才谷屋一族の里が高知市にもあった(1)
テーマ:その他の坂本龍馬関連≪武市瑞山生家跡に才谷屋の子孫が!?≫
坂本龍馬や土佐の幕末に興味がある方なら、史跡指定を受けている、土佐勤王党党首、武市瑞山(半平太)の生家を訪れたことがあるでしょう。しかし現在、その生家跡に居住されている一家の先祖と瑞山との関係を知る者は殆どいません。
そこに暮らされている方は坂本氏。しかも
この高知市仁井田吹井(ふけい)には、他にも多くの坂本家があり、その数全部で14軒。そう、皆、才谷屋子孫なのです。
才谷屋の本家先祖の里、南国市才谷には子孫がいないから、その意味でも貴重。
瑞山と龍馬が遠戚関係にあることは有名ですが、それは瑞山と才谷屋が遠戚であったことを意味しているのです。
才谷屋は藩政時代後期、城下の二大豪商として権勢を振るっており、分家や出店(暖簾分け店)もかなりの数に上っていました。
その分家の一人がある時、吹井に移住しました。後にその家から更に分家し、その分家からまた分家して、という形で
吹井は才谷屋の里となっていったのです。
その最初に移住した坂本家は「大坂本」或いは「上の坂本」と言われ、戦前は吹井一の大屋敷を誇っていました。今でも立派な蔵を擁す邸宅が残っています。
そこは瑞山生家の北東の若干小高い地。県道からもこの大きな蔵は目立つため、すぐ分かります。
尚、大坂本家と武市家との間には幕末、縁組がありました。その関係で武市家が吹井を去った後の家に、坂本家が入ったのでしょう。
そして戦前、大坂本家の下には「中の坂
本」と呼ばれる、大坂本家から分家した家があり、更にその下方には「下の坂本」と呼称される坂本家がありました。「下の坂本家」は現在も存在します。
下の坂本家は昭和中期、果樹栽培を行っており、みかん等を市場に「マルサ」という屋号で出荷していました。だから今でも赤煉瓦塀に、丸の中に「坂」という字を入れたマークが描かれているのです。
「坂」は坂本の意。
明治期の地形図を見ても、この三軒の坂本家が縦に並ぶ形で記載されています。
下の坂本家と武市家とは地区の往還で結ばれていたのです
が、この古道は、武市家側については現在、藪化して通行困難になっているものの、下の坂本家側は辛うじて残存しています。
龍馬も武市家や才谷屋分家を何度も訪れていたようなので、この道はまさしく、龍馬と瑞山と才谷屋が歩いた道になるのです。
余談ですが、県道の瑞山生家の入り口にある良心市(無人の青果販売所)は、生家跡の坂本氏が設置したもので、そこから入った右手の小屋の前に日中腰かけているおばあさんもそこの坂本家の人。つまり、才谷屋子孫の方と話すことができるのです。
私は生家の外観の写真を撮るのに、敷地に入っていいかどうかをおばあさんに確認したのです。
戦時中、大坂本家には天皇陛下の分身とも言える軍旗が安置されることになるのですが、それについては次回。
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