経済学部 教授
本学の第2代国際部長として、海外の大学との学術交流(現在、44カ国・地域101大学)の礎を築き、日本一を目指す硬式野球部の部長も務める北教授。最近、8冊目の著作となる『御雇い外国人ヘンリー・ダイアー』は、日本の歴史から消された御雇い外国人の姿をノン・フィクションで描いた作品で、国内外から高い評価が寄せられています。また、1984年に執筆した学術書『国際日本を拓いた人々―日本とスコットランドの絆―』では、「U.K.」の和名は「イギリス」ではなく、「英国」が正式であるとの認識が日本に普及したことも有名。今回は、北教授に「『御雇い外国人ヘンリー・ダイアー』を出版して」と題して、寄稿してもらいました。 |
本著は私にとって8冊目の学術書となるが、スタイルを変えてノン・フィクション風に書いてみた。ちょうど2002年が日英同盟100年であり1世紀前を思い浮かべながら、当時の日本社会を再考する目的があった。最近、国際関係解決への示唆として、幕末・明治日本はどのようにして欧米諸列強に対応し近代・工業化を成功させたかに関心が深まっている。事実、徳川封建社会から明治西欧型近代国家への転換は世界史的な注目に価する。 明治初期のわが国に貢献した学者として、誰もが札幌農学校(北海道大学の前身)のアメリカ人クラーク博士は、彼の名言「青年よ大志を抱け」とともに知られている。それでは英国人ダイアーはどれだけの人が知っているだろうか。クラークは札幌に数ヶ月滞在した。他方ダイアーは明治6(1873)年にグラスゴー大学工学部を卒業して25歳で来日、工部大学校(東京大学の前身)の都検(教頭)・教授を9年間つとめた。いわば日本の「近代工業技術教育の父」である。この評価の差は、どこから生じたのか、何故そうなったかが私の長年の疑問であった。 私は和歌山大学学部時代に経済学史を専攻し山中隆次教授のゼミでアダム・スミスを学んだ。ゼミ同窓で出世頭は山一證券会長の原良也さんである。そして同大学院修士課程に進み角山榮先生(現在は堺市博物館館長)の許でスコットランド経済史を研究した。その後大阪大学大学院博士課程に進学した。ちょうど日本社会経済の明暗を体験した。明は大阪万博の開催である。暗は日本・世界を襲った学園紛争である。1971年、創価大学開学時、最年少の26歳で経済学部講師として就職できた。独身で赴任し、学生諸氏と談論し学生寮に泊めていただいた思い出も懐かしい。 1975年1月にグラスゴー大学のチェックランド教授が国際会議で来日されお会いした。同年3月の本学1期生の卒業後、ちょうど30歳の誕生日に横浜港からナホトカに向かい、次いでシベリア鉄道でハバロフスク、空路でモスクワ・コペンハーゲン経由で英国に到着した。グラスゴー大学経済史講座にリサーチフェローとして留学でき、また下宿難から大学構内5番館のチェックランド教授宅に下宿した。英語聴解のできない私の家庭教師がマンロー夫人のシルビアさんだった。また昼食時はいつも先輩同僚の話し(スコットランド訛り)で苦労したが、ヒアリング能力は大きな財産となり、その後に世界のどこに出かけても英語の訛りには驚かなくなった。 スコットランド銀行史を研究したが、「グラスゴー大学を中心にスコットランドから明治日本へ多くの技師や教師を送り出した記録」を聞き興味を持った。帰国後に日本での関連資料を集め、1979年にブリティッシュ・カウンシル奨学金を得て再度グラスゴー大学経済史講座に留学し、再びチェックランド宅に下宿した。同大学の資料室にこもり、1870年から1914年までの自筆『学生登録証』を3か月間、朝から晩まで丹念に調査、またスコットランドの他の3大学とケンブリッジ、オックスフォード、マンチェスター、リーズ大学等にも調査のため出張した。さらに北アイルランドの大学とは手紙交信で資料を集めた。 留学の成果を帰国後にまとめ、ちょうど1987年に国際部長になる前、2冊『国際日本を拓いた人々―日本とスコットランドの絆―』(1984年)、『近代スコットランド社会経済史研究』(1985年)を上梓できたことは本当に光栄であった。また後者の著書で大阪大学から博士号を頂いた。 拙著を通じて英国は「連合王国」(U.K.)が正式名で1707年のイングランドとスコットランドの合併によりできた国」であり、和名イギリスはオランダ語のエンゲレスに語源をおき不適切であり、英国と訳すべき認識も普及した。さらに大英帝国が「陽の沈むことがない帝国」と讃えられた時代、18世紀後半からの19世紀の産業革命を遂行したのはスコットランド人が多く「スコットランド人革命」とも言われ、「大英帝国が世界の工場」と称讃される時代の「英国の工業の心臓」が西部スコットランドであった。そして中枢都市のグラスゴーは「機械の都」「鉄道の都」「造船の都」と讃えられた。つまり大英帝国の繁栄を支えたのは、海外に出稼ぎ・移民として進出したスコットランド人外交官・商人・宣教師・技師・教師であった。 1980年秋にチェックランド教授夫妻が日本学士院の招待で来日された時、創価学園の健康祭で創立者ご夫妻と懇談された。それから8年、私が国際部長になった翌年の1988年にグラスゴー大学国際部長のシャープ教授が来学し交流協定を結んだ。また1990年3月にフレイザー学長夫妻が工学部長のサザランド教授夫妻と共に来日された時に本学に見え、創立者ご夫妻と会談された。次いで1991年6月に同大学評議会議長に選出されたばかりのマンロー教授が来学、92年6月にはスレーブン教授も本学を訪問した。特にマンロー教授は関西創価学園を訪問、学生の真摯な姿勢に感動されていた。そして私に「創価への認識を正された」と言い残して帰国された。帰国後に「池田先生の人格と見識に深く感動した」と語っていたフレイザー学長に創立者の教育、文化、平和への貢献と実績を進言し、同大学評議会推薦での『名誉博士号』の決定通知と招聘状が届いた。 1994年6月15日、「名誉学位記授与式」が、同大学で盛大に挙行された。感動的だったのは、式典後にマンロー博士から聞いた「グラスゴー大学は1451年に創立されたが、1088年創立のイタリア・ボローニャ大学をモデルに創立された。それ故に池田博士が母なるボローニャ大学から受けられた後に、娘のグラスゴー大学から名誉学位を受けられるのはヨーロッパ大学史の流れを踏む偉業です」と聞き『歴史の流れ』の深さを改めて学んだ。なおボローニャ大学からは1988年の900年祭に創立者に招待状が届いていた。1989年に交流協議で私が訪問、5月にロベルシ=モナコ総長一行が来学、協定調印と創立者との会見があり、以来、順調に交流を続けてきた。 またスレーブン教授が「グラスゴー大学名誉学位には、新しい時代を切り拓く人を顕彰する伝統がある。事実、現在はアメリカを代表する画家であるウィッスラーも当時の時代が認めない時代にいち早く顕彰を決めた。それに感謝してウィッスラー没後に遺族から多数の彼の絵が寄贈され世界的なコレクションとなっている」と話してくれた。 今年5月にマンロー博士が来日された。受け入れの関西大学の了解を得て神戸と横浜で創価グラスゴー大学同窓会(グラスゴー大学に留学した創価大学のOB・OG同窓会)に出席、また青森県の奥入瀬の滝も訪問された。さらに創価大学で開催された社会経済史学会第76回大会の共通論題「社会経済発展とディアスポラ(離散共同体)―情報・知識・技術伝達と労働力の局面カラー」で、私が基調報告をしてマンロー教授に「ディアスポラとネットワークース」について講義していただいた。さらに横浜でも開港資料館・外人墓地を訪問して次回訪問の構想をたてられた。そして帰国前日、創立者ご夫妻との会見が実現し、共に喜ばれる姿を見て感動した。 マンロー教授の横顔を見ていると不思議にも、120年前に来日した先輩スコットランド人のダイアーが、1883年に帰国後、スコットランドの地で明治日本の近代・工業化に活躍する教え子を誇りに思い、日本の未来を希望的に展望した気持ちと二重写しに思えた。 興味深いのは、19世紀の幕末明治日本の国際化に最も大きな役割を果たしたのがスコットランド人外交官・技師・教師・商人であった。また取材協力をした「旅の始まりは長州ファイブだった」(『翼の王国』ANA 機内雑誌 平成14年12月号)をもとに映画化された『長州ファイブ』(07年ワールドフェスト・ヒューストン国際映画祭で最優秀賞受賞)で主人公として長州藩士の山尾庸三が実はグラスゴーでの徒弟修業の傍ら通ったアンダーソン・カレッジの夜学の同級生がダイアーであった史実である。また多くの邦人留学生がグラスゴー大学に留学して近代技術習得に励んだことも明らかになった。 しかし幕末に密航して英国に渡り、日本の将来を「英国型市民国家」を理想とした長州藩士のリーダー格の伊藤博文は、次第に国内・国外の情勢変化から英国人の民主主義思想を嫌い国体の安全保持のために「ドイツ型立憲君主制」への転換を図る。そのために民主主義を唱える英国人教師を解雇し、ドイツ人教師に代え東京大学のカリキュラムを変えた。その裏では官僚主義が進行し日清・日露戦争を経て軍国主義への傾斜を早めていく。 ダイアーは、その流れを察知して83年に帰国する。さらに彼の著作『工業進化論』は「社会主義を宣揚している」との理由で官憲からは発禁とされた。しかしグラスゴー在の彼を東大名誉教師や外務省の嘱託に任じ、海外での日本イメージ宣揚の活動を依頼する「ねじれ待遇」となる。 その歴史の複雑な葛藤の中に、英国型人格主義教育を主張され『人生地理学』を著された創価教育学会設立者の牧口常三郎先生と同じ「右傾化する時代に抗して人格主義を訴えられる」類似性を見た思いだった。 私の尊敬する有名な経済学者マーシャルの有名な言葉に「自然は飛躍しない」という言葉がある。つまり歴史には連続性があり類似性がある。新しい現象はどこかで過去の人類史につながると理解している。現在はマンロー博士との共同的な関心のもとに「19世紀スコットランド人のアジアへの進出」を「スコットランド人ディアスポラ(離散共同体)の観点から(このテーマで5月の本学での社会経済史学会大会共通論題で問題提起と、彼がスコットランドからアフリカ、インドへの進出、私が、さらに中国・日本への進出を)報告した。 ダイアーをノン・フィクションで描き多くの人に、この時代を理解することが、2002年が日英同盟100年であったこと、彼が技術発展と平和を望んでいたことから敢えて日露戦争の時代を中心に彼の生涯と貢献を世に紹介したく執筆した。幸い校正段階で日本を代表される二人の科学者、有馬朗人博士と西澤潤一博士から推薦文を頂いた。出版社のブログに掲載されている。 終わりに、本学ではグラスゴー大学はじめ海外協定大学との留学制度が充実しており、このことは学生にとって大変幸運なことである。明治の新国家建設に若い情熱を燃やし、海外に目を向け、ひたすら勉学に励んでいった先人たちのように、どうか学生の皆さんが派遣留学等のチャンスを大いに活用し、世界に視野を広げ、実力を磨き、世界の人々の幸福と平和に貢献できる人材に成長してほしいと切に念願している。 |
キタ マサミ/ 創価大学副学長補・経済学部教授・比較文化研究所長・アフリカ研究センター長 和歌山大学経済学部・同大学院修士課程終了 大阪大学博士課程終了・経済学博士(大阪大学) 1975~76年 英国ゴラスゴウ大学経済史学科リサーチ・フェロー 1979~80年 英国ゴラスゴウ大学経済史学科シニア・リサーチ・フェロー(ブリティッシュ・カウンシル・スカラー) 1987~98年 創価大学第2代国際部長 (主要研究著書) 『国際日本を拓いた人々一日本とスコットランドの絆一』(同文舘 1984年) 『近代スコットランド社会経済史研究』(同文舘 1985年) 『近代スコットランド移民史研究』(御茶ノ水書房 1988年) 『近代スコットランド鉄道・海運業史一大英帝国の機械の都・グラスゴウ一』(御茶ノ水書房 1999年) 『蘇挌蘭土(スコットランド)と日本・世界』(近代文芸社 1999年・再販文庫本 2004年) 『スコットランドと近代日本一グラスゴウ大学の「東洋びイギリス」創出への貢献』(丸善プラネット社 2001年) 『スコットランド・ルネッサンスと大英帝国の繁栄』(藤原書店 2003年) (最近の主要寄稿) NHKスペシャル 明治2一教育とものづくり、独創力をいかに育てるか一 特別寄稿「西欧近代技術の移植者一『東洋の英国』をつくった技師ヘンリー・ダイアー」(NHK「明治」プロジェクト[編著]) |