プーチンに楯突く恩師の愛娘 「ロシアのパリス・ヒルトン」 (1)
WEDGE 6月25日(月)12時6分配信
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クセーニアの個人サイト http://ksenia-sobchak.com/ |
ロシアの主権宣言記念の祝日にあたる6月12日、首都モスクワで反政権デモが行われた。5月7日にプーチンが大統領に復帰してから最大の抗議活動。昨年12月の下院選不正疑惑に端を発した反プーチンのうねりは一向に冷めやらず、警察発表で約1万5000人、主催者発表で5万人が集まった。
■反政権派を強制捜査
政権は、治安維持を理由に、デモ参加者の違法行為に科す罰金を大幅に引き上げた改正規制デモ法を施行し、この日に臨んだ。露骨なデモ封じに野党勢力は一斉に非難したが、政権が仕掛けたのはこればかりではなかった。
デモ前日の11日、野党勢力の指導者や有名ブロガーなど反政権派の中心人物に大統領直属の連邦捜査委員会が強制捜査に入ったのである。武装捜査員数十人が組織され、10カ所以上の関連先に踏み込んでいった。
その家宅捜索先の1つに都心にそびえ立つ瀟洒なマンションが含まれていた。「ロシアのパリス・ヒルトン」との異名を持つ30歳のセレブ女性の自宅。彼女も選挙不正疑惑をきっかけに、地位と名声と高報酬の全てを失う危険に直面しながら、反プーチンへの旗幟を鮮明にしていた。
クセーニア・サプチャク。1981年、レニングラード市(現サンクトペテルブルグ)生まれ。ツイッターの自己紹介欄には、「テレビ司会者、ジャーナリスト」という肩書きが記されている。
父親は、初めての民主的な選挙で、サンクトペテルブルグ市長に選ばれたアナートリー・サプチャク。ソ連ペレストロイカ時代の民主改革運動の旗手であり、プーチンに政界進出の道を開いた恩師である。
■セレブから「民主的な政治制度」の守護者へ
クセーニアは、父の再婚相手のリュドミーラとの間に生まれた次女だった。アナートリーは、1991年8月クーデター時に、首謀者の共産党守旧派に見切りをつけ、ボリス・エリツィン(のちのロシア初代大統領)を支持、その後、ロシア第2の都市の市長として、新生国家を仕切る要の人物となった。彼女は多感な10代にソ連が崩壊し、国家再建のために奮闘する父の姿を最も近いところで見てきた。
プーチンとかつて親しく交際してきた娘は、金髪のお金持ちのイメージを過去のものとし、亡くなった父親がこの国にもたらした「言論の自由」と「民主的な政治制度」の守護者に転身しようとしていた。
現代のツァーリ(皇帝)は大統領復帰にあたり、恩師の娘の反逆に直面していたのである。
■KGBから足を洗ったプーチン
法学博士として法曹界でも活躍したアナートリーは、1993年に制定されたロシア憲法の起草者の1人となった。共産主義の過去を断ち切り、民主主義の原則を守ることを誓ったこの憲法を、当時、メディアは「サプチャク憲法」とも呼んだ。
レニングラード大学法学部出身の第2、第4代大統領のプーチン、第3代大統領のメドベージェフはアナートリーの教え子だ。図らずも、2人はクレムリンで行われる就任式の際に、恩師が民主主義の魂を込めた憲法に手をかざし、大統領の就任宣誓を行う。
80年代末、東ドイツのドレスデンでKGBのスパイとして諜報活動を行っていたプーチンは、この巨大秘密組織に未来がないことを悟り、失意のまま、故郷のレニングラードに帰った。大学に籍を置き、博士論文の準備に取りかかっていたとき、市議会の要職に就いていた恩師に声をかけられる。
プーチンは大学時代にアナートリーと特段、仲が良かったわけではない。「一学期か二学期に、講義を受けた教師の1人」という程度だという。優秀な人材を自らのスタッフとして引き入れることに苦心していたアナートリーは、外国で勤務したこともあるニヒルで無口な男に目をつけたのである。
■メドベージェフ、イワノフ、クドリン… エリートたちもサンクトペテルブルグ派
KGB将校として確固たる地位につき、待遇もよかったプーチンは当初、傑出した政治家だが直情的な性格のアナートリーに自分の未来を託すことを躊躇した。しかし、KGBに幻滅していた彼は、恩師の熱心な誘いもあって、スパイから足を洗うことを決意した。
市役所に就職したプーチンは、アナートリーの補佐役として、そして、ソ連崩壊後の故郷の再建責任者として、身を粉にして働いた。アナートリーは有能な官史ぶりを認め、プーチンに第一副市長の座も与えた。アナートリーの命を受け、市役所に入庁した仲間たちと、苦難の時代を共に過ごした。
メドベージェフ、イワノフ(現大統領府長官)、クドリン(元財務相)、ズプコフ(元首相)、セーチン(前副首相)…。そうそうたる面々はいずれも国家を牛耳るエリートたちである。サンクトペテルブルグ派との呼び名もある彼らは、サプチャク市長時代に結束が培われたものだ。きっと彼らのうちの誰かは、幼少時代のクセーニアを知っているに違いない。
■アナートリーの落選とプーチンの政界進出
第2回市長選が開かれた1996年、アナートリーは落選した。捜査当局に国家資産横領の嫌疑もかけられ、一時的にパリに亡命もした。一緒に第一副市長の座も追われたプーチンはその後、モスクワに引き抜かれ、華麗なる転身を遂げる。
政界進出への道を開いてくれたアナートリーにプーチンは恩義を感じていた。エリツィンに引き立てられたプーチンが大統領になる直前に行われたインタビューで、彼はアナートリーについてこんな言葉を残している。
「彼は傷のない評判を持った立派な人間だった。さらに、彼は聡明で、率直で、才能がある。彼のような人間は好きだ。彼は本物だよ。サプチャクと私がきわめて近い関係で、親密で、内密の話をしていたことを知る人は少ない」(扶桑社刊「FIRST PERSON プーチン、自らを語る」より)
パリから帰国したアナートリーは2000年2月、プーチンの大統領選挙キャンペーン中、不慮の死を遂げた。殺人の疑いも浮上したが結局、解明できなかった。享年63。葬儀で打ちひしがれるプーチンに、妻リュドミーラと次女クセーニアがそっと寄り添った。その後も、プーチンはリュドミーラやクセーニアと一緒に墓参りをして、恩師の家族と親しく付き合ってきた。
■「ロシアのパリス・ヒルトン」になるまで
クセーニアは子供の頃から、英才教育を受けた。マールイ劇場でバレエも披露したし、エルミタージュ美術館にも作品が並べられた。成人になって首都に行くことを決意し、2002年、政治家や外交官の師弟が通うモスクワ国際関係大学に入学、エリートの卵に囲まれながら、政治や外交を学ぶ。
ロシアのリーダーになったプーチンが社会に安定をもたらし、着実に大衆の信頼を築き上げていった時期に、クセーニアはセレブ女性としての地位を確立した。
周りはプーチンの庇護を受けていると感じ取り、クセーニアを大事にしてきたのだろう。その華麗な経歴に目をつけたのはテレビ界だった。国営企業傘下の放送局が2004年、「ドーム2」というリアリティ番組の進行役を担わせた。
これが当たった。番組は、一般素人の若い男女たちが一緒に家を建てるというシナリオで、恋愛あり、痴話げんかあり、トラブルありの筋書きのないドラマを編集したものだが、視聴率を稼ぎ、クセーニアの名前をロシア社会に知らしめた。
彼女はその後、テレビタレントとして若者向けの音楽番組や娯楽番組に出演して、“しゃべり”の経験を積んでいき、今度は、番組を仕切る司会者役を任されるようになる。2008年にニューヨーク・タイムズが、ロシアのタブロイド紙の隆盛を取り上げる記事の中で、クセーニアのことを「ロシアのパリス・ヒルトン」と紹介し、国際デビューも果たした。
■父親譲りの性格 歯に衣着せぬ発言で人気者に
実際、金髪でお金持ちの有名人セレブは、タブロイド紙が作り出すスキャンダルの主役だった。この頃、撮影された映像作品で彼女は下着姿でベッドの上に座り、男性を誘惑する女性を演じている。社交界でも売れっ子だった彼女はそんなセクシーな役回りも平気で演じていた。
人気を呼んだのは、女性が羨む全ての要素を兼ね備えていたからでもあるが、父親譲りの直情的な言い回しで物怖じせず、大物に対しても歯に衣着せぬ発言を繰り返していたことも大きい。そして、それは同世代の女性たちの声や、欧米諸国の洗練されたライフスタイルに憧れる新世代の声を代弁していた。
SNSやiPhoneを使いこなし、ツイッターでは45万以上のフォローワーがいるし、ファッション誌の表紙のようなデザインの個人ブログも毎日のように多くのアクセスがある。クセーニアは、時代の最先端を行くデジタル文化の寵児としてもてはやされ、地元メディアが行う「影響力のある女性」ランキングでも上位の常連となった。
※つづく⇒“謀反者”恩師の娘を追い詰めるプーチン
著者:関屋泉美(ロシア在住ジャーナリスト)
最終更新:6月25日(月)12時6分
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