八重垣神社正面 |
見 学 メ モ
【所在地】 島根県松江市佐草町227 0852-21-1148 |
奇妙な八岐大蛇退治神話
よく知られているように、和銅5年(712)に太安万侶(おおのやすまろ)が記述し元明天皇に献上した『古事記』と、養老4年(720)に完成した『日本書紀』には、いずれにも出雲にも関する神話が書かれている。天平5年(733)2月に完成した『出雲風土記』にも、現地で伝承されてきた神話が書かれている。だが、その内容は必ずしも『古事記』や『日本書紀』に記されたいわゆる”記紀神話”と同じではない。 記紀神話で主な舞台となっているには、天上世界の高天原と出雲と日向の3カ所である。したがって、記紀神話の三分の一は出雲神話であると言ってよい。その出雲神話のハイライトシーンは、八岐大蛇退治と大国主命の国譲りである。だが、現地で伝承されてきた神話を集めたはずの『出雲風土記』には、この有名な神話のいずれも記載されていない。まことに不思議な話である。 『出雲風土記』にスサノヲの記述がまったくない訳ではない。全部で4カ所に記述されているが、いずれも短くて簡単なものである。八岐大蛇を退治したことについては一行も語られていない。我々の一般的な理解では、記紀の神話は、天皇家がこの国を統治する正当性を明らかにするために、記紀の編者たちがそれまで伝承されてきたものを適宜再編成したものとされている。だから、全くの机上の創作ではなく、核となる古来からのなんらかの伝承は存在したと考えてきた。だが、実態はどうもそうではないようだ。 スサノヲについては、もう一つ気になる伝承がある。『日本書紀』に記された別伝である。その伝承によれば、スサノヲが高天原を追放されたとき、我が子のイソタケルノカミ(五十猛神)を連れて新羅の国に天降った。曽尸茂梨(そしもり)という所にいたが、そこには居たくないと言って、土で舟を造り、それに乗って東の方に渡った。そして、たどり着いたのが出雲の国の簸(ひ)川(=斐伊川)の上流にある鳥上の山だというのだ。 この伝承が何らかの史実を反映しているならば、スサノヲは朝鮮半島からの渡来者ということになる。そして、彼が退治した八岐大蛇は実は斐伊川そのものであるとする説がある。斐伊川は出雲の国の中で最大の川であるが、天井川のため秋の台風シーズンには毎年のように氾濫を繰り返していた。スサノヲは治水工事によって、斐伊川の氾濫をなくし、下流の出雲平野を肥沃な大地に変えた有能な渡来者ではなかったかというのである。 一方では、この渡来神が製鉄神であったとする説もある。平田市にスサノヲを祭神として祀る韓竃社(からかましゃ)がある。『出雲風土記』にも記載されている古社で、古くは「竃」の字ではなく金偏に至という字を書いた。この字は稲穂を刈る鎌のことで、鉄鎌などを作るための製鉄技術を携えて朝鮮半島から渡来した集団がスサノヲを祀っていたとも考えられる。 |