エゴを育てる |
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「自我の確立」という事は良く言われる事です。しかしそれは言い直すと本来は「エゴの回復」という事なのです。 アイデンティティという言葉があります。精神科医のE.H.エリクソンという人が提唱した精神科の用語ですが、現在 では何故か「身分証明」という意味に使われています。アイデンティティの日本語訳は「自我同一性」です。「同一性」 という言葉でピンッときた方も居られるかもしれません、そうなのです「恐怖へ同一化」するというのは言い直すと 「他者同一性」です。すなわち自我同一性というのは自分自身の感情に同一化することを意味するのです。それは 恐怖で他人の感情に同一化していたものを「自分自身」に回帰させる事ですから、ある意味とても困難な問題でも あるのです。エリクソンさんは精神科医ですから当然沢山の精神的病の患者を診てきている筈ですから、彼らが等し く「他者へ同一化」しているのを見ていたのでしょう。しかし彼の趣旨はねじまげられ「身分証明」という意味にされて しまいました。何故でしょう?それは権威筋がエゴを理解出来なかったように「自我に同一化」するという意味をまっ たく理解出来なかったからだと思われます。「権威筋」というのは「権威」というもので自分を守っている人達すなわち 臆病な人達が反動形成で「強がっている」人達の事です。ですから間違えなく「自我喪失」しています。エゴがないの ですから、どんなに説明しても「自我に同一化する」という意味を理解出来るはずがありません。彼らが「エゴ」を認 めるという事は「死」を意味する事でもあるのです。精神的病の人は一様に「他者へ同一化」しています。そして権威 筋も一様に「他者へ同一化」しています。この共通点はなんでしょう?実はアメリカのテレンス・リアルさんという セラピストが 「かくされたうつ病」 という概念を発表しています。すなわち権威筋というのも実は「かくされたうつ病」だという事です彼らは人間に上下 優劣をつけ弱者を見下ろす事でかろうじて正常を保っているだけにすぎない、という事なのです。もし彼等が何らか の事情で権威を失った時確実に「発病」します。勿論「精神的病」に差別感を持っている場合は自殺を選ぶ可能性は とても大きいのです。すなわちとても心が不安定だという意味でもあるのです。すなわち「威張っている人達」というの はとてももろいので、多くの人達は彼等を「そっとしておく」と言う方法で平安を維持しようとしているのです。そこに 「沈黙の壁」が出来る大きな要因があるのでもあります。ちょうど「裸の王様」が「裸」である事を教えてしまったら王様 が大変恥をかくだろうと思って黙っているのによく似ています。 話がかなり飛んでしまいました。話を元にもどしますと、良く世間で「自我の確立」と言っているものは縦社会の「自発 性」の事を言っているようでもあります。すなわち「親のいう事を素直に聞く子供達」がいつまでも親や目上にいちいち お伺いを立てるのではなく「目上の人間がどう命令するか位は自分で判断しろ!」という意味を持っています。 すなわちいちいち命令を出していたのではいつ責任が自分にかかってくるか解らないので「一刻も早く自分で親や 目上の人間が納得するような判断をして責任をとれる様になれ!」という意味なのです。 昔ラストエンペラーという映画を見ましたが、その中で西太后が皇帝(自分の子供)の嫁選びの時何人かの候補を 並べて「自分の好きな娘を選びなさい」といって皇帝が本当に好きな娘を選びそうになると咳払いをして結局西太后 が推奨している娘を選ばざるをえなくなった。というシーンがありました。多分作者の創作だとは思いますが。これと 良く似た事は、多くの家庭で良くあることだと思います。「親の意見」を「自主的に」選択し「僕は本当にこれが良い と思っているんだ、これが本当の僕の気持ちだよ」という事で親は「自我が確立した」と安心するのでしょう。勿論 子供はそんな事を繰り返しているうちに、本当に「親の好き嫌い(感情)」があたかも「自分の好き嫌い(感情)」の様 に錯覚してしまうのです。これでなんら問題が起こらなければ、それはそれでいいのですが、エゴの欲求(自分自身 の好き嫌い)はそれでは到底満足できるはずはないのです。自分が選択してしまう物と自分が本当に選択したい ものの違いに「葛藤」が起こるのです。この葛藤は親の立場から見れば「エゴ」のせいです。「エゴさえ無くせば、 苦しい事なんかない」と思ってしまうのは当然といえば当然ですが。それは魂のない抜け殻でロボットの様に唯々 諾々と他人に従って生きていきなさい、と言うのと同じ事だから、本末転倒だと思います。こうやって「他人の感情」 を「自分の感情」と錯覚させられたままだと、とても苦しいので「他人」にも同じ事を押し付ける事で苦しみを緩和して しまうのです。勿論感情の押し付けですから、どうしてもそれは「自分より弱い物」の存在が必要になってくるという 意味でもあるのです。ここに人間が上下優劣をつけなければいられない「縦社会の必然性」が存在しているのです。 そしてこれこそが「連鎖」の構図であり「いじめ」の構図でもあるのです。そして 「いじめ」が子に向いた時それが「虐待」です。 すなわち縦社会であるかぎり「いじめ」や「虐待」は不可欠なものとも言えるでしょう。この事からも「自分の価値観を 押し付ける人」=「自我喪失している人」という判断ができると思います。ですから本当の自分の好き嫌い(エゴ)で 自分の行動を決定出来れば、葛藤という物もなく失敗してもそれを受け入れる事ができるのです。そしてそれを私は 「自我の確立」と呼んでいます。これでは同じ様に「自我の確立」という言葉を使ってもまったく内容が違ってしまい ます。話のすれ違いが生じるわけです。 エゴを回復するにはスーパーエゴがエゴを抑圧しているのですからスーパーエゴすなわち「・・・しなければならない」 「・・・してはならない」という感情を理論的にはなくせば良い事になります。基本的にはそうなのですがエゴが育って いない場合「善悪」をまったく取り払ってしまうとエスだけになって、大混乱になってしまいます。それは社会でも「抑止 力」をなくすと大混乱が起こるのと良く似ています。ですから 始めの作業は「エゴを育てる」という所 から始めなければならないでしょう。まずそれにはそれぞれがどこまでエゴが育っているか、確認しなければならない かもしれません。嬰児でエゴを止められてしまうと前の王様の実験の様に生き長らえませんから嬰児で止まっている という事はないかも知れません。しかし最近では医学が進歩しているので、あるいは生き長らえている人もいるかも 知れません。次に乳児でエゴの成長が止められている人は多分沢山いると思われます。この時期をフロイトは口唇 期と命名しました。そして口唇期の感情(欲求)が満たされずに感情の固着が起こっている事を「口唇期固着」と呼び ます。「口唇期的欲求」というのは「操縦欲求」「独占欲」「性急さ」「残虐性」などが上げられていますが。乳児が死を 予感して母親に向けられていた欲求が満たされていなかった事を意味します。次に幼児期でエゴの成長が止められ ている場合、この時期をフロイトは「肛門期」と分類しています。この時期は「分離個体化」の時期とも位置付けられて いて第一期反抗期とも呼ばれています。この時期まで無事エゴを育てて貰えれば、後は一人でもエゴを育てていく事 が可能になるのです。ですから自我喪失というのは「幼児期」の「自分でやりたい」という感情を抑制されてしまったと 言えると思います。勿論個人差もあるし色々な場合分けが考えられますので、典型的なものがあるわけではなくそれ ぞれに事情は違って来ると思われます。しかし「口唇期」に固着してしまうと絶えず「死の予感」を抱えてしまうので他 人のこと等考慮に入れる余裕がなくなってしまいます。すなわち私は「不正の出来る自我喪失」を口唇期固着と考え ています。そして「不正の出来ない自我喪失」は「口唇期」にはあまり固着せず(それなりに丁寧に扱われてきた) 「肛門期固着」以後と見ています。その後「児童期」になりますが。フロイトは「性器期」と命名しましたが現在では 「エディプス期」というのが一般的です。この時期は異性親に恋をする時期といわれ「おもいやり」が育つ時期でもあ るのです。児童の「思いやりの心」を大切にしてあげる事が出来れば(ちょっと大人から見ると児童の思いやりはわ かりずらい所があります、さらにこの時点ですでに恐怖への同一化がなされている場合「我慢」との区別がつきにく いものでもあります)健全に育っていくでしょう。しかしこの後の「潜在期」と呼ばれる「学童期」には他人の関与が出 てくるので難しい所でもあります。「良い子」に見えると「問題ない」とおもわれがちですが、実はすでに「口唇期」や 「肛門期」に固着している場合があります。それぞれが自分はどこまでエゴが育っているのかを見当をつけて見て 下さい。このあたりの詳細は「子育て」という項目でもう一度お話します。 そしてそこでスーパーエゴの中で「エゴを抑圧している物」と「エスを抑圧している物」 の区別が必要になってくるのです。この判断は「スーパーエゴは恐怖」「エスは怒り」「エゴはどちらでもない自分の やりたいこと」すなわち「わがまま」と言う判定をすると良いと思います。すなわち簡単に言えば「我儘放題」すれば よいことになりますが。スーパーエゴは恐怖すなわち「強迫観念」に裏付けられていますから、結構したたかです。 すなわち自分の行動に「合理化」を作って正当化してしまうのです。わかりやすく言えば「見付かったら、こう言えば 良い」という言い訳を作ってしまうのです。「合理化」は恐怖から自動的に生じるものですから、スーパーエゴの管轄 です。ですからそうなってはスーパーエゴの支配下から抜け出す事は出来ません。しかし本当に楽しい事の場合 そういった「合理化」もすっ飛ぶくらい没頭出来ればエゴは成長出来るのです。ですから「没頭できる物」を見つけ る必要があります。楽しい事には個人差がありますので多分それがその人の本来の才能のある所だと思います。 人間の才能は多種多様ですが決して上下優劣はないのです。 勿論同じ「楽しい事」でも他人を傷付ける様な事は避けてください。それは「エスの感情」なのでかえって社会的制 裁を受けてエゴの成長にブレーキがかかってしまいます。実は社会的制裁だけでなく「エゴの悲しみ」も生じてしま うのです。「エゴ」を悲しませてしまっては元も子もありません。昔少年達が少女を監禁してかわるがわるに殴って 殺してしまった事件がありました。法廷での少年の証言は「こんなに殴っていたら死んでしまうと思っていたが、楽 しくって止められなかった」と言っていました。抑圧を受けていた者は他人を攻撃すると「快感」が生じる事がしばし ばあるのです。抑圧が非常に大きく個人の負担をはるかに超えてしまった時にはその快感は「性感」にまでなる事 すらあるのです。勿論肉体的攻撃だけではなく精神的攻撃も時に快感を生じます。他人の弱点とか弱っている所を 見つけて「責める」時、えもいわれぬ快感があるようです。しかしこれもエスの感情なので出来る事なら避けた方が 良いと思われます。勿論それとて「身体化」という難しい問題がなくはありませんが。 勿論「エス」は「スーパーエゴ」に対抗する怒りですからスーパーエゴを無くす効果はなくはありませんがしょせんは 「力ずく」ですから何処かにかならず歪が出てしまうのです。宮本武蔵は「殺人三昧」でエゴを回復した人かも知れま せんが殺された関係者に大きな憎しみを植え付けてしまったかも知れません。要するに「エス」でもエゴを回復する 可能性はなくはありませんが、自分が回復した分誰か他の人に大きな痛手を与えてしまう可能性が大きいのです。 戦地に赴くとそこでは「殺人」が合理化されるので、時に自己回復してしまう戦士もいなくはありません。勿論「命令 だから」という合理化を作っている人は回復出来ません。しかし自我が目覚め「なにかおかしい?」という疑問が生じ た人は「敵の感情」を理解する事まで出来て、パニックになる事もあります。勿論この場合も本人が回復した分相手 の負担は大きくなるわけで、けっして推奨出来るものではありません。ですからあくまでも「エゴ」の欲求を満たして 行く事が重要だと思います。子供時代に「しょうもない」「時間の無駄だ」「役にたたない」「一銭にもならない」「そん なもの失敗するに決まってる」等など親や大人から言われ拒絶され続けていた物を思い切ってやってみる。そして 没頭する事で自慢が生じて来るとエゴは確実に成長 していきます。勿論「自慢」と言っても他者との比較による物ではありません。「自分の中で満ち足りた感覚」「やりと げた爽快感」とでもいえるものです。そんな満足感を経験すると「俺にもこんな事が出来たんだ!」という自慢が生じ るのです。これも「自我喪失」している人達で「自分は問題ない」と思っている人達には全く理解不能でしょう。 一頃アメリカで「セルフエスティーム」という言葉が流行った事がありました。日本語に訳すと「自尊意識」とでも言いま しょうか。プライド(自尊心)という言葉があるにも関わらずわざわざ新しい言葉を提示したのはプライドとは別の物で ある事を強調したかったのではないかと推測出来ます。所がやはり「自我喪失」した権威筋から横槍が入ってしまい ました。(^^)彼等は「セルフエスティーム」を「優越感」としか理解できずに猛反対をしたのです。まぁ自我喪失してい るんだからしょうがないか。でも人類の大部分が自我喪失していますので、どうしても権威筋の意見に流されてしまう のですね。とても残念とは思いますが「必然」ですから、しかたありません。私が言っている「自慢」とはこの「セルフ エスティーム」とほとんど同じです。やはり精神的病に陥っている人達は「自分を大切にする」という意識が薄弱なの です。その為「自傷」を良く行なってしまいます。これには精神科医もセラピストもかなり手を焼いてしまうようです。 基本的には「受動的攻撃」ですから「自分をもっと大事にしろ!」ではなんの変化も起こりえません。そんな背景から 「セルフエスティーム」という言葉が出てきたのではないかと思います。「優越感」ではない「自分を尊重する感情」は 幼少時に親から「丸ごと認められる」すなわち「存在そのものを認められていた」実感がないとなかなか身につくもの ではないのです。でも「自慢」が出来ると、なんとかその代わりは出来るようです。すなわち 自分で自分を承認できる という意味です。勿論「自分で自分を承認しなければならない」ではありません。あくまでも自然に「自分を承認出 来る様になれる」過程が必要なのです。しかしここにも若干の問題があります。それは「とりこまれ不安」と「みすて られ不安」の問題なのですがちょっと長くなりそうなので後に回します。 現在では「自慢」という言葉にも「悪い事」というニュアンスが付随している様でもあります。やはり自慢な奴は上か ら見ると「やな奴」かも知れません。「自分で自分を承認」している奴も「上と同じ価値観」を持っていない限り扱い にくい相手でしょう。ですからこれはあくまでも縦社会の価値観以外のなにものでもありません。私も昔は「自慢」 は悪い事と思っていた一人です。今から思えば「思い込まされていた」と言う所でしょうか、しかしいつから、となる とそこまでは記憶にありません。そして45才の頃「精神分析」という学問に初めて出合って、自分でも「自己分析」 を始めたのでした。そしてあるとき「自分は自慢な奴なのではないか」と発見してしまいました。そしてなんとか 「自慢」をなくそうと考えたとたんに、膝がガクガク震え顔からは血の気が失せ、とんでもない世界に入ってしまい ました。2〜3日そんな状態で家に引き籠っていた時友人が訪ねてきて「どうしたっ!なにが起こったのだっ!まる で仙人みたいになってるよ!」といわれ「はっ」として我に帰ったのでした。そしてその時感じたのは「なんだ自慢 は悪い事ではないんだっ!」という事でした。そう思ったとたんに劇的に体調がよくなり以前以上に健康になりま ました。その後他人の行動からその人の潜在意識がある程度読める様になってから気付いたのですが、誰もが 「自慢」か又は「優越感」を必ず持っていて潜在意識に抑え込んで生きている、という事でした。すなわち 「自慢」とは人間が生きていく為に絶対的に必要な精神活動である ことを発見したのです。生命の根源といっても差し支えないでしょう。所が「自慢」が幼少時に否定されてしまった 人達もいる事に気付いたのですが、彼等は「自慢」の変わりに「優越感」で生きていたのです。「自慢」には他者 との比較は必要ありませんが「優越感」は必ず他者との比較が必要になるのです。でも競争というのは勝者が いれば必ず敗者がいる、一番があれば必ず一番ビリがいるという事で、公平に「優越感」を持つ事は不可能です。 その為に「劣等感」という物が生まれてしまうのです。この劣等感はエスを行動化させる原動力になります。すな わち「優越感」を求めて犯罪や不正を行なわせて社会を混乱させる事に快感を覚えてしまうのです。すなわち自分 が上にあがろうとするのではなく、上の者を引き摺り下ろす事で相対的自分の位置を上げようとしてしまうのです。 いわゆる「足をひっぱる」という現象です。いいなおすと自我喪失している人は「自慢」を知りませんので「優越感」 か「劣等感」が行動の根源になっているのです。勿論「不正」をする事に対する強い脅迫観念を持っていると「不正」 も出来ずに無力化してしまいます。とりあえず遠くを見るのを止めて、身の回りの自分より弱い人間だけを見る事で 「小さな優越感」で無気力無関心な生活にはいるのです。しかし勿論それで精神的に安定するわけはないので、 様々な所に「安定」を求める事になります。そして他者の欠点を見つけては「あげつらい」小さな「優越感」を確認しな がらかろうじて生きているという状態になってしまいます。勿論考察力とか洞察力とか人間が本来持っているであろ うあらゆる能力は「無能化」され権威や権力に従順な人間になるのです。それは親の意見を取り入れ自分の意見 にしているのと同じ様に権威権力の意見を自分に取り入れることで(上から下を見下ろす意見だから)自分の考察 力や洞察力のなさをカバーしているのです。彼等は権威の意見を全面的に賛成しているという事です。すなわちと てつもなく上の人は「自分達とは無縁な雲の上の人達」と判定する事で彼等との比較を止めてしまうのです。 「彼等は自分達とまったく別の人種、比較対照にならない」と、そうすれば劣等感が生じないからです。そういう人達 が「縦社会」を下から支えています。当然彼等は「上にたてつく」事を嫌います何故なら彼等がやっと手に入れた 「小さな優越感」が攻撃される危険を感じてしまうからなのです。勿論権威に楯つく者を感覚的に嫌います。それは 自分の意見というのも権威権力の「受け売り」で作られているからで、権威権力の否定はすなわち自分の否定に つながってしまうからです。そんな背景では私の意見も「権威に楯ついている」と感じると、猛烈な反発を覚えるでし ょう。私はけっして楯突いるわけでも悪口を言っているわけでもありません。「沈黙の壁」の向こう側を観察しているに すぎないのです。自我喪失をしていて権力を持っている人は「自慢」のある人を怖れている部分があります。「自分に ない、何か」を持っていると漠然と感じているのだと思われます。そしてそれが劣等感にもなっているのです。彼等が 必要以上に不正をしてでも富を追求するのはこの劣等感が原因です。どこまでいってもいつまで経ってもこの劣等感 は払拭されません。そんな現象を見て「人間の欲望には際限がない」と思う人もいるのでしょうがエゴが育っている 人は自分の生活が出来ればそれ以上は望まないのです。まぁ時にはエゴの育っている人も彼等の感受性が「可愛 そうな人」を助けたいと思う事による資金を欲しがる事はありますが。基本的には「足ることを知っている人達」でしょ う。すなわち必ずしも「人間の欲望には際限がない」と断言する事は出来ないのです。 そこで自我を成長させる為の最初の作業は 「自慢は悪い事ではない!」 という強い信念を持つ事から始めると良いのではと私は思っています。そしてそれに準じる位他人に影響が及びそ うもない「善悪の価値観」を少しずつ、薄紙をはぐ様に時間をかけて「なくしていく」事が出来るとエゴが行動出来る ようになり徐々に自我が育つのではと思います。そして自分を抑制していた「善悪の価値観」から開放させる事が 出来るとエスの必要性がなくなってしまいます。エスを悪い事とするのではなく「必要のないもの」に出来れば成功 です。すなわち「むやみやたらと腹が立つ」という状況から抜け出せるという意味です。本来「怒り」は自分に危害 を加えてきた物に対する動物の攻撃本能なのですが、それが自分とは関係ない所にも「怒り」が生じてしまうのは 「他人の感情」だからなのです。この「他人の感情」が「正義感」という合理化で行動化された時、様々な社会的問 題が発生してしまいます。すなわち「正義感」とはスーパーエゴに承認されたエスの事です。だから正義感の行動 化はエゴを悲しませる結果に終わってしまいます。具体的に言えば「正義感」で動いている時は「異様な興奮」に包 まれ、なにもかも忘れるのですが、終わったあとなんとも後味の悪い悲しみに変わってしまいます。それは 「他人を傷つけたくない」というエゴの願望がくじかれたからです。悪人といえども人間だからです。 私が「自慢こそが人間を動かす基本的感情」という事を発見した時(勿論安全が確保されてからです)頭を掠めたの はお釈迦様の「天上天下唯我独尊」という言葉です。もしかしたらお釈迦様は3000年も昔セルフエスティームを発 見していたのかも知れません。しかしお釈迦様の教えは300年くらい経ってからある王様が纏め上げ文書化したと 聞いています。しかし王様とは権力者ですから当然権力者に都合の良いように変形された可能性はとても大きいと 思います。それはその後仏教が権力におもねっている歴史を見るとますます可能性が高いと感じます。お釈迦様は 自分の教えが時と共に変形され最後には影も形もなく変えられてしまうと言っていたそうです。そのような状態を「末 法の時代」と呼ぶそうです。私はこの王様が文書化した時が最初の「教えの変形」だと思います。そういう前提の基 に推測すると「天上天下唯我独尊」と言うのはお釈迦様の基本的教えであった可能性が非常に高いのです。すなわ ち一人一人が誰かと比較するのではなく「自分は尊い存在である」と認識する事が大切な事であると教えていたの ではないかと思うのです。その為とても多くの民衆に支持され広く知れ渡ったのではないかと思われるのです。こ の人心を集めるという現象は為政者にとってたまらない魅力でもあるのです。そこに王様が目をつけたと考えるの が自然な流れの様に思います。しかし「天上天下唯我独尊」ばかりは教えの基本ですから無くすわけにいかない。 そこで思いついたのがお釈迦様を「尊敬すべき偉い人」に祭り上げ「お釈迦様だけが想う物」と意味を矮小化してし まったのではないかと考えられます。かなり無理やりの解釈ですがどうやら成功したみたいです。「尊敬」というの は個人の感情ですから基本的には強制するものではありませんすなわち「尊敬すべき者」と言うのは存在しないの です。それは釈迦もキリストも神さえも「尊敬しなければならない」ではなく自分の感情で尊敬出来たら尊敬すれば 良いだけの話です。しかし王様は万民に尊敬して貰いたいのです、それが「尊敬の強制」が生じるゆえんです。 その道具として宗教は良く使われています。しかし権力におもねった宗教が結構問題を起こしているのは歴史の中 にしばしば登場します。特に「戦いの合理化」に使われ人類が血で血を洗う悲惨な戦争に駆り立ててしまうのです。 すなわち 「天上天下唯我独尊」も「セルフエスティーム」も「自慢」も同じ く「自我を育てる物」と私は位置付けます。言い直すと 「自分にとって自分自身というものが、この世で一番大事」 という事であり、 自分を大切にする事の出来る者だけが他人をも大切に出来る という事であります。 「それじゃなにも自慢なんて言葉を使わず「自尊意識」でいいんじゃないか?」 いえいえ、そういうわけには行かないのです。「自尊意識」でも良いのですが、そのまま進むと必ず「自慢」にぶつか ってしまいます。すなわち「自慢は悪い事」という価値観があると自尊意識も行き詰まる事があるのです。ですから 始めから「自慢は悪くない」としておいた方が壁にぶつからずに済むという意味です。アメリカでセルフエスティーム が流行ったのにも関わらず下火になったのは勿論権威筋の横槍もありますが、潜在意識に「自慢は悪い事」という のがあった為ではないかと推測しています。勿論英語で自慢をなんと言うのかは知りませんが、もしかしたら「ビッグ フィッシュ」というのかも知れません。それとて悪い事ではないと十分認識していればセルフエスティームも生き延び れたかも知れません。そんな理由で私は「自慢」を強く推奨します。ただ現在ではいきなり使うと抵抗があるかも知 れませんのでそんなときは「自尊意識」を使っても良いと思われます。 次へ進む |
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