八重垣神社(やえがきじんじゃ) 縁結びの大親神を祭る社

八重垣神社
八重垣神社正面

 見 学 メ モ

【所在地】 島根県松江市佐草町227  0852-21-1148 
【主祭神】 スサノオノミコト(素盞嗚尊)とイナタヒメノミコト(稲田姫命)
【アクセス】 JR山陰本線松江駅より一畑バス八重垣神社行20分、終点より徒歩すぐ


祭神として素盞嗚尊と稲田姫命を祭る縁結びの神社

連理玉椿
神社正面の空き地に植えられた連理玉椿
雲の国の縁結びの大親神を祀る八重垣神社は、今まで参拝してきた神社と違って、桁外れに明るい。この神社を訪れたのが、晴天の日の昼下がりだっただけに、なおさらその印象が強い。神社正面の空き地に椿の巨木があるが、濃い緑の葉の上でも日の光が楽しげに踊っていた。

の椿は、連理椿あるいは夫婦椿という名で呼ばれている。昔、祭神のイナタヒメノミコト(稲田姫命)が2本の椿の枝を挿し木したら、それが芽を吹き、一身同体の二股の椿として成長した。そのため、この名がつけられ、愛の象徴として神聖視されている。木が枯れても境内に二股の椿が自生してくるらしく、現在は境内に3本の夫婦椿があるという。


稲田姫命
イナタヒメノミコト
素盞嗚尊
スサノヲノミコト
重垣神社は、主祭神として二柱の夫婦神を祭っている。天つ神(あまつかみ)のスサノオノミコト(素盞嗚尊)と国つ神(くにつかみ)のイナタヒメノミコト(稲田姫命)だ。ただし、女神の名は『古事記』では櫛名田比売(くしなだひめ)、『日本書紀』では奇稲田姫(くしいなだひめ)となっている。この2柱の神が結婚するに至った事情は、記紀神話の中の八岐大蛇(まやまのおろち)退治の話に詳しい。

紀神話では、高天原を追放された荒ぶる神のスサノヲは簸川(ひかわ、今の斐伊川)上流の鳥髪(とりかみ)に天降る。川上からハシが流れてくるのを見て、川上に向かうと、イナタヒメを中に老夫婦が泣いている。理由を聞いて、八岐大蛇を退治してやること約束し、老夫婦に8つの酒槽を用意させる。そして、やって来た八岐大蛇が酒槽を飲み干して眠ってしまったところを、十拳剣(とつかのつるぎ)でズタズタに切り裂いて殺してしまった。

岐大蛇を退治した後、老夫婦の許しを得てイナタヒメを娶ると、スサノヲは新居を造るべき土地を出雲で探した。そして、須賀(すが)の地が気に入ったので、そこに宮を建てて住んだ。そのとき、スサノヲは妻を娶ったことを喜び、次の歌を詠んだ。
 八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を
須賀の地は現在の島根県大原郡大東町須賀に比定されており、そこにスサノヲとイナタヒメを祀る須我神社がある。

が、八雲神社の由緒書きに示された伝承はすこし違っている。八岐大蛇を退治するとき、スサノヲは佐草の郷にある佐久佐女(さくさめ)の森の大杉を中心に、八重垣を作ってヒメを隠した。そして、八岐大蛇を退治した後、2柱の神が結婚して新居を構えた場所は、佐草の地、すなわちこの神社が鎮座している場所としている。また、ヒメを隠した佐久佐女の森は、本殿の後方にある奥の院の森のことで、その中心にあった大杉の跡は今でも保存してあるという。現在は、縁結び占いの池とされる鏡の池の傍らに別の大杉が聳えている。

サノヲの歌に出てくる八重垣とは、大垣、中垣、万垣、西垣、万定垣、北垣、袖垣、秘弥垣の8つの垣で、今でもこれらの垣の名が山の上や中腹、田の中などに地名として残っている。神社の名の”八重垣”はこの歌に詠まれた八重垣に由来する。


拝殿
明るさを漂わす拝殿
まで訪れた神社と違って、八重垣神社の境内は明るい。最近立て直されたのか社殿が新しい上に、神社の荘厳さを演出する巨大な神木が意外と少ない。そのため、初夏の日差しが境内に敷き詰められた玉砂利に降り注いでいる。

日の昼下がり、縁結びや夫婦和合の神徳を期待して参拝に訪れる人影はない。今更縁結びや夫婦和合祈る年でもないので、拝殿の前を素通りして、本殿後方にある奥の院に向かう。奥の院は、神話の世界で佐久佐女(さくさめ)の森と呼ばれていた所である。原生林がそのまま息づいているような森で、大杉が一本天空に向かって聳えている。小泉八雲はこの森を「神秘の森」と呼んだ。

縁結び占い池
鏡の池・縁結び占いの池
杉の傍らに、イナタヒメが八重垣を作って八岐大蛇から避難していたとき、日々の飲料水とし、また姿を写す鏡とした「鏡の池」という神秘の池がある。奈良時代の祭りの道具である土馬がこの池から出土した。現在では、この池で良縁が早く来るか遅いかを占うことができるというので、縁結び占いの場所として知られている。紙片に硬貨をのせて、早く沈めば良縁が早く、おそくい沈めば縁が遅いという。

内を入った左手に、宝物収蔵庫がある。受付で200円を払えば、勝手に拝観させてくれる。ここには、スサノヲやイナタヒメなど6神像を描いた板絵が展示してある。以前は本殿の外壁に使用されていたもので、白土を塗った上に岩絵具による極彩色の祭神が描かれている。室町〜桃山時代の作とされ、国の重要文化財となっている。



奇妙な八岐大蛇退治神話

八重垣神社の本殿
八重垣神社の本殿
雲を舞台とした記紀神話の中では、八岐大蛇退治は、オオクニヌシミコト(大国主命)の「国譲り神話」と並んで良く知られている。ところが、不思議なことがある。出雲の国では圧倒的な人気を誇っていると思われるこの神話が、『出雲風土記』には一切登場しないのだ。

く知られているように、和銅5年(712)に太安万侶(おおのやすまろ)が記述し元明天皇に献上した『古事記』と、養老4年(720)に完成した『日本書紀』には、いずれにも出雲にも関する神話が書かれている。天平5年(733)2月に完成した『出雲風土記』にも、現地で伝承されてきた神話が書かれている。だが、その内容は必ずしも『古事記』や『日本書紀』に記されたいわゆる”記紀神話”と同じではない。

紀神話で主な舞台となっているには、天上世界の高天原と出雲と日向の3カ所である。したがって、記紀神話の三分の一は出雲神話であると言ってよい。その出雲神話のハイライトシーンは、八岐大蛇退治と大国主命の国譲りである。だが、現地で伝承されてきた神話を集めたはずの『出雲風土記』には、この有名な神話のいずれも記載されていない。まことに不思議な話である。

『出雲風土記』にスサノヲの記述がまったくない訳ではない。全部で4カ所に記述されているが、いずれも短くて簡単なものである。八岐大蛇を退治したことについては一行も語られていない。我々の一般的な理解では、記紀の神話は、天皇家がこの国を統治する正当性を明らかにするために、記紀の編者たちがそれまで伝承されてきたものを適宜再編成したものとされている。だから、全くの机上の創作ではなく、核となる古来からのなんらかの伝承は存在したと考えてきた。だが、実態はどうもそうではないようだ。

サノヲについては、もう一つ気になる伝承がある。『日本書紀』に記された別伝である。その伝承によれば、スサノヲが高天原を追放されたとき、我が子のイソタケルノカミ(五十猛神)を連れて新羅の国に天降った。曽尸茂梨(そしもり)という所にいたが、そこには居たくないと言って、土で舟を造り、それに乗って東の方に渡った。そして、たどり着いたのが出雲の国の簸(ひ)川(=斐伊川)の上流にある鳥上の山だというのだ。

の伝承が何らかの史実を反映しているならば、スサノヲは朝鮮半島からの渡来者ということになる。そして、彼が退治した八岐大蛇は実は斐伊川そのものであるとする説がある。斐伊川は出雲の国の中で最大の川であるが、天井川のため秋の台風シーズンには毎年のように氾濫を繰り返していた。スサノヲは治水工事によって、斐伊川の氾濫をなくし、下流の出雲平野を肥沃な大地に変えた有能な渡来者ではなかったかというのである。

方では、この渡来神が製鉄神であったとする説もある。平田市にスサノヲを祭神として祀る韓竃社(からかましゃ)がある。『出雲風土記』にも記載されている古社で、古くは「竃」の字ではなく金偏に至という字を書いた。この字は稲穂を刈る鎌のことで、鉄鎌などを作るための製鉄技術を携えて朝鮮半島から渡来した集団がスサノヲを祀っていたとも考えられる。



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