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「抗ガン剤は無効だ」という主張がある。けっこう有名だ。近藤誠の本。
→ 抗がん剤は効かない
それを批判する人もいる。トンデモマニアが多い。たとえば下記。
→ http://togetter.com/li/309687
→ http://togetter.com/li/365421
その影響力が強いせいか、「抗ガン剤を批判する奴はトンデモだ!」と思い込む人も多いようだ。トンデモマニアの輪。
では、本当に上記の本はトンデモなのだろうか?
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近藤誠の主張に全面的に賛成する医師はほとんどいないようだ。しかしながら部分的に賛成する医師はかなりいるようだ。そのような見解を含めて、ネット上で情報を探したところ、次のような結論が標準的であるようだ。
「抗ガン剤は 効く場合も 効かない場合もある」
・ 患者ごとの違いが大きい。(個人差のこと)
・ 病気ごとの違いが大きい。
・ 薬剤ごとの違いが大きい。
つまり、「効くか効かないか」は、患者ごと・病気ごと・薬剤ごとに違いが大きい。一律に「効く / 効かない」を断言できない。
また、副作用も同様で、患者ごと・病気ごと・薬剤ごとに違いが大きい。一律に副作用が「ある / ない」を断言できない。
以上が標準的な見解であるようだ。ほぼ意見の一致を見ていると言える。
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これに比べると、近藤誠の説は、一律に「効かない」「副作用あり」と言っているので、正しくないことになる。具体的に言えば、「効く」例は次で示されている。
→ 大腸癌や血液の癌には抗ガン剤は効く
しかしながら、「近藤信の説は全面的に間違っている」というのも、逆方向に間違っていることになる。「近藤誠はトンデモだ! すべて間違いだ!」と批判するのも、近藤誠と同様に落とし穴に陥ってしまうことになる。
この点に注意。
( ※ ここでは誰かを批判しているわけではないので注意。私はトンデモマニアじゃないので、誰かを非難するために書いているわけではない。)
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さて。以上はただの情報だ。問題はこの先だ。
医学的な常識が上記の通りであるとして、世間ではどう信じられているか? たぶん次のことだろう。
「抗ガン剤は効かないことがけっこう多いが、最新の抗ガン剤はすごく効く。なのに、外国では有効だとされる抗ガン剤が、日本では未承認のせいで使えない。つまり、ドラッグ・ラグだ。仕方がないから、自由診療で、大金をかけるしかない。だから、大金をかけて高額の抗ガン剤を使うべきだ」
このような発想は、世間では非常に多くなされている。
目立つ例では、次の話がある。
→ ノルウェイの森 (講談社文庫)
この小説の下巻では、ヒロインの「緑」の父親が脳腫瘍であったことと、治療費の捻出などで店を売ることになったと記してある。
もっと典型的なのは、次の漫画だ。
→ ブラックジャックによろしく (無料漫画)
ここでは、未承認薬である抗ガン剤を使うかどうか、という話題もテーマになっている。
この話題はもちろん十年ぐらい前のことだから、その抗ガン剤が本当に有効であれば、現在では承認されて広く使われていることになる。しかし、(内臓のガンでは)画期的な抗ガン剤が現在までの時点で普及したという話は聞かない。つまり、あの漫画の時点で未承認薬の抗ガン剤を使おうが使うまいが、結果には大きな差が出なかった可能性が高い。
( ※ 前述のように個人差が大きいので、断言はできないが。)
( ※ ネットで調べたところでは、宣伝だけは「画期的」という抗ガン剤が開発されているようだが、羊頭狗肉であり、せいぜい「数カ月の延命効果」であるにすぎない。)
にもかかわらず、世間では、「未承認薬の抗ガン剤を使えば、きっと命が救われるはずだ」という信念が広く出回っている。そのせいで、莫大な金を投入して、それでも結果的には数カ月程度の延命効果しかない、という例がほとんどだ。
では、副作用は?
ネット上で聞いたところでは、次のような見解もある。
「抗ガン剤の効果そのものは昔から大差ないが、副作用を抑える効能がどんどん高まったので、副作用なしに薬剤を使える例が増えてきた。その分、薬剤的には進歩しつつある」
→ http://umezawa.blog44.fc2.com/blog-entry-545.html
( ※ この主張が妥当かどうかは不明。)
その意味では、副作用としての不快さは減りつつあるようだ。しかし、次の事実はいかんともしがたい。
「病床で寝ているときに副作用がなかったとしても、病床で寝ている限りはまともに生きていることにはならない。たとえ生存期間が延びたとしても、病床で寝たきりでは生きている価値がろくにない」
つまり、次の二者択一を考える。
・ 余命1年。病床で暮らす。
・ 余命3カ月。自宅や戸外で暮らす。
このどちらがいいか? それは人それぞれだろう。
ただし現状では、前者ばかりが絶対的に肯定されがちだ。次のように。
「3カ月よりも1年の方が長い。長く生きられることはいいことだ」
しかしながら、次のようにも言えそうだ。
「たとえ1年間生きていたとしても、病床にいる限りは生きている実感はゼロ同然だから、結果的には余命がゼロであるのと大差ない」
そして、この見解に立つ限り、「抗ガン剤は無用だ」という見解は成立する。
( ※ ついでだが、病院にいる限りは、エッチはできない。禁欲状態で1年も病院にいるくらいなら、3カ月であっても好きなことをやっている方がいい……と思う男性も多いだろう。どうせ全財産を使うのなら、抗ガン剤のために使うよりは、楽しいことのために使いたい、と思う人も多いだろう。)
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まとめて言おう。
「抗ガン剤は有害無益だ」
という主張は、あまりにも極端であり、一面的すぎる。しかしながら、
「抗ガン剤は余命を少しだけ伸ばすから、ものすごく有益だ。そのためには莫大な金を払った上で、病床に閉じ込められるべきだ」
という主張も、あまりにも極端であり、一面的すぎる。
この二つの「極端で一面的な見解」がある。
そして、世間において圧倒的に優勢なのは、後者である。「余命を少しでも延ばすためであれば莫大な金をかけてもいい」という見解を取る人がとても多い。
こういう世評に反対して「高齢者の医療を削減するべきだ」などと主張すると、総スカンを食いかねない。
→ はてなブックマーク(石原伸晃への批判)
だが、現状では、次の問題がある。
「高齢者の終末期の医療のためには莫大な金がかかっている一方で、普通の人の救急医療や夜間医療のための費用は削られており、医療崩壊を起こしている」
→ 北杜夫はなぜ死んだか?
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最後に私の見解を言おう。次のようになる。
「医療資源は限られている。あらゆる人々に無料で最高の医療を提供することはできない。とすれば、どうせ死ぬはずの高齢者を数カ月ばかり延命するために莫大な医療資源を投入するべきではない。若い人々の生命を救うためにこそ、最高度の医療資源を投入するべきだ。そのためには、高齢者の延命のための医療は、普通の医療とは、別の枠組みで、限定付きで行なうべきだ」
たとえば、都心の一流病院は、超高齢者の長期入院は辞退してもらった方がいい。彼らはどうせまもなく死ぬはずであり、どう治療しても寿命というものからは逃れられないのだ。人間は不老不死ではありえない。あらゆる病気から逃れようとしても、最終的には死ぬしかない。それを受け入れるしかない。
都心の一流病院は、若い人々の救急治療を第一義の目的とするべきだ。彼らは治療しだいで生きることが可能だからだ。……なのに現実には、「ベッドがない」「医者がいない」という理由で、たらい回しになったりする。そのせいで、若い人々の命が失われる。
のみならず、高齢者に無駄な医療がなされることで、莫大な金がかかり、一般の人々の税負担も高額になる。
どう考えたって、話の道理が通らない。
高齢者は、都心の病院で薬漬けになるよりは、田舎のホスピスで余命を楽しく過ごす方がいいだろう。その方が費用もかからないし、医療資源の無駄がなくなるし、患者もまた幸福な余生を送れる。
そして、それは、何も私の独自の意見ではない。多くの先進国では、そういう方策が採られている。たとえば、「抗ガン剤の投与は腫瘍内科医に限られる(一般の医師は不可)」という国もある。「抗ガン剤はあまり投与しない」という方針の国もある。日本ばかりが「高額療養」という制度のもとで、抗ガン剤をやたらと乱用している。
そして、こういう「抗ガン剤の乱用」という現状に対するアンチテーゼとしては、近藤誠の主張もまた、ある種の中和剤の効果がある。「毒を以て毒を制す」というふうな。
近藤誠の主張を「トンデモだ」と非難するだけでは、「抗ガン剤の乱用」「医療資源の無駄」「救急医療や夜間医療の崩壊」という現状を追認することになる。そちらの方がはるかに有害だ。
近藤誠の主張は、正しくはないが、それを信じたとしても、高齢の癌患者が余命を短くするぐらいのことだ。一方、近藤誠の主張を否定してばかりだと、医療崩壊の現状を追認することになるので、社会に莫大な損失をもたらす。
近藤誠の主張の是非それ自体は、あまり問題ではない。それよりも、近藤誠の主張を否定することで、「抗ガン剤の乱用」「医療資源の無駄」「救急医療や夜間医療の崩壊」という現状を見失うことの方が、はるかに問題だ。それは、小さな悪を追求することに熱心なあまり、大きな悪を許容してしまうことになる。比喩的に言うと、スピード違反の摘発に熱中するあまり、多大な殺人犯を見失うことになる。それでは本質を見失う。
日本の医療には問題がある。その問題は「医療崩壊」「医療予算の爆発」という形で顕在化しつつある。こういう大問題が起こっているときに、それを直視せずに、「近藤誠の主張はトンデモだ!」なんて語っていると、かえって日本の医療状況を悪化させるばかりなのだ。
私はそう思う。
《 注記 》
※ 私は医者ではないので、専門知識はありません。したがって本項は個人的な見解にとどめておきます。
( ※ 専門の腫瘍内科医でもないくせに、やたらと抗ガン剤を処方する医師みたいに、唯我独尊ではありたくないので。)
[ 付記 ]
本項の本質を誤解しないように。
「一部の高齢者を見捨ててしまえ」
ということではない。
「兵力に限りがあるときに、どの部隊を救援するか、判断を迫られる」
ということだ。
仮に「すべてを救おう」として、目先の部隊を救えば、それによって最終的には全体の損害が増えてしまう。一方、目先の部隊を見殺しにすれば、それで浮いた戦力を使って、より多くの部隊を救うことができる。
そういうふうに高度な判断を迫られているときに、賢明な司令官はどうするべきか、という問題だ。感情に縛られて、目先の部隊を救うか。心を鬼にして、目先の部隊を見殺しにするか。……そういう問題だ。
一般的には、日本は常に「目先の部隊を救う」という方針を取ってきた。そのせいで、最終的な被害を大きくしてきた。
朝三暮四。 (目先の一つを喜ぶ。)
それは猿のことではない。われわれのことなのだ。
※ 以下は読まなくてもいい。
[ 余談1 ]
上の話と似たことは、原発にも当てはまる。
(1) 東電は、目先の利益のことばかりを考えて、安全策を手抜きした。
(2) 東電は、目先の(社員の)安全のことばかりを考えて、福島第1から社員を撤退させようとした。しかし菅直人は、全国的に立場から、社員を犠牲にして国民を救おうとした。
( → 東電・全面撤退の真偽 )
この (2) では、後者の菅直人は称賛されるどころかさんざん非難されて、首相の座から追われてしまった。そのあげく、野田という無能な首相が居座って、消費税値上げをしようとしている。救国の宰相は歓迎されず、日本を破滅させる増税首相が歓迎される。
こういうのが、日本の伝統なのかもしれないね。
[ 余談2 ]
ちょっと似た例を付け加える。
(1) フラミンゴ
動物園から逃げたフラミンゴを捕獲するために、オトリみたいに別のフラミンゴをそばに置いたら、そのフラミンゴが犠牲になってしまった。1羽は殺され、1羽は行方不明(たぶん殺された。)
→ 時事通信
1羽を救おうとすることに熱中するあまり、2羽を失った。肝心の1羽も救えていない。(たぶんつかまらない。)
目先の1羽にこだわるあまり、全体的な損失が大幅に増えてしまっている。
(2) 一本松
被災地にただ一本残った待つが、腐ってしまったので、防腐剤で処理するために1億5千万円もかけるという。あまりにも巨額なので批判が出ている。
→ J-Cast
代案として「レリーフに」「石碑に」なんていう声もあるが、これだってけっこう金がかかる。芸術品というのは安上がりではないのだ。どうせなら、元通り、ただの松の木を植えればいい。最初は小さくても、そのうち大きくなる。これならたいして費用はかからない。
記事にもあるが、こんなことに1億5千万円もかけて、その大半を借金でまかったあげく、税金投入というのでは、被災者の支援金が食いつぶされてしまう。それは税金の無駄遣いであるがゆえに、「善」ではなく「悪」だ。
目先の記念事業にとらわれるあまり、全体的な無駄が大幅に増えてしまい、救えるべき人々の生活を救えなくなる。
以上、(1)(2) のいずれも、目先のことにとらわれて、全体的なものを見る視野をなくしている。こういう例があまりにも多い。
抗ガン剤の治療もまた同じ。
癌になった人は、「命が大切だ」と思ったあげく、無効な治療についても、藁にもすがる思いで頼ったりする。そのせいでトンデモ治療が跋扈するわけだが、同様のことは、最先端の抗ガン剤にもいくらか当てはまる。たいして効果のない最先端の抗ガン剤に莫大な金をかけて、しかも、生活の質を下げたりする。
医療関係者もまた同様だ。「命が大切だ」と思ったあげく、たしいて効果のない抗ガン剤治療に大切な医療資源を投入する。目先の高齢者については「命が大切だ」と思ったあげく、全力で医療資源を投入するが、それでも癌を治すわけではなく、いくらか延命するだけだ。その一方で、若い救急患者は医療資源の外にはじき出されて、救われる命が失われてしまう。
こういう本末転倒こそ、抗ガン剤治療による延命の最大の問題だ。特に、日本では。
( ※ 外国ではそれほどひどくない。ちゃんと対策が取られていることが多い。金の無駄遣いに平気でいられるのは、日本ぐらいだろう。→ それでいて「金が足りない」と騒ぐのだから、何をかいわんや。医療関係者の頭を治療するのが最優先か。)