韓国軍 食糧戦闘用

イラクにて、食糧戦闘用2型を喫食する韓国軍将兵


朝鮮半島は今なお緊張状態が続いている。 未だ休戦状態をかろうじて保ち続けているだけの不安定な状態であり、南、つまり韓国側は準戦時体制を保ち続けているのである。 そのため国民には徴兵が義務付けられており、ある年齢以上の男性は特別の事情がない限り、一度は軍隊のメシを、文字通り食っているのである。
さて我々は彼らの、特に食について色々と調べてみようと思う。

韓国戦闘糧食の歴史
朝鮮半島が日本の敗戦によりアメリカとソビエトに接収されてから、両大国の利害によって南北に分断され、 南側は1948年大韓民国を正統国家としてし宣言し、自国防衛の為、韓国国軍を創設した。 韓国に軍隊が生まれた時、韓国の戦闘糧食の歴史もそこから始まった訳だが、もちろんはじめからシステマティックな戦闘糧食が用意されていたわけではない。 
建国間もない1950年、朝鮮騒乱が起こる。 その時代を描いた映画「ブラザーフット」をご覧になった人も多いと思うが、劇中で食事を摂るシーンが度々映し出され、その時食べている物を観察すると、旧日本軍の影響からか、握り飯や乾パンを食べているシーンがあったのに気が付いただろうか?  もともと日本統治以前は中国の属国であった朝鮮では、炊いた米を手で握り、手づかみで食べる習慣は無かったので、コレは間違いなく日本の食文化の影響であろう。(ちなみに中国大陸で日本軍と戦った国民党軍や八路軍の指揮官は、冷えたメシを文句も言わずに食べる日本将兵がうらやましかったと言う) 乾パンは言うまでも無く日本の川島主計少将が考案した、日本独自の戦闘糧食だったが、民間でも緊急時の非常食として広く普及していたし、日本統治時代は日本人として軍務に就いていた者も多く、乾パンの有用性を認めそのまま利用したと思われる。
ただし、冬は厳寒地である朝鮮半島は、握り飯は数時間で凍ってしまい食べられなくなり、また山岳部の多い朝鮮半島では、調理した食事を前線まで運ぶのも一苦労であったため、国連軍が本格的に介入するようになってからは、米軍から供与された戦闘糧食を利用することも多かった。 当時米軍で使われていた戦闘糧食は、大戦中に使用されていたC−Rationを発展させたRation Individual Combat ↓や、

  

Food Packet Individual Assault↓であった。 

  

前者は一日分を1箱に詰めたもので、7個の缶詰とドリンクパックおよびアクセサリーとしてスプーンやタバコが豊富に入っていたが、重さはおよそ3Kgもあった。 後者はK−Ration廃止後に代わりとして採用された、1食分をパッキングしたコンパクトレーションだ。 
(後にMCIとして発展)
しかし、戦闘状態が長引くと、米軍の備蓄分だけでは足りなくなって来た。
不足分をアメリカ本国から送っていたのでは製造コストや運送コストが高くつくし、届くまで時間も掛かる。 そこで足りない分は日本で作られることとなたのだが、事は急を要する事態である。 米軍の決められたスペック通り作る訳にもいかないので、簡易レーションで間に合わせる事になるのだが、 特に韓国軍向けに支給する糧食は米軍将兵用とは分けられ、アクセサリーは省略され、パッキングも紙袋で簡略化された物が作られた。(もちろん米軍の指示である) つまりこの簡易パックレーションが、初の韓国軍用レーションと言えるのではないだろうか。

韓国戦争記念館パンフレットより

しかしいくら韓国軍向けと言っても、これらはクラッカーやランチョンミートなど欧米の食事を基にしているため、アジア人には連食がきつく、本格的な韓国軍向けレーションが必要となってきた。 そこで韓国人の食文化を考慮した戦闘糧食の準備を進めていたのだが、韓国向け糧食が出来上がる頃、北側との休戦協定が結ばれたために、この新型韓国人向けレーションは殆ど出回ることは無かった。

結局その後は休戦ラインに沿って頑強な陣地が設けられ、温食を給食できる体制が整えられた事もあり、携帯用戦闘糧食のニーズは減り、軍備増強が最優先であった故、その後も特に力を入れて韓国人向け戦闘糧食の開発もされることが無かったようだ。


韓国人向け戦闘糧食が再び渇望されるようになったのは、それから十数年後。 
韓国国内に米軍が駐留し、北の侵攻の抑止力になってもらっている立場上、米政府の要請によるベトナムへの派兵を断ることも出来ず、1965年3月、韓国は工兵隊をベトナムに派遣。 その後米軍の更なる圧力と南ベトナム政府の要請で、本格的戦闘部隊である韓国海兵隊第二師団が同年10月にベトナムの地を踏んだ。
もちろんベトナム派兵は米軍の要請であったこともあり、多くの物資(武器弾薬燃料食料)は米軍から支給された。
しかし駐屯地で食べる、自前で調理された温食はまだ良しとしても、米軍がそのまま供与した戦闘糧食であるMeal Combat Individualだけは、韓国軍将兵も耐えられなかった。

韓国戦争記念館展示品

ハングルの記載らしき文字が見える、謎のMCIレーション?

 しかもそのMCIすら供与されないこともあり、時にはギャリソンレーションであるA−Rationが支給されることもあったのだ。 A−Rationとは駐屯地やフィールドキッチンで調理することが前提の、冷凍肉や乾燥野菜など、所謂「材料」であるため、そのままでは食べることが出来ない。 これに怒った韓国軍代表団長が韓米軍需支援司令部会議にて強く問題解決を求め、後にそのような問題はなくなったが、それでもMCIが韓国軍の口に合わないと言う問題は、その後二年も解決されないままであった。
すでに長期間ベトナムで戦ってきた将兵の多くは、故郷の味であるキムチや味噌の味を渇望したが、もともと温帯〜寒冷地の発酵食品であるキムチは、亜熱帯気候であるベトナムにおいては発酵が進みすぎてしまうため、たとえ缶詰に加工したとしても直ぐに缶が破裂してしまい、保存が難しかった。
そこで1967年、時の韓国大統領である朴正照はアメリカ大統領ジョンソンに親書を送り、韓国軍の士気向上のため、韓国軍向け戦闘糧食を開発するように要請した。
早速ハワイにある米軍の食品研究所で、韓国食品を長期保存させる研究が進められ、加熱加圧により発酵を止めつつ、食品の食感や風味を損なわないようにした韓国軍向け戦闘糧食が開発された。 これが有名なK−Rationである。
もちろん第二次大戦で使用された空挺部隊用レーションとは全く別物の、 KはKOREAの略であるが、将兵は親しみを込めて「KIMUCHI RATION」と呼んだ。

韓国戦争記念館展示品

基本的な構成は麦飯を主食に、キムチ、コチュジャン(辛みそ) 肉や魚の煮付け、和え物、人参茶、アクセサリーなどが組み合わされ、K-1からK-6まで用意されていた。
しかし製造量はあまり多くなかったらしく(後に製造は韓国国内で行われた為)、いつもK−Rationばかりとはいかなかったので、MCIとK−Rationを交互に組み合わせたり、A−Rationの材料をうまく使い、状況が許すときは弾薬箱を鍋代わりにして、キムチ鍋などにして食べていたと言う。
MCIに飽きていたのは米軍将兵も同様だったので、このキムチ鍋でトレンチパーティーも度々開かれたそうだ。

ベトナム戦争以降、国内の経済も徐々に安定しだし、産業の発展とともに自前での戦闘糧食開発も可能となったため、缶詰主体の戦闘糧食を国内で生産するようになった。 それにより、より韓国人の味覚に合った戦闘糧食を提供できるようになったが、80年代に入り、米軍は缶詰で構成されたMCIから軽量なレトルトパウチやフリーズドライを使用したMREへと戦闘糧食の形を変えた。 欧米人に比べて体格の劣るアジア人にとって、重くて嵩張る缶詰式戦闘糧食は不便であった事は想像に難くなく、韓国軍でもレトルトパウチ食を利用した(食糧 戦闘用1型)が1982年に登場した。 これはMREが採用された年とほぼ同じである。

80年代後半になると、α米式の(食糧 戦闘用2型)が登場する。 これは市販品タイプも国内で売られているほど評判が良くく、「オマエラ軍隊シッテルカ」という、韓国徴兵生活を綴った本の中にも登場し、筆者も「これは美味かった」と懐述している。

 1990年代の 食糧 戦闘用 2型パッケージ
韓国軍の主戦場は国内である。 それほど広くは無い国土を防衛するのには、要所要所に見張り所を建て、そこから出勤警備するのが一番効率がよく、食事も温食の供給が可能であった。 そのためわざわざ高価で味の劣る戦闘糧食を使うことも少なく、年に数回ほどしか戦闘糧食は配給されなかったと言う。 但し、これは徴兵で行った人の話なので、志願兵として入る海兵隊などでは、戦闘糧食ばかりでうんざりしたと言う話もあるが。(実際、部隊により支給される食事の内容は違う) 
韓国軍の運搬食(温食)
また特戦司令部所属の特殊部隊員には、特殊戦闘糧食が与えられる事があり、これは3食ほぼ同じ内容の味気ない高カロリービスケットが主体のレーションである為、これを3日も食べさせられると、本当に気が狂いそうになると言う元特戦司令部所属の特殊部隊員の証言もある。
そしてそのビスケットは、まるで煉瓦のようだと・・・

さて、実際に韓国軍のレーションを、詳しく見てみることにしよう。
(見たい糧食の写真をクリック)



食糧 戦闘用1型 新Type



食糧 戦闘用1型 旧Type



戦闘糧食2型



乾パン



特殊部隊用の軽量レーション



現在、北、つまり朝鮮民主主義人民共和国では、民主主義とは名ばかりの絶対君主制度における間違った政策のため、工業は立ち遅れ、農業は無理な連作や密集農法により、最初は収穫が良かったものの、土地を駄目にしてしまった。 さらに山を丸裸にして農地にしてしまったために洪水が頻繁に起こった。 最も悪いことは主体思想の間違った解釈により鎖国に近い政策を実践し、他国との協力関係を築いてこなかったために、経済は困窮し、国家は崩壊寸前である。 それでも何とか体制を維持しているのは徹底した恐怖政治と、外部の情報を一歳遮断し、金一族を神格化したマインドコントロールによる教育成果の賜物である。 個人では何も考えない盲目従順な国民は、金一族のために喜んで(対外的なポーズだとしても)その命をささげる事だろう。 金体制が維持できなくなったとき、最後は玉砕覚悟の総攻撃を仕掛けてくることを、誰が「ありえない話だ」と、一笑に付すことが出来るであろうか。