病の治療に携わっているわけではありません。しかし「精神分析」を始め とする「精神的病」に関する本を沢山読んで、それぞれの現場の「症例」等の事実関係を調べています。私の 中では理論的にかなりまとまっては来ていますが、現在の様に「諸説」がとびかっている現状では「科学的」に 分析する事は難しいのでは?と思います。それは「精神的病」の治療そのものを混乱させ患者に絶望感を味わ わせるだけではないか、とすら思います。私の私見で「この説」はいいかもな?と思われる様な人ほど学閥か ら攻撃を受けている様に見れるのは気のせいでしょうか?もっとも人間の心理を熟知すると「何故、そんな事が 起こるのか?」は解ってはいますが。すなわち「必然」なのですよね。しかしもし「理論社会科学」なる分野が 確立され「応用社会科学」の幅を広げて統一した「仮説」を提案出来る機構が作れれば「社会科学」ももっと 発達して、本当の意味での「科学」になることで人類に貢献できるのでは、と思います。例えば「心理学」だけ ではなく「動物の生態」の様な「生物学」や「化学」など現在では「部外」と思われている物も視野に入れ マクロな視点での「仮説」の提案は必要なのでは、そしてそれを受けて「応用社会科学」の様な分野には「精 神科医」や「セラピスト」も含まれるでしょう。勿論どの分野も「上下、優劣」等がない事が必要条件です。そう しないと「社会科学」は発展しないでしょうし「発展」しなければ人類に貢献する事は難しいのではと思います。 ここで、皆さんに私から二つの定理を提案しましょう。(仮説です) |
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1.善悪を繰り入れた理論(=理屈)は必ず排他的集団を作る。 2.排他的集団は価値観の逆転を起こす故に争いの種をその内部に含有する。 |
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私が人類の平和に興味を持ったのは、大学2年の時に出合ったノーバート・ウィーナーの影響が大きいと思います。 ノーバート・ウィーナーという人は20才で幾つかの博士号をとった天才数学者です。彼は主に予測と情報の理論 を作り上げた人です。第二次大戦中には高射砲の命中精度を上げる為の計算式を作ったり。暗号解読に尽力 した人です。まぁ現在の情報理論の基礎をつくった人ともいえるでしょう。そしてサイバネティックスという学問 の提唱者でもあります。日本語では学問の名前としては違和感がありますが数学は英語でマシマティックス というし物理はフィジクスというので、英語ではあまり違和感のないなネーミングなんでしょう。ただ日本語に 訳せないので、そのままサイバネティックスと呼びます。この学問についてはこれ以上説明しません。 ウィーナーの最後の著書、邦題「科学と神」(GOD AND GOLEM,INC.1964)は多分絶版になっていると 思いますが、こんなことが書いてあります。ちょっと長たらしいので要約してみます。 「魔法は道徳的判断をする事は出来ない。アラジンのランプを例にするとランプをこすると虚空から大男が飛び出し ランプの持ち主のいう事をなんの文句をいう事なしに忠実に追行してくれる。それが例え不道徳な命令であろうと。 科学の産物である科学技術や機械という物も、これとまったく同じもので、両刃の剣であり遅かれ早かれ人々を 深く傷付けるのである。だから人類は道徳的心がもっと発達しないかぎり科学はこれ以上発達してはならない、 そうしないと科学によって人類は滅亡するだろう。」 この考え方は何も考えず、ただ科学が好きだっただけの私にとってカルチャーショックでした。そう科学はそれ自身 に「善悪」を含有しないという長所を持っていながら、そして「善悪」を持っていないが故に「使う者」の意志に左右 されてしまうのです。まさに両刃の剣なのです。科学者は自分の興味と探究心だけでそして時にはあわよくば 一山あてたい、という一心で、他はなにも考えず研究に没頭するのです。それをうまく利用したいと虎視眈々と 狙っている人達が、大金をもって科学技術を買いにくれば嬉々としてゆずってしまうだろう。それがどの様な目的に 使われるかという事までを深く考える事には到底考えが及ばずに。 しかし科学者は出来れば自分達の 科学技術は万民の幸せに貢献したいのです。 ならば後は人間の心を科学的に 研究してウィーナーのいう所の道徳心を向上させるにはどうしたらいいのかを探す以外にないのではと私は思った のでした。それからほぼ40年ついに見つける事が出来た、というのが今回のこの発表でもあるのです。勿論40年 間その事だけに没頭したわけではありません。それには一般的社会に入り込んで(学校に残るのではなく)社会を 十分観察する必要があったのです。そして「人間」というものをつぶさに観察してきました。本当に驚きの連続でも ありました。少なくとも現在の競争社会と言うものは「不正が出来ない人間」は片隅に追いやられてしまいます。 これはどの様に言い訳しようと、事実を見まいと努力しても紛れもない事実です。 確かにこの様な社会で科学技術が発達してしまうと、貧富の差はますます開きひいては社会が不安定になり混乱 するであろう事は十分予測出来るのです。勝組みの人達は「偏見だ」と言うと思います。そしてそうじゃなかった、 たまたま運の良かった人達を例にとって反論してくるでしょう。確かに「不正」をすることなく成功する人もいない訳 ではありません。しかし私は大筋の所、すなわち人類の命運を握って社会の舵取りをしている人々について言って いるわけです。 次へ進む |