本と映画と政治の批評
by thessalonike5
アクセス数とメール

access countベキコ
since 2004.9.1

ご意見・ご感想



最新のコメント
最新のトラックバック
イニシエーションのための..
from NY多層金魚 = Secon..
以前の記事


access countベキコ
since 2004.9.1


















尖閣問題の責任を中国に押しつける内田樹の詐術論法
9/11の朝日のオピニオン面(12面)に内田樹が登場し、尖閣問題で読者をミスリードする論評を書いている。きわめて悪質だ。タイトルは「領土問題の緊迫化」。朝日新聞紙面審議会委員の肩書きになっている。文章を引用しよう。「韓国の李明博大統領は支持率20%台に低迷していたが、竹島上陸で最大5%を稼いだ。政権浮揚のためには理由のある選択だったのだろうが、その代償に大統領は外交交渉カードを放棄した。本当に力のある政治家はこんなことはしない。尖閣についても同様である。中国政府が今強い出方をしているのは内政に不安があるからである」。それに続けて、鄧小平が78年に尖閣棚上げを提案できたのは、鄧小平が強い指導者で、領土問題でどのような譲歩カードを切っても国内の統制が乱れる不安がなかったからだと言っている。つまり、今回の尖閣問題は、李明博の竹島上陸と同じく、内政に不安のある中国政府が人気取りの国内対策で仕掛けたために起きたことだと論じている。とんでもない暴論ではないか。内田樹の論評の中には、「石原慎太郎」の字が一度も出てこない。石原慎太郎が5月に尖閣の買収を画策し、そこから日中関係の問題が広がった経緯について全く説明がない。内田樹は、5月から始まった尖閣問題を8月に起きた竹島問題と一つにして、中国と韓国の政権がポピュリズムの動機で発生させたものであると説明、日本を恰もナショナリズムの被害者として構図化している。
 

5月からの尖閣問題と8月からの竹島問題とでは、事件発生の状況と関係が全く違う。8月からの竹島問題は、確かに内田樹の言うように、韓国が起点になった外交事件で、言わば李明博が加害者の立場である。日本は被害者と言っていい。だが、尖閣問題は全く違う。5月に石原慎太郎が買収の謀略に動かず、右翼とマスコミを煽って寄付金を集めたりしなければ、香港の活動家の尖閣上陸事件もなく、政府による国有化もなかった。2010年の漁船衝突事件の後、時間をかけて傷を治すように、両国の当局は冷却期間を経て話し合いに動き、昨年12月末に北京で日中首脳会談を開催するまで関係を戻していた。「日中高級事務レベル海洋協議」の立ち上げに合意し、暗礁に乗り上げている東シナ海ガス田問題を打開する糸口も見えつつあった。「戦略的互恵関係」の一線で繋がり、緊張緩和の方向で事態改善に努めていた。それをぶち壊しに出たのが石原慎太郎であり、右翼に加担する日本のマスコミである。今回の尖閣問題について言えば、中国側は被害者の立場であり、加害者は日本側だ。事件の原因は日本側が作っている。それが事実であり、竹島問題とは加害・被害の関係が逆なのに、内田樹は中国側が加害者であるように論を構成している。石原慎太郎の行動が捨象されている。これは事実の捏造だ。姜尚中や鳥越俊太郎の慰安婦問題無視よりも質が悪い。

内田樹の論理詐術は言語道断だが、似たような知識人の欺瞞は他にも多くある。9/12の朝日のオピニオン面(15面)に載っている中島岳志の議論もそうだ。中身は脱構築主義のメッセージで、近代以前は国境線が緩やかで曖昧だったという一般論である。サンデーモーニングで田中優子が気休めに説教するところの、脱構築の聞き飽きた常套句。何も政治的に緊迫した現実がなければ、美貌の田中優子が語ってくれる週末の脱構築の歴史講義は楽しいし、年を重ねて妖艶な魅力を増す着物姿に、恍惚としながらテレビに見入ってしまう。しかし、今はバブルの時代ではなく、平和ボケの脱構築の言説で「教養」を埋めている時代ではないのだ。中島岳志の論説は、尖閣の外交政策としては何も具体的な解決策を置いていない。中島岳志が右なのか左なのか蝙蝠なのか鵺なのかはよく分からないが、いわゆる左派系の論者たちの尖閣論は、「どっちもどっち」的な曖昧な説教調を特徴としていて、日中が一触即発の危機にある現実に切り込んで直言する態度がない。脱構築的な安穏とした言説の上に胡座をかき、前近代の環境と情景を現在に投影して、平和的な空気を脳内に送り込んで知的気分を満足させ、そこで思考停止してしまっている。右翼勢力やマスコミが平和を脅かしている現実に対峙しない。病巣を正しく指摘しない。言論のメスを入れない。そこが日本の知識人の退嬰化であり、卑劣な自己欺瞞だ。

岩波系左派は、二言目には国民国家の解体脱構築を言い、「国民」や「国家」に拘束された近代的な思考の克服と脱却を唱える。東アジアで発生している日々の問題について、日本からだけの視点ではなく、国内の正論にとらわれず、国境を越えた中韓日の広い市民社会の観点から考えよと説く。東アジアのコスモポリタン的市民の意識と立場で、個々の政治外交問題を判断することを奨励する。ナショナルなものの限界性や規定性からの解放を言う。けれども、今の岩波文化人や左派系知識人たちは、韓国の全新聞が日本の右傾化を批判し、極右主義の台頭と横溢に警戒している事実を正視しない。中国が日本の政治の右翼化に憤慨して対抗しようとしている事実を客観視しない。日本の右翼化とか、日本が右傾化とかの事実認識は、東アジア社会で共通の言語であり、一つの常識になっているのだ。そのことについて、目を閉ざしているのは日本人であり、意図的に問題視しないのは日本の論壇とマスコミ報道である。右傾化の中に染まりきったテレビや保守系新聞なら仕方がないが、朝日や岩波に活字を書いて原稿料を稼いでいる者がそれでいいのか。中韓の日本批判とその言語(右翼化・右傾化)について、それを中韓のナショナリズム的偏向だと切り捨てて済ませてよいのか。朝日や岩波に登壇する者たちは、韓国の知識人も自分と同様に、自国のナショナリズムと距離を置いているだろうと錯覚しているか、そう信じこむ自己欺瞞に耽っている。

こうした思想的態度は、橋下徹に対して、もともと右翼思想の持ち主などではなく、単に主流の価値観を肯定するノンポリで、政治的に無自覚なだけだと捉える見方も同じだろう。想田和弘を擁護する一部からは、私の批判に対して、「橋下を『右翼』としたところで、向こうは『奴らは左翼の理屈』と図式化してくるでしょう。それで勝算があるか。むしろメタ的にやった方がいい」などという反駁が返ってきた。果たして、こういう主張が韓国で通用するのか。東アジアの市民社会で通用する言語なのか。これは迎合であり、妥協ではないのか。今回、慰安婦問題に火をつけたのは、8/10-8/14の李明博ではなく、8/21の橋下徹だった。河野談話が政局になっている原因は、8/21の橋下徹による韓国に対する挑発が発端で、韓国からの日本の右傾化批判も、それを契機に燃え上がったのが事実である。韓国の市民に対して、橋下徹への批判を「むしろメタ的にやった方がいい」などと言って、果たして韓国の市民に共感されるだろうか。納得を得るだろうか。「むしろメタ的にやった方がいい」などという言葉を平然と言い、それで何か有意味な提言をしたように得意になっている方が異常なのだ。日本の左派の脱構築思潮は、社会の右翼化や新自由主義化を黙認し、それとの対決を回避し、逃げて開き直る姿勢を合理化し正当化する精神安定剤でしかない。右翼を右翼と言わず、逆に左翼批判をして、何か有意味な言論を吐いた気分で悦に入っている。国境を越えた市民社会と言いつつ、市民社会を否定している。

この問題に加えて、少し言いたいことがあり、例えば、Misao Redwolfが福島瑞穂と対談した動画がネットに載っている。収録したのは、官邸での面会があった直後の時期だった。身内同士というか、反原発の同志というか、寛いだ気分の二人の会話が進行する。その中で、Redwolfが左翼批判をする場面が登場するのである。一瞬、緊張させられる。Redwolfの方は、普段、仲間内でしょっちゅう会話している内容であり、彼女にとっては自然な文脈の批判言語だから、屈託なく「左翼」といいう単語が出てしまう。また、さすがに文Ⅰ卒の優秀な「野党官僚」で、機転が回る福島瑞穂は、そのRedwolfの左翼批判を、「ふんふん」と顔色一つ変えず聞き流すのである。クリティカルな空気が流れた一瞬をポーカーフェイスでやり過ごす。Redowolfは気づいてないのかどうか。一般に左翼勢力と言えば、日本では共産党と社民党を指す。このとき、福島瑞穂はRedwolfに対して、「左翼」というのはどういう意味ですかと問い返していいのだ。同志であるはずの反原発の市民運動家から、批判語としての、否定語としての、矮小語としての、回収語としての「左翼」の語が自己に投擲された場合は、真意を確認するのが当然で、Redwolfに自分(福島瑞穂)との関係や距離を検証させる対応に出るべきなのだ。福島瑞穂はそれをしない。無論、そこには政治的な計算があり、政策とイデオロギーのバランス感覚があり、党首としての判断と思惑があるからだ。

福島瑞穂の対応は、私はよく分かるし、現実には、そこでチェックを入れて議論を深刻にする必要もなく、それをやれば対談は中断してしまったことだろう。だが、これは、やはり「見逃し」の行為ではあるのだ。日本のマスコミと論壇が、政治と社会の右傾化を正視せず、右翼を右翼と指弾しない現象と相似形の左側での問題事なのだ。同じ問題は、反原連と蜜月の共産党についても言える。共産党は、7/28に反原連が官邸前デモを中止したとき、その日は他の反原発団体が同じ場所でデモの開催を予定していたにもかかわらず、おそらく反原連の要請を受け入れたのだろうと思われるが、7/28には官邸前に行くなと赤旗新聞の読者に告知を出した。このとき、ネット上では、官邸前デモの主催者の正統性をめぐって激論の応酬が続いていた。部外者の市民から見れば、共産党が反原連に「正統」のお墨付きを与えているように見えたし、事実、その日に私は現場の指定席に足を運んだが、福島瑞穂は挨拶に来たけれど、志位和夫や共産党議員は一人も姿を見せなかった。それはいいとして、反原連の思想的内実において、きわめて反左翼主義的な要素が検出できることは、組合旗・団体旗の携帯を厳禁して日の丸掲揚を積極的に認容し、それが原因でトラブルを起こしてきた経緯からも察せられる。従来の、20年前ほどの共産党であれば、この事実は見過ごせないイデオロギー問題だということで、中央委員会常任幹部会で討論の議題になった案件だろう。

昔の共産党にはイデオロギー担当の幹部がいて、70年代は榊利夫という男がやっていた。今、イデオロギーの語や、範疇や、課題や、問題意識そのものが、おそらく共産党の中にないのだろう。真善美の理想や、人はいかに生きるべきかの哲学が、すでに問題外なのだろう。脱イデオロギーの現在、政党がイデオロギーから脱却して、政策プロパーに即くことは歓迎されている。しかし、橋下徹の維新の会を見ても、起きているのは逆の現象であり、毒々しいまでの政党のイデオロギー化である。


by thessalonike5 | 2012-09-14 23:30 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://critic5.exblog.jp/tb/18984393
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
名前 :
URL :
※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。
削除用パスワード 
昔のIndexに戻る 「右翼」の語の自粛と消滅 - ... >>