たまたま見かけた、こちらのまとめをみて思ったこと。
キングソフトが高木浩光先生にメールを送り、みるみるうちにネット上の評判が形成される様子 – NAVER まとめ
会社を叩くのはいいけれど、担当者の個人名は晒すべきではない
高木氏はメールを、広報担当者の名字も含めてそのまま「晒して」しまっています。名字だけとはいえ、これ、個人的には神経を疑ってしまいます。
「キングソフト」を批判するのは分かるのですが、あえて広報担当者の名前を出す意味ってあるんでしょうか。既に16万人もこのまとめを読んでいますし、分かる人には分かってしまいます。
他人の人生に悪影響を与えることについて、もう少し慎重になるべきだと僕は考えます。せめて伏せ字にするぐらいの配慮は必要でしょう。たった一通のメールで、その人の人生が狂ってしまう可能性がある、というのは恐ろしいことです。
原則、誰かを批判する時には個人名は出すべきではありません。僕が高木氏を今まさに批判しているように、その人の行動がオンライン上にフルネームで公開されていれば別ですが、突然「リングに引っ張りだす」のは卑怯な振る舞いでしょう。
毒舌で有名な中川淳一郎さんは、以前ある編集者にツイッター上でブチ切れていたのですが、決して個人名を出すことはしていませんでした。
後日お話を伺ったところ、「個人名を出して攻撃はしないようにしている」というポリシーを持たれているそうです。確かに彼のツイートを見ると、攻撃的ではありますが、矛先は不明瞭な状態に保たれています。
個人名を出してネット上に攻撃してもよい(晒してもよい)条件は、
・批判対象となっている行動が、実名状態で、意識的にオンライン上に公開されている
・批判対象となっている個人が、甚大な社会への悪影響がある犯罪行為を行っている「確証」がある
この二つくらいしか思い付きません。それ以外に思い付くようならば、ぜひコメント欄で教えてください。
インターネット上の私的制裁とそれぞれの正義
「ネット上で、個人が誰かに制裁を加えること」に対して、僕は総じて倫理的に認めがたい、という態度を取っています。市民がこぞっていじめ加害者の住所を暴く、みたいな行為にも、僕は異議を唱えます。
例えば「誰もが知る有名人が信号無視をしていた」という場合でさえ、その目撃者は「あの有名人が信号無視をしていた!」とツイッターで密告するべきではないと考えます。
そういう取り締まりは、国家権力がやるべきものです。僕たち市民は、頼まれてもいないのに、警察のように振る舞うべきではありません。息苦しい監視社会、リンチが溢れる社会になってしまいます。
僕たちはツイッターやフェイスブックの浸透によって、自分なりの正義を執行する力を得たともいえるでしょう。
それはよい方向に働くこともあれば(例えば指名手配犯の発見、wikilieaksのようなリークサイト)、今回取り上げた件のように、過剰に「罰」がはびこる社会をつくってしまう、という悪影響ももたらします。
マイケル・サンデルの正義論が同時代性を持っているのも、人々が他人に影響を与える力を持ちはじめたからなのかもしれません。僕たちはいかなる条件のもとでなら、誰かを断罪することが許されるのか。一人ひとりが考えるべきテーマだと思います。
皆さんのご意見をぜひお聞かせください。
関連本。これ隠れた名著です。サンデル本の変奏曲的な印象。
まだお読みでない方はぜひ。議論を深める材料になります。