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池田大作は日中国交を正常化させたと発言した学会員がいます。いくら調べても根拠は出てきませんでした。出てきたとしても創価関連の書物からだけです。客観的な書物から出てこないということは彼は何もしていない、
ということでしょうか。
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- 質問日時:
- 2010/4/29 12:04:12
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- 解決日時:
- 2010/5/3 09:45:31
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ベストアンサーに選ばれた回答
http://www.aichi-gakuin.ac.jp/~molihua/Chinese1_2006/35YearsJP.pdf
↑これは吉田実著「日中報道回想の35年」ですね。
↓下に写ってる本がそれです。
https://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/426701504X.html
んで、出版社の名前が「潮出版社」
日中国交正常化をいち早く主張していたのは石橋湛山でした。
◆石橋湛山
[文書名] 日中国交正常化問題に関する石橋湛山前首相の周恩来中国首相あて書簡
(東京大学東洋文化研究所/日中関係資料集)
その時歴史が動いた 石橋湛山
http://televiewer.nablog.net/blog/e/20174853.html
昭和34(1959)年9月17日 周恩来と会談し「日中米ソ平和同盟」構想を明かす。
下の1~3は、いずれも創価学会とは関係のない中立的な文献ですが
池田氏に関する記述は全く出てきません(下の年表除く)
1)東京大学東洋文化研究所/日中関係資料集
2)中国共産党中央文献研究室勤務 兼 中国史学会会長の金冲及主編
『周恩来伝』(上・下)(岩波書店)
3)北京大学国際関係学院教授 北京中日関係学会副会長及び北京社会科学院
中日センター副主任兼任 林 代昭 「戦後中日関係史」(柏書房)
3)の「戦後中日関係史」の巻末に年表(以下URL)が付してありました。
http://www.geocities.jp/jacstudy/jacchron.html
1959年
9月 周恩来と石橋湛山共同声明
10月 70団体が東京で「日中国交回復実現・中央集会」を実現
10月 周恩来 松村謙三と中日関係改善につき会談
1960年
10月 高碕達之助訪中 周恩来と中日関係につき意見交換
1961年
4月 日中国交回復国民総決起大会 東京で開催
1962年
7月 日中関係10団体 集会を開き日中国交回復を要望
9月 周恩来、陳毅、松村謙三と会談 廖─高碕貿易方式に道
廖承志と高碕達之助の頭文字を取って「LT貿易」開始
1964年
4月 日本各界による日中国交回復3000万人署名運動開始
10月 成田社会党書記長を団長とする社会党訪中団 訪中
1966年
9月 日本各界32人志 再び日中友好の促進を国民に訴える
これを中国各界52人志 支持を声明
1967年
5月29日 日中友好宗教家懇談会 設立
1968年
3月 中日覚書貿易会談コミュニケ調印 LT貿易からMT貿易に改称
3月 中日貿易促進会と日本国際貿易促進協会等6団体 北京で調印
4月 日中友協(正統)機関代表と中日友協代表 北京で会談紀要調印
1969年
◆おっと 1968年の池田提言とやらは載ってません。
国交正常化実現は多くの先達による努力の積み重ねです。
(池田氏は提言しただけ)
代表的な人物として石橋氏の他に4名を挙げておきたいと思います。
◆松村謙三
周・松村会談の思い出(劉徳有)
周恩来総理とともに多くの日本側の「井戸を掘った人」を思い出すが、代表的な日本人を一人挙げるとすれば、私は松村謙三氏の名を挙げたい
http://www.come.or.jp/hshy/j97/11d.html
◆古井善実
古井氏の銅像、日中友好会館で除幕される
1959年にさらに一代上の日中友好人士である松村謙三先生と初めて中国を訪問してからというもの、日中友好事業に一生をかけて多くの貢献を捧げてきた
[人民日報]2000年3月29日
◆岡崎嘉平太
NHKスペシャル 命をかけた日中友好
1972年に日中で国交が正常化する時、周恩来が「わが国では水を飲む時には井戸を掘った人を忘れない」と謝意を伝えた民間人、岡崎嘉平太。特に周恩来とは、18回におよぶ会談を通じてアジアの安定と共存を語り合い、信頼と友情を深めていく
http://www.nhk.or.jp/special/onair/070319.html
◆高碕達之助
1962年には訪中経済使節団団長として北京へ渡り、廖承志と会談し、「日中総合貿易に関する覚書」に調印。享年79 死去に際して、親交の深かった周恩来は「このような人物は二度と現れまい」と哀悼の言葉を述べた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%A2%95%E9%81%94%E4%B9%8B%E...
結び)
>池田大作は日中国交を正常化させたと発言した学会員がいます。
聞いてるこっちが恥ずかしくなってしまいます。
附録)
2)の『周恩来伝』(上・下)(岩波書店)より
>1974年6月1日、周恩来は中国人民開放軍305医院に入院し手術を受けた
>1974年7月5日、周恩来は入院後初めて、病院で外国の来賓と会見した
>アメリカ民主党のヘンリー・ジャクソン上院議員夫妻である
>頻繁な客との面会・談話・書類審査などのため、手術後間もない周恩来は
>まともに休息もとれない状態だった
>11月1日から3日にかけて、周恩来は3回に分けて、北京在住の政治局員による
>会議を開催し、風慶号事件問題の解決に当たった
(12月5日は記録なし)
>12月21日、周恩来は北京在住の一部中央局員を集めて会議を開き
>12月23日、中央政治局の意見をもとに、周恩来、王洪文は長沙に赴き
>1975年9月7日正午、すでに病状が非常に悪くなっていた周恩来は
>医師の制止を振り切ってイリエ・ベルテッツの率いるルーマニア党・政府代表団の全員と会見した
>医師の制止を振り切って
おまけ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E4%B8%80%E...
- 編集日時:2010/4/30 23:11:23
- 回答日時:2010/4/29 17:11:21
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この悪世末法には、他人を貶めることが唯一の生き甲斐という、下劣な輩が多い。(爆)
政治的には公明党が、民間外交では創価学会が多大な貢献をした事実がある。中国の第1期留学生は、池田名誉会長が身元保証人となり、創価大学が受け入れた。駐日大使の程永華氏も、その中の一人だ。
- 回答日時:2010/4/29 21:37:45
こんにちは。
これらの資料は学会関連ではないと思います。参考にしてください。
http://www.aichi-gakuin.ac.jp/~molihua/study/fanyi/Dai06.pdf
(9ページあたりから出てきます)
http://japanese.china.org.cn/japanese/186111.htm
「周恩来と池田大作」という単行本が出ています。(本の紹介文)
”本書は中国の中央文献出版社が発刊した書籍の邦訳である。中国通は知ってのとおり、この出版社は中国共産党が党史に評価を確定した文献のみを順次出版する特殊なところ。日中国交に関わった日本人は少なくないが、党史に残されたケースはこれが初めてではないだろうか。なぜ周恩来が弱小野党だった公明党を正常化のパイプ役にしたのか。医師団の反対を押し切ってまで訪中した池田氏と会見したのか。歴史の中でも謎とされていた部分の背景が、この本によって明らかとなる。本書は宗教的な利害で評価されるべき内容ではない。まさに中国が公式に認定した「歴史」である。”
この本については下記を参考にしてください。
http://www.pson-wd.com/psn/%C3%D3%C5%C4%C2%E7%BA%EE/%BC%FE%B2%B8%CD...
- 編集日時:2010/4/29 23:59:08
- 回答日時:2010/4/29 14:53:07
日中国交正常化は、田中角栄元首相と竹入元公明党委員長がやりました。
池田さんは、それを自分の手柄にしてるのです。
ただ池田さんは、その前に日中国交正常化に関する提言を発表しています。
それに中国のトウショウヘイさんが注目したという話を聞いたことがあります。
このことは、池田さんが竹入元委員長を恨む原因の1つになったと言われています。
- 回答日時:2010/4/29 13:36:24