2012年09月18日

村木厚子冤罪事件と最後のパレード冤罪事件の謎


郵便不正事件で無罪確定の村木厚子さんが厚労省に復帰したというニュースが流れました。

「真実と愛は必ず勝利する」マハトマ・ガンディー

おめでとうございます。同じ冤罪により苦しめられている私にとって勇気を頂いた知らせでした。

村木さんの手記から
朝日新聞2012年3月4日 負けられない闘いへ

<引用開始>
全く心当たりがなかった「逮捕」
 人生には思いがけないことが起こるものだと、がくぜんとするような事件が、ごく普通に働いていた私に降りかかってきたのは2009年6月のことでした。
<中略>
その団体が偽装したに違いない。そのうちはっきりするでしょうと、のんきに構えていた矢先に、私は逮捕されました。
 身に覚えがないから「やっていません」と言い続けますが、団体は私から証明書を受け取ったと言っていると言うんです。これは闘うしかないんだと覚悟を決めました。
<中略>
勾留164日間の心のつっかい棒
 穴が開くほどカレンダーを見つめながら、でも冷静でいなくちゃと自分自身で意識し、気持ちが負けてぺちゃんとしているのは格好悪いからと思ってた(笑)。それに、家族や友人、同僚との信頼関係が変わらなかったので、いつものように普通のまま落ち着いていられたのでしょう。
<引用終了>

村木さんは私と同じ1955年生まれの方です。冤罪事件の発生も2009年の4月と6月と次期が近いのも事実です。

違いは、私は、家族とも実母とも今も会えないことや、脳の機能障害を負ってしまったこと、信頼を回復できていないことなどです。今も、読売2ちゃんねらーから「57歳児」と侮辱され続けていることです。

さて、読売新聞はなぜ接点もない読売新聞の記事を盗んだと取材もせずに全国報道したのでしょうか。その背景にある思想が分かってきました。

内田樹氏のAERA2012 7月30日のコラムから

<引用開始>
大津の「いじめ」事件について、いくつかの媒体からコメントを求められた。いつも同じことを答えた。
 もし、「立場上反論や反撃が許されないものに、暴力をふるい、屈辱を与え、生きる気力を失わせる」ことを「いじめ」と定義するなら、今メディアが学校の教師たちや教育委員会対して行っていることは、そのまま「いじめ」である。自分が現に「いじめ」を実行しながら、「いじめはよくない」と正義の主張をなしているつもりでいるメディアの知的不調、私は深い疲労感を覚える、と。
<中略>
 反論も反撃もすることのできない人間が、猫がネズミをいたぶるように、じりじり追い詰めることから嗜虐
的な快感をひき出している人間の顔を私たちはよく見知っている。それは「級友をいじめている子供」の顔である。私は「管理責任はどうなっているんだ」と大学に怒鳴り込んできた「クレーマー親」たちの表情のうちに繰り返し同じものを見た。
 「いじめ」は精神的に未熟な人に固有の現象である。だから年齢とはかかわりがない。
<引用終了>

私はこの記事を読むまで嗜虐(しぎゃく)という言葉を知りませんでした。
「人や動物に対して苦痛を与えることを好むこと。むごたらしい行為を好む性癖 大辞泉」の意味を持つこの言葉を読売新聞の門間順平に当てはめてみれば、読売新聞記者が共有する生癖が極めて明確に表されるのです。

私を今でもいたぶって喜んでいる読売2ちゃんねらーと読売新聞の記者は精神的に未熟であるために「いじめ」る嗜虐癖を有するという点で一致します。そんなことも知らない読売読者がかわいそうでなりません。

次に、私の「これから」につながる考えを記します。

オリエンタルランド時代にスティーブン・R・コヴィー「七つの習慣」の講座を受講しました。いまでもこの講座の内容ははっきりと覚えています。

「ビジネス快進撃」のサイトより
<引用開始>
バケツに大きな石と小さな石を入れる様子を想像してみましょう。

大きな石から先に入れていき、それが終わってから小さな石を入れていくと、大きな石の周りに小さな石が入り込み、大小すべての石をバケツに入れ込むことができます。
逆に小さな石を先に入れていくと、小さな石ですでに埋まってしまったスペースには大きな石を入れる余地がどこにもなくなってしまうのです。

私たちの生活もこれと同じです。
重要な事柄(大きな石)を優先し、無意味な行動(小さな石)を後にしていく。
<引用終了>
http://www.kaishingeki.biz/backnumber/169/

日本の引っ越しも同じです。冷蔵庫などの「大物」から積み込んでいく必要があることは、誰もが理解していることです。

私が、何を言いたいのか。それは、読売問題や香山リカ問題などは、実行プライオリティの低い「小さな石」であるということです。

孫正義氏の発言
「ガハハハハー。 人生なんて一回きりだ。 小さい事を気にしていては何も出来んぞ」

私も同じです。このブログに記しているコモンアジェンダ(地球的展望に立った協力のための共通課題大辞林)など「大きな事」にチャレンジすることが「大きな石」であると考えます。

それでも、今後も読売をたたき続けます。それはこういうことです。

最後のパレード冤罪事件発生後の5月中旬、現衆議院議員の竹田光明氏の紹介で、高名な弁護士を紹介してもらいました。国民金融公庫の顧問弁護士などを歴任された弁護士です。

その弁護士に「読売新聞を訴えたい」と相談したところ、「現時点で裁判に持ち込んでも勝ち目はない。膨大な資料と時間が必要になる。仕事に専念した方が良い結果が出る」というようなことを言われました。

それから3年が過ぎ、最高裁ではPTSDでも傷害と認める判決が出ることになります。

この、ブログを書くということは、当時の資料を解析することにもつながります。前記の「読売記者の生癖」を知ることにもつながります。裁判の証拠になるかは判りませんが、冤罪事件の背景にあるものを世に明らかにすることができるかもしれません。これが、読売新聞社を批判し続ける理由です。

最後のパレードの制作上の瑕疵は、著作物の転用を事後承諾で大丈夫と捉えていたことです。

公式見解より
「欠陥商品」であることに気付かずに出版に至ってしまった最大の原因は、著者である私も、商業出版社である株式会社サンクチュアリ・パブリッシングの編集者も、現行法の著作権法を熟知していなかったことと私は認識しています。

2012年06月27日
書店をだましたサンクチュアリ出版
http://dream333.seesaa.net/article/277600496.html

つまり、形式犯の領域です。

形式犯 けいしきはん (一般)
書類の提出を忘れていたなど、いわゆる「うっかりミス」で触法することとなった犯罪。犯罪とはいえ、悪質の度合いは低いとされる。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C1%BC%B0%C8%C8

他方、読売新聞の門間順平や社会部の犯罪は、殺人や傷害のような侵害犯(実害犯)であることは最高裁の判例をみても明らかです。

ノミノキンタマの8分の1のような門間順平は、今ごろびくびくしているのではないでしょうか。精神的に安定する自首をお勧めいたします。

私には、冤罪事件に巻き込まれ今でも苦しんでいる友人がいます。

私が犯した罪で、どうしてここまで苦しめ続けるのか。私たちはクリスチャンですから「祈り」の力で滅亡していません。

私たちは「神の武具」を与えられています。必ず勝利する日はやってくる、私はそう確信します。

神の武具
http://seba-maranata.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-d85c.html
posted by S・C・ NAKAMURA at 00:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/292998889

この記事へのトラックバック