「原発ゼロ」叫ぶだけでは変らない=対立から対話・実行へ、流れを変えよう - 石井 孝明
アゴラ 8月24日(金)15時10分配信
”若い修行僧「老師、道とは、何で、そしてどこにあるのでしょうか」老僧「お前の足の下にあるではないか」−禅の法話から”
エネルギーは徹底的に「現実」の問題
反原発デモの代表と語る野田首相(首相官邸ホームページから)
「口先だけで原発ゼロは実現しないのに、なぜずれたことをするのだろうか」。
私はエネルギー・温暖化問題を10年ほど追いかけてきたが、最近の市民の原発問題に対する意見表明の動きを不思議に思う。「原発ゼロ」を叫び官邸デモをする人々がいる。その代表者と野田佳彦首相が8月22日に面会した。さらに同日、内閣府「エネルギー・環境会議」が、原発の比率をめぐるエネルギー政策のパブリックコメントの内容を公表。応募者8万人の7割が「原発ゼロ」を求めたと伝えた。
こうした市民参加を賛美する、ずれた見解を示すメディアや学者も多い。しかし私は何を無意味なことをしているのかと思う。複雑なエネルギー問題は、賛否だけを問う投票になじまないし、そもそもあと数カ月で民主党政権は終わる。政治家の一連の行動も法律上無意味だ。電気事業法を読めば、首相には稼働中の原発を止める権限はないし、内閣府がエネルギー政策を決める権限もない。
時代劇の水戸黄門のように、権力者が「原発ゼロにせよ」と命令したら、一瞬でそれが実現すると考えているのだろうか。大きな勘違いが多くの人にあると思う。
エネルギー問題とは、それをどのようにつくり、使うかを考える、徹底的に現実に基づく問題だ。作る人は発電事業者であり、使う人は私たち個人と、私たちが構成員となる企業などの法人組織だ。エネルギーは「お上任せ」ではなく、私たち市民が主役である。そして市民が動かなければ、エネルギー供給の姿は変らない。
私は原発を使わないエネルギー体制を作ることには賛成するが、それは時間軸やコスト、安全性、安定供給などの制約条件に基づくものであると思う。「原発ゼロ」などと比率を固定化するのは愚行と考える。
しかし原発を嫌がる人がいるなら、その人たちのために、努力を効果的なものにする活動の方向の修正を3つ提案したい。これは私が一連の市民運動で問題と思っていることの裏返しである。そして原発をめぐる混乱に困惑し、それを容認する社会の多数の人々と、合意の結べる領域である。
その1・電力会社と協力する
3・11後に、電力会社をまず攻撃して、原発を止めようとする人が目立つ。菅直人前首相は首相の立場にありながら、電力会社を攻撃する異様な行動をした。
こうした発想は不思議だ。関係者が協力して問題に向き合うのが、普通の社会人の発想である。攻撃するのは政治運動家の行動だ。しかも電力会社は発電と送電のプロ集団。その手助けがなければ、電力体制は変らない。
参考になる先例がある。日本は大気汚染を1970年代から改善した。そこで用いられたのが各自治体と工場の環境協定だ。自治体と操業方法、時間、環境対策について、合意を作り、汚染物質を漸減していった。これには大気汚染防止法という法律や、公的金融機関の融資や政府の技術講習などの支援もあった。
一般市民は電力会社にとって、顧客という強い立場にある。そして電力会社の多くは、顧客や地域社会との共存共栄を求めている。どの立場の市民も、電力会社との間で「まず対話」という発想をしてはどうだろうか。地域の発電、節電などの取り組みの協定を、広げていく。一人ひとりでは難しいが、市民の連合体ならそれは可能だ。また自治体などの政策に反映させ、それを動かすこともできるだろう。
その2・再生可能エネルギーを育てる
日本版FITが7月に施行された。これは太陽光など、再生可能エネルギーを有利な値段で電力会社が買い取る制度だ。これは、内容を吟味すると、やりすぎとも言える優遇策が行われている。(資料・「再生可能エネルギー、産業革新の準備は整った−資源エネルギー庁新エネルギー振興課長に聞く」)
私は補助金で産業を育てるこの制度に批判的だ。しかし、できてしまったのなら徹底的に利用してはどうだろうか。即座に原発の代替エネルギー源にすることは難しいが、それを育てるのだ。
個人でも、再生可能エネルギーは支援できる。太陽光発電設備は補助金なしで、4kWでは、240万円程度で買える。東京近郊の日照量なら一般家庭で電気使用量の7−8割分を自家発電することも可能だ。省エネの家も増えている。
反原発を叫ぶ人は、電力会社に「原発からの電気を使うあんたたちとは縁を切る」と、タンカを切ってほしい。ドイツではチェルノブイリ事故の後の脱原発の左派勢力の市民運動が自然エネルギー発電会社を生んだという。ドイツの左派は、日本のそれと違って、行動と理性を伴う点が違う。
その3・投票で「適切に」意思を示す
衆議院の選挙が近い。もし必要なら、投票で政策を動かすこともできる。
ただし「原発ゼロ」だけを騒ぐ政治家はポピュリストであり、自分の当選しか考えていない人であろう。それは負担がなければ実現しないものだ。具体策のない社民党と福島瑞穂党首を見ればよい。
「原発ゼロ、ただし電気代は4人世帯で月2万円から3万円程度に上昇するでしょう」「原発ゼロは難しい」という人は、正直な人であろう。真面目にエネルギー政策を語る人こそ、原発の発電比率を引き下げる現実的な行動をするであろう。
今回の原発をめぐる騒擾では、政治の議論の質の低さが印象に残った。議会制民主主義の下で、合意形成を目指すのではなく、感情的な反対を連呼した。菅直人氏の行動を見ればよい。こうした政治家というよりも「トリックスター」である人々に、国の大事を任せてはいけない。
現実を動かすのは小さな積み重ね−対立からは何も生まれない
原発を活用しようと主張し続けた私が、別の立場から考えを示した。読者から当たり前のことだと、指摘を受けるかもしれない。しかしエネルギー問題では、こうした簡単なことさえ行われず、原発を推進、反対の二分論と単純化して対立構造で語る現状がある。その無意味さが悲しくなりここで語った。
反原発運動が上記のような当たり前のことを取り入れれば、即座のゼロはほぼ不可能ということを学べるであろう。そして原発を長期的には漸減したいが、目先のエネルギー政策の混乱の沈静化を求める大半の国民との折り合いをつけることも可能であろう。そして政策課題に織り込まれ、実際に原発ゼロに動き始めることもできるはずだ。現状のような対立からは何も生まれない。
善意が間違った方に向かうほど、面倒なことはない。そして人々の善意や対立を利用するずる賢い人々は、政治家にも、市民運動家にも、経済人にもいる。そうしたずる賢い人々に、立場が違うとは言え、人々の善意が利用されることは気の毒だ。
最後に悲しい報道を引用したい。私はデモを取材したが、年齢層は高かったが、こうした子供ずれが散見された。
”毎日新聞8月17日記事「脱原発:首相官邸前で「子供を守れ」コール」
前略〜多くの参加者が「原発やめろ」「子供を守れ」と声を張り上げた。埼玉県三郷市の田原万亀夫さん(64)は、孫の××君(10)と初めて参加した。「尖閣や竹島の問題に僕らは介入できないが、原発はこの子たちの将来にも大変な問題」と田原さん。原発の勉強を積んできたという××君は「放射能を防ぐ方法も分かっていないのに。原発いらないっ」と叫んでいた。(名前は省略)”
私が祖父だったら、親だったら、「私は思うところがあってデモに行くが、あなたは大人になるまでにゆっくり考えなさい」と子供に言う。
正解のない複雑な社会問題に、単純な答えを求めてはいけない。さらに子供に対立することや単純な答えを教えてはいけない。これは象徴的だが、間違った方向に脱原発運動が進んでいないだろうか。
写真は不法占拠を続ける経産省前の「脱原発テント」
「原発どうする」という「大きな物語」を口先で語る前に、エネルギーで私たちの作れる「小さな物語」の質を高め、丁寧に実行と合意を積み重ねること。これが迂遠に見えても、長期的な脱原発の道である。
石井孝明 経済・環境ジャーナリスト ishii.takaaki1@gmail.com
エネルギー数値目標のばかばかしさについては、以下のコラムを参照いただきたい。
「現実的な原子力ゼロシナリオの検討」
「「栄光が何だ、馬鹿野郎」=太平洋戦争のエネルギーの「完敗」を現代の日本が繰り返しそうだ」http://agora-web.jp/archives/1462953.html
(石井 孝明)
最終更新:8月24日(金)15時10分
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