2012-09-11
Togetterまとめ「ホラーとミステリの相性の悪さ??」に抗議します
TogetterというTwitterの発言をまとめるウェブサービスが存在するのをご存知でしょうか。
そのTogetterに「ホラーとミステリの相性の悪さ??」というまとめがあると、Twitterのタイムラインで回ってきたのですが、実際に覗いてみて驚きました。
私のTwitterでの発言が、読む人の誤解を招くような文脈で配置されていたのです。
・Togetterまとめ「ホラーとミステリの相性の悪さ??」
もともとは、希有馬氏(@KEUMAYA)の発言、
“この世には「ホラーとミステリは相性が悪い」なんて世迷い言を吐く自称文芸評論家がいるのか……ネットは広大すぎる………Zガンダムは種死のパクリ以来の衝撃”(https://twitter.com/KEUMAYA/status/245056488505241600)
という発言を出発点と解釈した当該Togetter記事の編集者、ダグラスオウヤン星団(@D_Ouyang、https://twitter.com/D_Ouyang)という方(フォロー数と被フォロー数、ツィート数すべてゼロなので、どういう方かは不明)が、希有馬氏の言う“「ホラーとミステリは相性が悪い」なんて世迷い言を吐く自称文芸評論家”が私のことを指していると判断し、独自の判断で編集を行なったようです。
ところが、私は“ホラーとミステリは相性が悪い”などと、一言もTwitterに書いてはおりません。
私が書いたのは、
“(前略)「ミステリ」と「ホラー」は原理的に相反するものなので、考察がきわめて困難です。にもかかわらず、『火刑法廷』のような融合例がある。私の見解は『21世紀探偵小説』収録論文にまとめました。”(https://twitter.com/orionaveugle/status/244663610738098176)
ということです。
この“「ミステリ」と「ホラー」は原理的に相反する”という箇所を、もう少し噛み砕いて説明しますと、“「ホラー」は読者に恐怖を与えるが、「ミステリ」はそうした恐怖へ合理的な解決をもたらす”がゆえに、片方の要素に比重をかければ、もう片方がなおざりになってしまうことを意味します。私が“「ホラー」の原理と「ミステリ」の原理は相容れない”と書いたのは、ひとえに、このためです。むろん、これはあくまで原理ですので単純化していますが、煎じ詰めればこの対立が、「ミステリ」と「ホラー」の関係をきちんと論じることを難航させているものと思います*1。現に、「ミステリ」と「ホラー」という二項の軸だけで考えるのでは、すぐに行き詰ってしまうでしょう。
私がこの問題を考える突破口になりうると考えたのは、ベテランのミステリ作家で、自身、多数の評論を書いてもいる島田荘司氏の評論です。氏は、評論集『21世紀本格宣言』で、ミステリを「論理軸(論理−情緒)」と「幻想軸(幻想−現実)」の二軸をもってチャート式(四象限)に分類しました。四象限のどこに位置するのか、「論理軸」と「幻想軸」に挟まれた一つのグラデーションとして、小説を捉えることができるようになりました。
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この考え方は、「ミステリ」や「ホラー」の境界を考えるためのツールとしても格好に有用だと思い、私は論集『21世紀探偵小説』に収録された拙稿「現代「伝奇ミステリ」論――『火刑法廷』から〈刀城言耶〉シリーズまで」では、この島田荘司氏の分類などを参考にしつつ*2、“「ミステリ」と「ホラー」の融合”を創作の出発点に置いたという作家・三津田信三氏の発言を皮切りに、「ミステリ」と「ホラー」の境界を――ゴシック小説やエドガー・アラン・ポー、コナン・ドイルの時代にまで遡行して――作品と引き比べながら具体的に論じています。拙い部分は多々あると思いますが、少なくとも、ひとつの叩き台を作ることができたのではないかと自負しております。
「現代「伝奇ミステリ」論」で中心的に扱われるのは、主にジョン・ディクスン・カー『火刑法廷』、ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』、二階堂黎人『聖アウスラ修道院の惨劇』、京極夏彦〈百鬼夜行〉シリーズ、道尾秀介『背の眼』、古泉迦十『火蛾』、殊能将之『黒い仏』や『樒/榁』、テレビドラマ『TRICK』、麻耶雄嵩『隻眼の少女』、そして三津田信三〈刀城言耶〉シリーズなど。「新本格」(第三の波)以降の日本作家が中心です。その際のキーワードは、例えば横溝正史の〈金田一耕助シリーズ〉のような「伝奇ミステリ」です。
なお、拙ツィートにも書いていますが、なかでも「ミステリ」と「ホラー」の関係を考えるうえで、ジョン・ディクスン・カーの『火刑法廷』が重要です。これは、「ミステリ」と「ホラー」を完璧なバランスで融合させるという、きわめて困難な試みを成功させた逸品でしょう(【以下ネタバレ注意】)
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驚くべきことに、この作品は「ミステリ」として読んでも首尾一貫しており、同じ話をそのまま「ホラー」として読んでも、きちんと整合性がとれているのです。『火刑法廷』は実際、よく、錯視をもたらす騙し絵「ルービンの壷」に準えられます(http://www.brl.ntt.co.jp/IllusionForum/v/rubinsVase/ja/index.html)。
「ホラー」と「ミステリ」の融合を真摯に考えた〈刀城言耶〉シリーズは、はたして『火刑法廷』を超えることができたのか。拙論の裏テーマは、ずばり、そのことです。
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◆
もとよりTwitterは長文を書くのに向いたメディアではありません。それゆえ、拙ツィートでは、(私の考えを詳しく説明した)このテーマでまとまった論文が収められている出典を示すことで、詳細の解説にかえさせていただきました。
にもかかわらず、このTogetterによって、私があたかも「ホラーとミステリが相性が悪い」と触れ回っているような印象操作がなされ、実際のところ私がどう考えたかなどまるで考慮されず、話が一人歩きするような事態がもたらされてしまっています。そもそも、希有馬氏が示した「自称文芸評論家」が、私のことだと明示されていないにもかかわらず、です*3。 9/11の正午時点で、ページビューは8500近くにのぼり、Togetter記事の印象操作を真に受けてしまっているような例が、残念ながら、多々見受けられています。
私は文芸批評を手がける一個の人間として、このようなデマゴギーに、強く抗議します。
「ミステリ」と「ホラー」について、いくら議論を重ねようと、ただちに人は死にません。しかしながら、“言っていないことをあたかも言っているように伝播させる”デマゴギーそのものは、ともすれば、実際に人を殺しうるだけの危険性を秘めているからです。いささか大げさかもしれませんが、故・伊藤計劃氏が『虐殺器官』で描いた「虐殺の言語」は、あなたのすぐそばにあるのです。
少なくともこの抗議文によって、「ミステリ」と「ホラー」の関係が、より生産的に論じられるような環境が訪れることを、巻き込まれた当事者として祈念する次第です。
乱文、長文をお読みいただき、深く御礼申し上げます。
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2012年9月11日 アメリカ同時多発テロ事件から11年目の日に
※一部追記しました。