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集団教育(学校)


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  現在では学校という集団教育の場があります。日本の憲法では国民の義務として「子供に教育を受けさせる義務」
があります。勿論これは子供の義務ではなく親の義務です。しかも学校へ行かせる義務ではなく「教育を受けさせる
義務」である事をまず確認しておきましょう。そんな憲法に基ずいて小学校1年から中学3年まですなわち6才から
15才までの子供が教育を受ける事が出来る場が作られています。それが義務教育と呼ばれる物です。しかしこの
学校には沢山の問題が山積しているように思われます。個性の違う子供達を集団で教育するのですからそれは想
像を絶するくらい大変な作業でもあるはずです。ですから安直な「マニュアル」で乗り切る事は不可能です。個性無視
の教育は子供達の可能性を必ずつぶしてしまいます。さらに自分で教育の出来ない親が信頼して学校に預けるわけ
ですから
「子供の安全」
は必ず守らなければならない義務が学校にはあると思います。すなわち一人でも・・一人でもです「学校に行かせた
ばっかりに」という状況は作ってはいけません。これは学校を運営管理する者が他のなにより優先させなければなら
ない問題だと思います。「安全」とは外部からの侵入だけの問題ではなく、内部の問題の方が大きいと思います。例
えば「いじめ」にあっていじめられた子供がPTSDになってしまうとか、お金をとられ挙句には自殺をしてしまうとか、
教師からの暴行で怪我をするとか死んでしまうとか、女の子であれば教師からレイプや性的虐待をされるとかの問
題は決して起こってはならない問題でしょう。所が現実にはかなり多くこの様な事件が起こっているようでもありま
す。その原因はいろいろありますが、最大の問題点は
「抑止力だけで乗り切ろうとしている」
所に大きな問題があるのでは、と思います。抑止力だけでは決して事件事故を防ぐ事は出来ません。さらに抑止力
には必ずといって良いほどの沢山の
「抑止力を弱める合理化」
が存在しています。その最も重大な物が「沈黙の壁」です。恫喝によって教師同士や子供達に「緘口令」を引くような
教師とか校長、教頭はもうそれだけで教育者としての資質はないと判断しても良いでしょう。「沈黙の壁」が事件事故
を拡大して被害を大きくする可能性を考えたら、生徒の安全は決して守れないのだという事を誰もが認識する必要
があるでしょう。もし仮に生徒や教師に「口止め」をする様な教師がいたらその人は教育者としての資質がないと判
断して即刻教育現場を離れてもらいましょう。生徒の安全という最大の目標があるのなら事件のある無しを論議する
のではなく、そしてそれは罰ではなく、他の分野で活躍して貰う方が賢明だという意味です。「彼にも家族があり生活
がある」というのは免罪符にはなりません。なにより一番大切なのは児童の安全でしょう。次に抑止力を弱める合理
化は「誰でもやっている」というものです。「自分だけではない」と言うのが「罪を無いものにする」言い訳になるのか
どうか良く考えて見ましょう。この様な「言い訳」をする人も教師には向いていませんのでやはり罰という意味ではなく
教育現場から立ち去って貰うのが児童の安全の為に重要な事です。つぎに「いじめ」の問題です、教師による児童
への「いじめ」は論外です。大人はあらゆる点で子供より強いのですから、その力の優位性を使ってのいじめは児童
の将来の人生を台無しにする、という意味でも殺人に匹敵するくらいの重罪です。勿論現在では法律的に犯罪と認
定されてはいませんが生徒をいじめた教師は即刻免職にするべきだと思います。勿論断罪するには冤罪の問題が
あるので、十分慎重になる必要はあります、しかしその位の重大な問題であるという認識は必要でしょう。一方生徒
同士のいじめに関してはやや複雑です。勿論いじめられた子供の心の傷は生涯付きまとうと言う意味で、生徒同士
のいじめも起きないように細心の注意が必要です。しかしこれも「いじめはいけない」という抑止力だけで解決する問
題ではない事は明らかです。勿論ある程度の抑止力は必要ですがこれとて抑止力を弱める合理化が沢山存在して
います。「人間はいじめたりいじめられたりしてそこからいろいろな事を学んで成長していくんだ」とか「子供は本来
残酷な者だからどうしても規制するには限界がある」といった様な事を言う人がいますが、どれも教育者が「お手上
げ状態」でなす術をなくした為に起こっている指導者側の合理化でしょう。この様な合理化で手をこまねいていれば
「いじめ」は放置されエスカレートする可能性は十分にあるのです。縦社会ではたしかに「いじめっ子」の方が確実に
元気に社会に適応していきます。すなわち強くたくましく生き抜く為には「他人をいじめる」位の勢いがないと社会か
らはじきとばされてしまう可能性は十分あるのです。しかしそれでは社会の安定は望めないでしょう。逆から考える
と幼い時に「いじめ、いじめられ」を体験した人達が社会を構成していくから不安定な社会が出来てしまうのだ、とい
う事でもあります。すなわち学校時代に十分「いじめ」のない生活を誰もが経験する事が出来れば「縦社会」でも社
会をそこそこ安定させる事は可能ではないか、という事です。又「子供は本来残酷」というのは決してあてはまりま
せん。真実をしっかり見極める力を持っていれば、子供が残酷になるにはそれなりの事情がある事を理解出来ると
思います。その意味で学校という将来社会を構成していく人材を集める所での子供の扱いが将来の社会を決定付
けるくらいの重要な場でもあるのです。言い直すなら現在の社会現象を分析すれば例えば20代の人達の行動を
分析すれば彼等が小学校時代、又は中学時代どんな扱いを受けてきたのかを推測する事は可能です。さらにそこ
から今学校はどんな状態になっているか、理解が可能なのです。話が少しそれましたが現在社会全般に広がって
いる最も強烈な「抑止力を弱める合理化」は
「いじめられる方にも問題がある」
というものです。そもそも問題のない人間なんていないのですから「真偽」を論議したら「そうだよな」となるかも知れま
せんが、ここでの本質的問題は「いじめ」をなくすという話ですので「抑止力を弱める合理化」は一部の真実があった
としても承認すべきではないという事です。これとほとんど同じ合理化が犯罪にも時々使われています。すなわち「被
害者にも問題がある」という話を良く聞きますが、それは犯罪に対する抑止力を弱める効果があるんだという事を認
識してください。アメリカやヨーロッパではほとんど常識に成っている為、むしろ犯罪を多発させている、と私は思って
います。犯罪者の立場で考えて見ましょう「被害者にも問題がある」という常識が一般的にコンセンサスを持っている
国では犯罪を起こす時の精神的負担が軽くなる事が理解出来ると思います。これは取り締まる側が「めんどくさく」な
っている為に起こってしまった合理化でしょう。すなわち「被害者」にも問題を押し付ければ、自分達の負担が少なく
なるという安直な感情から発生したと思われるのです。もし取り締まる側が被害者に負担を押し付けず、本気で犯
人を捕まえる努力をするような国なら犯罪もそれだけ少なくする事は可能だと思われます。
この様な考察から「いじめられる方にも問題がある」という合理化は教師がめんどくさくなって作り出したものであろう
と推測出来るのです。ですからこの様な合理化がおおっぴらに語られる様な学校があればその学校にはいじめは多
発するでしょう、よけいめんどくさくなるはずです。だからといってさらにめんどくさがって罰則で取り締まろうとすれば
いじめは影に隠れてさらに陰湿になる事も十分考えられます。ですからもし仮に「いじめられる方にも問題が」という
様な発言をする教師がいたら、子供の安全を考えずに自分の怠慢を合理化しているだけに過ぎないという意味です
から教育者としては不向きです。そんな場合はやはり即刻教育の場から立ち去ってもらいましょう。この様にして出
来るだけ「抑止力を弱める合理化」を排除して事件を少なくする事が出来たとしても「抑止力」だけでは問題は解決
は出来ないのです。やはり本質的問題の解決が必要でしょう。それには「いじめ」は何故起こるかの問題を理解しな
いといけないと思います。勿論問題はいじめられる側にあるのではありません。(まれに精神的病になって妄想症が
発病してしまっている被害者もなくはありませんがその場合は明らかに被害者の問題ですが、ここでは一般的な話を
していきます)
いじめる側の子供達は恐ろしい位親から精神的負担を負わされているのです。すなわち自分の苦し
みの発散の場として弱い者を見つけていじめることで精神的安定を図っているのです。ですから彼等には「セラピー」
が必要です。そしてそれだけがいじめに対する最良の対処法です。そしてそれ以外はありません。最近は学校内で
もセラピーが行なわれている所が多いと聞いていますが、私の聞いた範囲ではどちらかと言えば「いじめられている
子供のセラピー」が中心のようですが、それは本末転倒というべきでしょう。勿論PTSDになってしまったら放置して
置くわけには行きませんので、それなりの対処は必要です。しかし本当に必要なのは「いじめ側」のセラピーです。
勿論その為には家族セラピーも視野にいれる必要があるかも知れません。アミティやアリスミラー等を参考にして下
さい。勿論セラピスト又はカウンセラーは「ペーパーテストの未熟な職人」であってはなりません。彼等はスーパーエ
ゴを強化しようとしてかえって問題をこじらせてしまいます。大切なのは「人間の心」です。その他にも少年犯罪とか
青少年達の「不良行為」と呼ばれている「自己修復の為のエスの行動化」も小学校の時点で「いじめっ子」のセラピー
が成功すれば減少させる事は可能です。セラピーは幼い程有効なので、ぜひ小学校でのセラピーを実行してくださ
い。そうなれば社会での犯罪も減少させる事が可能だからです。その意味でも小学校の存在意義は大きなものだ
と言えるのです。言い直すと犯罪が増え社会が不安定になるのは小学校の教育に大きな原因がある、とも言える
と思います家庭教育の不備を小学校が補う位の事がなければならないと思います。それは決して「芸を仕込む」とい
う事ではない事は当然のことです。家庭で壊してしまった子供の心を修復するという意味です。

今まで出てきた
「教育者としては不適格とおもわれる教師像」
は私の見る限りでは
「ペーパーテストの未熟な職人」
と見えます。すなわち教員採用に「ペーパーテスト」が使用されている為に「未熟な職人」が増えてしまったのです。
彼等は勿論「性犯罪」を起こしかねない危険を含んでいますので、事件が起こる前に教育現場から排除しておかな
いと結局社会をどんどん不安定にしてしまいます。彼等は外観を作るのに天才的才能を発揮しますから採用時に
発見する事は難しいかも知れません。しかし半年も経てば彼等の言動から見破る事は不可能ではありません。
そうやって先ず子供達の安全を確保して初めて「集団教育」について議論を進める事が出来ます。

近年精神的病に対する認識がかなり進んで来ています。そしてその原因は幼少時の子供の扱われ方にある、と
いう事がほぼ確定しています。勿論それに異議をとなえる医者もいなくはありません。精神科医のなかから「未熟な
ペーパーテストの職人」を排除することが出来れば多分ほとんどの精神科医も「幼少時のトラウマ説」を支持するで
しょう。これはもう少し医学界そのものが変化しない限り先の事になりそうです。しかし私は幼少時の取り扱われかた
にその原因があると思っています。そしてかなり多くの精神科医もトラウマ説に傾いてきています。アリスミラーも精
神的病の予防という観点から幼少時の子供の扱い方に警告を発しているのです。そして世界的に
「子供の人権を守る」
運動がかなり盛んに行なわれる様になりました。これは決して「子供が可愛そうだから」といった単純な問題では
ありません。勿論その様な情緒的部分もありますが、本質的問題はあくまでも「精神的病の予防」です。一旦発病
してしまうと、それを治す事はとんでもなく大変な事なのです。症状にもよりますが一生薬を手放せないという状況に
もなりかねません。仕事が出来ない人も沢山います。モートリアムと半分軽視されている青年達もほぼ精神的病の
寸前であるとも思われるのです。又その治療にあたる人達も沢山の時間と労力を必要とします。そして現在ではそ
れなりにかなりの税金も投入されている事も事実です。それは社会的に大きな損失であるという意味でもあります。
そのような事情から「子育て」のノウハウ書には精神科からの情報がかなり盛り込まれるようになりましたその為近
年精神的に「健全な子供達」も数を増やしはじめました。しかし私の見る限りでは現在の小学校では「精神的に健全
な子供達」を受け入れる様には発展していないようです。旧態然とした「良い子」を作る教育だけに限定しているよう
でもあります。学校の関係者は真剣に「子供の人権を守る」とはどういう事なのか考えて貰いたいのです。端的にい
えば「子供に芸を仕込むな」という事です。勿論巾広い意味での「芸」です。それは「お行儀」も当然含まれます。芸
をしこまれたチンパンジーを思い出して下さい。人間が凶暴に成らない為にも是非必要な事です。近年良く学級崩
壊という言葉を耳にします。大勢の特性の違った子供達を集めたのですから、あって当然の事です。それを恫喝で
みかけ上「学級崩壊はない」という状況にしてしまっては「子供の人権」を守る事は出来ません。「ペーパーテストの
未熟な職人」にはそれ以外の方法を思いつく事は不可能です。何故なら自分がそうされて来たからです。
しかし教師の中には子供達との「信頼関係」を構築して正しく対処している教師も存在しています。すなわち「子供
達の感情」を受け入れそれをベースに子供達に「受け入れられている」教師が確実に存在しているのです。そうや
って「学級崩壊」は乗り越える事の出来る問題です。そしてそれこそが「教育」の基本でなくてはなりません。しか
し一方「ペーパーテストの未熟な職人」は強い「嫉妬心」を持って居る為「子供の目線」で考えられる「同僚」に嫉妬
の目を向けるであろう事は十分考えられる事です。彼等は他人の評価を独占したいのです。その為「子供のご機
嫌なんかとっちゃって」とか服装、態度等の細かいことを材料に様々な嫌がらせをしてくる可能性は排除しきれませ
ん。その為「子供の目線で考えられる教師」の方が居たたまれなくて、教育現場を離れてしまう方が多いのではな
いかとも考えられます。そうなれば学校の中には「ペーパーテストの未熟な職人」が残り理想とは反対の形態に
なってしまうでしょう。それは彼等がそうされた様に「ペーパーテスト」だけで子供達を評価しててしまう場になって
しまいます。それは小学校に入るまでは健全に育てられた子供が小学校に入った「ばっかりに」不健康にされて
しまうかもしれない事を意味します。近年「登校拒否」という現象が多く見られるのも、この様な状態に学校がなっ
てきている為と私は観測します。「登校拒否」を単なる「なまけ心」としか見ることの出来ない人達には遠く理解の
及ばない事かも知れませんが「登校拒否」が「身体症状」で登校が不可能になっている現実を見れば、明らかに
「学校の問題」です。すなわち健全ではあるが精神がまだ未発達な子供達をスポイルするに十分な状況が現在
の「学校」には存在しているに違いないと結論づけざるを得ません。

学校の基本的使命は「学問の伝授」でしょう、しかし「ペーパーテスト」では学問の伝授は不可能です。むしろペー
パーテストはいらない位です。試験前に丸暗記して試験が終わると一週間もしないうちに綺麗さっぱり忘れてしまう
それでは学問は伝授されたとはいえません。それは子供の問題ではなく教育する方すなわち教師の問題です。
現実に現在の大学生の2/3は分数の計算が出来ません。これは小学校で習ってきている問題ですから小学校の
教育に重大な問題があったとみなすべきでしょう。個人の問題にしては数が多すぎませんか?現在の教師達が
いかに「学問の伝授」に不熱心か、又は「学問の伝授」に不向きか、という意味ではないでしょうか?最近ではそん
な現実に直面して「学問の伝授」という学校の本質的な使命から目をそらして「社会性を身につける為」と学校の
存在理由を説明する人達も増えてきていますが、それにしては「社会不適応」な子供達が増えてきてはいません
か?もともと先生という「権力」に従順になりなさい、という教育ではそれは「縦社会の社会性」という事でしょう。人
格を無視した教育と言わざるをえません。それでは学校の存在意義とは何なのでしょう。現在は一部のペーパーテ
ストの職人を作り出す為に多くの子供達をスケープゴードにしている場所としか見えてこないのです。はたまた子育
ての重荷から親を解放する為の託児所なのでしょうか?学校とか教育の本質を見極め「ペーパーテストの未熟な
職人」を排除して「健全な学校」が出来る事を切に望むものです。

勿論「ペーパーテストの未熟な職人」は悪者だという意味ではありません。ですから私は彼等の悪口を言っている
わけでもありません。基本的に「善悪」を抜いて考察しているに過ぎないのです。彼等とて両親から誠意ある取り
扱いを受けてこなかったし周囲の大人達も「縦社会の常識」を振り回し彼等を傷つけ続けてきたわけなので、彼等
のエスが行動化した場合周囲に子供達がいたのでは子供達への被害が大きくなるだろうという意味です。ですか
ら彼等と子供達は接触させないようにしないと化学反応が起こってしまうという事を言っているのです。そして彼等と
て未熟とはいえそこそこの「知識」を持っているのですから、それを足場に優越感から自慢へと転換してエゴを成長
させる事が出来れば劣等感もしだいに消滅して健全になりうるという希望がないわけではありません。とにかくそれ
までは他人の子供と接触しないようにした方が社会を安定させる為に好ましいという意味です。とにかく精神的に
まだ未発達な子供達からペーパーテストの未熟な職人を切り離す事に成功しさえすれば少年法を改正しなくとも
少年犯罪は目に見えて減っていくはずです。勿論登校拒否を含む学校内に存在している種々の問題もなんなく
解決していくでしょう。それは社会が安定を取り戻すという意味でもあります。
「悪者ではない悪者にしないと言いながら結局悪者にしているようにしか見えないんだけど」
と感じる人も多数いるかもしれません。
勿論「ペーパーテストの未熟な職人」が社会を不安定にしている大きな要素であるには変わりはありませんが、彼等
を悪者とする事ははっきり言って「間違え」です。従来の問題解決の「やりかた」は問題が起こってから「悪者」を探し
出し「悪者」を強制的に排除又は「矯正」するやり方でした。そしていままで「その方法」しか無いかの様に「思わされ
て」来た為どうしても「善悪」で物を見てしまう傾向にあります。しかし「善悪の価値観」は人によって千差万別です
だから結局結論は「力のある者」=「善」、「力の無い者」=「悪」になってしまう傾向にあったのです。これでは問題
の本質的解決にはならないので、同じ事が繰り返されてしまうのです。ですから「脱力ずく」はまず問題の根本を冷静
に見極める為に「現象の分析」が先ず優先されるのです。そしてゆっくり本質の部分を「修正」していくしか方法はあり
ません。その為には「善悪の判断」そのものが分析を滞らせてしまいますので対立構造をできるだけ排除してくださ
い。そこには「どうすれば良い」というノウハウはありません、個々人がそれぞれに観察や思考をめぐらせ自分の立
場から「問題解決の方策」を模索していく以外に方法はありません。私は私の立場からの意見ですので100%正し
いという事はありえません。しかし基本はあくまでも「善悪」を作らない、という事です。



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