投稿内容
タグ
ブログタイトル
ウェブ全体
お気に入り登録
|
ログイン
|
ブログを作る!(無料)
ブログトップ
世に倦む日日
critic5.exblog.jp
本と映画と政治の批評
by thessalonike5
アクセス数とメール
since 2004.9.1
ご意見・ご感想
最新のコメント
下は日本では留保されてい..
by a at 22:16
リンクさせていただきま..
by Silvergray777jp at 19:36
いつもトラックバックの特..
by nyckingyo2 at 13:15
シングルイシュー強要も思..
by けいたろう at 00:25
私も「サヨク」という言葉..
by つき at 00:13
今年 82歳になる老人で..
by 芝ちゃん at 23:26
背筋が凍るような記事で..
by カプリコン at 23:01
中国の大きな譲歩、この..
by カプリコン at 21:58
北方領土は元々、大戦末期..
by 信貴明 at 16:57
最新のトラックバック
イニシエーションのための..
from NY多層金魚 = Secon..
以前の記事
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
more...
since 2004.9.1
XML
|
ATOM
skin by
thessalonike5
「右翼」の語の自粛と消滅 - 右傾化の自己(日本)認識
尖閣国有化を中国側に説明するため、政府はすぐに杉山晋輔(アジア大洋州局長)を北京に飛ばした。この措置は悪くない。もし国有化しなければ、石原慎太郎が購入して港湾や灯台を自在に建設し、それをマスコミに宣伝していたことだろう。石原慎太郎の尖閣の火遊びを阻止するためには、政府が購入して「平穏かつ安定的に維持管理する」しかない。政府の判断と決定は、右翼の尖閣妄動を防ぐためのもので、日中関係の悪化を食い止めるためのものだ。結果的に、日本側の主権強化となり、中国側の望む現状維持からは動いたが、次善の策としてやむを得ない。この点は中国の認識も同じだろう。にもかかわらず、今回、中国側の反応がこれほど強硬なのは、私の推測では、水面下の日中交渉で、中国が要求している「3条件」(①上陸させない②調査をしない③開発しない)を日本が合意してないからで、態度を曖昧にしているからだろう。おそらく、石原慎太郎にも何らかの「説明」をしているわけで、「密約」的なニュアンスを残している可能性がある。とすれば、中国への「説明」は玉虫色の二枚舌になり、「3条件」に明確にコミットすることができない。政府はマスコミへのリークで、下旬のNYの国連総会で日中首脳会談を設けると言ってきたが、とてもそのような情勢ではなくなっていて、10日ほどで調整がつくような雰囲気ではなくなった。日本側が大胆に動くしか問題の解決はない。
中国の強硬姿勢は、外務官僚にも予想外のものだったに違いない。昨日(9/11)の朝日の3面に、温家宝が「主権と領土問題で政府と人民は絶対に半歩も譲らない」と決意を語った記事が載っている。テレビのニュースでも放送された。朝日の記事にも、「中国では政府首脳が外国の行為をあからさまに批判するのは異例」と書いているが、そのとおりだ。事態の深刻さを誰よりもよく理解しているのは、この問題で現場の指揮に当たっているはずの東郷和彦だろうし、そうでなければならない。思い出すのは、ちょうど2年前の2010年9月の漁船衝突事件のことで、9/7に船長逮捕、9/13に司法手続きの方針が固められ、9/19に勾留延長が発表されて以降、フジタ社員の身柄拘束からレアアースの輸出規制まで次々と報復措置が発動され、最後に9/21にNYでの温家宝の断固たる決意表明となり、慌てた菅直人がNYから仙谷由人に電話をかけて怒鳴りまくり、ようやく船長釈放の顛末となる。このとき、温家宝は「われわれは(日本に対し)必要な強制的措置を取らざるを得ない」と述べた。「必要な強制的措置」とは、中国海軍の艦船を尖閣に出撃させ、実力で領土を保全するという意味であると、そのときの日本のマスコミ報道でも解説されたし、東郷和彦も著書の中でそう書いている。中国は武力衝突を覚悟し、決意を米国に示して、米国に日本への対応を促せた。
今回、政府トップの温家宝の発言がこの時点で出たことは、エースのカードが切られたことを意味し、ここから先のネゴシエーションのバッファが残ってないことを意味する。もし、私の推測どおりなら、政府は「3条件」を留保なしで受け入れて合意するしかない。中国の国防省(国務院国防部)も、「重大な関心を持って事態の推移を見ており、相応の措置をとる権利を留保する」と断言している。中国国際放送のサイトに国防省報道官の言葉が載っていて、「今年に入って、日本政府は右翼勢力によって引き起こされた『釣魚島購入』騒ぎを放任し、自ら『購入』するまでに至り中日関係を著しく損なった」「日本はここ数年、様々な口実で軍備を拡大して地域に緊迫した情勢を作り、釣魚島問題で紛糾を引き起こしている。隣国と国際社会は高度に警戒すべきだ」とある。日本からすれば、 軍備を拡大して地域に緊迫した情勢を作って入るのは中国の方だと反論したいところだろうが、この「隣国と国際社会は高度に警戒すべきだ」の一言は注目に値する。「隣国」は韓国の意味で、韓国へのメッセージである。この中国国防省の発言の「魚釣島」を「獨島」に置き換れば、そのまま韓国政府の発言として言葉が繋がる。つまり、韓国国民が納得し共感するメッセージだ。日本のマスコミが言わないのは、実にこの点である。重要なのは、この「右翼勢力」という言葉であり、竹島と尖閣の領土問題が単なる領土問題ではない点だ。
竹島問題が領土問題ではなく歴史問題でもあるということは、日本人も承知している。しかし、尖閣が歴史問題であるという認識は日本人にはない。東郷和彦は著書の中で、尖閣問題も歴史問題に転化して厄介になる可能性があると危惧していたが、現実には、日本の外の国際社会ではすでにその性格が固まっている。そのことは、クリントンやペロシが慰安婦問題をどう捉えているかを想像し、視野の中に米国を含めて考えれば、たちどころに理解されるところだろう。「歴史問題」という言葉は、この場合、われわれに事態の政治性を正しく覚知させる上で適当でないかもしれない。「歴史問題」と言うよりも、「右翼問題」と直截に言うか、あるいは「イデオロギー問題」と表現した方が、問題の本質を正しく伝えられるだろう。国際社会で問題になり、要警戒の眼を向けられているのは、日本の右傾化・右翼化なのであり、橋下徹の言う「価値観」なのである。重箱の隅をつつくような歴史の史料の解釈とか考証の問題ではない。もっと基本的な倫理とか内面の問題である。心の問題であり、常識のあり方の問題である。侵略戦争と植民地支配について、その過誤を認め、反省の態度で隣人と向き合うかどうかの問題だ。1972年の日中共同声明や1995年の村山談話の文面について、その思想を内面的に継承しているかどうかという問題だ。日本のマスコミは、そこに焦点を合わせた報道をしない。右傾化や右翼化の状況を認めようとしない。
右傾化や右翼化を指摘する論者を画面や紙面に登場させない。ゴマカシを言う。マスコミ自体が右傾化・右翼化し、それが常態化し、右翼的なものが常識化し、特に若い世代が右翼的な偏向を異常と感じなくなっているためだ。先週末、想田和弘が橋下徹をノンポリだと指摘していた
記事
を見つけて、右翼を正面から右翼として認識しない議論はスリカエでゴマカシだと批判した。右翼である政治的事象に対しては、明確に右翼だと声を上げて指弾し、その危険性を警告しなくてはいけない。それが知識人としての当然の態度であり責務だろう。ところが、今の日本では誰もそれをしない。日本の政治について論じている私のBlogやTwitterには、右翼という言葉が、それこそ、ケニアのボゴリア湖の数百万羽のフラミンゴのように氾濫している。それは、政治学の立場から、現実を正確に捉えて言葉を誠実に適切に選んだ結果だ。私の認識や表現の営みは、かろうじて韓国や中国の日本批判の報道によって、担保されていると言うか、精神異常者の独り言でないことが証明されている。橋下徹という思想的実体を、ノンポリなどという誤解を与える言葉で定義するのではなく、正しく右翼だと規定せよと言った私に対して、橋下徹を右翼だと言ったところで、相手側からは「左翼の理屈」だと反駁され、説得で負けるではないかという
異議
が返った。この言説こそが、この20年間の脱構築左派の言い分であり、右翼を右翼と言わず、そこにアクロバチックな理屈を開発する者の言い訳だ。
要するに、「逃げ」なのである。相手をストレートに右翼だと批判する行為は、直ちに批判者である自身が左翼だと批判される立場に身を置くことを意味する。それは、現在の思想状況の下では大きなリスクだ。どれほど正論の主張であっても、事実として多勢に無勢であり、論を通すに分が悪く、多数派である右翼に包囲され攻撃されて立場的に無力化されてしまう。自らを思想的に左翼だと思ってない者にとっては、右翼批判の対価たる世間からの非難を引き受けることは憂鬱で煩わしい災難であり、できれば避けて遠ざけた方がよいもので、敢えて火中の栗を拾う蛮勇のある者はいない。誤解による孤立を恐れ、危害を恐れるのは当然だ。だから、脱構築左派は奇妙な屁理屈を捏ね、左翼批判の言説を塗して疑似的な説得力を加工し、右翼化した一般大衆の納得と支持を得ようと足掻くのである。この努力は、丸山真男が批判するところの知識人の自己欺瞞であり、知識人の側からの反動への歩み寄りの妥協と変節であり、思想的な我慢と潔癖の放棄なのである。想田和弘的な珍説の開発には、その裏に無意識的にも政治上の「多数と少数」という物理的な「勝負」の計算があり、自らを少数派である「左翼」に置きたくないという心理的恐怖の動機がある。橋下徹を右翼だと言えば、自分が左翼になってしまう。自分は左翼になりたくない。だから、橋下徹への批判で右翼の語は使わない。そうした状況が積み重なって、右翼の語の使用は禁止され、躊躇され、自粛され、政治を語る世界から追放処分された状態になっている。
先週、「『左翼』一語による遮断と回収」という記事を書いたが、自己の政治的立論を正当化する際に「左翼」を批判語として使う態度は横溢し、批判語としての「左翼」は無限に氾濫している。その最も卑近な例が反原連の面々だ。自分の批判したい相手に「左翼」のレッテルで攻撃する。そうすると、攻撃する側が何を言っても「正論」になる、どこからも反論が返って来ない、誰もが沈黙して納得と了解が成立する、そういう空気が今の日本社会にはある。「左翼」は万能の政治言語で、これ以上強力な武器はない。脅迫語としての「左翼」の心理的効果は抜群だ。「左翼」の語の氾濫は、実は、右翼的な思想が社会全体を蔽っている政治的事実を意味する。批判語としての、悪性表象としての「左翼」の語の氾濫と横溢は、政治の実態において左翼勢力が異端化され、極小化され、影響力や存在感が希薄になっている現実とパラレルなのだ。政治的真相を言えば、反左翼=右翼がボゴリア湖のフラミンゴのように社会を埋めているのである。逆に、批判語としての「右翼」の語が社会から消え、マスコミや論壇だけでなく、ネット上からも消え、市民運動家の口からも消えていることは、反右翼の勢力が消滅していることを意味する。ここで思い出さなくてはいけないのは、丸山真男が言ったところの、日本社会における政治的民主化や自立した市民の確立が、相対的に「左」の推進力を通じて進行するというテーゼだろう。戦後民主主義の価値のことである。日本国憲法や日中共同声明や村山談話の思想は、決して左翼的なものとは言えない。
平和主義の擁護や戦争への反省は、それを「左翼」として批判され、認め甘んじなければならない思想的態度ではない。けれども、この国では、9条や25条の政治的理念は、保守ではなく革新が牽引するのである。保守はそれを理念としない。この国の保守は、どこまでも、革新が社会を革新するのを阻止するところにレゾンデートルがある。それは、革新という言葉が、契機が、政治の世界から消えた現在も同じだ。保守は今でもあり、それは多数化し、多数化どころか普遍化している。誰もが「私は保守です」と言う。「保守です」と言って簡便に自己を正当化する。だから、この国の政治論議で左右対立を言うのは意味がないとか、イデオロギー対立で政治を説明できないというのは嘘なのだ。保守は保守であり、9条や25条の理念の実現を食い止めようとする。村山談話と河野談話を否定しようとする。自民党がそうであり、維新がそうである。それは、保守が反革新だからであり、左右の二項対立が現実に政治の世界にある証左に他ならない。橋下徹を右翼だと批判すると、おまえは左翼だと逆襲されて負けるから「右翼」の発語を謹むのではなく、勝つだの負けるだの関係なく、それが政治的事実だから、孤立することを恐れず、勇気を出して言わなくてはならないのである。思い出さなくてはならないことの二つ目は、筑紫哲也が言っていたところの「少数派になることを恐れるな」という言葉だろう。問われているのは勝ち負けではない。知的誠実さと勇気なのだ。
知的誠実と勇気を失ったとき、自己欺瞞を重ねて人は変節と転向を遂げる。
Tweet
by
thessalonike5
|
2012-09-12 23:30
|
Trackback
|
Comments(
0
)
トラックバックURL :
http://critic5.exblog.jp/tb/18974583
トラックバックする(会員専用)
[
ヘルプ
]
名前 :
URL :
非公開コメント
※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。
削除用パスワード
昔のIndexに戻る
寺島実郎の反中プロパガンダが逆... >>
ブログパーツ
記事ランキング
1
「左翼」の一語による..
2
尖閣有事とイデオロギ..
3
寺島実郎の反中プロパ..
4
尖閣有事とイデオロギ..
5
石原発言の政治 - ..
6
姜尚中の阿世と金子勝..
7
「世界」は寺島実郎を..
8
皇太子は意を決して離..
9
尖閣有事のシミュレー..
10
尖閣有事のシミュレー..