2005年9月   助任司祭   オースティン神父

敬 老 の 日 に よ せ て
 

   神は私たちに命を与えた。
すなわち一つの存在と呼んでくれたのだ。
生きている存在として私たちを呼ばれた神は、特別に人間として呼んでくれたのだ。
そしてこの人間性を充満させるために私たちに与えたものが、まさに信仰だろう。

 このように考えてみると、信仰とは、人間を人間らしく生かす神の配慮とも言えないだろうか。
もちろん人間はその人間性そのものからして、すでに神の似姿として創造された存在だ。
たとえ土から造られたとしても、私たちは神の息吹によって人間になったのだ。
従って私たちにとって、人間性とは本来なものと言えるだろう。
だから私達が、歴史やあるいはそれぞれの文化の中で、より一層人間らしさに向けてきた人類の 足跡を見つけることは、おかしいことではない。
その中でも、人間関係に対する配慮に目を留める時、特に父母に対する親孝行と共に、 その延長と見られる敬老の思想は、どの文化の中にでも見られるものだろう。
これが、一人の人間が真に人間らしく生きていこうとする時の、最も基本的な条件だといえば言い 過ぎだろうか。
それなら私たちを創造なさった神の考えはどうなのか。

 まず、旧約で神はモーゼを通して、私達が守るべき十戒を下さった。
その内容を見ると、前半部の神に関する戒を除外した全ての戒の最初が、「あなたの父母を敬え」である。
結局この戒こそ、見えない神に従おうとする者が、見える人間関係において守るべき土台なのである。
従って信仰する者は、父母を敬う者であり、これが神愛と隣人愛の掟を守るための最低の基本である。

 誰でも、自身に体を与えてくれた父母を敬わない者が、自分のように隣人を愛することができるのかと 考えてみる時、こっくり頷いてできないと認めざるを得ないだろう。
だから当然イエスは、「父母を敬いなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ19:19)と 命令なさったのだ。

 申命記を見ると、「あなたの父に問えば告げてくれるだろう。 長老に尋ねれば話してくれるだろう。」(32:7)とある。
明らかに、あちこちで父の延長線としての老人(旧約:ザケン、新約:ゲロン)に対する態度を教えている。
またレビ記においても、「あなたの神を恐れなさい。 私は主である。」と威厳を持って宣言される神は、「白髪の人の前で起立し、長老を尊びなさい。」(19:32)と命じている。
人類の歴史からも、そしてその歴史の導き主である神の教えからも、親孝行とその延長線での敬老思想こそ、 人間が人間らしく生きるための最小限の条件であることを見ることが出来る。
だから家族の中での一人の人間として考えてみる時、敬老の精神こそ、神愛の初めの実りであり、 隣人愛の真の第一歩となるのではないだろうか。

 誰でも人間らしく生きたいなら、そしてより一層人間らしく生きたい信仰者なら、親孝行と敬老の精神とは、決して欠かすことのできない本質的なものだと分かるだろう。
さらに真に人間であるイエスに従って生きたいキリスト者なら誰でも、 それらこそ信仰の基本であり隣人愛の初穂であることを分からないだろうか。

   まもなく敬老の日が来る。

 神を愛するあなたにとって、その日こそ、義務でなく“特別な祝福と奉仕の日”になるように。
神と人間共同体による祝福の中で、真の人間の道を求めるあなたに…