・ふだんの暮らしのなかでは、
ぼくらは「肉眼」という目で、ものごとを見てます。
人間は、「望遠鏡」ってやつを手に入れるまでは、
じぶんの顔についた目玉だけで、すべてを見てました。
そして、すっごく小さいものを見るときには、
「顕微鏡」というものを使って、
目玉だけじゃ見えないものまで見るようになりました。
そのうち、「写真」とか「映画」とか「テレビ」とか、
誰かが、じぶんの代理で見たものを、
ぼくらは見るようになりました。
もちろん、インターネットで見る「映像」も、
じぶんでない誰かが見たものを「借り見」しています。
じぶんじゃない人や、じぶんじゃない機械が、
たくさんのおもしろおかしい「見もの」を、
いつでも見せてくれるので、
ぼくらは、その「借り見」のものまで、
じぶんで見たようなつもりになってしまいかねません。
ほんとに、じぶんの目玉で見たものというのは、
明治時代の人たちよりも少ないかもしれないです。
木版の印刷物がせいぜい「借り見」の物件だったとき、
人の目玉が休んでいたかといえば、
たぶんそんなこともないわけでしょうから、
ふだん肉眼で見えるいろんなものを、
きっと、もっとよく見ていたのかもしれませんね。
ひとりの人間が行けないような場所から、
さまざまな「驚き」をともなった「見えるもの」が、
ひっきりなしに送り届けられます。
望遠鏡に顕微鏡をくっつけたようなニュースも、
隣近所のことのように押し寄せてきます。
その「遠めがね」の向きをちょっとずらすだけで、
猫があくびをしている場面があるかもしれないのに、
騒動や災いの景色が「借り見」され続けます。
前にオランダ人ジャーナリストのヨリスさんと語った
「石を投げている人はどこだ?」の話のようです。
ぼくらのじぶんの目玉は、なにを見ているのか。
「借り見」や「借り考え」に踊らずに、考えたいです。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
たいしたものじゃないという前提で、たのしくやります。
ぼくらは「肉眼」という目で、ものごとを見てます。
人間は、「望遠鏡」ってやつを手に入れるまでは、
じぶんの顔についた目玉だけで、すべてを見てました。
そして、すっごく小さいものを見るときには、
「顕微鏡」というものを使って、
目玉だけじゃ見えないものまで見るようになりました。
そのうち、「写真」とか「映画」とか「テレビ」とか、
誰かが、じぶんの代理で見たものを、
ぼくらは見るようになりました。
もちろん、インターネットで見る「映像」も、
じぶんでない誰かが見たものを「借り見」しています。
じぶんじゃない人や、じぶんじゃない機械が、
たくさんのおもしろおかしい「見もの」を、
いつでも見せてくれるので、
ぼくらは、その「借り見」のものまで、
じぶんで見たようなつもりになってしまいかねません。
ほんとに、じぶんの目玉で見たものというのは、
明治時代の人たちよりも少ないかもしれないです。
木版の印刷物がせいぜい「借り見」の物件だったとき、
人の目玉が休んでいたかといえば、
たぶんそんなこともないわけでしょうから、
ふだん肉眼で見えるいろんなものを、
きっと、もっとよく見ていたのかもしれませんね。
ひとりの人間が行けないような場所から、
さまざまな「驚き」をともなった「見えるもの」が、
ひっきりなしに送り届けられます。
望遠鏡に顕微鏡をくっつけたようなニュースも、
隣近所のことのように押し寄せてきます。
その「遠めがね」の向きをちょっとずらすだけで、
猫があくびをしている場面があるかもしれないのに、
騒動や災いの景色が「借り見」され続けます。
前にオランダ人ジャーナリストのヨリスさんと語った
「石を投げている人はどこだ?」の話のようです。
ぼくらのじぶんの目玉は、なにを見ているのか。
「借り見」や「借り考え」に踊らずに、考えたいです。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
たいしたものじゃないという前提で、たのしくやります。
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