2008年にサッカーの欧州選手権(EURO)がスイスとオーストリアで開かれたとき、大会の後半はスイスのバーゼルとオーストリアのウィーンの間を列車や飛行機を使って往復する毎日だった。そんな列車の中で出会ったのが、「俺はウラジオストックから来たんだぜ!」と言うロシア人ファンだった。そう、ウラジオストック。日本海に面したロシアの主要港である。
当時、ウラジオストックのクラブはロシア・プレミアリーグに属しており、「毎週の遠征が大変だ」と言う話をした。日本海に面した極東からモスクワやザンクトペテルブルクまで時差が8時間もある遠征をしなければいけないのだ。当然、相手チームにも迷惑がられているという。「それなら、ウラジオストックはロシアリーグを辞めて、Jリーグに入ればいいじゃないか」と言ったら、彼らも「それもそうだ」と納得していた。
最近、ポーランドでそれと似た体験をした。ポズナンでの試合後、トラムを待っていると、ロシアのサッカー専門誌『フットボール』の編集者のピョートル・カメンチェンコという人物に声をかけられたのだ。実は、南アフリカのワールドカップのときに会ったのだというのだが、僕の方はよく覚えていなかった。でも、まあ、話を合わせておこう。
そしてトラムで中央駅に着いたのだが、2人とも列車の発車まで2時間もある。しかも、ポズナン駅は改装中で狭くてしょうがない。それで、2人で夜中に町を散歩しようということになったのだ。ところが、カメンチェンコ氏はどうやら方向音痴で、しかも「ロシア語とポーランド語は似ているから多少は分かる」という割りに、地元の人たちに道を訊こうとしないのだ。それで、僕が案内しながら、街をぶらついたというわけである。「なんで、夜中にみんな騒いでいないんだ」とカメンチェコ氏。「モスクワだったら、試合の後は大騒ぎだぞ」。
カメンチェンコという人は、大学で地理学を専攻していて、今もサッカー以外の分野も取材をしているらしく、「昨年はウラジオストックでヨットをチャーターして、サハリン(樺太)から千島列島の全島を訪れてカムチャトカ半島の火山地帯まで取材してきたんだ」と言い出した。その旅でいちばん興味を持ったのは、マトア島(日本名:松輪島)の日本軍守備隊がロシア軍上陸を前に秘密裏に撤退に成功。激戦を覚悟したロシア軍が上陸してみると、もぬけの殻だったそうだ。その松輪島には今も日本軍が撃沈したアメリカの潜水艦や日本軍守備隊の陣地の跡などがそのまま残っているという。
また、カメチェンコ氏は、「いろいろ資料も読んでみたけど、南千島(歯舞、色丹、国後、択捉の北方四島)については、日本側の主張の方に理があるように思う」とも言う。ここで千島列島問題を論じるつもりは毛頭ないが、面白かったのはモスクワに住んでいるロシア人も千島やサハリンにそういう興味を持っているということ。そして、4年前に続いて、ヨーロッパに来て、ロシア人と極東問題について話したことだ。ロシアという国が、実際に日本の隣国なのだということを改めて実感した。
そういえば、先日、ロシア人のサポーターの一団と言葉をかわした時にも、当然、彼らはみんな「ケースケ・ホンダ」をよく知っていたし、また、「イナモ〜ト」(2002年ワールドカップのロシア戦で決勝ゴールを決めた)のこともよく覚えていた。たしかに、サッカーの面でも、隣国ロシアと日本の間はつながりがあるのだ。ヨーロッパとロシア(ロシアはヨーロッパか?)、そしてロシアと日本がそこでつながっている。それが、なぜか嬉しい。
なぜなら、日本はどんなに強くなっても(今だってアイルランドやポーランドになら、たぶん勝てるだろう)EUROには出場できないのだ。だが、ヨーロッパと日本はじつはロシアを通じてつながっているのだ。日本のサッカーとロシアのサッカーは歴史的にも深いつながりがある。第2次世界大戦後、初めて日本が出場した世界大会がメルボルン・オリンピックだったが、そこで優勝したのが当時のソビエト連邦であり、日本のサッカー人に強い印象を与えたらしく、「センチメーター・パス」という言い方で、長い間ソ連のサッカーのパスの正確さが言い伝えられたものだ。
また、1960年代には日本代表がほぼ毎年のようにソ連遠征をして、東京、メキシコの両オリンピックに向けての強化を行っていた。当時、日ソ両国政府間で「スポーツ交流協定」という協定が結ばれており、日本チームは船に乗ってナホトカ港まで行けば、その後のソ連国内での交通費や滞在費は全額ソ連側が負担してくれることになっていたのだ。これは、代表チームの遠征費用を捻出するのにも苦労していた当時の日本蹴球協会にとっては文字通り「渡りに船」という話で、ナホトカ港に上陸した日本チームはシベリアや中央アジアで試合を行いながら旅して、モスクワに到着。そこから、西側に抜けて西ドイツなどで合宿をして帰国したのだ。つまり、日本協会としては西側に出てからの滞在費と帰国の費用だけで長期遠征が実現したのである。
しかも、そこでソ連のとんでもない辺鄙な地域も含めて、いろいろな都市で、さまざまなレベルのチームと試合をして経験が積めた。つまり、ロシア(=ソ連)は日本サッカーの指導者であったのだ。せっかくだから、これからももっとロシアとの交流を図ったらどうだろう。たとえば、ヤマザキナビスコカップ。一般のスポーツファンにとっては、Jリーグとの違いも分からず、決勝になるまで盛り上がりに欠けるきらいがあるが、韓国や中国のクラブなどとともに、ロシア極東のウラジオストックなどのチームも参加させる国際大会にしてはどうだろうか?異なったタイプの相手との試合経験にもなる。
そして、日本とロシアが接近すれば、いつの日か、なし崩し的にヨーロッパの公式戦に出場する道筋にもなりえるのでは……。
じつは、ロシアというのは日本の隣国であり、ロシアを抜ければヨーロッパもすぐ近くに存在するという話である。
後藤 健生
1952年東京生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。64年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、「テレビでCLを見るよりも、大学リーグ生観戦」をモットーに観戦試合数は3700を超えた(もちろん、CL生観戦が第一希望だが!)。74年西ドイツ大会以来、ワールドカップはすべて現地観戦。2007年より関西大学客員教授