職人作り |
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どうしても現代の人達が「厳しく育てる」事にこだわりを持ってしまうのはやはり職人の存在が大きいのではと思いま す。すなわち親方と呼ばれる指導者から厳しく時には肉体的攻撃を受けながらじっとこらえて修行をして超人的技や 技術、技能を身に付けた人達の事です。だから「きびしいしつけ」をすれば超人的な能力を発揮できると勘違いしてし まうのです。しかし現実は「必ずしも」誰もが超人的能力を発揮できるというものではありません。失敗したときの代償 はとても大きな物だと思います。しかし実際にはその様な人達は表面に現れません。そこで表面からしか見れない人 達は誤った判断をしてしまうのだと思います。この方法で超人的能力を開花出来るのは元々それに適した才能が必 要でもあるのです。そしてなにより 指導者が十分その技能や技術に精通 してなければなりません。もし指導者が不十分な理解力で「厳しいしつけ」をしてしまった時はほとんど失敗するでしょ う。もしかしたら弟子を廃人にしてしまう事も十分考えられます。すなわちこの方法はとてもリスクの大きな方法だとい う事です。そして超人的能力を持ったとしても「その事」に関しては超人的でも他の事にはまったく無能でもあるので す。勿論自我喪失させられていますから伝統を頑なに守るには向いていますが、創造力が欠落してしまうのが普通 です。このような人達はちょうど科学技術の様なもので為政者にとってとても都合の良い者でもあるのです。ですから 為政者はかれらを誉めそやし誰もがそこへ向かう事を推奨します。勿論報酬もそれなりに与える事で民衆の目標を そちらに向けることになります。すなわち為政者にとっては失敗した人がどんなに沢山居ようとなんの関心もないわ けです。彼等の技術技能を利用出来ればそれでいいのです。勿論超人的な能力を身に付けた職人は「他人の感 情」(親の感情)と「自分の感情」がたまたま一致していたので「優越感」が「自慢」に変化する事も稀ではありません。 そうなれば創造力を兼ね備えた職人にもなれると同時に彼等が為政者の「欺瞞」に気付く事もなくはありませんが 「社会的規範」なる縦社会維持の為の常識を十分叩き込まれているので「楯突く」所まではいかないかも知れませ ん。また十分自分に自慢があれば「その必要」がないからでもあります。しかし大部分の人達は「優越感」の所で止 まってしまうかも知れません。この「職人」という言葉を広い現象に当てはめて見ると、かなり沢山の事が見えてくる と思います。すなわち 「一つの目標に向かう以外の欲求はすべて恫喝で閉ざし 人間を一つの目標だけに限定して作り上げていく工程」 を 「職人作り」 と広義に定義すると社会のあらゆる所に適用可能です。現在でもスパルタが結構幅を利かせているスポーツの分野 を見て見ましょう。現在のスポーツという物は多分大昔の「軍事訓練」から生まれたものではないかと私は推測しま す。だからスパルタ方式が適合するのではないでしょうか?しかし同じ訓練、同じ練習メニューをしたからといって必 ず同じ超人が出来るわけではないという事は誰もが知っている事です。では同じ様な訓練で一流になれなかった人 達を見て行きましょう。彼等は一流になれなかったのですから「才能」がなかったのです。という事は彼等は他の分 野の才能があったかも知れない可能性が十分あります。「才能」と「好き」はとても密接に関係しています。ですから 一流に成るには「好き」が必ず必要ですしかし一流になれなかった人ももしかしたら「好き」だったかも知れません。 しかし才能がなかったとするとその「好き」は自分の感情ではなく「他人の感情」の可能性がとても大きいのです。 この事は個人的にも悲劇ですが社会的損失も大きいのではと思います。すなわちその人達は他の分野に「自分自 身の好き」を感じてそこを目指せば才能を十分発揮出来たかもしれないからです。又一流に成れなかった人達でも ある位置まで来た時にある種の自分に対する納得が出来れば、他の職種に転向が可能で、そこに自分の才能を見 出す事が出来るかもしれません。そういう人達は問題ないかも知れませんが、その分野での「一流」以外は許され なかった人達すなわち転向が不可能な人達が難しい問題になるように思います。すなわち訓練の途上で「もうやり たくない」という強い感情が出てきてもその感情を指導者の恫喝で抑え込まれ「我慢」を強制されその為「身体化」 を含むあらゆる障害が出てきているにもかかわらず「血の滲む様な努力」をしたのに、一流になれなかった場合、 どうしても「劣等感」が生まれてしまうのです。この「劣等感」は一流に対する強い「ねたみ」になるでしょう。そして 「一流になって周囲から拍手喝采をあびて優越感を味わえる」はずの御褒美がなかったわけですから、強い「不満」 を内在する事になります。この様な人達はかなり過酷な訓練をしてきたわけですから一流にはなれなくっても、そこ そこの技術や技能は持っているはずです。ですから彼等が「指導者」になる可能性はとても大きいと思います。しか し彼等が潜在意識に抱え込んだ「劣等感」と「不満」は残酷な指導になってしまう可能性を秘めているのです。すな わち「努力」「精進」「忍耐」を合理化に使っていじめを正当化して指導される人達のストレスを増大するだけに終わ ってしまう可能性が大きいのです。しかも一流に対する「ねたみ」を潜在意識に持っている為自分が指導している 者の中に「才能のある者」がいると、その者の才能を無意識にねたみ才能の芽をつぶしてしまう事も十分考えられ るのです。以上の様な考察から、厳しい訓練を強制する 「職人作りは思っている以上に効率が悪い」 と結論づける事が可能です。さらに効率が悪いばかりでなく、多くの人の人生を狂わしてしまう可能性も大きいと言 わざるをえません。それは「不満」や「ねたみ」を抱えてしまった人達を大量に作り出す事になり 社会を不安定にする という意味でもあります。一方子供達にあらゆる分野の選択肢を提示して彼等自身の選択を優先すれば人間はとて も広い違った特性を持っているので、適材適所につく事が可能になると思われるのです。そうなればそれらの分野に 「精進、忍耐、努力」を強制しなくても結構沢山の超人が出来る可能性が十分考えられるのです。言い直すと現在の 様な職人つくりは百害あっても一利くらいしかないと言えるのです。 次に学問分野を見て見ましょう。ここにも職人作りが見えてきます。但しここでの職人作りはどうも「学問の職人」では なさそうです。というより「学問」というものは観察力、洞察力、創造性等本来エゴが持っている能力を必要とする分野 ですから、もともと「職人」の必要性はないばかりか「職人」では学問発展には向いていないのです。しかしこの分野 に進むには何故か「ペーパーテスト」が選抜に使われています。本来テストとか試験というのは、その名の通り試験 をする側が試しにやってみる物で、試験される側の問題ではないはすです。すなわち指導者が自分の指導方法にな んらかの欠陥がなかったか?生徒の特性に合わせた指導であったのか?といった指導方法を点検する為にその成 果を確認する為のものであるはずなのです。それがいつの頃からか「人間に優劣」をつける道具になってしまいまし た。しかもそれが選抜に使われる様になってしまい「学問」とは程遠い「ペーパーテストの職人」作りに変化してしまっ た様です。ペーパーテストの職人は既存の知識を大量に頭の中に蓄積しているものの必ずしも「本人の興味のある もの」ではないので知識同士を有機的に繋げ新しい結論を導き出すという「学問」が本来要求しているものとは程遠 いものになってしまいます。すなわち 「知識のコラージュ」 状態といえるのです。しかし勿論自分に向いていた場合超人的「知識量」から自慢を取り戻し、自我が成長して一流 の学者になれる事は不可能な事ではありません。しかしこの分野の選抜は必ずしも100%を要求していません70 〜80%くらいあればなんとか選抜に残れるので、必ずしも「向いている」必要がなく「不向き」なのにも関わらず大量 の「ペーパーテストの職人」が選ばれる事になるでしょう。選ばれてしまった方も悲劇的です。すなわち自分に才能が なく好きになれない分野から抜け出す事が出来なくなってしまうからです。ですから彼等が代替欲求を持ってしまう のは無理からぬことでもあるのです。この様に不向きなのに職人にさせられてしまった職人を「未熟な職人」と呼び ましょう。彼等は恐ろしいほどの「不満」と「劣等感」を内在して「上に従順、下に残酷」な人生を送る事を余儀なくされ てしまいます。更に彼等は性欲が異常に昂進してしまうので性犯罪(レイプや少女買春、等)を起こしやすく、女性が 安心出来る社会が作りにくくなってしまいます。そして現在では学問の分野だけではなくほとんどの分野での選抜に 「ペーパーテスト」が使用されている為に 「ペーパーテストの未熟な職人」 が「勝組み」に残る可能性が大きく、縦社会の頂点付近を彼等が占めて行く事になるでしょう。彼等には「観察力」 「思考力」「理解力」「創造力」といった物はなく(それが劣等感になっています)それを埋め合わせるためには沢山の マニュアルが必要です。すなわち「知識のコラージュ」だけでどうにか表面をつくろっているだけです。それをごまかす 為には威張って「怒ったり」「脅したり」する事がどうしても必要になるだけの話で、それでは職人作りにもなりません。 彼等が権威権力で他人を「沈黙」させる事が出来て、自分の「未熟さ」を知られる事がないと実感してしまうと(実際に はほとんどの人がわかっているのですが指摘すると怒り出すので黙っているだけです(沈黙の壁ですね))自分に対 する御褒美を含め「不正」に走ってしまうのです。彼等は証拠さえ残さなければ人に知られる事はないと思っています がほとんどの人は証拠がなくても漠然と「あやしい」と思っているでしょう。そしてこのような沈黙の壁は社会が膠着し 腐敗して行く事を意味しています。 勝組みについて解析してきましたが実際には勝組みの数倍負け組が存在するでしょう。勝組みでさえ「不満」と「劣等 感」を持ってしまうのですから、負け組みはもっと精神的負担は大きくなるでしょう。勿論「負けを認めない」という合理 化で出来るだけ精神的負担を軽くするとは思いますが、かなり苦しい状態に追い込まれるであろう事は想像にかたく ありません。その苦しみを解消する為に「未熟な職人」はほとんど指導者的立場を求めます。そして自分より劣って いると実感出来る人達を集め精神的負担を彼等に負わせようとします。しかしいくら彼等に精神的負担を負わせよう とも決して自分自身の精神的負担を軽減する事は出来せん。彼等が自分自身の苦しみの原因を理解してそれを解 決しない限りそこから抜け出す事は不可能でしょう。そしてそれは同じような「未熟な職人」を作り続ける結果になって しまいます。すなわち「我慢とか忍耐する事で超人的技を習得する事が出来る」という現在の社会に横たわる常識は 自分の苦しみから来る行動を合理化する為の「迷信」に過ぎないのだという事をしっかり認識しない限り、延々と続く 「苦しみの連鎖」 だという事です。 ここまで考えてくると「何処から勝組みで何処から負け組みなのか?」という疑問が沸いてきます。いくら「権力」や 「財力」を持っても「不満」や「劣等感」から開放されないのであれば「勝組み」といえども「勝っていない」様な気がし ます。まして「不正」で財力や権力を握ったとしても、それは「ないよりはまし」程度の問題ではないでしょうか?とい う事は「財力」や「権力」を持たなくても「優越感」を「自慢」に変化出来た人だけが「勝組み」の様にも思えます。だっ たら最初から「自我」を成長させ「競争」に参加せず「自慢」をしっかり身につけた方がいいような気がするのです。 勿論それは「勝ち」でも「負け」でもないのですが。 ここまでをまとめてみますと。「超人的技」というのはもともと潜在的能力がなければどんな事をしても作り出す事が 出来ないという事は理解出来ると思います。であればなにも「忍耐」とか「精進」を強制しなくても個人が「自分の考 えと自分なりのやり方で没頭」すれば「超人的技」を習得する事は可能だという事です。勿論「個人の素質」と言う 物は千差万別で親や周囲の思惑とは違うのが普通だともいえます。ですから「自分自身の感情」を大切にすれば必 ず自分に適合した分野での天才的才能を発揮出来るという事です。そしてそこで「優越感」ではない誰との比較も必 要としない「自慢」が出来れば精神的に安定して「他者に対するおもいやり」も自然に身につくでしょう。勿論「優越感」 が「悪い事」といっているわけではありません。ただし現在の様に人間に「上下優劣」をつける競争社会の縦社会で は「人間の評価」に「ペーパーテスト」が多様される為にあまり多くを考える事の出来ない人達は縦社会の上の方に 「安心」があるような錯覚を持たされているので、どうしてもペーパーテストの職人を作ろうとしてしまいますが実際に は選抜されても、其処には「安心」はなく、ましてや選抜に落ちた場合とんでもない苦しみを抱え込んでしまう事にな るという事です。 「え〜っ!??でも社会で生活して行く為にはお金が必要じゃないの〜っ?」 「それには、働いて稼がなけりゃならないんじゃないの〜っ?」 それはその通りです。しかし「努力」は必要ないと言っているのです。勿論成育史の中で多くの精神的負担を負わさ れてしまった場合、自分の力だけでは「何も出来なくなっている」場合が多いので、いきなりは無理かも知れません。 とりあえずは「多少の努力」は必要かも知れませんが、親や他人の思惑を無視して「自分自身」と言うものをしっかり 把握して「自我」を成長させて「自慢」を作れるようなら、自分が「没頭できる」分野は必ず存在します。そこで自分が 生活出来る位の「お金」は獲得する事が出来るのです。もっとも「努力」も「精進」もしないで「自分の好きな事で獲得 した才能」は現在社会では「なんとなくお金を取るのにうしろめたいもの」を感じてしまう為自我喪失している人達に 利用されたり騙されたりするかも知れませんので「大金を掴む」というまでは行かないかも知れませんが「とりあえず 生活出来る位のお金」と「心の安定」は必ず獲得する事が出来ます。 「じゃぁ私は歌手になりたいと思って居るんだけど、それを目指せばいいわけ!(^^)」 ちょっと待って下さい。そこに貴方の才能が本当にあるのか?は即断出来ません。サッカーとか野球とか現在沢山 の報酬が得られる可能性のある分野は多くの子供達が目指しますが、それは本当に「自分の好き」なのかどうかは 即断出来ないのです。多くの精神的負担をおわされてしまった子供達はどうしても親に対して「大金を掴んで親に目 に物見せてやる」という前意識を持ってしまいますので自分の好きが隠れてしまう場合が多いのです。その様な 「前意識」がないかどうか点検してからにして下さい。勿論反対はしていません。自分で納得出来るまではやりたいだ けはやって見ましょう。とりあえず「行動出来る」というのが大事です。その場合「怖い指導者」は避けた方が無難です 自分の才能をつぶされる可能性が大きいからです。勿論「やさしさ」を装った詐欺師にも注意してください。「自分の やりたい方法」でやるのがベストです。良く「我流」は駄目だという人がいますが無視してください。「個性的」である方 が「そこここにある」様なまとまりよりははるかに魅力的です。勿論その為には個人の指導にゆだねるより自分のア ンテナを張り巡らし多くの情報を得ていく方が良いと思われます。「自分の好きな事を自分の好きなやり方で」が基本 です。 「でも私はブスだから駄目かも(´へ`)」 いやいや、美人かどうかは顔のつくりの問題ではありません。大切なのは「好印象」だと思います。そしてなにより 他人との比較ではない「自慢」をしっかり得る事が出来ると顔はとても明るくなり自然に「好印象」になってしまいま す。だから外見はまったく心配する必要はありません。 次へ進む |
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