2012年09月13日

読売 新聞記者からの挑戦状を笑う


<引用開始>
英語を「公用語」とする日本企業が増えています。
 「ユニクロ」を展開するファーストリテイリングは今年3月、英語を社内の公用語としました。外国人が参加する会議は英語で行い、正社員には英語力を測るテストTOEICで700点以上を取ることなどを求めています。また、インターネットサービス大手の楽天も2010年に「英語公用語化」を宣言し、今年中に会議の英語化など完全実施を目指しています。
http://www.yomiuri.co.jp/adv/newsbiz/choice/challenge2/
<中略>
日本語が国際語になる可能性がないという現実を前に、日本人の英語力を高めることは必要です。「英語公用語化」はそのための一つの方法ですが、目的ではなく、あくまで手段と割り切って進めるべきだと考えます。また、外国語がいくらうまくても自国の文化、歴史を知らないようでは真の国際人として認められません(言わずもがなですが…)。
 
 みなさんはどう思いますか?「企業の英語公用語化」への賛成、反対。または企業のグローバル化についての意見を求めます。
<引用終了>
http://www.yomiuri.co.jp/adv/newsbiz/choice/challenge2/

このように投稿しました。(400字内)

聖書ヨハネの手紙第二より
あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。
クリスチャンの友人から聞いた話です。アメリカに行き、釣りをしている人に話しかけたところ、日本人だと分かり無視されたそうです。友人は、英語で書かれた洗礼証明書を見せたところ、「兄弟、家に来い」と言われ厚遇を受けたそうです。
オバマ大統領は就任式で「我々は、キリスト教徒やイスラム教徒、ユダヤ教徒、ヒンズー教徒、それに神を信じない人による国家だ。」とスピーチしています。
結論です。キリスト教を理解しない日本人が英語を話しても、決して良好なコミュニケーションはとれないのです。思想とは宗教観と哲学の和です。英語教育よりも、キリスト教教育の方が、ビジネス思考の武器になるとクリスチャンの私は確信しています。

読売新聞記者の低いIQと教養では、とても理解できず、ボツになると分かっていましたが、案の定です。
http://www.yomiuri.co.jp/adv/newsbiz/choice/challenge2/post.htm

五木寛之著 神の発見より
<引用開始>

私は自分で勝手にブッディストだと思っている。ブッダと一般に呼ばれる釈迦に深く共感し、その思想と生きかたに帰依してきた。
 しかし、奇妙なことに、いつも読んで感動するのは聖書である。親鸞の言行を記録した「歎異抄」を読んでも。ああ、このくだりは聖書のなかのあの部分と重なるな、と感じたりするのだから困ったものだ。

(中国から受けた文化以外に)
もう一つの衝撃は、いうまでもなく明治にはじまる西洋・欧米文化の到来である。文明開化の名のもとに、私たちの生活様式は一変したといっていい。漱石はその変化を「西洋の猿真似」と呼んだ。彼のいわんとするところが私には、なんとなくわからんでもない。
 「和魂洋才」というスローガンには、大きなごまかしがあるのではないか。洋才(西洋の才能、知識)には深いところで洋魂(ようこん)とでもよぶべき精神のありようがあって、それが才という技術やシステムを支えているはずである。その根の部分を都合よくカットして、地上に咲いている花だけを利用しようとしても、それは、無理なのではないか。
 その根に当たる洋魂とはなにか。それがキリスト教文化であることは、すでに誰もが知っていることだ。5

 民主主義の土台である人権は、天賦の人権と呼ばれる。天とはなにか。それは神が与えもうた権利であり、デモクラシーが神の意識なしに成立しないことは、アメリカ大統領の就任のセレモニーを見れば、一目瞭然である。聖書ぬきでは、大統領の就任式さえおこなえないのであるから。
 司法の場で証人が宣誓するのは、裁判官や検事や陪審員のためではない。「神に対して」真実を述べると誓うのである。
 すなわち、西洋・欧米の近代文明とは、基本的にキリスト教文化であり、それこそが洋魂とよばれるべきものだろう。
 しかし、明治以来、私たちは天皇制と国家主義を和魂として、洋才に無理やり重ねて近代化をおしすすめてきた。敗戦によりそれが否定されると、どうしたことか。まことに要領よくというか、図々しくいというか、こんどは「無魂洋才」という抜け道を走り続けてきたのだ。
 そして今、日々さまざまなかたちで発生する事件は、その無魂洋才という抜け道が行き止まりに直面したことを物語っている。
 敗戦後のこの国が、なんとなく好調に走り続けてこられたのは、たぶん、無魂という制約なき身軽さによるものだろうと思われる。魂というものは,つねに人びとの心や社会にブレーキとして働くものだ。
 「そこまでしてはいけない」「そうすべきではない」というブレーキが外された車は、当然、他の車より早い。めざましく疾走し、そしてやがて転覆する。
 フランシスコ・ザビエルの来日、伝道からおよそ四百五十年、私たち日本人は、容易に洋魂を取り入れようとはしなかった。弾圧と殉教の歴史を経て、いま現在、日本におけるキリスト者の数は国民の一パーセントであるという。
<引用終了>

読売新聞の購入者が哀れでならない。
posted by S・C・ NAKAMURA at 00:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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