私は、関谷和氏の「子どものころきいたことば 話していたことば」埼玉県入間郡元狭山村(二本木)の方言覚え書きという書籍は、日本の歴史を知る上での貴重な「宝物」であると考えています。
<引用開始>
ひきゃく
葬式ができたとき親戚などへ知らせに行くお使いの人。
近所の者(組内の者)が2人1組となって行く“しきたり”である。知らせを受けた家では「ひきゃく」に冷酒、冷やっこを出し労をねぎらう。「おしのぎ」が出ることもある。冷酒、冷やっこは決して待っていたわけではないということを表していると思う。また2人1組の意味は途中で万一の事故があったときの備えで、「私の云うこと間違いのないことです。証人がいます。」等のためではないかと思っている。かなり遠くても自転車で行った。帰りが夜道になりそうなときには提灯を用意して行ったと云う。電車も車もなかったころの話である。
「おしのぎ」
人寄せのあるときいちじしのぎに出される軽食。開始の時間により遠来の客に出された。“五目飯”のようなものが多かった。
<引用終了>
関谷氏は村立元狭山小学校の昭和20年度の卒業生です。昭和9年に同校を卒業した父の後輩であり、教員をしていた母の教え子でもあります。
素朴でいて強いメッセージが伝わってくる「語り絵(造語、語りかけてくる絵の意)」師と称させていただきたいと思います。
さて、表題の件ですが、天領元狭山村の村民が自転車で向かった先は、私には現在の座間や秦野、その先の小田原方面であったと思えてなりません。
実は、私には「許嫁(いいなずけ)」だったのかな?と思われる女性がいました。なぜか盆踊りではパートナーとしてとなりにいました。中村と同じ「鷹の羽」の紋章を受け継ぐ二本木の名家の方でした。
私の大きな勘ちがいかもしれませんが、過去に遡れば、元狭山村では「五人組」などの結束を保守するための近親婚が行われていたに違いありません。入間市内の澤田という家に、父の妹は嫁ぎましたが、その家から中村家には、明治の初期に初代元狭山村村長の中村為一郎の妻、私の曾祖母が嫁いでいます。
中村家には小田原の中村原が与えられました。やはり、高級武家であった栗原家は現在の秦野、伊勢原の一部の土地が与えられたと考えられます。
つまり、「五人組」をはじめとする、二本木村の元高級武家の親戚は、鎌倉や小田原に居を構えており、「ひきゃく」は、葬式の知らせのために、二本木宿より馬を走らせた、その名残が、昭和になっても残っていたと考えられないでしょうか。
マネジメントとは、ヒューマンリレーション+コミュニケーションによりモチベーションを高めることです。源頼朝は、このような素晴らしいシステムを築き、北条政子が女性力で完成させたものと私は考えます。
このように考えると、歴史とは実に人のこころを豊かにしてくれるものである、誰もがそう思うのではないでしょうか。
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