石榑千亦の歌集「海」紀行(2)東北その1
画像は広重の「奥州松島真景」です。見るからに日本の美学です。しかし、暖国の住人、千亦が詠ったのはこれとは違って、シベリウスの音楽のような海でした。
千亦の東北は、金華山沖からスタートしています。歌集は短い言葉書きがある他は、短歌がずらずらと並んでいるだけで、しかも、でかい活字で何となく損したような気になります。短歌の並び順に作者としての意図があるのか、単に制作の古いほうから並べたのか分りません。とにかく歌集本の通り並べます。
東北 金華山沖
わが船のまはりいささか残しおきて狭霧となりぬ大き海原
北をさす針の力を力にておぼつかなくも霧の海ゆく
霧の中に波白くはしるかのはしる波のあたりや陸にしあるらむ
おぼつかな船かも島かも霧の中に霧ならぬ影のうすく見ゆるは
松島
雨しぶく端島のの島ゆれにゆるゝ船窓の中に見えかくれする
金華山沖の短歌はすべて霧一色でした。長く滞在して「金華山」のアイデンテイテイーは「霧」だと悟ってこうしたのではなく、多分予算の関係で短い滞在で、初夏に来て見たらたまたまヤマセが吹き、沖は霧だったということなのでしょう。暖国の伊予や新舞子の浜辺にくらした千亦にとってこのきびしさは驚きだったのではないか。
ただ、霧の中をおぼつかなくもよたよたとおっかなびっくり走るのではなく、雄雄しく立ち向かっているのです。バイキングの海賊か、白鯨のエイハブ船長か、と、見るべきです。
偶然ながら芭蕉も初夏に松島に来ています。白川の関から福島中通りを通って仙台、多賀城碑を見て、塩釜、松島、石巻(それから平泉へ行ってしまう)と来ていますので、芭蕉はここではじめて東北の「海」と対面したわけです。そこで芭蕉は東北の「海」を詠ったか。残念ながら理由は分りませんが、多賀城から石巻・金華山まで「奥の細道」に海の句はないし、句自体、漢詩の確認のような曽良の句がひとつきりで本人の句はまったく載っていません。
どうしてと詮索はいろいろあるのでしょうが、西行法師からはじまる漢詩教養京都西国文化の足跡を辺土の奥州に訪ねる芭蕉は、宮城の国に京文化が根付いているのを見て、漢詩の世界の松島を見て大満足であったのだろうと思います。バイキングやエイハブ船長の美学がこの世にあると一瞬たりとも思ったことはないのです。霧の海やヤマセは想像の外であった。歌になるものではなかったのです。先人に付け加えるべきものがなかったということなのでしょう。(芭蕉が松島に「思い」がなかったわけではないのです。およそ洞庭・西湖を恥じずと言っていますし「奥の細道」の「象潟」でもそれを吐露しています。「松島は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし」)
西国的生活に限りなくあこがれ憧憬を持って奈良時代の早い時期から京の文化を受け入れた仙台、塩釜、松島などデン助の新舞子などよりよほど京と同類の歴史を長くしかも藤原四代、政宗などに見られるように大金をかけて共有していまして、それらの人々にとってはヤマセは飢饉のさきがけ以外の何物でもないのですが、一歩遠くから見て、では漁業の人々にはと思いを寄せると、おそらくヤマセは好漁のしるしなのかもしれません。
ただ、千亦はそれも見ていない、ただ、新鮮に面白がっています。上に上げた短歌3首目、「陸だろうかあの波頭らしきものの列は」の千亦の脳裏にはおそらく実朝の「箱根路を我越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ」があったかと思えます。片や白黒の世界、片や総天然色の世界、ただ共通しているのは、雄雄しさ、男っぽさです。
次に挙げた画像は、太平洋はるか沖の小島の周囲の白波です。(小笠原の鳥島の航空写真です)
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