1977年、法務省入国管理局の坂中英徳氏が書いた「今後の出入国管理行政のあり方について」という論文が省内で優秀賞を受けた。この中で、在日朝鮮人の将来の処遇を「日本人と同等の権利を与え、すすんで日本国籍を取得するようにし、日本人として生きていく」道を提唱したことが、在日朝鮮人から「日本人に同化」しようとしていると猛烈な反発を呼び、「坂中論文」は「同化政策」の代名詞のようにいわれた。私は、どちらかというと、在日コリアンに日本人と同等の権利を与えるいう「坂中論文」を内心では歓迎していたが、当時の先輩活動家らは口角泡をして「坂中論文」を批判していたので、若手活動家の出る幕はなかった。しかし、結果的に在日韓国・朝鮮人は「坂中論文」に猛反発しただけで、自らは「在日をどう生きるのか」という命題に本腰を入れて取り組むことはなかった。唯一、「民族差別と闘う連絡協議会」(略称「民闘連」)が、「第5回民闘連全国集会」(79年)で日本国籍について議論する場を持ったが、日本国籍について議論しただけでも在日韓国・朝鮮人社会は騒然となり、民族系新聞などは特集を組んで「民闘連はネオ同化主義」などと大々的な批判を展開した。その後「国籍問題」は長く黒いベールに覆われてしまった。
1997年、この間、日本社会での在日韓国・朝鮮人の処遇は一定の改善が見られ、社会制度上の民族差別は、国民年金や公務員採用の差別は残されたままだが、ほぼ廃止された。他方、在日韓国・朝鮮人社会は世代交代が進んだ。そして、在日韓国・朝鮮人の生き方も、民族中心の生き方から個人を中心とした生き方まで、多様化な生き方が見られるようになった。そこで、坂中英徳氏を招請し第2回民闘連実践交流集会(97年)で『「坂中論文」から20年−在日はどう生きてきたのか−』というテーマで在日韓国・朝鮮人社会を検証した。坂中英徳氏は「在日韓国・朝鮮人が年間1万人単位で日本国籍を取得している事実や、在日韓国・朝鮮人と日本人の婚姻が90%近くで、その間に生まれた子どもはほぼ日本国籍を取得している事実などを挙げながら、このまま推移すると、21世紀の前半に在日韓国・朝鮮人は消滅する」などと話をした。そして、「消滅するよりは、韓国系日本国民として生きて欲しい」との提起を行った。「在日韓国・朝鮮人が消滅する」との発言は極めて衝撃的であったが、今回は20年前の「坂中論文」への反発の繰り返しにならないように自制を働かせ、坂中氏の問題提起を真摯に受け止め、「在日韓国・朝鮮人はどう生きるのか」という命題に挑んだ。幸い、「坂中講演」への無為な反発はほとんど見られず、その後、新生民闘連集会の場で国籍の議論が3年かけて行われた。その結果は日本国籍の取得を在日韓国・朝鮮人の生き方の一つとして受け止めようとする意見と、日本国籍は理屈以前に「不快」とする意見とに分かれた。また、日本人の一部からは、在日韓国・朝鮮人が日本国籍を取得することは「植民地支配等の歴史への敗北」とか「日本が国籍に関わりなく生きていける市民社会の方向と相容れない」とか、情緒的や空想的な意見が出されて議論が混迷した感もあったが、それでも、在日韓国・朝鮮人が日本国籍を取得する方向を否定する理論は出なかった。
他方、時折しも、在日外国人の参政権問題が日本の国会を揺るがせており、そうした中から、「特別永住者等の国籍取得の特例に関する法律案」(2001年)が発表され、在日韓国・朝鮮人に参政権をはるかに越える国籍を自由な意思で取得できる道を示した。しかし、この法案は「参政権潰しの法案」として店晒しにされた。
2003年、こうした状況の中、私たちは「特別永住者等の国籍取得の特例に関する法律案」を葬ってはならないと、「在日コリアンの日本国籍取得確立協議会」を作って活動してきた。当初は2年間で法律にすることを目標としてきたが、参政権問題とぶつかってしまい身動きとれなくなってしまった。そして、今年再び動き始めたこの機会を最後のチャンスと受け止め、在日韓国・朝鮮人が3世になっても4世になっても、未来永劫「外国人」の地位であらなければならない状況を変えるために、「特別永住者等の国籍取得の特例に関する法律案」に取り組んでいかなければならないと決意している。