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石榑千亦の歌集「海」紀行(2)東北その1

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 画像は広重の「奥州松島真景」です。見るからに日本の美学です。しかし、暖国の住人、千亦が詠ったのはこれとは違って、シベリウスの音楽のような海でした。
 千亦の東北は、金華山沖からスタートしています。歌集は短い言葉書きがある他は、短歌がずらずらと並んでいるだけで、しかも、でかい活字で何となく損したような気になります。短歌の並び順に作者としての意図があるのか、単に制作の古いほうから並べたのか分りません。とにかく歌集本の通り並べます。
 
 東北 金華山沖
 わが船のまはりいささか残しおきて狭霧となりぬ大き海原
 
 北をさす針の力を力にておぼつかなくも霧の海ゆく
 
 霧の中に波白くはしるかのはしる波のあたりや陸にしあるらむ
 
 おぼつかな船かも島かも霧の中に霧ならぬ影のうすく見ゆるは
 
 松島
 雨しぶく端島のの島ゆれにゆるゝ船窓の中に見えかくれする
 
 金華山沖の短歌はすべて霧一色でした。長く滞在して「金華山」のアイデンテイテイーは「霧」だと悟ってこうしたのではなく、多分予算の関係で短い滞在で、初夏に来て見たらたまたまヤマセが吹き、沖は霧だったということなのでしょう。暖国の伊予や新舞子の浜辺にくらした千亦にとってこのきびしさは驚きだったのではないか。
 ただ、霧の中をおぼつかなくもよたよたとおっかなびっくり走るのではなく、雄雄しく立ち向かっているのです。バイキングの海賊か、白鯨のエイハブ船長か、と、見るべきです。
 偶然ながら芭蕉も初夏に松島に来ています。白川の関から福島中通りを通って仙台、多賀城碑を見て、塩釜、松島、石巻(それから平泉へ行ってしまう)と来ていますので、芭蕉はここではじめて東北の「海」と対面したわけです。そこで芭蕉は東北の「海」を詠ったか。残念ながら理由は分りませんが、多賀城から石巻・金華山まで「奥の細道」に海の句はないし、句自体、漢詩の確認のような曽良の句がひとつきりで本人の句はまったく載っていません。
 どうしてと詮索はいろいろあるのでしょうが、西行法師からはじまる漢詩教養京都西国文化の足跡を辺土の奥州に訪ねる芭蕉は、宮城の国に京文化が根付いているのを見て、漢詩の世界の松島を見て大満足であったのだろうと思います。バイキングやエイハブ船長の美学がこの世にあると一瞬たりとも思ったことはないのです。霧の海やヤマセは想像の外であった。歌になるものではなかったのです。先人に付け加えるべきものがなかったということなのでしょう。(芭蕉が松島に「思い」がなかったわけではないのです。およそ洞庭・西湖を恥じずと言っていますし「奥の細道」の「象潟」でもそれを吐露しています。「松島は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし」)
 西国的生活に限りなくあこがれ憧憬を持って奈良時代の早い時期から京の文化を受け入れた仙台、塩釜、松島などデン助の新舞子などよりよほど京と同類の歴史を長くしかも藤原四代、政宗などに見られるように大金をかけて共有していまして、それらの人々にとってはヤマセは飢饉のさきがけ以外の何物でもないのですが、一歩遠くから見て、では漁業の人々にはと思いを寄せると、おそらくヤマセは好漁のしるしなのかもしれません。
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 ただ、千亦はそれも見ていない、ただ、新鮮に面白がっています。上に上げた短歌3首目、「陸だろうかあの波頭らしきものの列は」の千亦の脳裏にはおそらく実朝の「箱根路を我越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ」があったかと思えます。片や白黒の世界、片や総天然色の世界、ただ共通しているのは、雄雄しさ、男っぽさです。
 次に挙げた画像は、太平洋はるか沖の小島の周囲の白波です。(小笠原の鳥島の航空写真です)
 

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石榑千亦の歌集「海」紀行(1)序、そして東北へ

 新舞子ゆかりの歌人、石榑千亦は歌集「海」を残しています。日本の海・海岸を北は樺太から、南は九州までを取上げた短歌紀行とでも言うべき歌集です。
 これから何回かに分けて、それを紹介していきます。
 海・海岸は、今、東北・関東大震災のあおりで、潮干狩りなどすら敬遠されていますが、千亦が「序」で述べている通り、日本は海なくしてあり得ない国なのです。そこを踏まえて、日本の海・海岸を千亦の目で見て行きたいと思います。
 画像については、適宜関連のあるところから借用したいと思います。
 まず、序を紹介し、次に、本来は北海道・樺太に移るべきなのですが、今回の地震を受けて東北に移ります。その後、北海道、東海、山陽・・・・・・と、続けます。
 
   歌集「海」序
 吾々は海の真ん中に生まれた海の国の人である。たとへ山の上でも海の息のかからぬ所は無い。そこに海の国日本の力もあり値もある。・・・・・・・・・・・・
 元来海の国でありながら海の方面には甚だ関心をもたない。日本人はこの豆のような国、その国の陸にのみ向かふのである。
 海をおいて日本は無い。海をおいて日本人は無いといふ信念の上から私はこの先駆をつとめる決心をしたのである。
  昭和九年六月
    海清き上総新舞子にて    千亦識
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 画像は江戸時代末期に描かれた「奥羽一覧之図」です。南北がかなり圧縮デフォルメされています。
 「東北」という風土を司馬遼太郎の「街道を行く」陸奥のみちの抜粋で紹介します。
司馬遼太郎 「街道を行く」より奥州について、以下。
 奥州というと、私のように先祖代々上方だけを通婚圏や居住圏としてきた人間にとっては、その地名のひびきを聴くだけでもこころのどこかに憧憬のおもいが灯る。
 「白河以北、一山百文」といったのは、長州軍の士官の一人であったろう。長州人は京都で会津藩と新撰組にさんざんいじめられたためにその怨恨がこの言葉となったかも知れない。
 これもあってか明治政府は東北の面倒は見なかった。むしろ北海道開拓に熱をあげ、それに飽きると朝鮮に目をつけ、さらに昭和期には満州経営に躍起になる。東北には東北帝国大学を作った程度のことでほとんど見捨てた。
 いまさら振りかえっても仕方のないことだが、東北という、とくに太平洋岸のこの乾いた寒冷の風土に例えば北欧諸国などの国土経営法の下敷きをあてることによって、つまり白河以南の米作地帯とは別原理の思想でもって、有史以来の東北経営をやり変えてしまうという構想が、明治初年に思いつかなかったものだろうか。もしそれがなされていたとすれば、百年後のこんにち、例えば四国地方の面積を一県でもつという広大な岩手県などは蜜と乳の流れる山河になっていたかもしれないのである。
 以上、さすが司馬遼太郎さんですが、さらにデン助が付け加えます。
 東北は江戸期には、度重なる飢饉の主用舞台となりました。さらに帝国主義の時代には強兵の出身地(翻って見れば貧困の大地)として日本国の礎となるべく期待され、それに充分過ぎる力働き(旅順攻撃の補充兵の多くは東北師団)をし、さらに戦後の高度経済成長を牽引する働き手を集団就職の形で供給しました。(これも貧困のなせる業です)従って、日本歴史上では最高の今のこの豊かな国を作り上げたのは(いろいろな地方のいろいろな偉人が挙げられるとしても)、その第一の功は名もなき幾百万の東北人にあると言って言い過ぎではないでしょう。
 さて、それでは日本史は彼ら東北人の功に充分に報いたでしょうか。近年になって、ようやく日本全国一律のような生活スタイルになり、表面上は格差がないように見受けられてはいましたが、その背後に新たな社会格差、すなわち高齢化と過疎の波が見え隠れしていました。
 その矢先の今回の地震・津波です。現在の日本の富力を持ってすれば、復興はそれほど困難ではないかもしれません。しかし、復興したあかつきに人口が半減、津波に耐える頑丈な公共建物の他は小奇麗になった商店街が出来たけれども相変わらずのシャッター街ということであればこれは復興とはいいません。これでは今回の津波で亡くなった人は文字通り犬死です。これでは、日本国は、日本国発展のため東北人を使い尽くして、さらに地場産業を抹殺し、それで年金(または復興資金または損害保障金、見舞金)をあげるから安楽死してくださいと、いうことに他なりません。
 復興には人の移動が必要です。関東から、中部から関西から中国・九州から人が東北に流れる施策が復興施策なのです。決して建物再建や、微々たる部品工場の再配置などではダメなのです。関東では食えないが東北へ行けば食えるということでなければなりません。関東では保育所がないが、東北に行けば職も保育所もあるということでなければなりません。
 さて、そうするために政治で出来るものがあるでしょうか。まあ、常識的に考えれば、高校日本史に10行くらいの記事が載る程度の施策をやらないとだめでしょう。そこで、200年後の高校日本史を紹介します。
 <平成遷都>20××年、首相の菅直人は強権発動を出来る地位を築き、幾多の反対勢力を抑えつけ、土地等私有権の制限と、東北州××への遷都を強行した。このため社会は大混乱となり、一時は通貨が暴落し、国際社会に「日本国は亡国の兆しあり」のデマがまことしやかに流されることとなった。食糧はもとより生産力はピーク時の6割に落ち込み失業者が町にあふれた。
 しかし、20年もすると国は活気を取り戻した。この後の地球温暖化海面上昇や、気温上昇、東南海の地震災害に対しても、旧都東京は人口が減少していたためもあり、最小限の被害で乗り切ることが出来、しかもその時には首都機能が新都に移行していたので、続発した巨大災害の最中であってもかえって経済、科学技術、芸術の活況を呈することとなった。
 <平成文化>この頃花開いた芸術が、いまなお世界を魅了している平成文化である。
 菅直人の遷都は、当時、史上最悪の選択・独裁強権と非常に評判が悪かったが、結果的にはその場所選定といい先見の明があった施策であった。
<平成遷都の背景>菅直人が遷都を決意した直接の動機は良く分らない。直前に東北地方で地震災害があったためとの説があるが、離れた場所の災害で首都を変えたという事例は日本にも世界にもないので歴史学者の間では否定的な説とされている。
それより旧都東京圏があまりにも過密であり、ゴミ処理や原子力発電など生産のためのその負の施設立地をことごとく地方に押し付け、効率という名の下にあらゆる空き地をなくしたため、災害に極めて弱い問題を抱えていた。しかもこの首都至上主義の状態を当然視してとどまるところを知らず、機能分散などの改革案に一切の耳を傾けようとしない、明治革命後の特権階級の旧勢力の力を削ぐことがひとつの理由だったかもしれない。
 

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藤原鎌足の常陸出自説を追う(17)結び

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 画像は君津市白山神社古墳の説明板です。教育委員会は説明していないですが、壬申の乱の敗者天智天皇の皇太子である大友皇子(弘文天皇)の墓との伝承がある古墳です。
 学問的に見れば、古墳形体は4世紀型(箸墓古墳に似た前方後円墳で崇神天皇陵のように丘陵頂上に築造されている)。壬申の乱当時とは年代が合いません。むしろ馬来田国造の一族の墓と見るべきです。しかし面白いことに、この古墳の周囲にはこの地方では珍しい、いくつかの陪冢があり、そこから出土した直刀の年代観は、推古以後・桓武以前(戦前の東大調査)なのです。主墳頂上の不思議なくぼみと合わせて主墳と陪冢のこの年代の離れすぎは古墳の再利用を思わせるものです。ここに「伝承」と結び付けられる余地があります。
今までの鎌足研究シリーズで、藤原鎌足が常陸出身であるという伝承の根強さのようなものを紹介してきました。伝承ばかりでなく、考古学的遺跡でも状況証拠のようなものが数多くあるわけですが、もちろんこれだけで結論うんぬんは何もいえるものではありません。しかし、従来の歴史学者が、わざとか、気がつかなくてか、ことさらに藤原氏との関係を無視してきたものの3つを挙げて、これと鎌足あるいは藤原氏との関係で検討すれば、何か新しい視点が見つかるのでは、ということを今回の提案とします。
 一つ目は、シリーズで取上げた親王任国です。親王が守になるということは自然に考えればその国が副首都、副畿内、あるいは低レベルの政治は中央の判断を待たずに独断で決定する封建統治(後世の関東公方?)のようなものを想像するわけですが、実際の位置づけはどうだったのでしょうか。摂関政治の中でこれは何なのか研究すれば、藤原氏、鎌足と東国との関係が何か出て来ると言うのがデン助の主張です。どなたか「やってみよう」と思う人はいないでしょうか。
 二つ目は、大友皇子(弘文天皇)の流され王伝説です。中身は壬申の乱における藤原不比等の帰趨と合わせて考えないと納得が出来ない内容なのですが、壬申の乱で不比等は何をしていた(どちらについていた)かもよく分らないので、研究のし甲斐があります。
 伝承は、大友皇子が近江で果てることなく上総の馬来田まで逃れてそこで亡くなったということです。柳田国男も「なぜこの東国の一地域に限ってポツンと島のようにこの伝説があるのか、何らかの史実の反映なのではないか、研究の価値がある」と言っているものです。伝承のもろもろはデン助のブログの「浜辺散歩」で一部紹介しました。
 三つ目は、繰り返される反乱です。日本史でいう俘囚の反乱、群党横行、僦馬の党などといわれるものです。出羽、武蔵などでの反乱も散見しますが、繰り返しの反乱で多いのが、上総、下総、上野です。特に上総・上野は多いです。考えてみればこの延長線上に平将門の乱、平忠常の乱があったと見て差し支えないようです。これと合わせて那須の国造碑にある年号が「永昌元年」という唐の年号を使用(当時は持統朝3年で、「大化」以後逸年号の時代)しているなど東国の大和朝廷に対する独立色の強い気風がうかがえます。
 このような気風の東国に対して、親王任国三国が東国でしかも上総・上野とくれば危機感を感じた朝廷の何らかの懐柔策と取ることができるのではないか。その権威付けに藤原氏の先祖の地である常陸が付け加えられたとみたらどうでしょうか。(なお、常陸の俘囚の反乱という記事は日本史にはありません)

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藤原鎌足の常陸出自説を追う(16)藤原五摂家当主の認識

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 画像は本朝12銭(和銅開珎(708年発行)を除く)。958年の乾元大宝まで中央政府が発行しますが、796年の隆平永宝以後品質がガクンと落ちていることに注意願います。
貨幣衰退化の歴史は、藤原家隆盛化の時代にピタッと重なります。
かなり古い本ですが、今東光さんの「毒舌日本史」は、彼の立脚点が西国史観であるくさみはありますが、視点のブレがなく、デン助的にはお薦めの日本通史です。
 少し中身を紹介します。近世人物評です。徳川斉昭、この人を水戸ッポは神のようにあがめていますが、と、前置きして、しかし彼が結局後の水戸藩の騒乱(内部対立で2千人以上の犠牲者を出す)の原因を作ったと断罪。スケベな狒々親父と切り捨てています。
 坂本龍馬、土佐ッポのハッタリ屋、興味なしだそうです。薩摩武士、本質的に金銭を愛する。彼に言わせると東郷元帥もダメ。晩年、麹町の大家主だった頃は、ケチで有名で店子の評判は散々だったといっています。その点、長州武士は貧乏に徹している、と、こちらは評価が高い。ただ、デン助に言わせてもらえば、長州志士というと、公金でドンチャン騒ぎが好きというイメージがあるのですが・・・・。近頃、薩長土肥あわせて、評価にだいぶ値ごろ感が出てきていますが、まだ大きく書かれすぎ、特に龍馬などは、というのが東国史観派からの意見です。それはそれとして・・・・。
 東光さんは天台座主という立場だったので、雲の上つ方と同席することも多かった。ある時、五摂家の何かの席に招かれて座敷で和気藹々と話していると、当家の執事が来て、当主に耳打ちする。すると当主の顔色が変わって、突然ザワザワしだして、何かなと思っていると、皆、次の間に移動して神妙に並び直した。東光さんだけポツンと取り残されているところに、近衛文麿さんが入って来てビックリ、一同平伏。文麿さんは当然のように上座に座る。東光さんは仕方なく、「私はこちらで」、と、口の中でボソボソ言いながら、結局廊下に座り直した、と、こんな話、さもありなんで面白かったです。
 東光さんの古代史解釈で気のついたところを列記してみます。
 まず、旧事本紀は重要な書である。後の事柄が混入していたり錯誤があるが、古い伝承が確かに伝えられている。
四面海にかこまれた日本人の海事思想の貧弱さ、これから脱皮しようとして、天智帝は大津に(琵琶湖から日本海に抜けて大陸との交通のため)都せられた。
壬申の乱は、反革命である。天智帝の歩みを元に戻してしまった。この時、藤原不比等は実にうまく立ち回った。(天武帝の時代が去るまで待ちぬいたということ?これには不比等の年令の問題もあると思われます。不比等が本格的に動き出したのは、持統、文武の後の女帝時代です)・・・・・・等、首をかしげる主張がありますが、以下の1点は、五摂家当主から直接聞いた話として、傾聴に値します。
 近衛忠麿さんは文麿さんの末弟ですが、この人は明治帝の思し召しで、春日大社の神主を継がれた。(水谷川忠麿)その人にうかがった話。
 「お宅のご先祖さんは藤原鎌足さんでしたね」との問いに対して、「違います」と、忠麿さん。「それじゃ、天児屋根命さんですか?」、「藤原不比等です」と断言。鎌足など数に入っていないらしい。
古くから伝承として次のようなはなしがある。
鎌足は天智帝の夫人を賜ったがその時、夫人は天智帝の胤を宿していた。天智帝が、「生まれた子供が男ならそちの子供にせよ、女なら自分に返してくれ」と仰せられ、生まれたのが不比等だとの伝承があり、これを、五摂家の人々は皆確信していた。もちろん文麿公も同じである。
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次の画像は藤原頼通建立の鳳凰堂。藤原氏最大隆盛期の遺構です。天下の富を集めたと言ってもこのレベル。基本的に藤原家は世界史レベルで見れば終始貧乏でした。
結局、藤原家の「正史」は、デン助が先に紹介した「大鏡」の記述通りなのではないかと思われます。繰り返し説明しますと、大鏡は、鎌足は常陸の鹿島神宮の中臣氏の出身である、と、主張します。天智帝にかわいがられて、同士として乙巳の変を主導し、内大臣になり天智帝の懐刀として忠勤した。晩年に、天智帝から藤原を賜姓されたが、氏の長者を、天智帝の子供である不比等にゆずった。(実の長男は遣唐使として唐に送り帰国した後は仏門に入れる)不比等は、義父の功績に敬意を表して、不比等の系列で2家、鎌足の系列で2家の合計4家(南、北、京、式家)を立て、その後の発展盛衰は神の意思にゆだねることにした。その結果として神の意向に叶ったのは不比等の系列のひとつの北家であった。(なお、大鏡には南家、これも不比等の系列ですが、この家の藤原仲麻呂や藤原広嗣たちの活躍や謀反については一切記述していません)
藤原家にとって鎌足は数に入っていないのではなく、中臣の氏を賜姓家にせり上げた功労の人であり、「藤原家」にとっての神である。だから鎌足由来の鹿島大社を奈良に勧進して春日大社とした。しかし、創姓後の人間の初代は不比等である。この人は天智帝の落胤である。藤原家が尊いのは鎌足の存在があるからではなく、不比等の血が尊いからである。と、いうのが藤原家の主張なのです。藤原家にとって鎌足は常陸の田舎豪族の出であっても、中臣の出であっても構わないのです。従って、鎌足の出生地を秘密にする必要もなく、嘘をでっちあげる必要もありません。であるから、鎌足が常陸出身であるというのは真実ではないかと思われるのです。
鎌足が常陸など東国とかかわりがあるということが、藤原摂関政治の中で、東国への配慮=贔屓として働きます。もちろん東国から何の運動もなければそれまでですが、そのおねだり運動があったとすれば、そに対しての回答が、常陸の親王任国ではなかったのか、それと合わせて上総が選ばれたということは、これもやはり鎌足の母親が出たところというつながりから最終決定がなされたのではないのでしょうか。
平安時代の政治の決定はほとんどが前例であり、有職故実ですので、古くてもっともらしい伝承は、運動するに重要な武器(現代用語で言えば「理論武装」、「効率、バランスシート」でしょうか。必ずしも真実である必要はありません。信じさせられるか疑われるかです)になっていたはずです。

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藤原鎌足の常陸出自説を追う(15)古代から親王任国までの上総事情  その3

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画像は邪馬台国などの所在地各説を示したものです。近年、奈良県桜井市の纏向遺跡が邪馬台国だとの説が勢いを強めています。それとは別に倭人伝で女王国に属さないと伝えられた狗奴国とは実は東国連合の盟主国でその所在地は美濃・尾張にあったという説が出てきました。この説の中には狗奴国を毛野国、すなわち現在の群馬県にあったのだとの説もあるほどです。(これを引きつなげて、上野国の親王任国化の背景として説明する手もありますが・・・・・。上野国は石器時代、縄文時代はいいとして、3世紀の日本と限定すると、考古的にきびしいかもしれません。)
古代史学者が描いている日本国誕生の構図は、西国連合の邪馬台国と東国連合の狗奴国が統一盟主の座を争って、その中から大和王朝が誕生したのだということのようです。
先ほど東京で行われた、「狗奴国から邪馬台国を考える」なるシンポジウムに参加して日本史の特徴のようなものについて学ぶものが多かったです。それを列記しますとつぎのようになります。①中央豪族と地方豪族は実力的には拮抗した存在である。②歴史は繰り返す。例えば土地土地には特性がある。例として関が原などは戦いの切所となりやすいなど。③国などの領域は自然条件などで自然に決まるため古代からの伝統が残りやすい。④日本の国の形は、古来からの領主制(封建制度)に中国式の郡県中央集権制がミックスしたもので、この形が明治維新まで続く。
歴史解説で、例えば、平忠常と源頼信や平直方など、地方と中央の身分があたかも当初から決まっているような記述がみられることにデン助はかねて不思議に思っていたのですが、これについては単に天皇を担いでいるか否かの差であって、経済的実力的にはそうではないという確信が持てるようになりました。例えば、平広常と源頼朝の身分関係、実力についても同じことです。昔、平治の乱で源氏の下知のもとに戦ったとは言え、それが永遠の関係ではない。天皇をいただこうとすることへ名乗りを上げる参加権は同じく持っており、頼朝旗揚げ当初では経済実力は広常の方がはるかに上なのです。
これは世界のどこであれ、地方分権であれば支配者のその大なるものと、小なるものの経済力の差は大きく変わりようがないのです。中国のように中央集権ですと、中央が強いと中央に富が集中し、中央が弱いと地方のボスに富が集中することになります。いずれにせよ中央から派遣された官がボスになるわけですから苛斂誅求になりやすい。そこまで行かなくとも土ですら掘り起こして持っていくボスになりがちです。その点封建制のもとにある生え抜きの地方ボスは取るにしても配慮が働くので中央、地方ともにそんなに金持ちにはなりません。むしろ貧乏になります。日本のように律令のピーク時でも荘園など領主制が一掃出来なかった国柄ではなおさらです。(共産党一党独裁中央集権の現代中国は、おそらく地方の官に許認可にまつわる手数料(わいろを含む)が集中しておそろしいくらいの富が蓄積されているのではないでしょうか。この人たちが、自分たちの既得権擁護のために中央の外見インテリっぽくて理屈っぽくて貧乏そうな主席達を担ぎ上げているのです)
日本のようなお国柄では、地方はただひたすら税を納めるだけの存在ではありません。常時サボることはもちろん、時として反発もするし、おねだりもするのです。中央の豪族もそれを無視するわけにはいきません。上手にコントロールする必要があります。
地方の反発やおねだりの素は何かと言いますと、それはイデオロギー(信条)で、帝国主義や共産主義や経済至上主義や人権主義や民主主義ではもちろんなく、平安時代では有職故実です。早い話が先祖の「日本国建国における手柄話」です。
国造本紀が出現した時の世情を、デン助が想像するに以下のようであったと思われます。
まず、アジア情勢は古代帝国唐の滅亡で侵略者がいなくなり安定化して、日本は一種の鎖国体制下で平和化した。平和化すると学問が盛んになる。これに輪をかけたのが、藤原氏の思想です。藤原氏の思想を一言で言えば「分をわきまえた行動の実践と強要」です。それにたたりへの恐れから来る鎮魂の宗教生活です。そのためには有職故実の研究は欠かせません。
当時貴族の一般教養として古事記、日本書紀は欠かせないものでした。知識人やオピニオンリーダー達はこの2書の補注書、補填書を強く求めていたのです。ここに登場したのが、先代旧事本紀です。言わばドラッガーの経済書です。世をあげて珍重されたに違いないのです。
この風潮に、地方豪族が乗っかります。国造本紀を読んだ常陸・上総の人々だったら、デン助でも森田知事でも、ここは上総、常陸のためにひとはたらきしようと考えます。「崇神天皇の御世に国造がこれだけ任命されていた古代に対して、今(平安時代の今)はあまりに配慮がない、聞けば藤原氏の創始者は常陸出身だということ。それも含めて日本国創建のために多いに貢献した常陸、上総はもう少し特別扱いがあっていいはずだ。」
けんけんがくがくああでもないこうでもない、他地方とのバランスでああだこうだ、すったもんだの挙句に、しかも日露平和条約交渉のように100年もたって決まったのが、上野・上総・常陸の親王任国制度だったのではないでしょうか。もちろん多数過ぎてきた親王の就職先確保の意味合いも否定しません。しかし、決まった時は、今ならさしずめ新幹線の停車駅が決まった時のように地元のみんなは喜んだことでしょう。
こうして決まった親王任国は、平将門の乱の遠因のなったと思われます。少なくとも将門に乱を正当化する言質を与えました。その後、平忠常の乱でも上総常陸は特別な国であるという考えが、当事者の忠常の頭に去来していたことは確かだと思われます。
さらに、時代が下って、源頼朝の血筋が絶えた時、番頭の北条義時の胸に去来したのは親王任国の故実でした。北条家が摂関家将軍や親王将軍に固執したのは、東国の差配をするのはもはや上総や常陸などではなく相模だという思いだったのではないでしょうか。北条家は相模守の地位に固執します。(相模守など従五位に過ぎません。従来これを北条家の遠慮と見ているようですが間違いではないか。まず北条家は源家を唯一無二の上司とは見ていません。行きがかりで上司と仰いでいるに過ぎない。天皇家からのつながりの血の濃さで言えば我らと大差なしと見ていたはずです。上司にいただくには源家はちょっと血が薄くなっているという思いがあったはずです。)
 なお、上野が親王任国になったことについて、国造本紀からの説明ではちょっと強引に過ぎます。上野は、あるいは中央中級官人の上毛野氏の動向が強く働いた結果かもしれません。(あるいは、日本政治に特有のバランス取りの結果か?)

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