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慰安婦問題でこれだけは言ってお… (そのほか)楽天ブログ 【ケータイで見る】 【ログイン】
これが俺のすべてだ!!

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これが俺のすべてだ!!

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2012.09.15
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慰安婦問題でこれだけは言っておきたいこと。

[ カテゴリ未分類 ]
 
 ・当ブログのリンク・拡散はご遠慮ください。
 ・この記事で当ブログを知った方は、他の記事は読まないでください。(当記事の内容とは矛盾する、読むに耐えない差別的内容がいっぱい書かれてているだけです)
 ・知ってる人かも…と思っても放置してください。
 ・当ブログ管理者は、以下のような内容の記事を書く資格のない変態性癖者です。
 


 慰安婦関係に関する橋下のツイートまとめ。
 http://togetter.com/li/359660


 「軍や官憲が慰安婦を強制連行したという証拠はないと安倍内閣は2007年に閣議決定した」「証拠が出てきたら、それは謝らなければならない。強制連行はどういう理屈でも正当化はできない。しかし慰安婦を日本国が強制連行した証拠は未だ存しない」「問題は慰安婦が国家によって強制連行されたかどうか」「問題は慰安婦が、その意思に反して強制されたかどうか。ここが一番のポイント。しかし日本側にはそれを裏付ける証拠がない」「1965年の日韓基本条約があろうとも、慰安婦の強制連行があったのかどうかをしっかりと確定すべき。2007年に強制連行の証拠はないという閣議決定をやったなら河野談話は見直しするしかないでしょう。韓国側に河野談話以外の強制連行の証拠を求める」…。馬鹿のひとつ覚えみたいに、「強制連行があったかどうか」「証拠はない」ばかり。

 
 先日、何年かぶりに「朝生」を見たんだけど、そこでも、「強制連行はあったのですか?なかったのですか?」という視聴者からの質問が取り上げられ、各論客が「ありませんでした」みたいな議論を延々やってた。

 この場合の、「強制連行」は、“銃剣を突きつけてトラックに押し込むような”とか“奴隷狩りのような”と形容されるような、無理やり暴力的に連行する、いわゆる、「狭義の強制連行」を指している。

 で、「(狭義の)強制連行があったことを裏付ける証拠は存在しない」「だから、河野談話は見直すべき」というのが、現在の右派マスコミの報道だ。橋下の論理も全く同じ。


 
 80年代から戦争責任問題に取り組み、この分野で草分け的存在である上杉聰は、小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』を批判した『脱ゴーマニズム宣言』で次のように書いている。

 
「強制連行こだわり説」は崩壊した。調べれば調べるほど、連行の形や方法でなく、慰安所そのものが問題だということが分かってくる。「強制連行こだわり説」は、慰安所の実態を隠すためのシカケだったのだ


 上杉聰がこう書いたのが97年。(同じことはもっと以前から言われていただろう)。


 しかし、それから15年経っても、今だに「強制連行はあったのか、なかったのか」という議論に終始している。
 
 
 慰安婦問題が、さも「(狭義の)強制連行があったか、なかったか」が争点であるかのように矮小化されていることに、強い強い憤りを感じるし、ほんとうに情けないと思う。

 


 朝鮮半島の慰安婦の徴募は、「だまし」による連行が大半であったことは現在の常識になっている。俺たちの側だって、「朝鮮半島で奴隷狩りのような強制連行があった!」なんて言ってないし(ウヨが今だにしつこく言っている吉田清治証言なんて、少なくとも90年代初頭の段階ですでに依拠することをやめている)、一方、さすがの安倍晋三も「業者による広義の強制性はあった」ことは認めている。(業者による広義の強制連行があったことは認め、しかし狭義の強制連行があったという証拠はない、軍(国)がやったわけではないというのが否定論の主流だ)

 
 しかし、「狭義の強制連行はなかった」ということを強調したところで、罪が軽くなるわけではない。


 北朝鮮の拉致には、有本さんのようにだまして拉致したケースと、蓮池さんのように袋づめにして拉致したケースがあるけど、それを「狭義の拉致」「広義の拉致」などと区別し、「狭義の拉致があったかどうか」が「1番のポイント」と考える日本人はいないと思う。有本さん拉致に関して、北朝鮮が「狭義の拉致ではなかった」と開き直ったらどう感じるだろうか。

 騙して連れ去るのも、無理やり連れ去るのも、刑法では、「略取誘拐」として罪の重さは一緒だ。

 国外移送目的の略取誘拐の場合はさらに罪が重くなる。

 日本が当時加入していた婦女・児童の売買を禁止する国際法でも、未成年者はたとえ本人が承諾しても「醜業」=売春に従事させてはならないこと、成年であっても、「詐欺により、または暴行、脅迫、権力乱用、その他一切の強制手段をもって…勧誘し、誘引し、または拐去」してはならないこと、違反した場合は処罰されることが規定されていた。

 業者が詐欺まがいの手口で未成年者を含む女性を集めたことは、当時の刑法でも、国外移送目的略取罪・同誘拐罪、人身売買罪、国外移送罪にあたる犯罪であり、国がそのような業者を罰しなかったとしたら国際法違反だ。(事実は、罰するどころか、そのような業者は、軍によって、あるいは軍の要請を受けた憲兵や警察によって選定された業者だったのだから国際法違反は明白だ)


 「1番のポイント」は、さまざまな方法で集められ、慰安所に連れてこられた女性たちが、「性奴隷」としての生活を「強制」されたことだ。多くの慰安所に共通しているのが、狭い小部屋で、1日十数人~数十人もの性の相手をさせられ、外出の自由もなく、逃げ出すこともできず、逆らえば暴力を受け、公娼制で認められていた廃業の自由もない…という実態だ。

 ・国連の人権委員会は、慰安婦制度は1926年の奴隷条約における国際慣習法に違反する性奴隷制度であり、女性への著しい人権侵害であると認定している。
 ・国際労働機関(ILO)の条約勧告適用専門家委員会は、慰安婦の状態が1930年、当時の「強制労働条約 第29号」(日本は1932年に批准)に違反していると認定している。(はてなキーワードより引用)

 
 たとえ連れていく時に「狭義の強制連行」がなくても、外出の自由も廃業の自由もないこのような慰安所の実態は、「強制」と言えるのではないか、戦時性暴力と女性に対する著しい人権侵害という普遍的な問題として慰安婦問題を捉え直す必要があるのではないか、“狭義の強制連行があったか、なかったか”だけに拘って矮小化するのはやめよう、ということを、俺たちの側は、90年代から主張し続けてきたのだ。

 
 
 
 橋下たちが「証拠は存在しない」という時、その意味は、正確にいうと、「朝鮮半島(※)において、狭義の強制連行を、国または軍が行った(または命じた)という公文書は存在しない」ということである。
※フィリピンや中国山西省などでは軍による狭義の強制連行があったことが知られている。

 
 たしかに、「慰安婦を集めてこい。抵抗した場合は、無理やり連れてきてもかまわない。 軍最高責任者 印」というような公文書はないし、そんなものを残すはずがない。もしあったとしたら敗戦の時に真っ先に隠滅してるはず。

 しかし、“狭義の強制連行はなかった”派も、「業者による広義の強制があった」ことは認めざるを得ない。「業者による広義の強制連行」にしたって、刑法の「国外移送目的略取罪・同誘拐罪、人身売買罪、国外移送罪」にあたる犯罪だ。

 で、慰安婦を集める業者や慰安所の管理業者は、軍が、あるいは軍の要請で、内務省や憲兵などが選定していた。慰安婦の移送は、軍用船やトラックの通行許可など軍が便宜を図った。慰安所となる建物の接収あるいは設営、管理規則の制定、性病の検査なども軍が行っていた。そのようなことを示す公文書ならいくつも存在する。

 橋下は、「現代社会にあっても風俗店についてはきちんと公が監督している。慰安所について公が監督するのは衛生管理・秩序維持の観点から当然だ」などとツイートしているが、もしも、役所が選定した人身売買ブローカーが詐欺まがいの手口で集めた未成年者を含む女性を、公務員専用風俗店で使役させ、「公が監督」していたとすれば大スキャンダルだ。

 詐欺まがいの人身売買や未成年者がいると分かった時点で、本来は、業者を罰し、契約を解除し、慰安所を閉鎖し、女性を送り返すべきであるが、軍はそれをせず、移送の便宜を図り、軍専用慰安所で使役させ、監督した。「業者が詐欺まがいの人身売買で女性を集めているなんて知らなかった」のなら、それはそれで「どんだけザルなんだよ」という話しだし、そのような業者を選定した責任、取り締まれなかった(取り締まらなかった)責任は免れない。


 河野談話は、“朝鮮半島において狭義の強制連行を示す公文書は見つからなかった”ことを踏まえたうえで書かれている。

 公文書のみに基づくのではなく、元慰安婦の証言なども聞いて、「当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいもの」「多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である」等、「狭義の強制連行だけが問題ではない」という認識を示したものだ。橋下が言うように、「『本人の意思に反して』という言葉で誤魔化した」わけではない。

 だから、「2007年に強制連行の証拠はないという閣議決定をやったなら河野談話は見直しするしかないでしょう」という橋下のツイートは全く的外れだ。


 こんなデタラメな認識しかない人間が、「日本維新の会」の党首として、これから国政で強い影響力をもつことになると思うと、暗澹たる気持ちになる。


 





最終更新日  2012.09.15 23:15:52

2012.09.13

いかに俺が法律の素人と変わらないかを示す事例。

[ カテゴリ未分類 ]
 今日、昼飯食う時にテレビをつけたら、たまたま昼のワイドショーで法律相談コーナーみたいなのをやってた。店と客とのトラブルで、「こういう場合、法律的にはどうなるの?」というのを問題形式で出題し、八代(たしか裁判官やってた人)が解説するコーナーだった。



 こんな問題があった。
 
 A子さんはお土産屋さんでお土産を買いました。お土産を買ってバスの中で確認したところ、1000円少ないことに気づきました。どうやら、お土産屋さんで1000円札が重なっていて、1000円多く払ってしまったようです。店側に電話で確認すると、たしかに売上金が1000円多くなっています、これはA子さんのものでしょう、ということになりました。そこで、現金書留で送ってもらえますかと店側に頼んだところ、「あなたが間違えたんだから、あなたが取りに来てください」と言われ口論になりました。バスはもう東京に向っています。A子さんは、店まで取りにいかないと1000円を返してもらえないでしょうか。


 常識的には、店に行かなくても返してもらえるような気はしたが、法律的な理由づけは全く分からなかったし、「もしかしたら、無情にも、法律的には『取りに行かないと返してもらえない』という結論になるのかもしれないな…」とも思って、どっちか分からなかった。

 
 俺は、これを、「錯誤」の問題かな?、と思った。で、「要素の錯誤」とか「重大な過失」とか…、そんなキーワードで考えたけど、分からなかった。アホで頭の固い俺は、それ以外思いつかなかった。


 答えはこうだった。

 これは不当利得。不当利得は店側に返還義務がある。

 そして、持参債務の場合、弁済は債権者の現在の住所で行わなければならない。

 だから、この場合、A子さんの住所で行う必要があり、店側はA子さんのところまで出向くか、書留で送るなどしなければならない。(交通費や切手代等も店側が負担しなければならない)

 八代はこういう内容のことを、素人にも分かるように分かりやすく解説していた。

 
 俺は、「錯誤」ということにばかりとらわれて、八代の解説をきくまで、「不当利得」という単語から全く頭に浮ばなかった。

 当然、「弁済は債権者の住所で」の条文も浮ばなかった。

 どちらも司法書士受験生なら知っておかないといけない知識で、つまりこの問題は、司法書士試験の知識の範囲内で解ける問題だったが、俺はできなかった。

 たとえ、司法書士に合格できたとしても、たぶん、このての問題に対応できないと思う。


 司法書士試験勉強を長年やっていると言っても、所詮、試験のための勉強。司法書士試験問題に対応するためだけの狭い狭い範囲での勉強にすぎない。頭が硬く、アホな俺は、ちょっと司法書士試験で出題される典型事例から外れたら、もう分からない。だから、現実の複雑な問題で、法律的にどうなるのかなんて全く答えられない。法律の素人と全く変わらない。「法律相談」なんてとんでもない。

 
 この先、女の子の知り合いができたとして、こんな情景が頭に浮かぶ。


 女の子:雑魚君って、司法書士だったよね?(司法書士目指して勉強してるんだったよね?)。じゃあ、法律には詳しいよね?この間、・・・というトラブルがあったんだけど、こういう場合って、法律的にはどうなるの?


 俺:え~と・・・そういう場合は…(自信なさげにオドオド)、どうなるんだろう…。ごめんなさい…ちょっと分からないです…。


 女の子:ううん、いいよ。(心の中:ちぇっ、司法書士っていうから、他がダメでも法律だけは詳しいと思ってたのに、全然ダメじゃん。ほんと頼りないな。つかえねーやつ)


 横でその会話を聞いてた男:(嫌味ったらしく、嘲笑うように)「雑魚君、ほんとに司法書士?w」




P,S また別の問題でこういうのがあった。

 「B子さんはブランド品のバックを盗まれました。盗まれた自分バックがリサイクルショップ店で売られているのを偶然見つけました。返してくださいと言うと、店側は、盗品と知らずに仕入先から購入したので、仕入れ代金を払ってもらえわないと返せないと拒みました。B子さんはバックを返してもらえるのでしょうか」

 これはすぐに、司法書士試験でもお馴染の盗品の回復請求だと分かった。「店側は即時取得している。B子は盗まれてから2年間は回復請求できる。でも、代金を弁償しないと返してもらえない」、これが俺の答えだった。

 けど、前半は正しいが、後半が間違っていた。古物商とかリサイクルショップの場合は、盗品が持ち込まれる可能性が高いことから、1年以内であれば、代金を弁償しなくても返してもらえるらしい。古物なんたら法の何条かに書いてるらしい。それは知らんかった。
 







最終更新日  2012.09.13 20:32:43

質問に答える

[ カテゴリ未分類 ]
以前、行政書士試験で質問した者ですが、雑魚さんは一般教養はどれ位のウェイトで勉強しましたか?法令は大丈夫そうですが、一般教養はあまり手がついてません。個人情報関係、政治、経済等ありますが、法令と異なり、全くモチベーションがあがりません。しかし、足切りの関係上、やらざるを得ませんので直前期2週間で詰め込みを考えてます。また雑魚さんは行書用の一般教養テキストを使用してましたか? by 書士コロ



 一般教養は、newtonTLTの行政書士教材に載ってるところは、法律教科と同じぐらい繰り返しやりました。一般教養はそれだけでは対応できないと思ったので、市販の一般教養テキストも1冊買って、特に個人情報関係のところだけをやりました。
 
 一般教養は、政治経済や時事問題はテキストや過去問を覚えても、全く出なくて無駄に終わる可能性は高いですが、個人情報のところは教材や市販テキストに載っている項目を押えておけばできる割合が高かったように記憶しています。なので文章理解と個人情報で稼いで、あとはフィーリングでなんとか足切り突破を…というのが私の作戦でした。

 今の時期で、法令は大丈夫そうと感じられるぐらいの余裕があるのだったら、一般教養を直前2週間でというのはもったいない気がします。万が一、法令はできて総合点でも合格点を越えてるのに、一般教養で1問足らずで足きりになった、ということになったらしゃれにならないですし、直前2週間前からと言わず、今から情報のところを重点的に、できるだけ、最低でも、今使っている予備校の一般教養テキストに載っているところは「出たら確実にできる」というぐらいやっておいた方がいいと思います。


 





最終更新日  2012.09.13 14:52:08

2012.09.11

悶々(Yちゃん、司法書士編)

[ カテゴリ未分類 ]
 Yちゃんは、俺にお婿さんに来てもらって、Yちゃんの家業のお店を継いでもらって、一緒にお店をやりたいと言ってくれていた。

 世の中には、「いつか自分のお店をもつ」という夢をもって、厳しい修行をしている人がたくさんいるのに、恋人もおらず、職もない俺がいきなりお店をもてることになるなんて…。ありがたすぎるほどの申し出だった。

 でも、俺は、ここまで頑張ってきた司法書士試験の勉強を諦めることはどうしてもできなかった。今、諦めたら、この4年間のそれに捧げた金と時間のすべてが何の意味もないものになってしまう。合格するまで挑戦して、資格という形に残したかった。そして、せっかく資格をとったのに何も生かさないんじゃ意味ないから、1割でも、2割でもいいから司法書士の資格を生かした仕事がしたかった。

 俺は、合格するまで受験を続けさせてもらえること、合格したら1割でも2割でも司法書士の資格を生かした仕事ができるなら、Yちゃんのお店を一生懸命お手伝いしたいけど、受験そのものを断念してお店を継ぐことはどうしてもできないという気持ちを伝えた。

 俺としては、司法書士の仕事がちょっとでもできれば、Yちゃんと一緒にお店がしたかったのだが、これは、Yちゃんの希望とは相容れなかったようで、Yちゃんは、「司法書士の資格をとったら、司法書士の仕事をしてください」「この話しは忘れてください」と俺に言った。でも、俺と一緒にお店をやりたい気持ち、残念そうな気持ちがひしひし伝わってきて、俺はすごく心苦しかった。

 その後、Yちゃんは、俺とのことについて、ある有名な「鑑定士」から「鑑定」を受けた。

 鑑定士には、ふたつの未来が見えたらしい。 

 Yちゃんが今すぐ大学をやめて俺と一緒にお店を継いだ場合、老人になっても手を繋いで買い物にいったり、一緒にお料理をつくったり、「もう齢だし、お店は〇〇君に任せて、隠居しようか。貯金もあるし、のんびり暮らそうか」みたいな話しをして幸せに暮らしている場面が見えたという。


 一方、お店を継がずにYちゃんが大学に通い続ける場合は、「真っ暗で何も見えない」という。「真っ暗で何も見えない」というのは、どちらかが亡くなっている場合で、鑑定士が、真っ暗で何も見えなくなる直前の映像を見たら、通学途中にYちゃんがトラックにひかれる映像が見えたという。

 
 しかし、それが100%確実に当たるならともかく、「鑑定」という科学的ににわかには信じがたいものでそう言われたからといって、ここまで頑張ってきた司法書士を諦めます、という決断をすることはやはりできなかった。

 俺は、前と同じ気持ちを伝えた。せめて俺にできることといえば、交通安全で有名な成田山不動尊というところに交通安全のお守りを買いに行くことしかできなかった。

 けど、そのお守りを渡せないまま、その直後、Yちゃんからメールが来なくなった。



 今は、毎日、もしもYちゃんがほんとうに亡くなっていたらどうしよう…、と心配で心配でたまらないのと、「もしも、あの時、お店を継ぐと言っていたら、今頃は幸せに暮らせていたんだろうか…。とり返しのつかない人生の選択ミスをしてしまったのではないだろうか」と自問自答している。


 Yちゃんの希望にそえなかった理由が、「どうしても司法書士の仕事がしたいから、司法書士になりたいんです!」という理由だったら、Yちゃんも納得してくれたと思う。

 けど、俺は、司法書士の仕事に興味があるわけではなかった。今でも、「登記、過払い、成年後見、供託…、正直、やりたいと思うものなんて何もないな」という状態だ。(注)

 もともと、俺が司法書士になろうとしたのは、職と金と社会的地位を得て、結婚相談所に登録するためで、司法書士の仕事がしたいからではなかった。

 司法書士の仕事に興味がなく、職と結婚が目当てなら、Yちゃんのお店を継ぎ、大好きなYちゃんと一緒にお店をするというのは、結婚・職の両方を得ることができる願ったり、叶ったりの申し出で断る理由なんてなかったはずだった。


 けど、俺は、どうしても、「ここまで頑張ってきたことを無駄にしたくない。どうしても資格という形にして残したい」ということに異常な「こだわり」をもつに至ってしまった。

 某スレで、

 
あと、雑魚に書士は諦めたほうがいいなんて言う奴が結構いるみたいだが、
あいつは「永久に」受け続けると思うよ。(他にやることもないしな)
「こだわり」「思い込み」は発達の特徴の一つ。
雑魚は書士受験で、もうその発達モードに入ってるからなw


 と言ったやつがいたが、これはズバリ正しい指摘で、俺はまさに「書士試験で、もうその発達モードに入って」しまっているのだ。


 下の日記に書いたように、俺は、これまでの人生を(一時期を除いて)ぐーたら怠けて過ごしていたわけではなかった。その時々、何かしらを頑張っていた。けど、その時々何かを頑張ってはいても、新しいことを一から始めてしばらくは歯を食いしばって頑張るけど、結局、継続できず何もならずにやめて、また何かを一から始めてしばらく歯を食いしばって頑張るけど、結局何もならずにやめて…の繰り返しで、「いつも苦しい思いに耐えて何かを頑張ってきたのに、今残っているものは何もない」という状態で、俺は、司法書士を頑張ると決めた時、「今度こそそうならないようにしよう。もう同じ繰り返しは嫌だ!!」と固く心に誓った。

 だから、また司法書士を諦めて、これまで頑張ってきたことが無駄になって、そして、Yちゃんのお店を継ぐための全く新しい修行を一から始めることにためらいがあった。


 何が言いたいかというと、俺は、「司法書士の仕事がしたいから!」という理由ではなく(それなら、Yちゃんも心から納得し、俺の夢を応援してくれてたと思う)、司法書士の仕事自体には興味がないのに、「ここまで頑張ってきた勉強を無駄にしたくない。資格という形にして残したい」という、ある種の「けつの穴の小さな」ことに固執してしまったのだ。大好きなYちゃんの希望よりも、俺の「発達モード」を優先させてしまったのだ。

 毎日、「あの選択は、正しい選択だったのだろうか…」「もしもお店を継ぐと言ってたら今頃、Yちゃんと2人で幸せに暮らせていたかもしれない…人生の大きな選択ミスだったのではないだろうか」と自問自答する。そして、「もしもほんとうにYちゃんがドラックにひかれて亡くなってたら…。お店を継ぐと言ってたらそれを防げてたのだとしたら…」、ということを考えると発狂しそうになる。

 
 Yちゃんは、Yちゃんのお父さんの話しをしてくれたことがあった。お父さんは、お母さんと結婚する前、やはりある「士業」を目指し試験勉強をしていたそうだ。けど、いつ合格できるか分からないし、合格しても仕事が忙しいときはお母さんの傍にいられないことなどを考えて、未練はあったけど、お母さんのお店を継ぐことにしたそうだ。でもこれまで楽しくお店をやってこれたし、幸せに暮らしてこれたから、全然後悔してないというような話しをしてくれた。

 俺もお父さんのようになれたらいいなと思った。けど、お父さんと違うところは、お父さんの場合は、すでにお母さんと出会い、実際にお付き合いをしていたことだった。俺の場合、まだYちゃんの顔も知らず、会ったことさえ、電話したことさえない段階。もし、Yちゃんとの同棲やお付き合いが先行していたら、司法書士を諦めてお店を継ぐ選択もできたかもしれない。でも、この段階で、鑑定でそう言われたからといって、受験を断念することは、あの時は、やはりどうしてもできなかっただろうと思う。


 ただ、結果として、Yちゃんとはこうなり、試験にも落ち、来年合格する目途もまったくつかない。

 「もしもあの時、お店を継ぐと言っていたら…」、ということを考え、毎日、悶々としている。



 昨日、こういうメッセージがきた。


 
最近思うのですが、司法書士試験を始めたのは、金と社会的地位を得て、今より、ハイクラスな生活をしたいためであって、登記や過払い、成年後見には興味があるわけではなかった。

目的はハイクラスな生活ができる金銭であって、司法書士に合格することはその手段を得るために過ぎない。

人生は長いと言う人がいるが、体の自由がきき本当に人生を楽しめるのは長く見積もっても50ぐらいまでだろう、50から20を引いて30年、5分の1も司法書士試験(今度受験すれば5回目で約6年である)に使うことのばかさかげんを痛感している。

幸せになるために始めたことが、不幸せにしかなっていない現実。

先日、辰巳で知り合った人達とお疲れ会をした。その中には調査士の人がいるのだが、彼が、不動産で割り込んでいくのは至難の技で、営業ができないと厳しいと言っていた。

それを聞いて自分は6年を挽回するものがあると信じていたが、薄々気付いていたが、そんなものないということを思い知らされた。

それに、金を得る手段は、他にも色々あるのである。試験みたいに合格しないかぎりゼロというのは馬鹿らしいし、向き不向きがある、客観的にみて4回やって合格できないというのはむいてないということで。向いてる仕事をすべきなのである。

そんなことを最近かんがえています。 by 同スペック受験生



 これを読んで、さらに苦しい気持ちになった。

 
 ・「司法書士の仕事に興味があるわけではない」という共通点。(注)

 ・「幸せになるために始めたことが、不幸せにしかなっていない現実」という共通点。

 ・この先合格できるかも分からない、合格したところで「営業ができないと厳しい」、なのに、俺は、Yちゃんからの願ってもない申し出を断ってしまったという思い。でも、同時に、「だからって、合格しないまま諦めることもやっぱりできなかった」という強い思いとの葛藤。

 その思いが噴出した。


 ただ、俺の場合、30代後半無職職歴なしで、バイトの面接さえいけない状態で、司法書士の資格でもなければまともな就職はまず無理で(あったところで無理かもしれないが、ないならなお無理)、そもそも他の仕事がどれもできそうになかったから司法書士を目指したという事情もあったので、(Yちゃんとの関係が復活し、Yちゃんとの同棲が先行し、その結果、Yちゃんのお父さんがお母さんと結婚する時にした選択ができるようにならない限りは)、たとえ向いてないにしても、司法書士に固執するしか道はなく、他の仕事に転向することは全く考えていない。


 (注) ただし、金と地位と結婚だけが目当てで、仕事は「興味はないけど、仕方がないから、死んだようにやる」というのではない。
 「社会の役にたちたい」「有意義な仕事がしたい」「必要としながら、もっとも支援の手が届かない“社会的弱者”のために働きたい」という思いもある。
 また東日本大震災が起きた時、「今はボランティアには行けないけど(肉体労働系作業は、オドオド立ってるだけで邪魔になるだけになるのは阪神大震災のボランティアで経験済)、これだけの大震災だから、数年後になっても被災地のためにできるボランティアはあるはずだ。その時に、司法書士の資格を生かした自分にできる(司法書士の資格をもってる人にしかできない)ボランティアがしたい」と思った。その気持ちは今でも変わらない。

 「登記、過払い、成年後見…、正直、今は、やりたいと思うものは何もないなという感じだけど、いつか、その仕事が面白くなったり、やりがいを感じたり、社会的意義を見出せるようになるといいな」という気持ちがある。








最終更新日  2012.09.11 11:24:48

2012.09.09

苦しい努力だけしてすべてが無駄だった人生

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林郁夫の「オウムと私」を読んでると、苦しい努力ばかりしてきたのに、結局、何も残らなかったことがたまらなく切なく苦しくなった。

 林郁夫は、「釈迦の教えにしたがって、自分も解脱を遂げ、すべての生命や存在が幸せになることの手伝いがしたい」という思いから、「解脱」を切実に希求し、厳しい修行の道を選んだ。

 オウムに入る前、林は阿含宗で「千座行」という修行を10年間、毎日やっていた。当時、それは信徒に毎日課せられる修行で、林は、早く解脱したい一心で、しんどい時でも、くそ真面目に、10年間、毎日続けた。10年間、毎日続けるなんて、そうそうできるもんじゃない。
 
 ところが、その修行は、後に毎日やらなくてもよいものになり、林は、「因縁を切ることのできるはずだった、あるいは、グルとの精神的絆を強め、潜在意識の抑圧を解放する修行に入ることのできるはずだった千座行も、4回目の周期に入っていたのですが、それもやってもやらなくてもいいということになってしまっていて、いったいこの十年間、何を一生懸命してきたのだろうと、虚しい思いに衝き上げられ」た。


 オウム出家後は、基本的に食事は1日1食、睡眠は3時間、あとはみっちりワークと修行だ。

 「私もなるべく早く極限修行に入りたいと思っていたので、睡眠時間も師に課せられていた三時間にして、就寝後ひとりで、「グル・ヨーガ・マイトレーヤ・イニシエーション」という瞑想をやっていました。かつて石井が伝授してくれたとき、これをやっていれば修行者としてみちを外すことはないといっていたものでした。」

 「平成二年九月から、私は熊本県波野村のシャンバラ精舎で、極厳修行に入りました。シャンバラか計画とは名ばかりで環境は最悪でした。私たちが行ったころはまだ井戸もなく、生活用水は雨水をためて濾過装置にかけたものを使っていました。
 
 六百時間の「立位拝礼」を終わっていないものはそれを中心に、終わったものは呼吸法、瞑想法、教学などの修行を行い、1日1食、3時間の睡眠のほかは、ビッシリとメニューを組まれていました。極限修行の名に恥じぬさまざまな経験をしました。」


「救済をおくらせているという言葉には、申しわけないという思いがありました(この時、林は、「君たちが成就しないから救済がおくれている。しっかりやっているのか」と麻原に名指しで叱責されていた)。そこで、少しでも自分の修行をすすめることができるかもしれないと考えて、ヨーガの「ナゴームドニー」を完成させる目的で、舌小帯を切る手術を隠れてやったこともありました。」

(断食修行の後、食への煩悩を断ち切るため)「ちょうどその頃の機関紙「マハーヤーナ」に釈迦の修行時代の話しが載っていて、釈迦がある時期、犬か何かの糞を食べる修行をした、という記述があったのです。私が成就できないのは、まだ極限までやっていないからだ、釈迦がなさったのなら私もやってみよう、極限までやらなければ、と思い、私は自分の便を食べることにしました。…ついに食べてしまいました。」

 
 林のくそ真面目さが伝わってくる。

 
 年末年始、俺があったかい部屋で年こし蕎麦食ったりしてる時も、林は、イニシエーションや「狂気の集中修行」を受けていた。

 地下鉄サリン事件の前も、「平成六年12月からは、文字どおり忙しく、自分の時間というものはほとんどとれませんでした。ワークをこなし、翌年一月の終わりごろからは、ウツラウツラしながら夜中に修行らしきものをし、二時間ぐらい眠り、イニシエーションで待たされる間にウトウトし、という感じの日々」だった。

 けど、歯を食いしばって、こんな苦しい努力をし続けた結果は、一生刑務所。

 
 林だけでなく、出家信者は、1日1食、睡眠3時間で、ワークと修行で自分の時間なんて持てないような生活をしていたわけだが、もしオウムの出家信者が、これだけの苦しみの中忍耐強く続けた努力を、勉強やスポーツ、資格や技能の習得に向けてたら、難関国家資格もとれてただろうし、かなりの腕前になってたはずだ。なのに、苦しい思いだけして、すべてパー。資格として残るどころか、社会からそのすべてを否定される。すべて無意味、無価値。ものすごく切ない気持ちになる。

 
 「あれだけ毎日、苦しい努力をしてきたのにすべてが何にもならなかった」というのが俺と重なって仕方がない。

 俺は、資格も技能も何ひとつないけど、だからといって、ぐーたら怠けていたわけではなく、その時々は常に何かしらを頑張っていた。ただ、俺の場合は、継続てきなかったんだけど…。


 中1の時、陸上部に入った。中1で50メートル13秒の俺が陸上部に入るのは相当の勇気だった。毎日苦しい練習を、泣きながら、吐きながら続けた。毎日辞めようと思ったけど、歯を食いしばって続けた。冬の寒い日も朝練も頑張った。けど、結局、内臓を壊して1年でやめた。それでも、毎日、4時から6時までは、筋トレをやると決めて、欠かさず続けた。「今日はやめようかな」と思うことはあったけど、やめた日は一度もなかった(動機はもちろん、筋肉質ないい体になってモテるため)。けど、結局、今はただのデブ。

 高校の頃も、がり勉で、毎日、自習室で勉強した。「今日はさぼろかな」と思うことは、ほぼ毎日あったけど、結局、そういう時でも、最終的には「行く」方を選択した。けど、結局、受験に失敗。1浪して2流私大。(高3の夏まで遊びまわってたモテ男は、一浪して俺と同じ大学に入ってた)

 大学に入っても、下の日記に書いたように1日数時間かけて「想定問答集」つくったり、3日に1冊読書計画を実践したり…。毎日、歯を食いしばって、森鴎外全集や資本論を読んだ。けど、結局、な~んにも残っていない。今、イアンフ問題についての勉強を再開したけど、内容のレベルは19歳の頃と変わっていない。

 ピアノも、はじめて10年近くになるが、今だにブルグミュラー。やりはじめて2年近くは、1日数時間練習して頑張ったのに、結局、それも継続できず、今はまったく触ってもいないから、あの頑張った2年もすべてパー。

 司法書士試験勉強も5年目に入るわけだが、結局、資格とれずにやめることになったら、すべてがパー。

 ほんとうに、これまでの人生を思いだしてみると、ほんの数年を除いては、「苦しみに耐えて、歯を食いしばって頑張った」記憶しかない。「今日はさぼろかな」と思っても、「いや頑張ろう」と思い直し、結局、頑張った」という記憶しかない。


 だから、くそ真面目に努力しながら、結局は何にもならなかった林郁夫の人生と自分を重ねてしまう。(俺の努力なんて、林郁夫の努力に比べたらまだまだ足元には及ばないけど)。


 








最終更新日  2012.09.09 22:51:09

2012.09.07

悶々2

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 大学に入学して、俺は、『諸君』などの右翼雑誌や「つくるかい」の本などを読んで、例えば、イアンフ問題なら、吉見よしあき教授(歴史学者。イアンフ研究の第1人者)などの研究者の本などを参照しながら、「こういうのに影響された人がこう言ってきたらこう返そう」という想定問答集を、毎日、1日何時間もかけて手書きでノートにメモしたりしていた。今思い返すと、四六時中、時間があれば、そういうことばっかりしてた気がする。30秒バージョン、1分バージョン、3分バージョンを作って声に出して練習したこともあった。

 しかし、「身のまわりで、誰かがこういうようなことをぽろっと言った時、その場できっちり反論」できるようにはならなかった。

 俺は、「とっさのきり返し」ができなかった。どんなに「想定問答集」を作っても、相手が言ってくることがずばりその通りであることは稀だ。で、いつも、「とっさのきり返し」ができず、どう反論していいか分からず、「口で負けた」みたいな感じになった。「想定問答集」ズバリの時はすごく威勢がいいのに、ちょっと変化球の答えが返ってくるともう言葉に詰まる。それが俺の特徴だった。それに「想定問答集」に書いてることさえ、毎日のように「復習」しないと、すぐにグダグダになってしまった。

 また、レキシシュウセイシュギ者の本を読んで、はじめて知ったことで、「これにはどう反論すればいいんだろう?」と勉強不足で何も言えなくなることもあった。イアンフ問題だけでも、分厚い資料が何冊も出ているし、他にも、ナンキンギャクサツ、カンコクヘイゴウおよびその後の植民地支配、15年戦争全般、明治以降の戦争や事件の評価、東京裁判、やすくに、戦後の日中韓の外交問題など論点がありすぎて、とても勉強が追いつかなかった。俺は、自分の知らないところを持ち出されて、反論できなくなることを密かに怖れていた。

 一方、俺よりはるかに勉強してない人がいた。その人はイアンフ問題で「運動」してる人だったが、「イアンフ問題の運動にかかわってるのに、そんな基本的なことも勉強してないのかよ」と驚くこともしばしばあった。レキシシュウセイシュギ者の本も「ばかばかしい。読む価値がない」と読んでいなかった。けど、その人は、右翼との議論のさいにも俺のように、言葉に詰まることも、ぐだぐだになることもなかった。俺のように「知らないことをつかれたらどうしよう」という怖れはなく、自信にみなぎっているようだった。

 
 ある時、数人の学生とラウンジでだべってた時(その中にはちょっとかわいい女の子もいた)、どういうきっかけでそういう話になったのかは忘れたが、そのうちのひとり(もともと右翼っぽい考え方に親和的だった)が、イアンフについて否定的なことを言い、韓国は何かというと過去の話を蒸し返してどうしようもないみたいな発言をしたことがあった。俺はそれについて「何か言わなければ!」と強く思った。発言した当人に認識を改めてもらおうというより、それを聞いてた他の人(特にかわいい女の子)が、そういう認識を無意識のうちに取り込んでしまうことを食い止めたかったのだ。そして、俺をきっかけに女の子がこの問題に関心をもってくれて、あと、できれば俺のことをちょっとでも見直してくれたらという下心もあった。

 けど、瞬時にぱっと返す言葉が思い浮ばなかった。何からどう話していいのか分からなかった。俺は、かつての「想定問答集」の30秒バージョンの何かを言った気がする。けど、「想定問答集」に書いたように正確には言えなかった。で、その後、発言した当人と数分「議論」みたいになった。けど、俺は全然たいしたことが言えなかった。 「こんなこと自分が伝えたい『本質的なこと』とは全然違うのにな…」「あ、今の表現は厳密には正しくないな」「今の表現は、こう解釈されて誤解される恐れがあるな」「あ~、なんかグダグダになってもうた」「あ~、これじゃ、〇〇ちゃん(聞いてた女の子)に全然伝わらないだろうな」と思いながらしゃべっていた。
 俺とそいつの「議論」がよほど退屈だったのだろう、女の子は別の人に何かを話しかけ、別の会話をはじめた。おそらく、彼女はその後もイアンフ問題に関心をもつことはなかっただろうし、イアンフ問題のニュースを見て、俺のことを思い出すこともないだろう。

 数年前、当時かかわっていたNGOで、若者のセンソウ認識に関する座談会をすることになり、俺も呼ばれた。大学3年の女子大生が3人来ていた。去年からゼミでイアンフ問題をやっているという。高校生の頃からこの問題を「一生のライフワーク」にしようと思って、毎日、数時間かけて「想定問答集」をつくったり、勉強し、いろいろ「運動」もしてきた俺。一方は去年、ゼミで勉強し始めたばかりの女子大生…。

 しかし、女子大生は、淀みなく、自分の思いを自分の言葉できちんと伝えてた。ほんとうにしっかりしゃべっていた。一方、俺は、半分以上が、「え~と」「うまく言えないんですけど…」だった。話した内容も、「結局、お前何が言いたいの?」というまとまりのない内容だった。録画テープを聞いて死にたくなった。ここで「先輩」として、女子大生の前で「いいこと」言えたら、尊敬され、憧れられて、交流がはじまり、やがて恋愛に・・・、みたいなことになったかもしれない。けど、最後に、参加者全員でアドレス交換したけど、女子大生から何の連絡もなかった。

 以前、某団体で、この問題に強い関心をもっている女子大生と知り合いになった。その子はよくブログで、「印象に残った(面白かった・勉強になった)のは、〇〇さんの発言です」、と知り合いの発言を取り上げ、自分の感想を書いていた。けど、そこに俺の名前が載ることはなかった。その子はよくいろんなことに悩み、「いろんな人に相談しました。長電話もしていまいました。私の悩み相談に長々つき合わせてしまい、ほんとうに申し訳ありませんでした」みたいなこともよく書いていた。彼女とはメアドも交換してたが、彼女から相談がきたことは一度もなかった。

 俺をきっかけにしてこの問題に興味をもってくれた女の子はひとりもいない。それどころか、学習会や講演会があるたび、ビラを配って、「是非来てね」って誘っても、講演会や学習会にきてくれた女の子さえひとりもいなかった。 つまり、結局、俺は、これまでの人生で、リアルの知り合いの女の子の誰ひとりにも、何の影響も与えていないのだ。この問題を知り合いに広めるうえで、何の貢献もしていないのだ。完全なおなにーぷれいだ。

 Hさんも、俺がセンセウセキニンの問題に関心があると聞いても「ぽかん」とした顔をしてた。おそらく、Hさんは、俺が、この問題に「一生のライフワークにしよう」と思うまで情熱を傾けていたことをたぶん知らない。

 センソウ関係の大きな集会に行くと、やっぱりおじいちゃん・おばあちゃんが多い。「おっさん8割、おばちゃん2割」のような講演会、学習会なども多かった。恋人も女友達もおらず、ひとりで、あるいは左翼サークルの男と参加して、いつもいつも苦しかった。

 若い女の子の姿を全く見ない集会も多かったが、若い女の子の姿をちらほらとだが見る集会もあった。この問題を「一生のライフワークにしよう」とまで思っていた俺だから、同じ分野に関心をもつ女の子とは「趣味が合う」「意気投合」するはずなのに、そういう分野でも、上に書いたようなざまだから、何の交流も生まれなかった。一緒に「運動」をやっても、ただ「顔見知り」になって、いつの間にか自然消滅みたいな関係だった。

 おっさんが多い中、カップルで参加している若い男女の姿を目にするとたまらなく苦しかった。ある時、イアンフ問題についての小規模な学習会に行った。自己紹介で、カップルで来ていた参加者の女の子が、「私はそれまでこの問題に関心がなかったんですけど、彼がきっかけでこの問題に関心をもつようになって…」と言って、横にいた彼を見て笑顔になった。横の彼も照れくさそうな笑みを浮かべていた。恋人どころか、女友達さえおらず、ひとりで(あるいは左翼サークルの男と一緒に)参加していた俺は、苦しくて、惨めで、羨ましくて、その場にいるのさえたまらないような気持ちになるのを必死にこらえて、イアンフの学習会に意識を集中させていたのだった。

  
 ある爽やかな秋晴れの祝日のことを鮮明に覚えている。まさに絶好のテート日和だった。しかし、そんな日に、俺は、ナンキンギャクサツについての本を読んで、「想定問答集」をつくっていた。彼女も、女友達もひとりもおらず、今、俺のことを考えている女の子は世界にひとりもいないというのに、こんな絶好のデート日和に、「死体が積み重なっていました…」「捕虜の首を…」「血しぶきが…」というのを読んでいる自分…。しかも、苦しい思いをして、歯を食いしばってそんなことしたところで、肝心の大学の単位は落とし、どうせ議論になってもたいしたこと言えず、女の子が俺の発言を聞いてこの問題に興味をもってくれたり、一目置いてくれたりすることもなく、誰に何の影響も与えることがないのだ。なのに部屋にひきこもって、1人で苦しい勉強して馬鹿みたい。虚しいだけ。

 そういう思いでどうしようもなくなった。

 
 イアンフ関係の本を読むようになって、ここ数日、こういうこと記憶がいっきにフラッシュバックしてきて、全く同じ感情が吹き上がっている。

 イアンフ関係の本を読むようになって、司法書士の勉強はほとんどできなくなってしまった。大原特待生試験のリベンジのために勉強するはずだったのに…。ほんと馬鹿みたい。なのに、やめられない。

 







最終更新日  2012.09.08 01:32:41

2012.09.06

悶々とした思い。1

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 今日も、強迫観念にかられるようにイアンフ関係の本を読み、勉強が手につかず、過去のいろんなことを思い出して苦しい。

 その悶々とした思いを書く。

 ※ 検索にひっかからないようにするため、一部カタカナ表記にしている。カタカナが多くて読みにくいと思うがご了承を。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 高校時代の頃から、俺には夢があった。

 俺の夢は、かつての日本のせんそうを美化・賛美・正当化したり、ナンキンギャクサツやイアンフのようなセンソウハンザイを否定・矮小化するようなレキシシュウセイシュギ的言動にきちんと反論できる人間になることだった。

 
 高校の時、社会の先生を通して、そういう人たちがいることを知り、俺は大きなショックを受け、ちょうどその時、「あたらしいれきしきょうかしょをつくるかい」などが発足して大きな話題となり、本屋につくる会の「きょうかしょが教えないれきし」やら、「大東亜戦争は聖戦だった!」「日本はいつまで謝り続けるのか!」みたいなタイトルの本が山積みされている光景に、ほんとに強烈な衝撃を受け、俺の中で日本という国に対するイメージが一変した。(それまではそんなこと言ってるのは街宣右翼だけかと思ってた)

 
その時、俺は、言い知れぬ危機感と、「こういう主張の浸透を食い止め、誰も相手にしないほど隅に追いやる」必要を強く感じた。

 以来、俺は、どんな職に就いたとしても、一市民として、レキシシュウセイシュギ的言動にきちんと反論していくことを、「一生のライフワーク」にしょうと思った。(つまり、俺の夢は、〇〇の職に就きたいという形ではなく、「レキシシュウセイシュギにきちんと反論していきたい」という形になった。だからバイトの飲み会のような席で、将来の夢とか聞かれると答えるのにすごく困り、こういう時、例えば、「パティシエになりたい」というような夢なら答えやすく、女性受けしていいのになと思ったものだ)

 具体的には、

 ・身のまわりで、誰かがこういうようなことをぽろっと言った時、その場できっちり反論できるようになろう。そしたら、発言した当人の考えを変えることはできなくても、その発言を聞いてた第3者への浸透を食い止めることはできる。

 ・討論や対話集会などがあったら出かけていって、レキシシュウセイシュギ的言動に「一理ある」ように思っている人や、「どっちか正しいか分からない」と思っている人に、そういう主張のおかしさに気づいてもらえるように、事実や資料に基づいて説得力のある反論をすることはもちろん、好感のもてる話し方、ディベートのスキルも磨こう。

 ・政治家や有名人がこういう発言をしたら徹底的に抗議し、デモや街頭宣伝や集会などで、広く社会にアピールしていこう。

 ・できれば本が書けたらいいな。

 というようなことを思っていた。「そのうち、そういう分野の代表的論客として、朝生とかにも出れたらいいな」、とかそんな大それたことまで考えていた。

 
 そして、少しでも多くの人に関心をもってもらえるよう、「信頼される人柄」「魅力的な人間」になろうと常に心がけた。クラスの人気者が聞いてた音楽はいつの間にかクラスで流行った。好きな女の子が面白かったといった映画は見ようと思った。同じように、もし、俺の人柄が信頼され、皆に好かれ、一目置かれるような魅力があれば、その俺が関心をもってるこういう問題にも、関心をもってくれる人が増えるかもしれないと思ったのだ。


 だから、、
 ・いつも、穏やか、爽やか、凛々しくあること。
 ・誰に対しても誠実に接すること。
 ・政治一辺倒じゃなく、文学、音楽などにも親しみ、幅広くいろんなジャンルの本を読むこと。
 ・同じ主義・主張をもった仲間うちだけじゃなく、いろんな学生と、また学生だけじゃなく、働いてる人やいろんな年齢の人と話すようにする。
 ・着るものや髪型にも気を配る。

 等を心がけようと思った。
 
 
 しかし、何もかもすべてが挫折だった。(つづく)



 なお、「つづく」と書いてるが、明日続きを書く気力があるか分からないし、他のことが書きたくなるかもしれない。で、先延ばしにするうち、結局、「つづき」を書かないまま終わってしまうかもしれない。ご了承を。


 







最終更新日  2012.09.07 00:27:11

悶々

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Yちゃんのこと、司法書士試験のこと、強迫観念にかられた苦しい読書のこと、書きたいことはあって悶々としているのだが、書く気力がない。

 強迫観念にかられたような読書のせいで、勉強にまったく身が入らない(というかほとんど勉強していない)。


 メッセージはいらん。アドバイスなんて何も求めてないので。

 





最終更新日  2012.09.06 21:54:35

2012.09.05

また…

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 昨日から、イアンフ関係のネット記事やブログを手当り次第読んでいる。図書館で、イアンフ関係の本も借りてきてしまった。

 



  





最終更新日  2012.09.05 21:39:16

2012.09.03

本好きになれない苦しさ

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図書館で林郁夫『私とオウム』を借りて読んでいる。

 
 この本を読む理由は、とり返しのつかないことになったエリートの転落人生を読むと心が和むから。

 俺のような30代後半無職童貞は、「人生つんだ」などと言われる。すでにもうとり返しはつかないかもしれない。しかし、こういう本を読むと、「俺は、まだ林郁夫のような意味では、とり返しのつかないことにはなっていない」という安心感や優越感を得ることができる。それが目当。なんとも歪んだ心性だ。

 ただし、「真面目で優しい心をもった有能な外科医」(俺が想像する林郁夫の人物像)が、なぜオウムにのめりこみ、地下鉄にサリンをまくに至ったのかという普通の人が普通に抱く興味もあるけど。


 で、今日読んだところで感じたこと。なお、ここから先は、本の内容とは全く外れる。ただ、俺自身のいつもの日記を書くのに、林郁夫の記述を借りるだけだ。


 林郁夫は子供の頃から、相当の読書家だったようである。


 
私は小学校を転校しても、教師や友達に恵まれ、屈託なく成長することができました。転校時の担任の先生は、昼食のとき、食事もそこそこに黒板に本の挿絵を書き写しながら「ドリトル先生」の話しを読み聞かせてくださいました。それがとても楽しく、以来読書の習慣がつきました。三年生の頃には、小遣いをもらうとすぐに本屋に行き、許す限りの本を買って、1日中飽きもせずに読んでいました。
 読んでいた本の種類は、童話に限らず、当時あった講談社の少年少女向けシリーズを中心に片っ端からという感じでした。

特に、「三国志」「史記」「水滸伝」「太平記」は好きでした。
 

 小学校四年生の頃から、たしか和歌森太郎編纂の写真入りの「日本の歴史」十何冊かのシリーズをコツコツ買い揃えて、これも暗記してしまうぐらいよく読みました。「世界の神話」や「昔話」、「民話」や「王家の谷」などのエジプト遺跡調査の本も読んだりして、以来、今にいたるまで、民俗学や歴史や考古学に関する情報には興味をもち続けることになりました。



あらためて宗教を正確に知りたいという興味が湧きあがってきました。
 仏教関係の書物、特に釈迦とその根本仏教(原始仏教)にますます強く興味を惹かれていき、増谷文雄、清水正雄、中村元、水野弘元氏などの釈迦や根本仏教についての本、釈迦とその弟子たちに関する本を手に入れるだけかぎり探して読んでいきました


私は小さい頃からいったん本を読みだすと、話しかけられてもそれに気づかないほど没入してしまうことがよくありました。新しい本も古い本も、その匂いまでもが楽しいという、なにしろ本好きだったせいだと思います。

童話の数々を読み返したり、『指輪物語』など新しく出るシリーズを待ち構えて読んだりしていました。


 俺は、こういう記述を見ると、いつもたまらなく苦しくなる。

 
 子どもの頃から、俺は、「本好き」の人に憧れていた。例えば、赤毛のアンのように本の世界に入り込むことができて、想像力を膨らませ、夢中になれたら楽しいだろうなと思った。

 いつも図書館で本を読んでるような女の子や、クラスにいた歴史オタクの男に憧れや羨望をもった。自分もそうなりたいと、図書館で文学や歴史の本を借りた。けど、俺にとって、文学は「分からない」「苦しいだけ」だった。歴史は文学に比べれば読めばまぁ普通に内容は分かるけど、時間を忘れて夢中になるということはなく、やっぱり「しんどい」「苦しい」という思いが先行した。 

 中学の頃も、「いろんな本を読めば、興味は広くなる。いろんな考えに触れて考えが深くなる。想像力が豊かになる。博識になる。今は、とにかくいろんな人の考えを吸収して、視野を広めるとき。できるだけたくさんの本を読もう!」という思いは強くあった。

 で、国語の先生がくれた、中学生におすすめの文学作品のリストを手がかりに図書館で、「片っ端から」読むつもりでいた。けど、やっぱり苦しいだけ。「片っ端」どころか、数冊で挫折した。

 高校の頃の社会の先生は、当時はこんな言葉知らなかったけど、いわゆる「書痴、書物蒐集狂、蔵書狂、愛書狂」という類の人だった。授業の時から、いろんな本を紹介してくれて、相当の読書家であることは伝わってきて、俺はその先生に憧れてたけど、文化祭企画の先生の自宅訪問というビデオでその先生の自宅が映ったときはその光景に圧倒された。とにかく、足の踏み場もないほど、すべての部屋が本で埋め尽くされていた。3000~4000冊はあるとのことだった。それは、俺が今まで考えていた「本好き」のイメージをはるかに凌駕するものだった。

 
 以来、俺は、その先生のような「書痴、書物蒐集狂、蔵書狂、愛書狂」に強烈に憧れ、自分もそうなりたいと思った。「3日に1冊読めば、1年で120冊…10年で1200冊、20年で2400冊」、そんな計算ばっかりしてた。そして、10年後の28歳の時には1200冊、20年後38歳の時には2400冊の本で埋め尽くされている自分の部屋を毎日想像した。

 その先生は、たしか当時35歳(今の俺と同じ年!)で3000~4000冊だから、俺が18歳の時点から3日に1冊のペースで読んでも、その先生に追いつけない。俺は、幼い頃から本を読んでこなかったことを後悔した。

 その先生が、尊敬しているのが、加藤周一という知識人だった。「知の巨人」と呼ばれている人だ。加藤周一の「日本文学史序説」を読んで、その桁違いの博覧強記に圧倒された。加藤周一は、医師であり、評論家だが、戦後の「進歩的知識人」の代表格で、憲法やセンセウセキニンなどの問題について発言を続けてきた人だ。俺が、センソウセキニンの問題に興味ををもち、国文科に進もうと思ったのも、加藤周一がきっかけだった。(ただし、国文科は女の子が多いという動機もあった)

 俺は、国文科に進み、とにかく本を読み漁って、憲法9条とか米軍基地問題とかセンソウセキニン問題とかそういう活動をしながら、その先生のような「書痴、書物蒐集狂、蔵書狂、愛書狂」に、そしていつかは加藤周一のようになれたらいいと思った。

 大学で、俺は、何人かの「書痴、書物蒐集狂、蔵書狂、愛書狂」に出会った。そもそも大学教授はそんなような人ばっかだし、大学が国文科だったこともあって、ピースの又吉みたいな感じの愛書狂や赤毛のアンのようなメルヘンチックな文学少女はたくさんいた。左翼サークルの先輩の自宅にはいったことがないが、べらぼうな読書量であることは一緒に学習会をやっていればすぐに分かった。もちろん、俺は彼らに憧れた。

 一番辛かったのは、彼らが、子どもの頃に夢中になって読んんだ本、自分に読書の楽しみを教えてくれた本について語っている時、〇〇の本にはまったとか、徹夜で読んだとか、そういう類のことを語っている時、好きな作家についていつ尽きるとも知れない話しに花を咲かせているのを、その内容のほとんどについていけず、黙って横で聞いてる時だった。

 彼らのようになりたくて、できる限り本を読もうとした。けど、俺は彼らのようになれなかった。「分からない」「寝食を忘れられない」「まわりの物音が聞えないぐらい入り込めない」「興味がもてない」「面白くない」「苦しい・しんどいが先行する」というのは、子どもの頃とやっぱり同じだった。

 国文科にいながら、結局、大学時代、「好きな作家は?」と聞かれても、答えられる人がいなかった。(今は、「中村文則」と答えることができるようになったけど)

 3日に1冊の計画は、もちろん、2週間~1ヶ月で挫折した。で、しばらく本を全く読まない日が続いた後、また3日に1冊計画を実行して挫折して…、大学時代はその挫折の繰り返しだった。結局、たいした量の本も読めず、卒業さえできず、俺は大学を中退した。大学の時に読んだ本で、センソウセキニン関係の若干の本を除いて、今、俺の頭に残っている本は1冊もない。

 大学を中退してからの生活は、このブログに書いてるとおりで、俺の読書量は、大学時代より、圧倒的に減った。

 司法書士試験の勉強を始めてからは、読書は全くしなくなり、先日、中村文則の「王国」を借りたのが、約8ヶ月ぶりの読書だった。18歳の計画では、35歳になった今は、俺の部屋には、2000冊以上ものの本があるはずだったのだが、貧弱な本棚二つだけで収まっている。


 そんな俺は、今でも、「本好き」の人に対する羨望と、「本好き」になれなかったコンプレックスを強烈に持っている。(注)

 だから、林郁夫の上のような記述を見ると、ものすごく苦しくなるのだ。


 (注):ただし、高校・大学時代とは考え方が少し変わった。今でも、ピースの又吉のような「書痴、愛書狂」には強烈な憧れがあるが、「部屋の中に本が何千冊も…」というような「書物蒐集狂、蔵書狂」になりたいとは思わなくなった。理由は、1、地震の時に危ないから(部屋の中が本だらけで地震の時に本に埋もれて窒息死した人のニュースを2回みた)、2、大学の下宿先から実家に戻るたった1回の引越しの時、俺程度の冊数でも本の処分がどれだけめんどいか思い知ったから、3、自分の外にある財産は地震・火災等で失われる危険性があるし、失う危険性があるものに執着するのは精神衛生上よくないから。今では、俺は、「机以外に何もないシンプルな部屋」に憧れる。本はすべて図書館で借りる。買った本は読んだら売って家に溜め込まない。そして、頭の中に本棚をつくる。決して盗まれない、地震や火災でも失われることのない財産を頭の中に残す。そういうタイプの「愛書家」に憧れるようになった。また、「冊数」に対する拘りがなくなった。当たり前のことだが、大事なのは、「何冊読んだか」ではなく、1冊1冊の本の「読書の質」だ。だから、同じ本を何回も何回も読むようになった。


 

 





最終更新日  2012.09.04 09:08:50

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