Raven Notes-鴉の備忘録
一肇 原画/安倍吉俊 彩色仕上げ/ニトロプラス
「最前線」の期間限定公開、カレンダー小説。9月9日、占いの日ーー。星海社FICTIONSより大好評発売中の『フェノメノ』から、”あの占い師”がスピンオフ!新鋭・一肇が描く「青い男」の怪談!
『Raven Notes』――「鴉の備忘録」あるいは「貪り尽くされる物語」
☆☆☆
ここから始まる文章は、要するに、覚え書きだ。
ほら、よくわからないことを一度文章に書き起こしてみるとすっきりしたりするでしょ? つまり、どれだけ考えてもよくわからないことを自分で整理する為に書き起こされた、いわばメモであり、俗にいう備忘録ってわけ。
だから、もし今あなたがあたしの死に不審を抱いてこの文章を読んでいるとしたら、それは多分、無駄だと思う。ここから先を読んだところで、あたしの『死』に論理的な説明なんてまったくつかない。そういう意味では『遺書』的性格も付随するこの文章だけど、もちろんこれを書いている今現在、あたしは死んではいない。死ぬ気なんかまるでないし、さっきまでかわいい夏服見に行ってたし、銀座ビスケロの焼きプリンに舌鼓打ってたし、さらに今晩のオフ会が楽しみで仕方がないくらい、楽しく生きてる。じゃあ、なぜこれを書いてるかって? それはもう第六感としか言いようがないんだよね。死ぬ気はまったくないけど、強烈に身近に死の気配を感じるから、としか言いようがない。
「ああそうか、鴉さん――あなた占い師でしたね。ご自分の死期でも見えたんですか」
なんて言われちゃうかもしれないけど、それはちょい違う。基本的に占いなんて「ブラフの積み重ね」であるコールドリーディングと「事前調査の賜物」であるホットリーディングの組み合わせなんだよね。そこにちょっとした話術と演出をまぶしたオカルト風セラピーであるわけ。つか、あたしは自分の死期はおろか婚期だって見えないわけで――って、ああ、それだ。その婚期ってやつ。それが、この備忘録の始まり。
もうね、あたしもさすがにいつまでも妙齢の美人で売っていくにも、そこはかとない限界を感じているわけですよ。結婚願望だってちゃんとあるわけ。そりゃあ、ある日劇的に白馬の似合うイケメンが登場するって信じてるほど世間知らずじゃあなくなってるけど、それでもたまに、ちょっと神様あたしの幸せはいつ用意してんのよって叫びたくなるくらいには渇望してるわけ、出逢いってやつを。でさ――恥ずかしながら、ついさっき登録してみよっかなーと思ったわけですよ、その、いわゆる、婚活サイトってやつに。まあ初めのひと月は無料って謳い文句だったしね、ものは試しってことで。でも登録情報に自分のデータを適当に打ち込んで、いざ相手の条件希望欄を見て、はたと指が止まった。希望身長? 希望学歴? 希望年収? は? なにそれ? そんなところにあたしの希望するものはないよ! そんなサラダ風味のアピールであたしが靡くと思ってるわけ? もっとこうさ、人間の根っこに関わる価値観とかあるでしょ? 海賊王目指してるとか、波紋法マスターしたいとか、火星移住に備えてるとか。それももちろん言うだけ大将じゃなくてさ、瞳をきらきらさせて現実的に動いてるような男が。あたしはそんなのじゃないとこうわくわくしないんだよ! 一緒に居て楽しいと思えない! で、髪搔きむしって、挫折した。婚活に入ることにすら挫折したわけ。もう世界が真っ暗になった瞬間――でも、それは起きた。
【やあ、こんちは! ご希望のイケメンだよ!】
「…………」
【夢は世界征服。大好物は人の絶望。たまにこの悪魔! なんて呼ばれるけどね、ははは】
「…………」
【あれ? もしもし? ちゃんと表示されてるかな?】
無論、これは言葉のやりとりじゃなくて、チャット形式のテキスト会話だった――と記憶しているんだけど、でも最初にくどいくらい言ったように、これは覚え書きであり、メモであり、備忘録だ。あくまでもあたしの主観的な記憶を列挙しただけのものなのだ。つまり、あたしは婚活サイトに絶望して突っ伏していたら、いつしか悪魔と名乗るネットの向こうの誰かとチャットが始まっていたというわけだった。
【へえええ、あなた悪魔さんなんだ? マジでイケメン?】
超半信半疑でキーボードを操ってそう書き込み返すと、
【もちろん、もちろん! 小さい頃はそれこそ玉のようなんてもてはやされてさ、楽園では人に真の自由を与え、光の領域へと引き上げる存在とか謳われちゃったりして」
【ってことはあなたもしかして、元〝光を帯びたもの〟と呼ばれた、噂のあの魔界王子さま?】
【いやいやいやー、まー皆まで言わないけれども、そうだね、外見に関しては、白顔ブロンド黄金の翼、そこらを思い浮かべていてくれれば間違いないよ!】
【禿げたおっさんがさりげなく美化申告してるわけじゃなく?】
【あいたたたー。なんちゃって!】
……なんかどうしようもなく痛いのと繫がってるあたしだった。ルシフェルというよりどちらかといえばメフィストフェレスに近い気がするけど、まあ仕事の時間まで暇だったしね。チャットとかも久しぶりだったから、もうホントにめんどいヤツだったら途中で打ち切ればいいやってくらいの気持ちであたしは会話を続けたわけ。
【で、その悪魔さんが何の用ですか?】
【いやあ、忘れ物をとりにきたっていうかね。キミは前私に渡すべきものを渡し忘れたまま消えちゃったからね。探すの苦労したんだよ!】
【ふうん、つーことはあたし前におじさんに会ったわけだ?】
【おじさんじゃないし! 見た目超イケメンだし! 頼むから禿げた男のイメージ画は頭から追い払っておくれよ!】
【あたしだってせめて『ベリー公のいとも豪華なる時禱書』バージョンのルシファー様をイメージしたいけど、とりあえずマイパソコンの画像コレクションには『講談社・悪魔全書』バージョンしかないんだよね】
【ちょ……あれ、禿げてるじゃないか!】
【よく知ってるね……。って――何だっけ? どこであたしがあなたと会ったって? 渡すものって、魂? いつあたしがあなたと契約したの?】
【ああ、そこなんだけど、困るよなあ。悪魔が魂を欲しがるなんて説はいったいどこから生じたものなんだろう。私は悲しいよ。そんなもの欲しがったこと一度もないのに】
そんなチャット会話をしつつも、あたしは自分の繫がってるそのサイトのURLを調べる。まるで知らないサイトだった。履歴から見るに、婚活サイトから飛んでいるようだけど――なんか妙なバナーでも踏んだんだろうか。
【じゃあ、ヒントをあげよう】
不意に、悪魔おじさんはえらそうに言った。
【それはキミがまだ、華やかなりし女子高生であった時のことさ】
【へ?】
【クラスで奇妙な噂が流行ったことはなかったかな? 「青い服の男」というんだけど】
――ああ、なんか覚えてる。確か、全身青尽くめの男に「三つの質問」をされて答えてしまうと近く死ぬとかなんとか。確かそんな話がクラスで流行ったような。
【そう、それそれ。私がその「青い服の男」なんだよ!】
…………。
【……もしもし?】
【はいはい】
【覚えてるよね? キミにも確か「三つの質問」をしたはずなんだけど、キミはとてもとても狡いやり方で切り抜けてしまったんだ! あれが悔しくてねー、私はずっとキミの行方を探していたというわけさ!】
【ああ、あたしもなんとなく思い出してきた】
脳裏にぼんやりとあの日の光景が、蘇る。それはどこか苦い思いを伴っているけど、どうしてかその理由までは思い出せない。つか……あれ? もし、こいつの言う通りだとしたら……
【もしかして、あなた――ハルカちゃんが死んだことに関わってる?】
そう書き込むと、今度は男からの書き込みが途絶えた。
不意に、胃の底から苦いものが湧き上がる。忘れていたいつかの悪夢がどんどん現実に浸食してくるような不快さがある。にもかかわらず――あたしは治りかけのかさぶたを剝がすように、見えざる手に導かれるように、質問してしまう。
【あたしの母親と、当時の彼氏が死んだことにも?】
【人聞きの悪いことを言うなあ】
――と、やがてまた、おじさんは書き込み始めた。
【私はただ質問をしただけであって、それに関して誰にどんな非難を受ける謂れもないはずなんだ。答えたくなきゃ答えなければいいんだからね】
【「青い服の男」と呼ばれる怪談も確かそんなだったよね。けど――あの話が怪談として恐れられたのは、次の一言の為だったはず。「答えなければよいはずなのに、訊かれたが最後、誰もが答えざるを得なくなる」】
【まあね。それはそうなんだけど、キミは切り抜けた。それがどうしても忘れられなくってね、許せなくなってね、今日ここでキミにそれを訴えているわけさ。あんなやり方、広まってしまうとちょっと私の存在意義に関わってくるものだからね】
男はそんなことを書き込んでくるけど――おかしい。まるで、思い出せない。
確かに、高校時代「青い服の男」にまつわる怪談というか都市伝説みたいなのが流行ったような気がする。けれど、今ここで言われるまでそれと誰かの死――つまり、ハルカちゃん、母、彼氏の死が結びついて記憶されてはいなかった。なぜ? 三人はどういう死に方だった? どうしてそれをあたしはちゃんと覚えていない? 何か重大なことがあったはずなのに、まるで何かに食い散らかされたように、その記憶の地図は細切れだった。
パソコンのモニターを睨みつけながら、爪を嚙み、必死に思い起こす。
そう……あたしは確かに「青い服の男」と出逢っている。「三つの質問」もされた気がする。そして、その質問の中身を知った時、絶望しかけたような――と、そこまで考えた瞬間、首筋の後ろの毛がちりちりと逆立つような悪寒に襲われた。
マズい。これ以上思い出してはいけない気がして、キーボードを操作し、チャットを切ろうとするけど――ログアウト出来ない。ブラウザごと閉じようとしても、どうしても消えない。
【無駄だよ、私はもうたどり着いてしまったから】
その踊るような文字は再び現れた。
【キミがこのパソコンを閉じようと、破壊しようと、次にネットに繫いだ瞬間、私はもうキミの元に再びたどり着くことが出来る。キミ自身をブックマークしたようなものだからね。さあ、どうやって私からキミは逃れられたのか。あの時、何をしたのか。それを思い出してもらえるかい?】
【けどさ、思い出せないんだから仕方ないじゃん】
【思い出せない、思い出せない! それだ、人間ってのはそういう機能をもっているから嫌いなんだ。記憶と呼ばれるあやふやな媒体に頼って生きているくせに、都合の悪いことは忘れてしまう。もしくは正しくない情報に上書きさせて自我を成立させている。それは困るわけなんだよね、私としては。ほらバグってあるでしょ? この世を作ったとされる神様も言われるほど全能ではないってことさ。どうしたって想定外の行動による想定外の結果が生じることがある。キミがかつてやったことはそれであって、私はそれを駆除しなければならない。そんなこと広まってしまったらこの世は大混乱――】
そこであたしはノートパソコンそのものを、パン、と閉じた。
そのまま立ち上がってキッチンに向かい、メンソール煙草を取り出して火をつけた。換気扇をつけて、とりあえずゆっくりと一本吸い、時間を置いてから机に戻る。それから改めてパソコンを開くと――
【ひどいひどい! まだ話してるのに、いきなりかい!】
まだあいつが居たので、もう一度、パンと閉じてやった。
どうやらホントに繫がったままのようだった。こいつが真正の悪魔か、新種のコンピューターウィルスかわからないけれど、どちらにしてもパソコンが人質にとられたのは間違いないらしい。
「参ったなー。顧客データも何もかもこのパソコンの中だしなあ」
最後にバックアップ取ったのいつだっけか。ああ、半年前――下手したら一年くらい前か。ズボラな性格はこういう時に仇となるっていい見本だよねえ、と腕を組む。何にしても、このパソコンをまだ捨てるわけにはいかないし、これからネットに繫ぐ度に現れるってのも非常に困る。ストーカーには毅然とした態度が重要だよね、と思い直して椅子に座り直し、パソコンを開いた。
【で、何をすればいいの?】
【思い出してくれればいい、私に渡し忘れているものを。そしてどうやってあの時、私から逃れたのか、その方法を】
【でも、それ思い出したらあたしは死ぬわけでしょ? 苦労して思い出してそんな結末、あたし可哀想すぎない?】
【可哀想なのは私だよ! ここまでキミを見つけるのにどんな苦労をしたと思ってるんだい!】
ああ、もうめんどいなあ、とか思うけど、今はこいつの言う通りなんとか思い出していくしかないのか。このパソコンの不具合の権化と幸か不幸か話が出来るわけだし、話して納得してもらって退散してもらえばなんか直りそうだし。たしか知り合いの霊媒師もそんなこと言ってたような。浄霊ってのは要するに説得だと。それにあたしは過去に一度こいつから逃れたはずで、一度出来たそれをもう一度出来ないはずがない――そう、論理的には。
というわけで、パソコンの前に座り直して足を組み、当時のことを思い出そうと目を瞑った。
◯
ハルカちゃん――確か、本名は、遠軒春香ちゃん。
ハルカちゃんは、とにかくいい子だった。どこのクラスにもひとりはいる、男子にも女子にも人気があって、いるだけでクラスが明るくなるって子だ。ふわふわの明るい髪をしてて、笑うとかわいいえくぼが出来て、ああ生まれてきた時からたっぷりと愛情を注がれてきたんだろうなって、胸の奥がほくほくと温かくなる子だった。
けど――あたしの中でハルカちゃんの最後の姿には首がない。
ある日、校舎の屋上から飛び降りて首から上が弾けとんでしまった。明るかった髪がこびりついた頭の一部と、もうなんだかわからない赤黒い肉片を散らばらせて、死んでしまった。自殺ってことで片付けられてしまったんだけど――確か、ハルカちゃんが亡くなってしばらくしてからその噂、つまり「青い服の男」の話が教室で広まり始めた。
なんでもハルカちゃんは、死ぬ少し前から夢に「青い服の男」が繰り返し出てくることに悩んでいたのだという。その青服は夢の中で「三つの質問」をしてきて、ハルカちゃんはそれに答えてしまったからあの世に連れて行かれたのではないか、という噂だった。
まあそんなのよくある類の都市伝説で、思春期真っ盛りの高校なんかだと割とよく聞く怪談だよね。当時からあたしは世の中を斜めに見るような子だったしさ、どちらかといえばまるで信じていなかった。無論、ハルカちゃんの死は死で重く受け止めていたけれども、質問に答えると死ぬなら答えなきゃいいだけじゃんって、そんな噂に怯えているクラスメイトを鼻で笑っていたように思う。
●
と、そこまで思い出して――ぞくりとした冷気に包まれている自分を感じた。手のひらには汗がじっとりと滲んでいる。
【続けて】
パソコンの液晶画面を見たら、そんな書き込みだけがあった。ひとつ舌打ちをしてから、あたしはゆっくりと息を吐き、また思い起こす。
●
それから半年ほど経った頃――
そう、その日、あたしは町中で母親の姿を見かけたんだ。それは立っているだけで汗が滲んでくるような暑い日の午後で、あたしは高校を自主早退して駅前に居て――たくさんの笑いさざめく人たちの向こうに、ひとり歩く母親の姿があることに気がついた。当時、母親と折り合いの悪かったあたしはそのまま声もかけずに行こうとしてたわけだけど、その時、気がついた。母親のすぐ後ろに、変わった服の人間がぴったりと寄り添うように歩いていることを。
そいつは、上下とも鮮やかな青のスーツに身を包んでいた。シャツもネクタイも靴も帽子も何もかも青くて、うわセンス悪! ってびっくりした瞬間、ぞくりとした。そういえば「青い服の男」ってあんな感じじゃないの? 男は徐々に母親の背後に近づいていって、やがてハンバーガーショップの前で母親に声をかける。振り向いた母親はびっくりした様子だったけど、その質問に対して一言二言、何かしら答えていた。なんかどうしようもなく嫌な予感がして、あたしは駆け出す。けど、その日はいつも以上に人ごみが凄くて、なかなか近づくことが出来なくて、気がつけば青服の姿はもうどこにもなかった。陽炎が立ち上るように歪む景色の中、母親だけが呆然と立ち尽くしていた。あたしは「今の誰?」って訊いたんだけど、彼女は曖昧な笑みを浮かべるのみだった。
まただ。この人はいつだって肝心なことを話してくれないんだ。そんなガキみたいな――いや、正真正銘ガキだったんだけど、甘えた想いが吹き荒れて、心配した自分が馬鹿みたいってそのまま母親を置いてその場から立ち去ってしまったのだった。
そう――それが、彼女との最後の会話となるなんて思いもせずに。
母親が首を吊ったのは、それからまもなくのことだった。
あたしが高校に行っている間に、二階の階段の手すりにカーテンを結びつけて、そこからぶらさがったせいで、学校から帰宅して玄関を開けたあたしが最初にそれを発見することになった。事件性もなく、簡単な遺書がみつかって、そのまま自殺として片付けられたんだけど――あまり会話のない家族だったしね。父親も弟も、母親が何に悩んでいたのかわからずじまいだったみたい。けど、あたしだけは、ひとり胸の奥が詰まるような思いを抱えて葬儀に出ていた。
――本当に自殺なの? あの青服は母親に何かを語りかけていた。それが「三つの質問」ってやつじゃないの? で、質問て何? その質問に答えてしまったから、ハルカちゃんも母も死んだの? そもそもあの「青い服の男」はいったい何なわけ?
そんなことをひとりぐるぐると考え続けて――
その頃になってようやく、ハルカちゃんと仲が良かった子たちに連絡をとりはじめた。
「ねえ、ハルカちゃんてその『青い服の男』に何を訊かれたの? 『三つの質問』て何?」
そう尋ねて回ったんだけど、誰もがこの話をしたがらなくて、何も教えてもらえなかった。いつしか「青い服の男」の話はクラスにおいてすっかり触れたらいけない類の話となっているようだった。語ってしまえば関わることになる。そう言うクラスの子たちの青ざめた表情は、どこか死人のように思えた。
――ひょっとして「青い服の男」は「死神」の別形態なのかも。
そう思いついたあたしは、そこからひとり書物を漁り始める。あちこちの図書館を巡って「死神」に関連する故事について調べあげ、ネットでも「青い服の男」とか「三つの質問/死」とかで検索しまくった。だけど、そんな話はどこにもない。似たような怪談はあったけど、どうもいろいろな怪談が結びついた都市伝説としか思えなくなった。
途方に暮れたあたしは、とりあえずよく行くオカルト系の掲示板サイトにスレッドを立ててみたりした。
【三つの質問――「青い服の男」スレッド】
そんなうさん臭いタイトルでも、何か情報が得られるかもしれないと考えていたのだと思う。けど、そこは野次馬的書き込みに荒らされるだけで、ぜんぜん「青い服の男」に結びつく情報は得られなかった。
何もわからないまま、さらに半年ほどが経った頃――
モヤモヤとしたものを抱えてただ生きていたあたしに彼氏が出来た。
その人はバイト先の大学生で、きっかけは向こうの告白なんだけど、最初あたしは断った。何も解決していないって想いが拭いがたくあったし、その人も巻き込んでしまうような怖さがじんわりとあったから。でも、その人は変わらず優しかったし、明るく健康的で――当たり前なんだけど、会話に「死」にまつわることが上ることもなかった。つまり、ほとんど忘れかけていた普通の日常をあたしに思い出させてくれた人だった。次第に心を開くようになっていったあたしは、やがてその人とつき合い始めていた。それは、久しぶりに味わうゆったりとした時間で、意味も無く涙が出そうなくらい温かなひとときだったけど――
そう、あたしはやっぱりつき合うべきじゃなかったのだ。
ある平日の午後――あたしは夢を見た。確か中間テストの真っ最中で、平日の午後早くあたしはもう家に居て、でも勉強に身が入るたちでもなく、ベッドに寝転んでいたらそのまま寝付いてしまったのだろう。夢の中では、あの日見た「青い服の男」がゆっくりと歩いていた。
どきりとして、夢の中で足を止める。
もう関わりたくはない。それが正直な思いだったと思う。あんなあやふやな存在に人生を搔き乱されるのは間違っている。そう思った。そのまま青服が通り過ぎるのを待とう、と物陰に身を潜めたところで――けれど、あたしの心臓は冷たく高鳴った。
青服は誰かの跡をつけていて。それが、彼氏だと気がついて。
――ちょ……ちょっと待って? その人は関係ないでしょ!?
そう声にならぬ声で叫びながら、いつしかふたりに追いつこうと駆け出していた。けど、その足は粘るように動きが遅く、あの日と同じように、あたしの前には人の壁が立ちはだかっていく。人と人の間から、「青い服の男」が彼氏に話しかけてるのを見た。彼氏は振り向いて、やっぱり驚いたような顔をして立ち止まっていた。
――駄目。答えては、駄目。
そう泣き叫びながら、ようやく気がついていた。寂しさや苦しさを埋めるようにつき合い出した彼氏。温かな気配へと逃げ込むように築き始めた甘酸っぱい関係。それでも、この人のおかげでこの世界にはちゃんと色があるんだって気がつかされ、この人のおかげであたしの精神の糸が細く細く摩耗していたことを知ったくらい、あたしは救われていたのだ。
「あたしに用があるなら、あたしに言いなよッ!」
そう叫びながらようやくふたりに追いつき、ついにあたしは青服の男の袖を摑んでいた。
そして――その時。
初めて、青服の男の声を聞いた。
どこかで聞き覚えのあるその低い声は、彼氏に尋ねていた。
「□□□□□□?」「□□□□□□?」「□□□□□□?」
――「三つの質問」。
――答えてしまえば死ぬという、その質問。
ようやくその中身を耳にしたはずなのに――意識はそこから強制的に退去させられて、あたしは夢から醒めていた。
そこは、自分の部屋のベッドだった。まだ高い日が差し込む、自分の部屋。制服から着替えもせず、あたしはひとり涙目で横になっていた。まだ夢の余韻がそこかしこにこびりついていて、心臓は高鳴り続けていた。意識がはっきりとするやいなや、すぐさま起き上がり、あたしは彼氏のケータイに電話する。
けれど、出ない。着信音が十五回を数え、留守電に切り替わったところで電話を切った。いや、今はまだ大学の講義中なのかもしれない。移動中なのかもしれないじゃないか。そう自分に言い聞かせたけど、ハルカちゃんの時のこと、母親の時のことを思い出してしまい、凍りつくような不安で息が出来なくなった。そこから逃れるように、あたしは机に向かい、引き出しからタロットを取り出す。死神について調べていた頃、興味を持って買った一セットだ。その時、使い方も覚えた。
ゆっくりと息を吐き、机の上でタロットを大アルカナ形式で展開させる。彼氏のことを念じながら、タロットに尋ねた。けれど、彼氏の近い将来――そこに現れたカードに愕然とする。もう一度タロットを混ぜ、再び今度は小アルカナで展開させる。そして、その結果を再び手で弾き飛ばし、次に展開法を、ケルト十字、隠者のランプ、カーターホフへと変えてみる。けど結果はどれも同じだった。あたしはそのまま部屋を飛び出した。
タロットなんて、気休めだ。
カードだって何にでも適応出来るように意味付けられていて、人の不安定な心に寄り添うだけの代物だ。そう思おうとしたけど、その一方で、五度のタロット占いで同じカードが出る確率を計算してしまう。大アルカナで22枚。小アルカナで56枚。つまり――最初のふたつだけでも1/1232の確率だ。それは――それは、さすがに何かを確定しているんじゃないか。
彼氏の大学は隣町にあり、そこに向かうバスを待つ間、あたしは不安から逃れるようにかつて【「青い服の男」スレッド】を立てたオカルトサイトを久しぶりに覗いてみた。無意味な荒らし的書き込みの他、無数のアダルトサイトの広告が貼られていて――
そのずっと先に、それを見つけた。
【青服なら見た】
その、たった六文字の書き込みに息が止まる。
書き込まれた時間を見ると、つい五分ほど前のものだった。
●
【――ほう?】
そこまで思い出してたら、久しぶりに悪魔おじさんが書き込んできた。
【掲示板の向こうにいる誰かが、私のことを知っていたと?】
【たしか……たしか、そうだった】
【面白い。続けてみたまえ】
●
……ええと、急に話しかけられたからわけわかんなくなっちゃったじゃん。
そうだ、まだいるかもしれない、とあたしはすぐその掲示板に返事を書き込んだんだ。
【どこで? どこで見たの? あなたは誰?】
バスが来る間、あたしは何度もそのページを更新して返事を待つ。ようやくバスが到着して、中に飛び込み、席に座ったところで返事が待ちきれず、もう一度書き込む。
【あたしの場合、夢に現れた。現実でも見た。どっちもそいつが自分の知り合いに話しかけているの。そしてその知り合いはみんな死んでいくの。あれは何なの? あの男は何者なの?】
そう書き込むと、あたしはケータイを拝むように握りしめた。
返事があるまで無限の時間が流れたように感じられたけど、それは一分も経っていなかったのだろう。やがてまたその誰かの書き込みが現れる。
【質問に答えてしまったの?】
どくんと心臓が鳴り、なんと答えるか考えている間に次の書き込みが現れた。
【ならば残念だけど、その人はもう助からないと思う】
あたしは書き込む。
【あなたはその質問の内容を知っているの?】
【知ってる】
【教えて。その質問は何なの? 訊かれて助かる方法があるの?】
【あるけど、あまり勧められない】
【死ぬよりぜんぜんいいじゃん! 教えてよ!】
すると――
その意味不明な書き込みが現れた。
【ねえ、怖い?】
…………へ?
【あなた、今、怖いの?】
【怖いってどういう気持ち?】
連続して書き込まれたその言葉に、ぞくりとした。
――なんなんだ、こいつ?
怖いに決まってんじゃん! つか馬鹿じゃないの? ひょっとしてあれ? こいつ、辺り構わずオカルト的妄想をまき散らす電波ってやつなの? いや、あたしも人のことなんてぜんぜん言えないけどさ、だいたいこんな掲示板に真っ昼間から書き込んでいるようなやつだし、オカルトに入り込みすぎたちょっと変なやつなのかもしれない――これ以上どう会話をしていったらよいのかわからず書き込めないでいたら、その文章は現れた。
【そろそろ行かないと】
――え? 行くって?
【宿題をしないといけないから】
……し、宿題? って――は? こいつ、まさか小学生? つかあたし小学生にからかわれてたわけ? いや――いや、この際、小学生でも誰でもいい。それが都市伝説だとしても、もし答えがあるなら教えてほしい。あの「青い服の男」に関わった身内がもうふたりも死んでいるのだ。相手が小学生だろうと何だろうと、これは地獄に垂れ下がるたったひとつのロープだった。足下も見えないほど暗く、どこまでも冥い闇が広がるこの世界で、唯一あたしの前に下りてきたロープだった。機嫌を損ねて、ネットの向こうに消えてしまわれたら、その時はもう本当に終わりなのだ――
そう思い、震える指でケータイを操作して、答える。
【怖いよ】【すごく怖いんだよ】
湧き上がる涙をこらえながら、次々と掲示板に書き込んでいく。
【だからお願い。何て訊かれて、何て返せば助かるのか教えて】
すると――
ネットの向こうから答えはもたらされた。
【青服は最初に『私の名前は何でしょう』と訊いてくる】
――名前?
【次の質問は、『私の子供の名前は何でしょう』】
――子供? なんで? あの青服、子供いるようなやつなの?
【そして最後に、これがトリックなんだけど、青服はハコの中身を訊いてくる。それにけしてひっかからないで】
……トリック? ハコ? ひっかかるなって――つか、ぜんぜん、わからない。まったく意味がわからないけど、わかった。了解した。うっかり乗り過ごしそうになっていた停留所近くで、慌てて叫んで降車ベルを押しまくって、あたしは飛び降りた。大学への道のりを駆けながら、もう一度彼氏に電話する。何度か着信音が鳴って、もしもし、という聞き慣れたあの声が耳に届き、その瞬間、ぶわっと涙が出た。
「……ああああっ、よかった! 生きてた!」
《何の話だよ?》
「いいの。こっちの話だから。ねえ、よく聞いて。あたしのこと大好きだったら、これから言うことを絶対に覚えていて。たとえ夢の中でも覚えていて」
《おいおい、落ち着けって》
「いいから、聞いて! もし知らない誰かに『私の名前は何か』と訊かれても誰の名前も言わないで。『私の子供の名前は?』と訊かれても知っている人の名前は言わないで。そして――」
《なんで知ってるの?》
その彼氏の言葉に――心臓が痛いほど鳴る。
《いや、俺が見た夢。さっき授業中にふいにうとうとしてさ。夢の中で訊かれたんだ、青い服着たやつに。私の名前はって》
「なんで――何て答えたの?」
《何って、俺の名前。飯田公彦》
「ど――どうして? どうして知らない人に、自分の名前を答えるの?」
《知らないやつじゃないよ》
…………え?
《だって、その俺の後ろに居た青い服着てたやつって》
その言葉の続きが、あたしに届く瞬間――電話の向こうで凄まじい音が響いた。
誰かの悲鳴がとどろき、ガラガラとした金属音がそこに重なる。何かが地表に降り注ぐ音が間断なく続き、無数の叫び声だけが受話器の向こうから聞こえてきた。
ケータイを耳にあてたまま……
あたしの体は、固く、重く、凍りついていく。
為す術も無く、抗いようの無い……深く、冥い、沼。
そこにはまり込んでいくような絶望――ただ、それだけがあった。
◯
受話器の向こうに聞いたあの音は――
耐震補強中だった校舎の資材が、突然崩れ落ちたものだった。
公彦の通う大学の中庭には無数の学生たちがたむろしていて、あたしはその人ごみを搔き分けて前に進みながら、そのことを知った。「学生が巻き込まれた」「救急車はまだか」「早く助け出せ」そんな声の連なりに混じって「もう無理だ」「あれじゃあ生きてない」という声も容赦なく耳に飛び込んできた。
そして、あたしは――たくさんの人の隙間から、それを見た。
折り重なるように積もった赤茶けた鉄骨の隙間から覗く、公彦のスニーカー。見覚えのあるジーンズ。そしてそれを包むように赤黒い液体が地面に染み込んでいた。猛烈な吐き気に襲われ、そこから一歩も前に進むことが出来ず、やがて到着した救急隊員や先導する大学職員たちに押しのけられるようにあたしは人ごみの端に流される。
そこからは――よく覚えていない。頭がとにかく熱く、すべての音が混ざり合うような混乱だけがあった。どれくらい時が過ぎたのか――まだ公彦と繫がったままのケータイを握りしめたまま、いつしかあたしはひとりふらふらと歩き出していた。気がつけば、時折公彦と来ていた駅ビルの屋上ガーデンへとたどり着き、そこから大学の校舎の方向をひとり虚ろに見つめていた。
目に映る光景のすべてが夢の中の出来事のように白く霞む。初夏の風が髪を揺らし、制服の中をくぐり抜けるようなその感覚で、ようやくあたしは言葉を取り戻した。
「……何が……どうして……こんなことが起きてるの? 青い男は何者なの? いったい、どうしてこんなことが起きるわけ?」
ぐしゃぐしゃに顔を歪ませて、屋上の端の金網を握りしめ、誰に向けたわけでもない質問を繰り返す。全部、夢なんじゃないか。すべてあたしの勘違いで、今から大学に向かえば公彦が笑って立っているかもしれない。あのスニーカーだって、ジーンズだって、他の誰かのものかもしれない――そう言い聞かせてみるけど、足はそこからぴくりとも動かなかった。
ふと頭上で何かが羽ばたく音がして、顔を上げる。
屋上のフェンスには数羽の鴉がとまっていた。黒々とした瞳はどれもあたしに向けられていて、嘲るように鳴いている。それは何か大事なことを告げているようで、けれど、それがけして届かないと知っているかのような鳴き方だった。
「ねえ……教えてよ……」
鴉たちを睨み、あたしは言った。
「何か知ってるなら……何が起きているのか、知ってるなら」
お願い、教えてよ。
そう叫びかけた時――それは、聞こえた。
「私の名前は何でしょう」
身震いするような悪寒の中――
ゆっくりと振り返ると、そこには目を貫くような鮮やかな青があった。
●
……そうだ。
あの日――あたしはそう訊かれた。
確かに「青い服の男」と出逢い、そう訊かれたのだ。
【……続けて?】
ネットの向こうから、その書き込みは浮かび上がる。
【私が知りたいのは、そこから先だ】
不意に、その文字は揺らいだ。
――本当に、思い出していいのだろうか。
あたしは今、どうしようもなく相手のペースに嵌っている。奈落へと続くトロッコに乗せられているような心地がする。しかも、それはどこをどう見回しても分岐器が見当たらない線路の上のトロッコだ。逃れようもなく、そもそもの最初から勝ち目のないやり取りであった気がしてならなかった。
「まさか本当に、このパソコンの向こうには……」
足下から這い上がってくる嫌な気配と同時に――
それでも、その光景は止めようもなく広がっていく。
●
青、蒼、碧、アオ。
白く霞む世界に、それらは浮かぶようにあった。上着、シャツ、ネクタイ、スラックス、そして目深にかぶった帽子――そのすべてが空に吞み込まれるような青で統一された誰かが立っていた。
「あ……あなた……」
時が止まったようなその場所で、あたしはあたしの声を誰か別の人の声のように聞く。
「私の名前は、何でしょう」
懐かしく、すごく身近で、そして、どこか認めたくないむず痒さを感じさせる、その声色。そんな底冷えするような気配を漂わせ――そいつは、穏やかに尋ねていた。
「あ……あなた……もしかして……」
すると、青服はゆっくりと帽子を傾け、その下の顔をあたしに向ける。
そう――それは。
帽子を片手に持ち、長い黒髪をさらりと垂らしたそいつは。
あたし、だった。
全身を青の衣裳で包み、微笑むそいつは、まごうことなき〝あたし〟だった。
お腹の底から湧き上がるような吐き気をこらえながら、ようやく理解する。どこか聞き覚えのあるその声は、録音された自分の声を聞いているような違和感だった。自分の影が自分とは別の動きをしているような、反逆するはずのないものが反逆し始めたような、不可解な現象を目にしている恐怖だった。
「私の子供の名は、何でしょう」
そんなあたしをくすりと笑い――青服は次にそう尋ねてきた。
だけど、その顔は。
「………………ひ」
今の今まであたしの顔があったその青服の上には、死んだはずの母親の白い顔があった。
そうか――そうだった。ようやく忘れかけていたあの時の絶望が形を成していく。
自分が自分の名を訊いてくる。自分の母親がその子供の名を訊いてくる。そのどちらも、答えは「自分の名」だ。だから、青服に質問された誰もが自らの名を答えてしまうのだ。
すると今度は、青服は上着の陰から何かを取り出した。それを見るまでもなくあたしは悟る。最後の質問はハコだ、と思う。
「このハコの中には、何が入っているでしょう」
そんな予想通りの質問とともに青服が差し出したのは――つややかな白い陶器で出来た骨壺だった。青服の顔は、いま崩れ落ちていた。肉片はいつしかぼろぼろと剝がれ落ち、そこには白くひび割れた頭蓋骨がむき出されていた。
――死神。
やはりそうだったのだ。こいつは死神だったのだ。そして「三つの質問」とは、あらゆる角度から「あたしの名」を導くためにあるのだ。けれど――どうしてこんな回りくどいやり方をしてくるのかわからない。青い服の意味も、どこからやってくるのかも、どうしてあたしにだけ見えるのかもわからない。わからないけど、とにかくこの質問に答えたら次に連れて行かれるのはあたしなのだ、ということだけがわかった。震える足で必死に地を踏みしめ、唇を結ぶ。何も答えてやるものか、と懸命に歯を食いしばる。
恐怖というよりも――こみ上げる悔しさで身が震えていた。
死に直面するっていうことは、もっとこう諦観を突き抜けた清々しいものなのだろうなってどこかで思っていた。ほら、光溢れる無限空間で賛美歌が鳴り響いていたり、白いもやのかかった世界で三途の川が見えるとか。それがこんな回りくどい、卑怯なやり方であったことに、あたしは失望しているのだった。どうせその骨壺にはあたしの名が記されているのだろう。そんないろいろな方法で、こいつはあたしにあたしの名を言わせようとしているのだろう。やり方が下劣すぎる。クズすぎる。何か少しでも反撃してやりたいとお腹の底から願った、その時――
その骨壺に刻まれた名前に気がついた。
◯◯由貴子。
そこにはあたしの名前があったけど、それは一文字間違っていた。
あたしの名は、◯◯由起子だ。どんなことがあっても、自分で起きあがれる子になるように、という願いを込めたという。そんな母親の言葉がいつかの染み入るような笑顔とともに思い出された。まだあたしと母親の間に何のわだかまりもなかった頃の笑顔だった。
……あたしは、どうして母親と距離が出来てしまったんだろう。
……いつからあの人を遠ざけるようになってしまったんだろう。
それは、母親が昔の恋人の手紙をいつまでもとっていることを知ってしまった日からだ。人の想いというものは簡単に捨てていいものじゃないから、なんて母親は言っていたけど、あたしにはそれはあたしたち家族に対する裏切りだと思えて仕方なかった。けれど、母の葬儀のときにその手紙を見て気がついた。その昔の恋人というのはとうの昔に死んでいた。もうあたしたち家族に干渉することの出来ない存在だった。母は、死んでいるからこそ捨てられなかったんじゃないか。その人が生きた証を捨ててしまうことで、本当にその人が死んでしまうと思ったんじゃないか。
不意にそんな考えが下りてきて――世界がじんわりと滲んでいった。
生きてさえいれば、また悲しいことも楽しい思い出で塗り替えていくことが出来る。けれど、死者はもう戻ってくることも出来ない。何も語ることは出来ない――そう母親は言いたかったんじゃないか。
「ねえ、あんた……」
ふつふつと怒りがこみ上げてきて、あたしは口を開いていた。
「あんた、死神のくせにッ――人の名前、間違えてんじゃねーよッ!」
あたしは。
あたしの名前は。
母親が名づけてくれたあたしの大事な名前は。
あたしが正しくあたしの名を叫びかけた、その瞬間――
白く霞む世界に、その色は流れ込んできた。
――赤?
それは、ランドセルの色だった。
そこには真っ赤なランドセルを背負ったひとりの少女がいた。
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【――そいつだ】
液晶画面の向こうのおじさんがそう書き込むと同時に、
「……そうか」
あたしも呟いていた。
――そうか、そういうことだったのか。
ようやく、あたしはすべてを思い出していた。どうして自分の中でその記憶が消えかけていたのかを知った。
「危なかった」
「あなたは、またあたしの名前を尋ねていたんだね」
その残酷な真実に血が逆流するように頭が熱くなる。
そうだ――あたしは忘れていたんじゃない。
あたしの物語は、すでに貪り尽くされていたのだ。
「あの日、奪い損ねた〝あたしの名前〟を――あたしが自ら封じたその名前を、あたし自身に思い出させ、口にさせる為にあなたは現れた――そういうわけでしょ?」
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〝ひっかからないで〟
その時、あのオカルトサイトの掲示板に現れた、誰かの書き込みがあたしの頭の中いっぱいに広がっていた。それは赤いランドセルの少女と重なるように鮮やかに描かれていく。
そう、あの掲示板に書き込んだどこかの誰かは言っていた。
最後の質問にこそ気をつけるように、と。
ハコ。そこに記された名前。
間違ってる、あたしの名前。
……わざと、だ。
わざと青服は、あたしの名前を間違えていたんだ。
ていうか……死神がそんなことする? ひょっとして、死神なんかじゃない? じゃあこいつは何モノなの? そして――あの小学生は誰で、どうしてそんなことを知っているわけ?
その時、青服がゆっくりと振り返るのを見た。そこに予期していなかった少女の存在を認めて、僅かに姿勢を正す。
恐らくは生命の息吹を奪うかのようなその視線を黙って受け止め、少女はふわりと動いた。
小さな右腕をゆっくりと上げ、どこかを指差す。
それは――屋上のフェンスの上だった。そこには、さっきまで数羽しかいなかった鴉がいつしか空を黒で染め上げるほど群れ集い、あたしを彼岸へ連れ去ろうとするかのようにこちらを見つめていた。彼らは今までもすべてを見てきたのだろう。そしてそのすべてに加担することなく、ただ傍観してきたのだろう。青服が何者かも、少女が誰かも、今ここで何が起きているのかその何もかも知っているくせに、ただ見つめてきたのだろう。今までも――そしてこれからも、永劫の時の川に無数の想いが潰えていく様子をただ見つめていくのだろう。
語っては、駄目なのだ。語れば、関わってしまうんだ。
――でも、でも、あたしはどうすればいい?
ここまで関わってしまったあたしはどうすればいい?
その時、どこかに置き忘れられたような風鈴を思わせる音が響いた気がした。
それが少女の声であったのか――これだけはどうしても思い出せない。けれど、その風鈴のような音とともにその言葉は唐突に頭の中に下りていた。
〝なまえをすてて〟
――名前を、捨てる? どうして、あたしが名前を捨てなければならない?
でも不思議とそれが正しいことであり、唯一ここから逃げ出せることなのだとあたしは確信する。そうしなければ、あたしは死ぬまでこいつにつきまとわれるのだと理解出来た。けど――けど、それは無理だ。この名前はあたしのもので、あたしだけのものだ。あたしがこの世に生まれて、切なる願いと希望を込めて刻まれたあたしがあたしである印だ。それを捨てるってことは、あたしが大事にしているものをすべて捨てるってことだ。名前を捨てたら――あたしは何者でもなくなってしまう。ここまで紡いできた家族や友人や大切な人たちとの繫がりが途絶えてしまう。
そう涙目で訴えるあたしを、ランドセルの少女はただ黙って見つめていた。
少女は、ただ長く奇麗な黒髪を風に舞わせている。これだけ離れていても、その子の顔の造形の優美さが際立ってわかる。とても、とても、奇麗な――ううん、そんな説明では追いつかない。少女は、まるで高名な職人が生涯最期の仕事として魂を塗り込めて作り上げたビスクドールだった。この世に存在してはいけないと見る者に畏れを抱かせるような、奇妙な不協和音がある。それは、少女の瞳だった。神に祝福されたような顔立ちと、悪魔に愛されたようなその瞳の違和感が、彼女の美しさを畏れに昇華させているのだ。
吞み込まれそうなほど冥い瞳であたしを見つめ、少女は小さく頷いた。
「…………あ」
それに気がついたとき、肌を裂くような冷気が吹き荒れた。それが、青服から滲み出てくるものでは無く、あの赤いランドセルの少女の黒い瞳から迸っているものであると気がついて、ずっとこらえていた涙がどうしようもなくこぼれ落ちた。泣いたら負けだと我慢していたけど――もう、無理だった。
――あの子は、すでに名前が無いのだ。とうに捨てていたのだ。あんな……あんな、小さいのに。まだ六、七歳ほどなのに。もう名前を捨てざるを得ない何かをくぐり抜け、あたしにそれを告げる為だけにそこに居てくれたのだ。
「あたしの、名は?」
と、その時――青服のあたしがすごい形相で訊いてくる。
崩れ落ちそうな膝をなんとか支え、あたしはすがるように黒髪の少女を見た。少女はまだ指差している。鴉たちを指差している。
泣きじゃくるあたしの中で、母親の微笑みが広がった。
――死んだら、終わりだよ。生きてさえいれば、楽しいこともくるよ。名前なんてあなたの心にだけあればいい。欲しがる人にはあげちゃいなさい。
あたしは頷き――
そして胸にこみ上げるあたしの名前をなんとか遮り、あの日、告げたのだ。
「あたしは、鴉」
「すべてを知り、なおそれを告げることなく此岸と彼岸の闇を羽ばたく、〝鴉〟」
◎
そこはあたしの部屋だった。
【ああ――また、失敗か】
気がつけば、苦笑しているようにも思えるその一言だけを残し、あいつはネットから消えていた。汗でぐっしょりと濡れた手のひらをハンカチで拭い――あたしは、そっとブラウザを閉じてみる。あっけないほど普通に閉じることが出来た。再びブラウザを立ち上げて履歴を見てみると、そこには婚活サイトまではあったけど、その後の履歴がない。
目を擦って、呆れたように半口を開けた。震える指で煙草を取り出し、また口にくわえる。火は点けず、椅子に寄りかかるようにして、くわえ煙草のまま天井を見上げた。
――やれやれ、ホント、やれやれだ。
あたしは、あの日から本当の名前を捨てて生きてきたのだった。だからあの名前に刻まれた思い出のすべてを忘れていたのだ。
「まさに備忘録――とんだ備忘録だ」
☆☆☆
そこまで書いて、あたしは指を止めた。
タブレット端末の液晶画面には、ただ膨大に刻まれたあたし自身の言葉だけがあった。
ざっと読み返し、不意におかしくなる。と同時に、そもそも自分がどうして備忘録なんてものを書き出そうとしていたのか、そら恐ろしくもなる。これまで日記すらつけたことはないというのに。消去するかどうか少し迷った後――結局、そのテキストを保存して、個人フォルダの中に放り込む。そして端末の電源を切り、鞄の中に仕舞った。
もうすっかり暗くなった夜の街をくぐり抜け、あたしはひとりタクシーの中にいた。
すれ違う車のヘッドライトに目を細め、駅前のイルミネーションをぼんやりと見つめながら、ふと思う。あの時、名前を捨てていなかったら――あたしはやっぱりハルカちゃんや母親や公彦みたいに若くして死んでいたのだろうか。
わからない。「青服」が現れたから彼らが死んだのか、死ぬことが決まっていたから「青服」が現れたのか、それすらわからない。わからないといえば、今自分がどこにいるのか、ちゃんと生きているのかも、時折、曖昧となる。例えば、このタクシーのガラスの向こうを歩く人々は、本当に存在するのだろうか。無数の青白い人工灯がまるで熱帯魚用の特殊な蛍光灯のように思え、人々は水槽の中に群れ泳ぐネオンテトラたちのようにも思える。まるでいつまでも続く夢という名の水槽だ。
いや――そういえば、あたしはもうずいぶん夢を見ていない。でも、それは日常の眠りが深いわけではけしてなくて、夢に似た何かを確実に見ていたはずなのに、再びこの世界で目覚める代償としてその光景を根こそぎ奪われたような喪失感があった。
けれど、ほんのたまに――
目覚めの時、何かの残滓を感じることがある。
それは、鳴き声だった。無数の鴉がどこかで鳴いているような声なのだ、と気がついた。
何かとても大事なことを告げようとしていて、けれどそれがなんだかけして伝わることのないその声は、真っ白なあたしの夢の世界にも鋭く、深く、刻まれるのかもしれない。あたしの身代わりとなったどこかの鴉の恨み節なのかもしれない。
結局、あの青服が悪魔なのか、死神なのか、どこかの浮遊霊なのかはわからない。それでも、あの青服の本質が死期そのものであって、名無しの小切手のようなものであるのは確かだった。どうしてそんな理不尽な存在がこの世界をふらふらしているのかはやっぱりわからないけれど、そこに名前を刻んだ瞬間、機能してしまう何かなのだ。
そして、そこに偽りの名を刻んだあたしは――
いつか来るその日、いったいどういう死に方をするのだろう?
そんなの死んでしまったあたし自身にはほとんどわからないわけだけど、でもなぜか、それはあまりいい死に方ではないと思えた。お葬式でみんなが花を添えられるような奇麗な死に顔なんてそこにはなくって、きっと見ない方がいいって言われるような――ううん、下手したら死体すら原形を留めていないお葬式かもしれない。ずっとあたしが死ぬことを待っていた何かに一斉に群がられ、『死』そのものを貪り尽くされるような拡散――
と、その時、不意にその単語を思い出した。
ルシファーブルー。
確か、熱帯魚を照らすあの青白い蛍光灯は、そう呼ばれていなかったか。
「なるほど、ね」
あたしは冷たく微笑んで、窓ガラスの向こうを回遊する熱帯魚のような人々に、そっと指を伸ばす。その指先がガラスに触れて、彼らにあたしが届かないことを改めて知る。
向こうからしてみれば、ガラスの中にいるあたしこそが熱帯魚なのかもしれない。
そしてやっぱり時折指を伸ばしてみているのだろう。あたしには見ることも叶わないその指先を。けれど向こうにも、あたしの場所は探し当てられないようだった。
◯
「いらっしゃいませぇ! おひとり様ですか?」
オフ会会場であるファミレスに入るとすぐに、かわいらしいウェイトレスに出迎えられた。
「んと、ええとね……」
明るいポップミュージックの響く店内を見渡すと――ああ、もう先客が居た。
オカルトサイト《異界ヶ淵》でもひときわヘタレで知られた新参くんがひとりで席についていて、何やら懸命に手紙らしきものを書き綴っていた。
今日のオフ会の発起人である彼の背中に近づこうとした、その時――
唐突に、冷たい風が心に吹き荒れた。
そのじっとりとした死の気配とともに、あの日の光景は唐突に蘇る。
あの時、屋上に現れてくれた、あの赤いランドセルの少女。
その無機質な美しさと寂しげな佇まいが、鮮やかに眼前に描かれていた。
「――ああ、そうなんだ」
もし、あの時の少女が実在し、まだどこかで生きているとしたら。
そして、今も闇の向こうでひとり苦しみ抜いているのだとしたら。
そこで言葉を吞み込み、あたしは静かに目を瞑った。
鴉はいつだってすべてを知っている。そしてそれをけして語らない。
だからこそ、彼らは不吉であり、美しい。語ることによって引き起こすこともすべて見えてしまうから。人の運命など所詮他人に動かすことは出来ないのだから。見えていることを気軽に語ることが、どれほど罪深いことかを知っているから。
それは、今日ここに改めて――あたしの指針となった。
……え? 占いなんてコールドリーディングとホットリーディングを組み合わせた、オカルト風セラピーじゃないのかって? うんそう、まったくその通り。
でも、あたしは言ったよね? 基本的にって。
そこには当然、例外ってやつもあるってわけで――
やっぱりこの世は深淵で、果てし無く面白いものだよねえ。
《了》