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ピックアップ@アジア 「ロシアはどこに向かうのか・ロシア正教会・キリル総主教に聞く」2012年09月13日 (木)
石川 一洋 解説委員
ロシア最大の宗教、ロシア正教。
連邦崩壊後急速に信者を回復し、
今やロシア国民の70%が信者と言われています。
プーチン大統領を支持する保守、
批判するリベラル、ロシア社会の亀裂が深まる中で
ロシア正教は保守的価値観を支える支柱となってきました。
そのトップに座るロシア正教会のキリル総主教が
まもなく来日します。
プーチン大統領も大きな影響を受けているロシア正教。
キリル総主教は社会に向けて積極的な発言を続けています。
ロシアはどこへ向かうのか。
キリル総主教に聞きました。
「ロシアはどこに向かうのか・ロシア正教会・キリル総主教に聞く」
Q1)
ここからは石川解説委員とともにお伝えします。
キリル総主教に実際にお会いしてどのような印象でしたか。
そして今回の訪日はどのような意味を持ちますか。
A1)ロシア正教は連邦崩壊後、特にプーチン大統領の時代になって急速に信者の数を増やしています。キリル総主教はその立役者だけに、人間的な力、カリスマというようなものは感じました。
明日から五日間の訪日は、日本に正教を伝えた聖ニコライの没後100年を記念したもので、正教の布教が日本で始まった函館にまず訪れ、東日本大震災の被災地を訪れて祈りを捧げます。また天皇陛下とも謁見する予定です。
先週ウラジオストクのAPECでの日ロ首脳会談では年末の野田総理の訪ロで合意しました。来年にはプーチン大統領が訪日する可能性があります。キリル総主教の訪日は、いわば将来のプーチン大統領の訪日に向けた準備という意味合いもあります。
キリル総主教
「宗教的な結びつきは国民同士の関係で大きな可能性を持っている。真の和解は宗教がかかわることで実現できる」
Q2)ロシアにおいてロシア正教の位置づけとプーチン政権、国家との関係はどうなっているのでしょうか。
A2)ロシア正教はロシア帝国の時代はまさに国家の宗教、国教でした。しかしソビエト時代は逆に宗教はアヘンだとして弾圧されました。
そのためソビエト連邦が崩壊した後、ロシア正教会はロシア帝国時代とも、ソビエト時代とも異なる国家との関係を築く必要に迫られました。キリル総主教は新たな国家との関係を構築する中心的な人物でした。
キリル総主教
「ロシアがウクライナやベラルーシと同様自由な国となったときに、私たちはようやく教会と国家の正しい関係を築ける時代が来たと思ったのです。教会と国家のいかなる癒着もあってはならないし、国家の側からの教会の国有化もあってはならないと明確に理解していました。教会が自由を失うことは社会への影響を低めることになるからです」。
Q3)
政権と意見が異なることも多いと総主教は話していますが、信者であるプーチン大統領への影響力はどうなのでしょうか
A3)
プーチン大統領自身、ロシア正教の信者で、就任式の後、クレムリンにある教会でキリル総主教が行う祈りの儀式を受けています。
プーチン氏自身、個人的に信仰について相談する司祭がいると言われ、プーチン大統領個人に対するロシア正教の影響力は無視できないものがあります。
もう一つ重要なのはキリル総主教の立場です。正教内部には社会政治とは距離を置くべきだという立場もありますが、キリル総主教は社会・政治に積極的に関与すべきだという立場を取っているのです。
「私たちは民衆とそして権力にも我々の説教によって呼びかけます。我々の価値観を伝えているのです。第一に倫理的な価値観です。あらゆる政治において倫理的な原則が無ければなりません。倫理を失った政治は、政治家自身にもその政を受けるものにも何の利益をもたらしません。ロシアでは教会と国家が融合していると繰り返し言われ、そのスタンプを信じるようになるのです。あるいは教会はプーチンに影響していると言うのだからそうなのだろうと。もしかしたら教会はキリスト教的な観点からプーチンに影響しているのかもしれません。しかし私はその影響の程度を計ったこともありません。私たちは国の政治家にも民衆にも影響したい、そして我々が伝える倫理観が国民の意識の中に根付けば良いと考えています」
Q4)
こうしたロシア正教やキリル総主教の姿勢に批判は無いのでしょうか。
A4)ロシア正教の総本山救世主教会でパンクロックのグループがプーチン大統領とロシア正教の癒着を批判する演奏を行い、グループの女性3人が禁固2年の実刑判決を受けました。この事件をきっかけにプーチン大統領だけでなく、ロシア正教とそのトップであるキリル総主教に対して「プーチン政権を無条件に支持している」という批判が強まりました。ロシア正教会が政治的な対立に巻き込まれたことは初めてのことです。
ただより重要なのはこの事件がロシア社会に広がる深い亀裂を示していることです。
パンクロックのグループに象徴されるように価値というものは相対的なもので、自由を絶対化するポストモダンな考え方を支持するリベラルな立場と善悪などの価値を相対化すべきではないという倫理を重視する保守的な立場との分裂です。
ロシア正教はキリル総主教を中心に明確に後者、つまり絶対的な価値は存在するという立場を取り、いわばロシア保守の精神的な支柱となっているのです。
キリル総主教
「それぞれ個人が善と悪を理解するのです。客観的な善という概念はありません。つまり何が道徳なのかというものは無いのです。そうしますと結局、伝統的な価値観、関係、つまりたとえば家族というものが破壊されているのです。
私は深く確信していますが、教会は善と悪の絶対的な区別が存在し、必要だと主張しなければなりません。善悪は、道徳的な伝統から生まれてくるものなのです。倫理、道徳とは神の存在無くして不可能なのです。
私たちは現代の情報空間の中に善悪の消滅という危険に接しています。私は、この危険を理解し、人類の家族のために戦う人々と共闘する時が来たと確信しているのです」。
Q5)社会の分裂をロシア正教会はどのように克服しようとしているのでしょうか。
A5)今年はロシアでナポレオン戦争、特にトルストイの戦争と平和で描かれたボロディノの戦いの200周年にあたります。キリル総主教はその記念日にボロディノの戦いが行われた記念碑の前で祈りの儀式を行い、物質的な利益ではなく、ロシアへの愛国心が国を救ったと述べて、愛国心の重要性を強調しています。
カトリックであってもそうですが、欧州において教会が価値観において保守的な立場を重視するというのは当然のことで社会の安定の維持にとっては重要なことです。
ただ大都会において大統領選挙や議会選挙で見られたように大規模な反プーチンのデモが行われました。またインターネット、ソーシャルネットワークはロシアでも急速に普及しています。その中で欧米と同じくリベラルな風俗や思想を支持する若い世代も急速に広がっています。その中でロシア正教があまりに保守的な立場を取り、逆にリベラルな立場の社会層を教会の支持者に取り込むことに失敗して、亀裂を深めているとの批判もあります。ロシア正教にとっても情報化社会の中でどのように自らの信仰を広げていくかは大きな課題となっています。